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エピソード10. 長老の話
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海岸に出て長老の姿を探す。大抵の場合、長老と同時に家を出るから反対側へ向かうようにしているのだけれど、今日はきっと北の方にいるだろう。島は北側だけ先端が尖っていて、家から一番遠い。誰にも聞かれたくない話をするにはぴったりの場所だ。もし違ったとしても、小さな島だから、しらみつぶしに歩いていけば、いつかはかち合うだろう。
長老を見付けたら、何と言おう。もしも反対されたら。いや、たとえ反対されようとも、僕の決意は変わらない。いざとなれば海に飛び込んでしまえばいいのだ。僕は必ず海へ行く。たとえ他の何を犠牲にしても。
しばらく歩くと、背をこちらに向けて釣りをしている長老の姿が目に入る。昔はあんなに大きく見えた長老の背中が、とても小さく見えた。遠くにいるから、だけではないのだろう。子供は大きくなり、大人は老いて小さくなる。そのことを実感して、なんだか急に胸が締め付けられるような気がした。だからと言って、僕の決意は止められるものではない。
声が聞こえる距離まで近付いて、声を掛ける。
「長老」
声が詰まる。ようやく出た声は、少し震えていた。
「昨日はよく眠れたかね、ヨナ。サラと随分と遅くまで話し込んでいたようだ。いくら昼寝したからと言って、小さな子供を夜遅くまで外に出してはいけない。風邪を引いてしまうからね。子供は些細なことでも死んでしまうものだから」
長老は釣竿を揺らしながら、振り返らずに答える。昨日の夜のことも、全部お見通しなのだ。
「長老、僕は……」
「その様子だと、決意は変わらないようだね」
言いかけた言葉を遮るように、長老は言葉を重ねた。背を向けたまま、竿を上げ、慣れた手つきで釣り針に食いついた魚を外す。僕が生まれるよりも昔から、その動作を繰り返してきたのだろう。今は考えずとも全てこなせるに違いない。そうして自動的に体が動くのは、どんな気分だろう? 僕にはまだ想像がつかない。
「僕は海へ行きます。……止めないんですか?」
「止めはしないさ。言って聞くような子じゃない、そうだろう?」
……確かに、そうなのだけれど。絶対に反対されると思っていた分、拍子抜けだった。心のうちで少しくらいは反対されたいと思っていたとでも言うのか。そんなことはない、と思う。
長老はまあ座りなさい、と自分の隣の辺りの土を叩く。僕は恐る恐る、それに従う。岸壁から海を見つめる。釣竿を持たずに海を眺めるのは、落ち着かない。釣竿を持っていた時はまるで海と自分の間に隔たりがあるように感じていた。今は一歩間違えれば引き摺り込まれてしまいそうな、恐れがあった。
「海へ行くことを止めはしない。だが、最後に年寄りの独り言を聞いていきなさい。最後くらい、爺の長話に付き合うといい。昔の話だ。お前たちの知らない、昔の話を教えてあげよう」
*
どこから話したものだろうか。長い時が経ち、この島に起こった出来事の全てを語ることができる者はいない。それでも、私の知り得る限り全てのことを話そう。
まずは私が子供の頃の話から始めよう。この島に男たちが、女たちも大勢いた頃の話だ。男たちは主に鯨を獲って暮らしていた。今みたいに流れ着くのを待つのでも、弱った個体を待つのでもない。男たちは鯨の姿を見つけると銛を手に船に乗り込み、舵を漕いで鯨の近くまで進む。息を吸いに上がってきたところを銛で突く。一番銛を入れた者は、一番いい部分を手に入れられる上に、勇敢なる者の称号をも得る。次の鯨が獲れるまで、その者が次の長老となるしきたりだった。かつてはね。
