上 下
17 / 23

エピソード16. 旅立ち

しおりを挟む
 長老と別れて、僕は岬を降りた。一見するとゴツゴツした岩場に見えるが、よくよく見ると足場がある。男たちがいなくなってから降りられた様子はない。平になった部分に砂が降り積もり、ところどころに草が生え始めている。下っていくにつれて草はその姿を顰め、代わりにフジツボなど海の生き物が見られ始めた。
 「海に近付いてはならない」とは、この岬の下に隠された船の存在を隠すための方便でもあったのかもしれない。もしも僕が長老が言うよりも先に船を見つけていたら、もっと早く島を出ていただろう。別れも済まさず、ただ一人、目的もなく。ただここではない場所を見てみたい、それだけで。そして海上でのたれ死んで、船は『棺』になっていたに違いない。
 足場の悪い岩を降っていくと、やがて洞窟が現れた。
 洞窟の中央には船が浮いていた。島の内側には空洞があり、海が入り込んでいるらしかった。壁や天井は岩肌が覗くが、地面には船を囲むようにぐるりと木材の足場が作られていた。
 洞窟は僕の背ほどの高さがあり、大人の男であれば屈まないと入れないだろう。屈まなくても大丈夫なはずなのに、天井が迫り来るような心地がして無意識のうちに腰を曲げてしまう。
 船は波に攫われないように縄で岸に括り付けられている。縄には藻が生い茂り、乾いた部分まで緑色に染まっていた。月や潮の満ち欠けで波に沈んでしまうのかもしれない。
 一方船の苔はいくつもの層を作っていた。ずっと水に浸かっている部分、潮の満ち欠けで浸かる部分、一度も浸かったことがないかのようにつるりとした板目を晒している部分。まるで日が沈む時のように段々と色を変える。
 船は僕が寝転がっても十分すぎるほどの広さがある。ひょっとしたら僕の寝床よりも広いかもしれない。いつも寝相の悪い子供達——サラを除く。サラはとても寝相がよかった——の手や足が侵食していた。時には寝返りを打った腕が顔を直撃して夜に起こされたり、朝起きる頃にはいつも、どこが誰の寝床か分からなくなるほど揉みくちゃになっていた。
 今日から誰にも眠りを妨げられることはない。そう思うと急に胸にぽっかりと穴が空いたような気分になった。不意に痛みが訪れる。胸の穴の中心に吸い込まれるような痛み。心に空いた隙間は、まるで人を飲み込む大渦のようだった。穴が空いた場所から水を、船をどんどん飲み込んでいき、最後には僕自身さえも引き摺り込んでしまおうとする。
 僕は何とかその穴を埋めようと胸に手を当て、栓をするように背を丸めた。だけど欠けだらけの器はどれほど押さえようと隙間がなくならなくて、キリキリと僕の胸を締め付けた。
 心の穴を埋めなければ、僕はこの痛みに耐えきれずに砕け散ってしまうかもしれない。
 長老。サラ、モアブ、エサウ、セム、"近所のおばさん"、島に住む女たち。鯨でできた家、真水の池。白い砂、どこまでも続く青い海、水平線。僕のこれまでの世界を形作っていた全てと決別して、僕は前へ進まなければならない。
 穴が空いたのなら、新しい何かで塞げばいい。
——たとえば、憧れ。
 あの海の向こう、或いは海の中へ行くという憧れ。ここではないどこかへという本能にも似た憧憬。
——たとえば、好奇心。
 何故人魚は人を海へ呼ぶのか。海の中に何があるのか。世界の秘密を、全部知りたい。
 そのためなら僕は何だってする。そう決めたんだ。だからもう振り返らない。どれだけ淋しくとも。
 〈明日の海を僕は見ない〉——海の天気は変わりやすい、昨日と同じ海はない。だから明日の海を考えても仕方がない。今の海を見て、今を生きる。それがこの諺の示すところだ。僕は昨日も明日も考えず、今ここに集中することにした。
 今この瞬間にも、あの子は僕を待っている。僕の言った「明日」を待ち侘びている。もう随分と日も昇ってしまった。一刻も早く、あの子を呼ばないと——。
 僕は立ち上がり、海の彼方を見つめた。あの水平線の向こうに、僕は旅立つ。その第一歩として。僕は洞窟の浅瀬に足を浸け、人魚を呼んだ。
 やがて波間が泡立って、遠くに人魚の姿を認めた。彼女はぐんぐんと波を掻き分けて、僕を目指して一直線に泳いで来る。
 どこにいたって彼女は僕を見つけてくれる。どんなに遠くにいたって。それは何て甘美で、素敵なことなんだろう。
 迷子になる程の島ではない。それでも僕が隠れたいと思った時、何の迷いもなく僕を見つけてくれる人はいなかった。いつだっていくつかの候補を順番に探して僕を見つけ出していた。
 でも人魚は僕の心を分かってくれる。迷いなく僕の居場所を見つけてくれる。たった一回しか会ったことのないあの子の方が、誰よりも僕を理解してくれている。
 胸の奥から歓喜が湧き上がって来る。溢れ出るそれを抱えるように、僕は両手を広げる。島の皆に理解されなかった僕を、君だけが理解してくれるかもしれない——。
 僕が欲しかったのは理解と受容なんだと気付く。島のほとんどの皆には理解及ばず、長老は最後になるまで受容してくれなかった。この島を出れば、僕は自由になれる。感情がそのまま伝わるなら、言葉のように削ぎ落とさなくていいなら、僕の想いはそのまま伝わるはずなのだから。
 嗚呼、だとしたら。僕は君の一番の理解者になれるだろうか。生まれも育ってきた環境も違う君のことを、誰よりも一番に理解してあげられるだろうか。きっと今は無理でも、いつか一番になれるだろうか。
 そんな、考えてもどうしようもないことを思っているうちに。
 君は波となって僕の元に押し寄せ、僕の腕の中に飛び込んできた。
"——やっと、会えた"
 腕の中の小さな生き物は、溢れんばかりの笑みを浮かべた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

【書籍化進行中、完結】私だけが知らない

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化進行中です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ 目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/12/26……書籍化確定、公表 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

如月さんは なびかない。~クラスで一番の美少女に、何故か告白された件~

八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」  ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。  蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。  これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。  一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活

昼寝部
ファンタジー
 この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。  しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。  そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。  しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。  そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。  これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...