ヨナと人魚の住まう海底都市

荒野羊仔

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エピソード6. 篝火

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 家の中で、僕とサラは焚き火に当たっていた。池に入ってはしゃいでいると、"近所のおばさん"が出てきて、二人揃って怒られた。僕がサラを引き込んだのだと説明したけれど、"近所のおばさん"は容赦なかった。悪いことは悪い、と。サラは神妙な顔をしてもうしません、と言ったけれど、どうだろう。水に入る喜びを知ってしまったサラが、絶対に水に入らないとは思わないけど。などと考えていると、ヨナもごめんなさい、もうしませんって言いなさいよ、と頭をはたかれた。
 その後現れた長老が、続きは火に当たってからよく言い聞かせておくよ、とおばさんをあしらって、僕たち二人を家へと迎え入れた。他の子供たちは皆外にいるみたいだ。長老は身体を拭う用の布を手渡すと、慣れた手付きで火を起こした。家の真ん中には囲炉裏がある。僕たちはいつもそこで魚を焼いたり、冬や雨に濡れた日なんかは暖を取ったりする。冬でも雨でもないのに火に当たるのは、なんだか不思議な気がした。
 長老は古くなった布に鯨や魚の脂を染み込ませ、火に投げ入れた。火の勢いが強くなる。
「ヨナ、サラ、久々に神話の話をしようか」
 長老はおもむろに口を開き、神話をそらんじた。僕たちが何度も聞き、すっかり覚えてしまった、創生の神話だ。
「我々が生きるこの大地は、空に浮かぶ星々と同じ、太陽の神と月の女神の子供。その子のうちの一つが命尽き流れて、女神は悲しみの涙を流した。その涙が我々の星を洗い流し、我々の祖先の作り上げた都市さえも今や海の中だ。その都市には人魚が住んでいる。人魚は元々、人間だった。声と引き換えに尾を得て、海に沈んだ都市に住んでいる。我々地上に残された人間は、言葉を残さなければならない。最後の一人となるまで。分かるね?」
 分かってるよ、とサラは布に包まりながら呟いた。蹲るような姿勢で話を聞いていたサラは、身体が温かくなって、眠たくなってきているのだ。僕はサラの背中をトントンと叩いて、眠りを促した。程なくして小さな寝息を立てて、サラは眠りに就いた。
 長老と二人きりになる。思えばこうして話すのは、初めてのことかもしれなかった。
「長老、ずっと気になっていることがあるんです」
「何かね?」
「人魚は声を引き換えに尾を得たと言いますが、僕たちは海で人魚が歌っているのを聴きます。それって、声があるってことなんじゃないですか? だから本当は、言葉と引き換えに尾を得たんだと思うんです」
 僕は積年の疑問を呈した。皆神話をまるっとそのまま信じている。でも、本当に全部が全部正しいのだろうか? 或いは何かを暗喩しているのかもしれないと、考えたことはないのだろうか?
「なるほど、確かに不思議かもしれないね。しかしこの場合は、声で合っているのだ。海の生き物と陸の生き物では発声器官が違うのだから」
「はっせいきかん?」
 聞き慣れない言葉に、思わず話を中断させてしまう。
「体の中の、声を発する場所だ。陸の生き物は息を吐き出さなければ、声を発することができない。だが、鯨などの海の生き物は、息を吐き出さなくても音を出すことができる。海の生き物も生きるために空気が必要だ。空気を吸うために、水面に顔を出すのだ。声を出す度に空気が出て行ったのでは、死んでしまうからね。つまり、海の中で声を出せるようになった分、陸で声を出せなくなってしまったんだ。結果として、言葉も失ってしまっているがね」
 発声器官についてはよく分からなかったが、海と陸では声の出し方が違うと言うことは理解できた。
「じゃあ、人魚は常に海の中で歌っているんですね」
「そういうことだ。人魚は海底に沈んだ都市に住んでいる。海はとても広い。我々よりも数の多い群れを成していることだろう。海の中では遠くまで音が伝わる。我々が思っているよりずっと、ずっと遠くから歌っているのかもしれない」
 僕は瞼を閉じて、人魚の姿を思い浮かべた。彼女はどうしてこんなに近くまでやって来たのだろう。僕たちに何を伝えたくて、歌っているんだろう。
 海へ来て——。
 僕が聞き取れたのはそれだけだった。何のために、人魚は人間を海へ連れていこうとするんだろう?
 僕の口は堰を切ったように、思ったままに考えを口にしていた。
「もう一つ気になっていたことがあるんです。この神話を伝えた人って、海に行ったことがあるんだと思うんです。もしくは、人魚に会ったことがある。それもかなり長い間。じゃないと、海の中の都市のことなんて描けないし、時の進みが違うなんて、分からないと思うんです。その上この神話が地上に伝わっているということは、戻ってきているんです。海から地上に。だから」
「だから、海の中へ行きたいのだと?」
 ハッとして、僕は顔を上げて長老の顔を見た。深い皺の刻まれた、威厳のある顔だった。いつも優しく微笑んでいたその瞳が、かつて見たことのないくらい険しい色をしていた。
「ヨナ、私の命はじきに尽きる。この島には男手が足りない。幸いにもサラより下の子供たちは皆男の子たちだ。だが、まだ幼すぎる。島の女たちは皆したたかだが、やはり釣りをしたり、船を上げたりするには力が足りないのだ。子供たちが皆大きくなれば、また鯨を獲ることだってできるかもしれない。だが、まだその時ではないのだ」
 長老は寝息の深くなったサラを抱き上げると、寝床へと移した。サラは起きる様子もなく、健やかな寝顔を見せた。それは先程池中で見たような、怒っていない顔だった。
「サラは賢い子だ。ヨナが海に行きたいことも、行ってしまえば島の皆の生活が困窮することも分かっている。その上で、大人のように振る舞っているのだ。自分のしたいことは我慢して。それが皆が生きていくために必要なことだと知っている」
 長老は僕の肩に手を置き、諭すように言った。
「ヨナ、篝火を絶やしてはいけない。我々には使命があるのだ。言葉を絶やしてはならない。子を絶やしてはならない。お前ももう大人の男になろうとしている。いつまでも〈心が海にある〉状態では、いられないのだ。皆が飢えてしまうのだ。お前が何を聴いたのかは知らないが、今はまだその時ではない」
 長老は僕の肩から手を離した。髪から水滴が落ちる。枯れ木のようなその手に水は染み込まず、床に落ちて行った。
「せっかく火を焚いたのだ、今日は魚を焼いて食べようか。ヨナ、手伝ってくれるね?」
 長老は夕食の時間にはまだ早いが、夕食の支度を始めた。この話は終わりだとばかりに。
 今ではない、と言うけれど。僕は、僕たちはいつになったら、我慢することなく、自由になれるんですか。いつになったら、海へ行けるんですか。子供たちが大きくなるまで、何年掛かるだろう。その間、彼女はどれほど長い時を過ごすだろう。
 僕は立ち上がることもできず、ただただ火を見つめていた。
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