そう、船は何も『棺』だけじゃない。かつては漁に出るためにも用いられた。つまり、死者のためだけのものではなく、生者のために在ったのだ。
かつて、この島の近くにはいくつかの小さな島があった。この島と同じように小さく、滅びに向かう島が。時に島の男たちは船を用いて旅に出た。七つの夜を超えた場所には、木々の生えた島があった。その島は木々が生えた肥沃な大地だったが、男がほとんど居らず、鯨を獲ることができなかった。今の我々と同じように。我々は鯨の肉や骨、脂と引き換えに木や果物を譲ってもらっていた。そうして互いに支え合って生きていたのだ。
では何故我々は船に乗らなくなったのか。他の島もそうだったように、島には男が少ない。それには理由がある。
人魚が人間を呼ぶのは、生殖のためだ。人魚は海に住むが、人間のように胎の中で子を育む。男の人魚は少ない上に、生殖の機能が使えるのはただ一度きり。ならどうするか。
陸から男を連れていくのだ。陸から海へと男を引き摺り込み、連れ去っていく。男は生殖に適した年齢になると、人魚の歌声に惹かれるようになる。陸にどれほど愛しい者が居ようと、必ず。
ヨナ、お前は人魚の声に惹かれたはずだ。純粋たる海への憧憬だけでなく、体の芯から湧き上がるような熱い衝動を抱いたはずだ。それは遥かなる太古の昔から、人間の遺伝子に組み込まれた抗えざる本能。人魚の声は人間の男にだけよく響く、海へと引き摺り込む魔性の音。海からの呼び声を思い出せ。女の声しか聞いたことがないはずだ。
海へ出れば逃げ場はない。一日中人魚の歌を聞いて誘惑に堪えるより他にない。お前のように〈心が海にある〉者から呼ばれていく。だから船を用いて漁に出ることがあっても他の島へ行くことがあっても、それは全て近海でのことだった。
かつて私が子供の頃、子供は大勢死んだが、それを上回る勢いで生まれていた。私の父は先先代の長老で、この島で一番権力を持っていた。私には歳の離れた兄が四人と姉が三人いた。末の息子だからと甘やかされるがままに姉たちと共に長い時を過ごした。父や兄たちは漁に出たり隣の島を行き来し、常に海に在った。昔は在るべき姿を〈心は陸に、身体は海に〉と言った。決して人魚の歌声に惑わされずに戻ってくることが、強い男の条件だった。
ヨナ、私も〈心が海にある〉子供だった。生来から臆病な人間であり、あるべきとされる姿とは全く逆だった。身体は陸にあり、心は海にあった。子供たちには文字を教えていたね。隣の島には木があり、木からは紙を作ることができた。文字は本来砂ではなく、紙に書くものだ。昔は紙に文字を書いて言葉を伝えた。我々が誦じている神話も、かつては紙に綴られていた。紙を束ねたものを本と読んだ。それがいつ書かれたものなのかは、島の誰も知らなかった。本の中には神話だけでなく、様々な物語が綴られた。特に海に関連したものが多かった。今はもう沈んでしまった火を噴く島の話。人魚と人間の違いについて。私は文字を覚えると途端に本を読み漁った。とにかく、何でもだ。知識だけは誰よりもあったが、海に出ようとはしなかった。海の向こうを夢見ながら海へ出る勇気がなかったのだ。
年頃になると人魚の歌声に惑わされるようになった。こんな私が船に乗っても、海へ引き摺り込まれるのが目に見えている。だから父に漁に出るよう命じられるまで島の女たちと共に過ごした。昔は女たちが釣りをした。昔は鯨がよく獲れたし隣の島から木をもらっていたから、釣竿がたくさんあったのだ。私は銛を打つよりも釣りの方が得意だった。
長老の息子がいつまでも漁に出ないままでは体面が悪い。いよいよ漁に出るより他になくなった頃、島で熱病が流行った。命を落とす者も大勢いた。私の兄弟も半分に減ってしまった。身体の弱い者だけでなく、屈強な男でさえ病の前には無力だった。私は七日七晩魘され続け、死が迎えにきたのだと思った。しかし私は生き延びた。その病が身体が去った後、あれほど私を苛んでいた人魚の声に惹かれる心がどこにもないことに気が付いた。
