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エピソード12. 父の話
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妻を亡くしてから長い時が経った。青年だったはずの私は壮年になり、赤子だった者が青年になった。もしも私に子供がいたのなら、孫だって生まれていただろう。それほどの長い年月が経った。私は漁を引退し、海から離れた。我ながらよく無事に引退できたものだと思う。漁の最中に命を落とすことは、珍しくなかったからね。きっと臆病だったのが功を奏したのだろう。
父母も世を去り、生き残った兄弟姉妹も老い、死を待つ身となった。生まれる者を迎えるより、死す者を見送ることの方が圧倒的に多かった。だが誰を見送ろうとも、妻以上の喪失感を覚えることはなかった。どれほど長い時が流れようとも、私の心が癒えることはなかった。妻を失った喪失感、虚ろな心のまま生ける屍のように、ただ命を消費していた。
島での生活は文字通りのものだった。生きるための活動。漁に出て鯨を獲る。魚を獲る。貝を獲る。獲ったものを加工する。子を産み育てる。連綿と続く営みがそこにはあった。ただ不能である私を除いては。妻もない、子もない私に紡げるものなど、一つもなかった。
新しい妻をという話も湧いたが断った。死んだ妻以外の妻を娶る気はない。老い先短い男に嫁ぐ必要はないと言うのが建前で、実のところ恐ろしかったのだ。私が不能であると皆に知られることが。妻ではなく私に原因があると知られることが。人魚にすら必要にされない人間だと、自覚することが。
世界の誰からも必要とされないことがどれほどの孤独をもたらすか、それは当事者にしか分からないことだ。だが私は生きた。与えられた生は全うするもの。自ら死を選ぶと言う選択肢を、私は持たずにいた。島の人間は疫病以来数を減らしていた。女たちは若い男たちが漁に出ている間、一人でも男が残っていることに安心するらしかった。男がいつ戻るか分からない中、知恵者としての意見を求められた。文字通り島で一番の年長者になり、長老のように扱われるようになった。一番銛など、入れたこともないのに。
長老の座は私の兄が死んでから長らく空席にあった。次期長老に相応しいのは誰かと、そこら中で議論が交わされた。議論の最中、常に名前が挙げられたのは二人。サラの父親のサイラス。そしてヨナ、お前の父親のヨナタンだ。
お前は父を覚えているだろうか。ヨナタンは思慮深く、聡明な男だった。常に遠くの海を眺めていながらも、決して浮つくことのない、地に足のついた男だった。サイラスは私の一番上の兄の息子であり、屈強な肉体に見合った心を持つ、まさしく勇敢な男だった。
二人は歳が近く、常に競い、高め合っていた。誰もが認める好敵手同士だった。どちらが長老になっても悔いはない、それが二人の口癖だった。二人は鯨が現れるのを待っていた。次に鯨が現れた時が、勝負をつける時だと。だがその時は長いこと訪れずにいた。ある時を境に、近海で鯨が獲れなくなった。飢える者が出るほど長い間鯨が獲れないことは、私が知る限りではそれまで一度もなかった。
不漁の時は長く続いた。この島の子供達は生きた鯨を見たことがない。ヨナ、お前以外は。生まれて間もない頃、鯨を見たことがあるのを覚えているだろうか。お前は産まれてはいたが、物心もついていなかっただろう。そろそろ歩くかどうかといった頃だから、きっと覚えていないだろうね。それが生きた鯨が島に現れた、最後の時だ。サラは母親の胎に宿っていたが、まだ生まれてはいなかった。だがお前たちの存在は島に希望をもたらした。この島で子供が続けて産まれるのは久々のことだったからだ。
