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エピソード8. 一等星

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「ヨナ」
 砂を踏みしめる音がして、振り返ると、そこにはサラが立っていた。
「サラ、ダメだよ。こんなに遅いのに外に出ちゃ」
「ヨナだって出てるでしょ。それに、昼間に寝たから眠くないの」
 サラは僕の隣に腰掛けると、空を見上げて言った。
「星って綺麗ね。いつも早く寝るから、朝の薄明かりの中でしか見たことないけど。夜の方がキラキラしていて綺麗」
「満天の星空って言うんだよ」
「まんてん?」
「星々が天に満ちるくらい、たくさんの星が煌めく綺麗な空。今日は女神がヴェールを脱いでいるから月の方が明るいけど、女神がヴェールを被っている時は辺りが真っ暗で、より星達が輝くんだ」
「ふうん。じゃあ今度は、女神がヴェールをかぶっている時に見よっと。ねえヨナ、一番光ってるあの星は何て言うの?」
 サラが北の空の、一際輝く星を指差して聞く。星が女神の涙に沈む前、人々は夜にも船に乗って、遠くの島へと行ったらしい。その時に目印にしていた星だと、長老が言っていた。
「さあ、名前は忘れ去られてしまった。けど、一際ひときわ明るい星を一等星と呼ぶんだ」
 いっとうせい、と口にすると、サラは手を動かしながら話し始めた。言いたいことに言葉が追いつかない時に、サラはよくそうする。
「ヨナ、ヨナはね、空に輝く一等星だと思うの。でも夜の中でしかその光は分からなくって、朝の光の中ではその輝きが分からないの」
 一息でそう言い切ってしまうと、サラは僕の方を向いた。目と目が合った。昼間に水の中で見つめ合った時のような、澄んだ瞳が、僕を射抜く。
「ヨナ、海に行きたいんでしょ? ヨナは島に居るよりも、海にいた方がきっと輝くと思うの。だからさ……、行ってきなよ」
 予想外のサラの言葉に、思わず砂を掴む。硬く握った手に、砂が閉じ込められる。
「でも、皆が」
 やっとのことで絞り出した声は、途中で途切れた。皆が……なんだと言うのだろう。本当の意味で皆のことを思っていないくせに。
「皆のことは私が何とかするよ。子供たちは近所の人に任せてさ。ヨナが居なくなったら私が釣りをする。ずっと釣りをしてみたかったの! だから、心配しないで」
 お前のせいで皆が死ぬ、ではなく、代わりに私が皆を生かす、と言うサラ。その言葉があまりにも眩しくて、嬉しくて、安堵をもたらす。どうしてそんなに眩く、真っ直ぐに生きていけるのだろう。
 枯れるほどに泣いて流し切ったはずの涙が一筋、星のように流れた。サラは砂を握りしめた僕の手に手を重ねて、空を見上げて、何も見えないフリをしてくれた。こんなに小さな女の子に、気を遣われる自分が不甲斐なくて、膝の間に頭を突っ込んでしまいたくなる。
 何度も深く息を吸って、ようやく呼吸が落ち着いた頃、サラは僕に聞いた。
「ヨナはさ、何で海に行きたいの?」
 海に行きたい理由。いつだって、〈心が海にあった〉。いつも漠然と、海の向こうへ行って、いろんな島を見てみたいと思っていた。でも、今海の向こうではなく、海に行きたいのは。
「人魚に、会ったんだ」
 間違いなく、人魚と出会ったことがきっかけだった。人魚になることや、海底都市に住むなんてことは、いくら僕でも考えていなかったんだ。彼女に会うまでは。
 僕はかいつまんで彼女との出会いを語った。海の中のこと。人魚の声には感情が乗ること。そして、彼女の海に来てという言葉。
「どうして海に来て欲しいのか分からない。でも、本当に切実に聞こえたんだ。僕はその理由を知りたい。何か伝えたいことがあるなら、それを聞きたい。そしてもし、それが人間皆に関係のあることなら、皆にもそれを伝えたい」
 サラはひと呼吸置いて、小さく呟いた。
「人魚の、伝えたいこと……。人魚に伝えたいことがあるなんて、思わなかった。人魚の歌なんて、鳥の鳴き声と一緒だと思ってた」
 その呟きはいつものサラとは違い、大人びた響きを持っていた。サラは他の子供たちとそう変わらない、小さな女の子なのに。サラの横顔を見つめる。その横顔は美しく、大人びて見えた。そして気付いた。長老や僕が難しい言葉を使ったり、難しい話をしていても、サラはいつも皆が、子供たちにも分かるように、話してくれていたんだってこと。普段は子供たちにも分かるように、子供のように話していただけで、本当のサラは大人の話すことも分かっていて、内面はもう大人なのだ。
 サラは僕の言うことを否定しなかったし、嘘だとも言わなかった。僕にはそれが不思議でならなかった。いつもだったら全部僕の空想だと、子供たちに変なことを言わないで、と怒っていただろう。
「サラは、どうして僕のことを応援してくれるの?」
「……水の中を、教えてくれたから」
 指をぐるぐると動かしながら、ポツポツと話し始めた。
「ずっと皆のために、正しく生きなきゃって思ってた。自分のしたいことなんて考えちゃいけないと思ってた。だから、ヨナがどうしたい? って聞いてくれたのが、嬉しかったの。水の中はキラキラしていて、世界って、綺麗だなって思った。でもそれは水の中だからじゃなくって、したいことをしたから世界が輝いたんだって、気付いたの」
 サラの言うことが分かる気がした。僕が初めて海に入って、人魚と出会ったあの瞬間、確かに世界は輝いたのだ。
「ヨナのこと、ずっとバカだと思ってた。〈心が海にある〉のも何もしたくないからで、わざと皆の邪魔してるって思ってた。釣りでも何でも、私の方が上手くできるのにって。本当は、皆が、私がヨナのしたいことを邪魔をしてたのに。ごめんなさい」
「そんなこと」
 ない、と言い切れない自分がもどかしかった。僕は本当に嘘を吐くのが下手で、いつも誰かを傷つける。賢いサラのことも、きっと傷付けていたに違いなかった。でもサラはその傷さえも、輝きに変えてしまったのだ。何て明るくて、眩しい光だろう。サラがこんなに話せるなんて、知らなかった。僕が見ていたサラはその輝きの、ほんの一側面にしか過ぎなかったのだ。
「私は海のことも知りたい。釣りもしてみたい。でも、モアブとエサウとセムのことも大事で、置いていけないの。だから、代わりに行って。それはヨナのためだけじゃなくて、私のためでもあるの。だから、自分のために生きてもいいの。ヨナのことだからきっと海が楽しくて、ずっとは覚えていられないだろうけど……。たまにでいいから、思い出してくれる?」
 僕の手に添えたサラの小さな手は、少し震えていた。年相応の子供のように。僕は手の力を緩め、砂を解放した。サラが指を絡められるように。
「もちろん」
 サラは僕の手を強く握りしめた。僕が砂を握りしめていたように。温かい、命の感触がした。
「もしも人魚になったら、ヨナの冒険を歌って。言葉は分からなくても、きっとヨナの声だって分かるから」
 サラは僕の手を握ったまま立ち上がった。冷えちゃったから戻ろう、誰かが起きてこないうちに。そう言って手を引いて、家へと歩を進めた。二人の指の隙間から、煌めく砂が、零れ落ちていった。
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