病から快復し、私は漁に出た。島の人口も数を減らし、男手が足りなくなったからだ。その上人魚の誘惑に駆られる憂いがない。最早憧れる海に出ない理由はなかった。銛を持たせても身にはならなかったが、船を操る技術は誰にも引けを取らなかった。操り方は本に載っていたし、想像力だけは豊かだったからね。
やがて私は妻を娶った。私の姉たちと歳の変わらない女だ。子供の頃から姉たちと共に行動していたから気心の知れたものだった。妻が死ぬまでの長い時を共に過ごしたが、ついぞ子を授かることはなかった。島の人々は妻が年上だからだと言ったが、本当は違う。私が不能だからだ。あの熱病に冒され、男としての機能が取り去られたのだ。だからこそ人魚の誘惑にも何も感じなくなったのだ。私は薄々そのことに気付いていながら、何事もないかのように日々を過ごしていた。そのせいで妻が苛まれていることを知りながら。妻は若くしてこの世を去った。
*
長老は一息に話し切ると、深く息を吐いた。深いとは言っても、何十年も誰にも語ることのなかった悔恨を吐露することに比べれば、深すぎると言うことはない。僕はまだ、長老の年の半分も生きていないから想像がつかないけれど、それは長すぎる壮絶な半生なのだから。
僕たちの知らないこと。船は生きる人が乗るものだったこと。この島以外にも本当に島があること。文字は砂浜に書くものじゃなくて、紙に書くこと。本として長い間残ること。人魚が海に呼ぶ理由。長老が他の男たちと海に出なかった訳。知らないことばかりで、気持ちに整理がつかないままでいる。
しばしの沈黙のあと、長老は再び声を発した。
「妻には悪いことをした。この罪は海の向こうに行った時に贖う時が来よう。ヨナ、私が言いたいのはね、島の皆に長生きしてほしいということなのだ。今いる女たちも、子供たちも、その子や孫たちも。人魚になってからの生殖は一度きり。お前が陸に生きることを選んでいれば、この島も今しばらく長らえただろうに」
長老は海の向こうを見つめ続け、僕と目を合わせようとはしなかった。子を作る能力を持ちながら、島のために使おうとしない僕に憤りを感じているかのように思えた。言葉にこそしなかったが、力があるものは使えばいい。使えないものの代わりに。そう言われているような気がした。だがそれは違うと、心が叫んでいる。意を決して、長老に向き合う。
「長老。仮に僕が陸にいることを選んだとしても、子供を作ることを望むかはわかりません。相手だって必要ですし。相手が子供を作ることを望むかも、その相手に僕を選ぶかもわからない。僕たちは物言わぬ動物じゃない。言葉ある人間です」
そう、僕たちは物言わぬ動物じゃない。誰かに使われる道具でもない。言葉のある、意思のある人間なのだ。何かのために生きていくことは尊いかもしれない。だけど、それは決して誰かから強制されるものではなく、自らの意思で選びとるべきなのだ。何かのために自分を消費するのではなく、自分のために何かを用いて生きるべきなのだ。長老の言葉に感じていた違和感はそれだ。目的と手段を履き違えてはいけない。
長老は目を瞬かせた。それはまるで、赤子が初めて目を開けるような感覚だったかもしれない。子を産み育むことが当然であり、義務であると思い込んで生きてきた。周りの多くの人がそう教え、そう生きてきたから。義務を果たせない人間に価値はないと、周囲の人たちが言外に含ませてきたから。でも、これまで自身を苛んでいた当たり前は、本当は当たり前ではなかったのかもしれない。そう思って欲しかった。島のために、子供たちのために生きてきた長老にも、自分のために生きて欲しい。僕もそうやって生きていくから。
