上 下
7 / 23

エピソード6. 篝火

しおりを挟む
 家の中で、僕とサラは焚き火に当たっていた。池に入ってはしゃいでいると、"近所のおばさん"が出てきて、二人揃って怒られた。僕がサラを引き込んだのだと説明したけれど、"近所のおばさん"は容赦なかった。悪いことは悪い、と。サラは神妙な顔をしてもうしません、と言ったけれど、どうだろう。水に入る喜びを知ってしまったサラが、絶対に水に入らないとは思わないけど。などと考えていると、ヨナもごめんなさい、もうしませんって言いなさいよ、と頭をはたかれた。
 その後現れた長老が、続きは火に当たってからよく言い聞かせておくよ、とおばさんをあしらって、僕たち二人を家へと迎え入れた。他の子供たちは皆外にいるみたいだ。長老は身体を拭う用の布を手渡すと、慣れた手付きで火を起こした。家の真ん中には囲炉裏がある。僕たちはいつもそこで魚を焼いたり、冬や雨に濡れた日なんかは暖を取ったりする。冬でも雨でもないのに火に当たるのは、なんだか不思議な気がした。
 長老は古くなった布に鯨や魚の脂を染み込ませ、火に投げ入れた。火の勢いが強くなる。
「ヨナ、サラ、久々に神話の話をしようか」
 長老はおもむろに口を開き、神話をそらんじた。僕たちが何度も聞き、すっかり覚えてしまった、創生の神話だ。
「我々が生きるこの大地は、空に浮かぶ星々と同じ、太陽の神と月の女神の子供。その子のうちの一つが命尽き流れて、女神は悲しみの涙を流した。その涙が我々の星を洗い流し、我々の祖先の作り上げた都市さえも今や海の中だ。その都市には人魚が住んでいる。人魚は元々、人間だった。声と引き換えに尾を得て、海に沈んだ都市に住んでいる。我々地上に残された人間は、言葉を残さなければならない。最後の一人となるまで。分かるね?」
 分かってるよ、とサラは布に包まりながら呟いた。蹲るような姿勢で話を聞いていたサラは、身体が温かくなって、眠たくなってきているのだ。僕はサラの背中をトントンと叩いて、眠りを促した。程なくして小さな寝息を立てて、サラは眠りに就いた。
 長老と二人きりになる。思えばこうして話すのは、初めてのことかもしれなかった。
「長老、ずっと気になっていることがあるんです」
「何かね?」
「人魚は声を引き換えに尾を得たと言いますが、僕たちは海で人魚が歌っているのを聴きます。それって、声があるってことなんじゃないですか? だから本当は、言葉と引き換えに尾を得たんだと思うんです」
 僕は積年の疑問を呈した。皆神話をまるっとそのまま信じている。でも、本当に全部が全部正しいのだろうか? 或いは何かを暗喩しているのかもしれないと、考えたことはないのだろうか?
「なるほど、確かに不思議かもしれないね。しかしこの場合は、声で合っているのだ。海の生き物と陸の生き物では発声器官が違うのだから」
「はっせいきかん?」
 聞き慣れない言葉に、思わず話を中断させてしまう。
「体の中の、声を発する場所だ。陸の生き物は息を吐き出さなければ、声を発することができない。だが、鯨などの海の生き物は、息を吐き出さなくても音を出すことができる。海の生き物も生きるために空気が必要だ。空気を吸うために、水面に顔を出すのだ。声を出す度に空気が出て行ったのでは、死んでしまうからね。つまり、海の中で声を出せるようになった分、陸で声を出せなくなってしまったんだ。結果として、言葉も失ってしまっているがね」
 発声器官についてはよく分からなかったが、海と陸では声の出し方が違うと言うことは理解できた。
「じゃあ、人魚は常に海の中で歌っているんですね」
「そういうことだ。人魚は海底に沈んだ都市に住んでいる。海はとても広い。我々よりも数の多い群れを成していることだろう。海の中では遠くまで音が伝わる。我々が思っているよりずっと、ずっと遠くから歌っているのかもしれない」
 僕は瞼を閉じて、人魚の姿を思い浮かべた。彼女はどうしてこんなに近くまでやって来たのだろう。僕たちに何を伝えたくて、歌っているんだろう。
 海へ来て——。
 僕が聞き取れたのはそれだけだった。何のために、人魚は人間を海へ連れていこうとするんだろう?
 僕の口は堰を切ったように、思ったままに考えを口にしていた。
「もう一つ気になっていたことがあるんです。この神話を伝えた人って、海に行ったことがあるんだと思うんです。もしくは、人魚に会ったことがある。それもかなり長い間。じゃないと、海の中の都市のことなんて描けないし、時の進みが違うなんて、分からないと思うんです。その上この神話が地上に伝わっているということは、戻ってきているんです。海から地上に。だから」
「だから、海の中へ行きたいのだと?」
 ハッとして、僕は顔を上げて長老の顔を見た。深い皺の刻まれた、威厳のある顔だった。いつも優しく微笑んでいたその瞳が、かつて見たことのないくらい険しい色をしていた。
「ヨナ、私の命はじきに尽きる。この島には男手が足りない。幸いにもサラより下の子供たちは皆男の子たちだ。だが、まだ幼すぎる。島の女たちは皆したたかだが、やはり釣りをしたり、船を上げたりするには力が足りないのだ。子供たちが皆大きくなれば、また鯨を獲ることだってできるかもしれない。だが、まだその時ではないのだ」
 長老は寝息の深くなったサラを抱き上げると、寝床へと移した。サラは起きる様子もなく、健やかな寝顔を見せた。それは先程池中で見たような、怒っていない顔だった。
「サラは賢い子だ。ヨナが海に行きたいことも、行ってしまえば島の皆の生活が困窮することも分かっている。その上で、大人のように振る舞っているのだ。自分のしたいことは我慢して。それが皆が生きていくために必要なことだと知っている」
 長老は僕の肩に手を置き、諭すように言った。
「ヨナ、篝火を絶やしてはいけない。我々には使命があるのだ。言葉を絶やしてはならない。子を絶やしてはならない。お前ももう大人の男になろうとしている。いつまでも〈心が海にある〉状態では、いられないのだ。皆が飢えてしまうのだ。お前が何を聴いたのかは知らないが、今はまだその時ではない」
 長老は僕の肩から手を離した。髪から水滴が落ちる。枯れ木のようなその手に水は染み込まず、床に落ちて行った。
「せっかく火を焚いたのだ、今日は魚を焼いて食べようか。ヨナ、手伝ってくれるね?」
 長老は夕食の時間にはまだ早いが、夕食の支度を始めた。この話は終わりだとばかりに。
 今ではない、と言うけれど。僕は、僕たちはいつになったら、我慢することなく、自由になれるんですか。いつになったら、海へ行けるんですか。子供たちが大きくなるまで、何年掛かるだろう。その間、彼女はどれほど長い時を過ごすだろう。
 僕は立ち上がることもできず、ただただ火を見つめていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?

闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。 しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。 幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。 お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。 しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。 『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』 さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。 〈念の為〉 稚拙→ちせつ 愚父→ぐふ ⚠︎注意⚠︎ 不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

王が気づいたのはあれから十年後

基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。 妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。 仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。 側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。 王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。 王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。 新たな国王の誕生だった。

夫から国外追放を言い渡されました

杉本凪咲
恋愛
夫は冷淡に私を国外追放に処した。 どうやら、私が使用人をいじめたことが原因らしい。 抵抗虚しく兵士によって連れていかれてしまう私。 そんな私に、被害者である使用人は笑いかけていた……

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

【完結】言いたいことがあるなら言ってみろ、と言われたので遠慮なく言ってみた

杜野秋人
ファンタジー
社交シーズン最後の大晩餐会と舞踏会。そのさなか、第三王子が突然、婚約者である伯爵家令嬢に婚約破棄を突き付けた。 なんでも、伯爵家令嬢が婚約者の地位を笠に着て、第三王子の寵愛する子爵家令嬢を虐めていたというのだ。 婚約者は否定するも、他にも次々と証言や証人が出てきて黙り込み俯いてしまう。 勝ち誇った王子は、最後にこう宣言した。 「そなたにも言い分はあろう。私は寛大だから弁明の機会をくれてやる。言いたいことがあるなら言ってみろ」 その一言が、自らの破滅を呼ぶことになるなど、この時彼はまだ気付いていなかった⸺! ◆例によって設定ナシの即興作品です。なので主人公の伯爵家令嬢以外に固有名詞はありません。頭カラッポにしてゆるっとお楽しみ下さい。 婚約破棄ものですが恋愛はありません。もちろん元サヤもナシです。 ◆全6話、約15000字程度でサラッと読めます。1日1話ずつ更新。 ◆この物語はアルファポリスのほか、小説家になろうでも公開します。 ◆9/29、HOTランキング入り!お読み頂きありがとうございます! 10/1、HOTランキング最高6位、人気ランキング11位、ファンタジーランキング1位!24h.pt瞬間最大11万4000pt!いずれも自己ベスト!ありがとうございます!

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

処理中です...