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エピソード16. 旅立ち
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長老と別れて、僕は岬を降りた。一見するとゴツゴツした岩場に見えるが、よくよく見ると足場がある。男たちがいなくなってから降りられた様子はない。平になった部分に砂が降り積もり、ところどころに草が生え始めている。下っていくにつれて草はその姿を顰め、代わりにフジツボなど海の生き物が見られ始めた。
「海に近付いてはならない」とは、この岬の下に隠された船の存在を隠すための方便でもあったのかもしれない。もしも僕が長老が言うよりも先に船を見つけていたら、もっと早く島を出ていただろう。別れも済まさず、ただ一人、目的もなく。ただここではない場所を見てみたい、それだけで。そして海上でのたれ死んで、船は『棺』になっていたに違いない。
足場の悪い岩を降っていくと、やがて洞窟が現れた。
洞窟の中央には船が浮いていた。島の内側には空洞があり、海が入り込んでいるらしかった。壁や天井は岩肌が覗くが、地面には船を囲むようにぐるりと木材の足場が作られていた。
洞窟は僕の背ほどの高さがあり、大人の男であれば屈まないと入れないだろう。屈まなくても大丈夫なはずなのに、天井が迫り来るような心地がして無意識のうちに腰を曲げてしまう。
船は波に攫われないように縄で岸に括り付けられている。縄には藻が生い茂り、乾いた部分まで緑色に染まっていた。月や潮の満ち欠けで波に沈んでしまうのかもしれない。
一方船の苔はいくつもの層を作っていた。ずっと水に浸かっている部分、潮の満ち欠けで浸かる部分、一度も浸かったことがないかのようにつるりとした板目を晒している部分。まるで日が沈む時のように段々と色を変える。
船は僕が寝転がっても十分すぎるほどの広さがある。ひょっとしたら僕の寝床よりも広いかもしれない。いつも寝相の悪い子供達——サラを除く。サラはとても寝相がよかった——の手や足が侵食していた。時には寝返りを打った腕が顔を直撃して夜に起こされたり、朝起きる頃にはいつも、どこが誰の寝床か分からなくなるほど揉みくちゃになっていた。
今日から誰にも眠りを妨げられることはない。そう思うと急に胸にぽっかりと穴が空いたような気分になった。不意に痛みが訪れる。胸の穴の中心に吸い込まれるような痛み。心に空いた隙間は、まるで人を飲み込む大渦のようだった。穴が空いた場所から水を、船をどんどん飲み込んでいき、最後には僕自身さえも引き摺り込んでしまおうとする。
僕は何とかその穴を埋めようと胸に手を当て、栓をするように背を丸めた。だけど欠けだらけの器はどれほど押さえようと隙間がなくならなくて、キリキリと僕の胸を締め付けた。
心の穴を埋めなければ、僕はこの痛みに耐えきれずに砕け散ってしまうかもしれない。
長老。サラ、モアブ、エサウ、セム、"近所のおばさん"、島に住む女たち。鯨でできた家、真水の池。白い砂、どこまでも続く青い海、水平線。僕のこれまでの世界を形作っていた全てと決別して、僕は前へ進まなければならない。
穴が空いたのなら、新しい何かで塞げばいい。
——たとえば、憧れ。
あの海の向こう、或いは海の中へ行くという憧れ。ここではないどこかへ帰りたいという本能にも似た憧憬。
——たとえば、好奇心。
何故人魚は人を海へ呼ぶのか。海の中に何があるのか。世界の秘密を、全部知りたい。
そのためなら僕は何だってする。そう決めたんだ。だからもう振り返らない。どれだけ淋しくとも。
〈明日の海を僕は見ない〉——海の天気は変わりやすい、昨日と同じ海はない。だから明日の海を考えても仕方がない。今の海を見て、今を生きる。それがこの諺の示すところだ。僕は昨日も明日も考えず、今ここに集中することにした。
今この瞬間にも、あの子は僕を待っている。僕の言った「明日」を待ち侘びている。もう随分と日も昇ってしまった。一刻も早く、あの子を呼ばないと——。
僕は立ち上がり、海の彼方を見つめた。あの水平線の向こうに、僕は旅立つ。その第一歩として。僕は洞窟の浅瀬に足を浸け、人魚を呼んだ。
やがて波間が泡立って、遠くに人魚の姿を認めた。彼女はぐんぐんと波を掻き分けて、僕を目指して一直線に泳いで来る。
どこにいたって彼女は僕を見つけてくれる。どんなに遠くにいたって。それは何て甘美で、素敵なことなんだろう。
迷子になる程の島ではない。それでも僕が隠れたいと思った時、何の迷いもなく僕を見つけてくれる人はいなかった。いつだっていくつかの候補を順番に探して僕を見つけ出していた。
でも人魚は僕の心を分かってくれる。迷いなく僕の居場所を見つけてくれる。たった一回しか会ったことのないあの子の方が、誰よりも僕を理解してくれている。
胸の奥から歓喜が湧き上がって来る。溢れ出るそれを抱えるように、僕は両手を広げる。島の皆に理解されなかった僕を、君だけが理解してくれるかもしれない——。
僕が欲しかったのは理解と受容なんだと気付く。島のほとんどの皆には理解及ばず、長老は最後になるまで受容してくれなかった。この島を出れば、僕は自由になれる。感情がそのまま伝わるなら、言葉のように削ぎ落とさなくていいなら、僕の想いはそのまま伝わるはずなのだから。
嗚呼、だとしたら。僕は君の一番の理解者になれるだろうか。生まれも育ってきた環境も違う君のことを、誰よりも一番に理解してあげられるだろうか。きっと今は無理でも、いつか一番になれるだろうか。