長老は顔をくしゃくしゃにした。産まれて初めて息をしたかのように。海の中で空気を求めたて喘ぐように。胸の内から湧き上がる感情が鼻の奥から抜けていくように。カラカラに乾涸びた長老の眼窩から、涙が一筋流れ落ちた。
涙は心の一部なのかもしれない。初めて見た長老の流すそれは、とても美しいものに見えた。昨日サラと見た、日の光の中で眩く輝く水滴のように。
「……ヨナの言う通りかもしれないね。時代は新しく、生まれ変わっていくのかもしれない。皆には心があるのだから、各々が自らの生き方を選ぶべきなのかもしれないね。こんなに海は広いのだから」
長老は話し終わるや否や、突然咳き込んだ。潮風が肺に入って咽せてしまったようだ。おそるおそるその背中をさする。乾いた岩肌を触っているような、出っ張った骨の感触が手のひらに伝わる。いつか僕の体も老いては痩せ細り、骨が浮き上がるのだろう。その先の死を連想して、思わず体が震えた。
「悪いね、ヨナ。だが今全てを話しておかなければもう二度と話せないだろうから。もう少し付き合って欲しい」
長老はそう言うと、呼吸を整えるように数度空咳をした。
「本に書かれていた、昔の話をしよう。神話に語られるよりも昔。ないしは人魚の住まう海底都市についての話だ」
途端に、胸の鼓動が高鳴る。僕が一番知りたかった話。だけど疑問が残る。
「どうして本を燃やしたんですか。その……何も、全部燃やさなかったってよかったじゃないですか」
本という存在について耳にした時に思ったこと。知識を未来へ繋げる大事なもの。なのにどうして僕たちはそれを目にしたことがないのか? 僕たちの家には用途の分からない様々なものが残されていた。だけどそのどれもに文字らしきものは残されていなかった。その中に何に使うのか分からない細い木の棒と、黒い染みのついた瓶があった。役に立ちそうにもないそれを、長老は大事に取っていた。今にして思うとあれが紙に文字を書くための道具だったんだろう。
「……今にして思うと、燃やさずに取っておくべきだったのかもしれない。選択を後世に託せばよかったのかもしれない。だが、当時の我々は存在するべきではないと思ったのだ。全ては愚かだった私のせい。海に憧れて島の皆を道連れにしてしまった男のせいだ」
長老を見付けたら、何と言おう。もしも反対されたら。いや、たとえ反対されようとも、僕の決意は変わらない。いざとなれば海に飛び込んでしまえばいいのだ。僕は必ず海へ行く。たとえ他の何を犠牲にしても。
しばらく歩くと、背をこちらに向けて釣りをしている長老の姿が目に入る。昔はあんなに大きく見えた長老の背中が、とても小さく見えた。遠くにいるから、だけではないのだろう。子供は大きくなり、大人は老いて小さくなる。そのことを実感して、なんだか急に胸が締め付けられるような気がした。だからと言って、僕の決意は止められるものではない。
声が聞こえる距離まで近付いて、声を掛ける。
「長老」
声が詰まる。ようやく出た声は、少し震えていた。
「昨日はよく眠れたかね、ヨナ。サラと随分と遅くまで話し込んでいたようだ。いくら昼寝したからと言って、小さな子供を夜遅くまで外に出してはいけない。風邪を引いてしまうからね。子供は些細なことでも死んでしまうものだから」
長老は釣竿を揺らしながら、振り返らずに答える。昨日の夜のことも、全部お見通しなのだ。
「長老、僕は……」
「その様子だと、決意は変わらないようだね」
言いかけた言葉を遮るように、長老は言葉を重ねた。背を向けたまま、竿を上げ、慣れた手つきで釣り針に食いついた魚を外す。僕が生まれるよりも昔から、その動作を繰り返してきたのだろう。今は考えずとも全てこなせるに違いない。そうして自動的に体が動くのは、どんな気分だろう? 僕にはまだ想像がつかない。
「僕は海へ行きます。……止めないんですか?」
「止めはしないさ。言って聞くような子じゃない、そうだろう?」