サイラスは子供たちのために、もっと長い航海に出て鯨を獲るべきだと主張した。鯨を島まで運ぶのには人手がいる。男達が総出で鯨の出る海域まで出て、鯨を一頭でも獲れれば島の者は皆生きていける。誰も飢えずに済む。一方で反対したのがヨナタンだ。ヨナタンは今まで通り近海での漁を続けようと言った。男たちが漁に出るには食料が要る。島に残る女子供は結局飢えてしまう。鯨が獲れないのは潮の流れが悪く、餌となる魚が少ないからだ。だが、我々が日々を生きるだけの糧は得られるはずだ。そして潮の流れはいつか必ず変わる。
二人の意見は平行線を辿り、こうしている間にも飢えて死ぬ者が出ると、遂には私の元に相談が持ち込まれた。二人の言うことにはどちらも理が通っている。意見を求められた私は、二人と同じくらい頭を悩ませたが、鯨が獲れるかどうか、潮の流れが変わるかどうか、判断する術を持たなかった。
結論から言えば、私は自らが航海に参加することを条件に、サイラスの側についた。今にして思うと、思慮深く考えた結果ではなかった。本当のところ、妻を失った私は捨て鉢になっていたのだ。子を成すこともできない。私に一体何の価値があるのかと。死に場所を探していた。ただそれだけだった。悩みに悩んでも物事を解決できない場合に最後の後押しをするのは、結局のところ心でしかないのだ。だが当時の私はそれを理性的に考えた結果であると思い込んでいた。
私がサイラスの意見に従うと告げると、サイラスは興奮から雄叫びを挙げ、ヨナタンは頷いた。
「これでようやく鯨が獲れる、ようやく長老の座がどちらに相応しいか決することができる。正々堂々勝負だ」
サイラスの言葉に、ヨナタンはああ、と返すのみだった。
「なんだ、俺の意見が通ったのが気に入らないのか」
「そうではない。それが島の意であれば従うさ」
それだけ言うと、ヨナタンは深く口を閉ざした。その時ヨナタンが何を考えていたのか、私には分からない。その思慮深い頭の内で、どんな感情が渦巻いていたかは。
ただ、今にして思うのだ。おそらくヨナタンは、私の心の内を知っていた。私が何を恐れ、何を求めたか。ヨナ、お前の目を見ていると思い出す。お前によく似た黒い瞳。鯨の皮のように深く、凪いだ海のように穏やかなあの目は、全てを見抜いていたのだろうと。
父母も世を去り、生き残った兄弟姉妹も老い、死を待つ身となった。生まれる者を迎えるより、死す者を見送ることの方が圧倒的に多かった。だが誰を見送ろうとも、妻以上の喪失感を覚えることはなかった。どれほど長い時が流れようとも、私の心が癒えることはなかった。妻を失った喪失感、虚ろな心のまま生ける屍のように、ただ命を消費していた。
島での生活は文字通りのものだった。生きるための活動。漁に出て鯨を獲る。魚を獲る。貝を獲る。獲ったものを加工する。子を産み育てる。連綿と続く営みがそこにはあった。ただ不能である私を除いては。妻もない、子もない私に紡げるものなど、一つもなかった。
新しい妻をという話も湧いたが断った。死んだ妻以外の妻を娶る気はない。老い先短い男に嫁ぐ必要はないと言うのが建前で、実のところ恐ろしかったのだ。私が不能であると皆に知られることが。妻ではなく私に原因があると知られることが。人魚にすら必要にされない人間だと、自覚することが。
世界の誰からも必要とされないことがどれほどの孤独をもたらすか、それは当事者にしか分からないことだ。だが私は生きた。与えられた生は全うするもの。自ら死を選ぶと言う選択肢を、私は持たずにいた。島の人間は疫病以来数を減らしていた。女たちは若い男たちが漁に出ている間、一人でも男が残っていることに安心するらしかった。男がいつ戻るか分からない中、知恵者としての意見を求められた。文字通り島で一番の年長者になり、長老のように扱われるようになった。一番銛など、入れたこともないのに。