そんな、考えてもどうしようもないことを思っているうちに。
君は波となって僕の元に押し寄せ、僕の腕の中に飛び込んできた。
"——やっと、会えた"
腕の中の小さな生き物は、溢れんばかりの笑みを浮かべた。
「海に近付いてはならない」とは、この岬の下に隠された船の存在を隠すための方便でもあったのかもしれない。もしも僕が長老が言うよりも先に船を見つけていたら、もっと早く島を出ていただろう。別れも済まさず、ただ一人、目的もなく。ただここではない場所を見てみたい、それだけで。そして海上でのたれ死んで、船は『棺』になっていたに違いない。
足場の悪い岩を降っていくと、やがて洞窟が現れた。
洞窟の中央には船が浮いていた。島の内側には空洞があり、海が入り込んでいるらしかった。壁や天井は岩肌が覗くが、地面には船を囲むようにぐるりと木材の足場が作られていた。
洞窟は僕の背ほどの高さがあり、大人の男であれば屈まないと入れないだろう。屈まなくても大丈夫なはずなのに、天井が迫り来るような心地がして無意識のうちに腰を曲げてしまう。
船は波に攫われないように縄で岸に括り付けられている。縄には藻が生い茂り、乾いた部分まで緑色に染まっていた。月や潮の満ち欠けで波に沈んでしまうのかもしれない。
一方船の苔はいくつもの層を作っていた。ずっと水に浸かっている部分、潮の満ち欠けで浸かる部分、一度も浸かったことがないかのようにつるりとした板目を晒している部分。まるで日が沈む時のように段々と色を変える。
船は僕が寝転がっても十分すぎるほどの広さがある。ひょっとしたら僕の寝床よりも広いかもしれない。いつも寝相の悪い子供達——サラを除く。サラはとても寝相がよかった——の手や足が侵食していた。時には寝返りを打った腕が顔を直撃して夜に起こされたり、朝起きる頃にはいつも、どこが誰の寝床か分からなくなるほど揉みくちゃになっていた。
今日から誰にも眠りを妨げられることはない。そう思うと急に胸にぽっかりと穴が空いたような気分になった。不意に痛みが訪れる。胸の穴の中心に吸い込まれるような痛み。心に空いた隙間は、まるで人を飲み込む大渦のようだった。穴が空いた場所から水を、船をどんどん飲み込んでいき、最後には僕自身さえも引き摺り込んでしまおうとする。
僕は何とかその穴を埋めようと胸に手を当て、栓をするように背を丸めた。だけど欠けだらけの器はどれほど押さえようと隙間がなくならなくて、キリキリと僕の胸を締め付けた。
心の穴を埋めなければ、僕はこの痛みに耐えきれずに砕け散ってしまうかもしれない。
長老。サラ、モアブ、エサウ、セム、"近所のおばさん"、島に住む女たち。鯨でできた家、真水の池。白い砂、どこまでも続く青い海、水平線。僕のこれまでの世界を形作っていた全てと決別して、僕は前へ進まなければならない。
穴が空いたのなら、新しい何かで塞げばいい。
——たとえば、憧れ。
あの海の向こう、或いは海の中へ行くという憧れ。ここではないどこかへ帰りたいという本能にも似た憧憬。
——たとえば、好奇心。
何故人魚は人を海へ呼ぶのか。海の中に何があるのか。世界の秘密を、全部知りたい。
そのためなら僕は何だってする。そう決めたんだ。だからもう振り返らない。どれだけ淋しくとも。
〈明日の海を僕は見ない〉——海の天気は変わりやすい、昨日と同じ海はない。だから明日の海を考えても仕方がない。今の海を見て、今を生きる。それがこの諺の示すところだ。僕は昨日も明日も考えず、今ここに集中することにした。
今この瞬間にも、あの子は僕を待っている。僕の言った「明日」を待ち侘びている。もう随分と日も昇ってしまった。一刻も早く、あの子を呼ばないと——。
僕は立ち上がり、海の彼方を見つめた。あの水平線の向こうに、僕は旅立つ。その第一歩として。僕は洞窟の浅瀬に足を浸け、人魚を呼んだ。
やがて波間が泡立って、遠くに人魚の姿を認めた。彼女はぐんぐんと波を掻き分けて、僕を目指して一直線に泳いで来る。
どこにいたって彼女は僕を見つけてくれる。どんなに遠くにいたって。それは何て甘美で、素敵なことなんだろう。
迷子になる程の島ではない。それでも僕が隠れたいと思った時、何の迷いもなく僕を見つけてくれる人はいなかった。いつだっていくつかの候補を順番に探して僕を見つけ出していた。
でも人魚は僕の心を分かってくれる。迷いなく僕の居場所を見つけてくれる。たった一回しか会ったことのないあの子の方が、誰よりも僕を理解してくれている。
胸の奥から歓喜が湧き上がって来る。溢れ出るそれを抱えるように、僕は両手を広げる。島の皆に理解されなかった僕を、君だけが理解してくれるかもしれない——。
僕が欲しかったのは理解と受容なんだと気付く。島のほとんどの皆には理解及ばず、長老は最後になるまで受容してくれなかった。この島を出れば、僕は自由になれる。感情がそのまま伝わるなら、言葉のように削ぎ落とさなくていいなら、僕の想いはそのまま伝わるはずなのだから。
嗚呼、だとしたら。僕は君の一番の理解者になれるだろうか。生まれも育ってきた環境も違う君のことを、誰よりも一番に理解してあげられるだろうか。きっと今は無理でも、いつか一番になれるだろうか。
そんな、考えてもどうしようもないことを思っているうちに。
君は波となって僕の元に押し寄せ、僕の腕の中に飛び込んできた。
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