……確かに、そうなのだけれど。絶対に反対されると思っていた分、拍子抜けだった。心のうちで少しくらいは反対されたいと思っていたとでも言うのか。そんなことはない、と思う。
長老はまあ座りなさい、と自分の隣の辺りの土を叩く。僕は恐る恐る、それに従う。岸壁から海を見つめる。釣竿を持たずに海を眺めるのは、落ち着かない。釣竿を持っていた時はまるで海と自分の間に隔たりがあるように感じていた。今は一歩間違えれば引き摺り込まれてしまいそうな、恐れがあった。
「海へ行くことを止めはしない。だが、最後に年寄りの独り言を聞いていきなさい。最後くらい、爺の長話に付き合うといい。昔の話だ。お前たちの知らない、昔の話を教えてあげよう」
*
どこから話したものだろうか。長い時が経ち、この島に起こった出来事の全てを語ることができる者はいない。それでも、私の知り得る限り全てのことを話そう。
まずは私が子供の頃の話から始めよう。この島に男たちが、女たちも大勢いた頃の話だ。男たちは主に鯨を獲って暮らしていた。今みたいに流れ着くのを待つのでも、弱った個体を待つのでもない。男たちは鯨の姿を見つけると銛を手に船に乗り込み、舵を漕いで鯨の近くまで進む。息を吸いに上がってきたところを銛で突く。一番銛を入れた者は、一番いい部分を手に入れられる上に、勇敢なる者の称号をも得る。次の鯨が獲れるまで、その者が次の長老となるしきたりだった。かつてはね。
そう、船は何も『棺』だけじゃない。かつては漁に出るためにも用いられた。つまり、死者のためだけのものではなく、生者のために在ったのだ。
かつて、この島の近くにはいくつかの小さな島があった。この島と同じように小さく、滅びに向かう島が。時に島の男たちは船を用いて旅に出た。七つの夜を超えた場所には、木々の生えた島があった。その島は木々が生えた肥沃な大地だったが、男がほとんど居らず、鯨を獲ることができなかった。今の我々と同じように。我々は鯨の肉や骨、脂と引き換えに木や果物を譲ってもらっていた。そうして互いに支え合って生きていたのだ。
では何故我々は船に乗らなくなったのか。他の島もそうだったように、島には男が少ない。それには理由がある。
人魚が人間を呼ぶのは、生殖のためだ。人魚は海に住むが、人間のように胎の中で子を育む。男の人魚は少ない上に、生殖の機能が使えるのはただ一度きり。ならどうするか。
陸から男を連れていくのだ。陸から海へと男を引き摺り込み、連れ去っていく。男は生殖に適した年齢になると、人魚の歌声に惹かれるようになる。陸にどれほど愛しい者が居ようと、必ず。
ヨナ、お前は人魚の声に惹かれたはずだ。純粋たる海への憧憬だけでなく、体の芯から湧き上がるような熱い衝動を抱いたはずだ。それは遥かなる太古の昔から、人間の遺伝子に組み込まれた抗えざる本能。人魚の声は人間の男にだけよく響く、海へと引き摺り込む魔性の音。海からの呼び声を思い出せ。女の声しか聞いたことがないはずだ。
海へ出れば逃げ場はない。一日中人魚の歌を聞いて誘惑に堪えるより他にない。お前のように〈心が海にある〉者から呼ばれていく。だから船を用いて漁に出ることがあっても他の島へ行くことがあっても、それは全て近海でのことだった。
かつて私が子供の頃、子供は大勢死んだが、それを上回る勢いで生まれていた。私の父は先先代の長老で、この島で一番権力を持っていた。私には歳の離れた兄が四人と姉が三人いた。末の息子だからと甘やかされるがままに姉たちと共に長い時を過ごした。父や兄たちは漁に出たり隣の島を行き来し、常に海に在った。昔は在るべき姿を〈心は陸に、身体は海に〉と言った。決して人魚の歌声に惑わされずに戻ってくることが、強い男の条件だった。