長老の座は私の兄が死んでから長らく空席にあった。次期長老に相応しいのは誰かと、そこら中で議論が交わされた。議論の最中、常に名前が挙げられたのは二人。サラの父親のサイラス。そしてヨナ、お前の父親のヨナタンだ。
お前は父を覚えているだろうか。ヨナタンは思慮深く、聡明な男だった。常に遠くの海を眺めていながらも、決して浮つくことのない、地に足のついた男だった。サイラスは私の一番上の兄の息子であり、屈強な肉体に見合った心を持つ、まさしく勇敢な男だった。
二人は歳が近く、常に競い、高め合っていた。誰もが認める好敵手同士だった。どちらが長老になっても悔いはない、それが二人の口癖だった。二人は鯨が現れるのを待っていた。次に鯨が現れた時が、勝負をつける時だと。だがその時は長いこと訪れずにいた。ある時を境に、近海で鯨が獲れなくなった。飢える者が出るほど長い間鯨が獲れないことは、私が知る限りではそれまで一度もなかった。
不漁の時は長く続いた。この島の子供達は生きた鯨を見たことがない。ヨナ、お前以外は。生まれて間もない頃、鯨を見たことがあるのを覚えているだろうか。お前は産まれてはいたが、物心もついていなかっただろう。そろそろ歩くかどうかといった頃だから、きっと覚えていないだろうね。それが生きた鯨が島に現れた、最後の時だ。サラは母親の胎に宿っていたが、まだ生まれてはいなかった。だがお前たちの存在は島に希望をもたらした。この島で子供が続けて産まれるのは久々のことだったからだ。
サイラスは子供たちのために、もっと長い航海に出て鯨を獲るべきだと主張した。鯨を島まで運ぶのには人手がいる。男達が総出で鯨の出る海域まで出て、鯨を一頭でも獲れれば島の者は皆生きていける。誰も飢えずに済む。一方で反対したのがヨナタンだ。ヨナタンは今まで通り近海での漁を続けようと言った。男たちが漁に出るには食料が要る。島に残る女子供は結局飢えてしまう。鯨が獲れないのは潮の流れが悪く、餌となる魚が少ないからだ。だが、我々が日々を生きるだけの糧は得られるはずだ。そして潮の流れはいつか必ず変わる。
二人の意見は平行線を辿り、こうしている間にも飢えて死ぬ者が出ると、遂には私の元に相談が持ち込まれた。二人の言うことにはどちらも理が通っている。意見を求められた私は、二人と同じくらい頭を悩ませたが、鯨が獲れるかどうか、潮の流れが変わるかどうか、判断する術を持たなかった。
結論から言えば、私は自らが航海に参加することを条件に、サイラスの側についた。今にして思うと、思慮深く考えた結果ではなかった。本当のところ、妻を失った私は捨て鉢になっていたのだ。子を成すこともできない。私に一体何の価値があるのかと。死に場所を探していた。ただそれだけだった。悩みに悩んでも物事を解決できない場合に最後の後押しをするのは、結局のところ心でしかないのだ。だが当時の私はそれを理性的に考えた結果であると思い込んでいた。
私がサイラスの意見に従うと告げると、サイラスは興奮から雄叫びを挙げ、ヨナタンは頷いた。
「これでようやく鯨が獲れる、ようやく長老の座がどちらに相応しいか決することができる。正々堂々勝負だ」
サイラスの言葉に、ヨナタンはああ、と返すのみだった。
「なんだ、俺の意見が通ったのが気に入らないのか」
「そうではない。それが島の意であれば従うさ」
それだけ言うと、ヨナタンは深く口を閉ざした。その時ヨナタンが何を考えていたのか、私には分からない。その思慮深い頭の内で、どんな感情が渦巻いていたかは。
ただ、今にして思うのだ。おそらくヨナタンは、私の心の内を知っていた。私が何を恐れ、何を求めたか。ヨナ、お前の目を見ていると思い出す。お前によく似た黒い瞳。鯨の皮のように深く、凪いだ海のように穏やかなあの目は、全てを見抜いていたのだろうと。
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