ヨナ、私も〈心が海にある〉子供だった。生来から臆病な人間であり、あるべきとされる姿とは全く逆だった。身体は陸にあり、心は海にあった。子供たちには文字を教えていたね。隣の島には木があり、木からは紙を作ることができた。文字は本来砂ではなく、紙に書くものだ。昔は紙に文字を書いて言葉を伝えた。我々が誦じている神話も、かつては紙に綴られていた。紙を束ねたものを本と読んだ。それがいつ書かれたものなのかは、島の誰も知らなかった。本の中には神話だけでなく、様々な物語が綴られた。特に海に関連したものが多かった。今はもう沈んでしまった火を噴く島の話。人魚と人間の違いについて。私は文字を覚えると途端に本を読み漁った。とにかく、何でもだ。知識だけは誰よりもあったが、海に出ようとはしなかった。海の向こうを夢見ながら海へ出る勇気がなかったのだ。
年頃になると人魚の歌声に惑わされるようになった。こんな私が船に乗っても、海へ引き摺り込まれるのが目に見えている。だから父に漁に出るよう命じられるまで島の女たちと共に過ごした。昔は女たちが釣りをした。昔は鯨がよく獲れたし隣の島から木をもらっていたから、釣竿がたくさんあったのだ。私は銛を打つよりも釣りの方が得意だった。
長老の息子がいつまでも漁に出ないままでは体面が悪い。いよいよ漁に出るより他になくなった頃、島で熱病が流行った。命を落とす者も大勢いた。私の兄弟も半分に減ってしまった。身体の弱い者だけでなく、屈強な男でさえ病の前には無力だった。私は七日七晩魘され続け、死が迎えにきたのだと思った。しかし私は生き延びた。その病が身体が去った後、あれほど私を苛んでいた人魚の声に惹かれる心がどこにもないことに気が付いた。
病から快復し、私は漁に出た。島の人口も数を減らし、男手が足りなくなったからだ。その上人魚の誘惑に駆られる憂いがない。最早憧れる海に出ない理由はなかった。銛を持たせても身にはならなかったが、船を操る技術は誰にも引けを取らなかった。操り方は本に載っていたし、想像力だけは豊かだったからね。
やがて私は妻を娶った。私の姉たちと歳の変わらない女だ。子供の頃から姉たちと共に行動していたから気心の知れたものだった。妻が死ぬまでの長い時を共に過ごしたが、ついぞ子を授かることはなかった。島の人々は妻が年上だからだと言ったが、本当は違う。私が不能だからだ。あの熱病に冒され、男としての機能が取り去られたのだ。だからこそ人魚の誘惑にも何も感じなくなったのだ。私は薄々そのことに気付いていながら、何事もないかのように日々を過ごしていた。そのせいで妻が苛まれていることを知りながら。妻は若くしてこの世を去った。
*
長老は一息に話し切ると、深く息を吐いた。深いとは言っても、何十年も誰にも語ることのなかった悔恨を吐露することに比べれば、深すぎると言うことはない。僕はまだ、長老の年の半分も生きていないから想像がつかないけれど、それは長すぎる壮絶な半生なのだから。
僕たちの知らないこと。船は生きる人が乗るものだったこと。この島以外にも本当に島があること。文字は砂浜に書くものじゃなくて、紙に書くこと。本として長い間残ること。人魚が海に呼ぶ理由。長老が他の男たちと海に出なかった訳。知らないことばかりで、気持ちに整理がつかないままでいる。
しばしの沈黙のあと、長老は再び声を発した。
「妻には悪いことをした。この罪は海の向こうに行った時に贖う時が来よう。ヨナ、私が言いたいのはね、島の皆に長生きしてほしいということなのだ。今いる女たちも、子供たちも、その子や孫たちも。人魚になってからの生殖は一度きり。お前が陸に生きることを選んでいれば、この島も今しばらく長らえただろうに」
長老は海の向こうを見つめ続け、僕と目を合わせようとはしなかった。子を作る能力を持ちながら、島のために使おうとしない僕に憤りを感じているかのように思えた。言葉にこそしなかったが、力があるものは使えばいい。使えないものの代わりに。そう言われているような気がした。だがそれは違うと、心が叫んでいる。意を決して、長老に向き合う。
「長老。仮に僕が陸にいることを選んだとしても、子供を作ることを望むかはわかりません。相手だって必要ですし。相手が子供を作ることを望むかも、その相手に僕を選ぶかもわからない。僕たちは物言わぬ動物じゃない。言葉ある人間です」
そう、僕たちは物言わぬ動物じゃない。誰かに使われる道具でもない。言葉のある、意思のある人間なのだ。何かのために生きていくことは尊いかもしれない。だけど、それは決して誰かから強制されるものではなく、自らの意思で選びとるべきなのだ。何かのために自分を消費するのではなく、自分のために何かを用いて生きるべきなのだ。長老の言葉に感じていた違和感はそれだ。目的と手段を履き違えてはいけない。
長老は目を瞬かせた。それはまるで、赤子が初めて目を開けるような感覚だったかもしれない。子を産み育むことが当然であり、義務であると思い込んで生きてきた。周りの多くの人がそう教え、そう生きてきたから。義務を果たせない人間に価値はないと、周囲の人たちが言外に含ませてきたから。でも、これまで自身を苛んでいた当たり前は、本当は当たり前ではなかったのかもしれない。そう思って欲しかった。島のために、子供たちのために生きてきた長老にも、自分のために生きて欲しい。僕もそうやって生きていくから。
長老は顔をくしゃくしゃにした。産まれて初めて息をしたかのように。海の中で空気を求めたて喘ぐように。胸の内から湧き上がる感情が鼻の奥から抜けていくように。カラカラに乾涸びた長老の眼窩から、涙が一筋流れ落ちた。
涙は心の一部なのかもしれない。初めて見た長老の流すそれは、とても美しいものに見えた。昨日サラと見た、日の光の中で眩く輝く水滴のように。
「……ヨナの言う通りかもしれないね。時代は新しく、生まれ変わっていくのかもしれない。皆には心があるのだから、各々が自らの生き方を選ぶべきなのかもしれないね。こんなに海は広いのだから」
長老は話し終わるや否や、突然咳き込んだ。潮風が肺に入って咽せてしまったようだ。おそるおそるその背中をさする。乾いた岩肌を触っているような、出っ張った骨の感触が手のひらに伝わる。いつか僕の体も老いては痩せ細り、骨が浮き上がるのだろう。その先の死を連想して、思わず体が震えた。
「悪いね、ヨナ。だが今全てを話しておかなければもう二度と話せないだろうから。もう少し付き合って欲しい」
長老はそう言うと、呼吸を整えるように数度空咳をした。
「本に書かれていた、昔の話をしよう。神話に語られるよりも昔。ないしは人魚の住まう海底都市についての話だ」
途端に、胸の鼓動が高鳴る。僕が一番知りたかった話。だけど疑問が残る。
「どうして本を燃やしたんですか。その……何も、全部燃やさなかったってよかったじゃないですか」
本という存在について耳にした時に思ったこと。知識を未来へ繋げる大事なもの。なのにどうして僕たちはそれを目にしたことがないのか? 僕たちの家には用途の分からない様々なものが残されていた。だけどそのどれもに文字らしきものは残されていなかった。その中に何に使うのか分からない細い木の棒と、黒い染みのついた瓶があった。役に立ちそうにもないそれを、長老は大事に取っていた。今にして思うとあれが紙に文字を書くための道具だったんだろう。
「……今にして思うと、燃やさずに取っておくべきだったのかもしれない。選択を後世に託せばよかったのかもしれない。だが、当時の我々は存在するべきではないと思ったのだ。全ては愚かだった私のせい。海に憧れて島の皆を道連れにしてしまった男のせいだ」
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