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9 僕のナポリタン
9 僕のナポリタン(2)
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小金さんのワインバーに顔を出すと、彼はジーンズにTシャツといういつものスタイルで野菜が入った段ボールを運んでいた。
「こんばんは」
振り返った彼は人の良い笑顔を浮かべる。
「こんばんは。さくらちゃんから伝言聞いた?」
「はい」
口ひげと丸眼鏡がトレードマークの小金敏雄さんは今六十歳だ。
髪には白いものが多く交じっているが、日焼けして引き締まった体をしている。自転車が趣味で休日は奥さんと走り回っているらしい。
「ちょうどよかった」
彼はカウンターの上に置いてあったクリアファイルを手に取った。
「これ、見てもらえる?」
「なんですか?」
「昼間、ここで食堂をはじめようかと思ってさ」
ここは夜、ワインバーとして営業しているが、昼間は近隣の農家や店から集めた不要な食材などを人々に提供している。中には生活用品などもあり、必要な分を誰でも自由に持っていっていい。
元々は小金さんの実家の農家で余った野菜を近所に住む学生さんなんかにあげていた。
そのことが人づてに評判になり、どんどん輪が広がっていったらしい。
先月、僕は若村さんに連れられて初めてこの店を訪れた。諏訪さんや彼女のお母さんも一緒に。
そのときに、若村さんは旦那さんが失業中であることを僕に教えてくれた。息子さんはまだ中学生で、彼女一人の稼ぎでは生活が苦しいということも。
「この店があって、本当にすごく助かってるのよ。ワインバーだからたまにお酒なんかもくれるし。子供が好きそうなお菓子とかもたっぷり持たせてくれるのよ。だから、さくらちゃんも遠慮しないで利用してみて」
食費を切り詰めて倒れた諏訪さんを心配して、小金さんの店を紹介したのだ。
諏訪さんは小金さんの人柄が気に入ったのか、意外にもすぐに打ち解けた様子だった。
「ごはんはちゃんと食べないとね」という彼の言葉にも素直にうなずいていた。
諏訪さんのお母さんは少しふっくらした、おおらかそうな人で、諏訪さんが止めに入るほど、あれやこれやたくさん食材をダンボール箱に詰めていた。
驚いたことに小金さんは僕の叔父さんと顔見知りだった。
お酒に目がない叔父さんは、小金さんのワインバーにも何度か足を運んでいたらしい。
小金さんのほうも居酒屋に来たことがあるようだった。
「ここで食堂をやるんですか」
少し前に、無料の弁当を配りたいので作ってくれないかと小金さんから頼まれていた。
もちろんお給料はきちんと出すと。
もちろんお手伝いしたい。
でも、どうやって時間を作り出そうか悩んでいた。
昼間はファミレス、夜は居酒屋の仕事がある。
そうなると、弁当は早朝に作るしかない。
急いでやっても一時間から二時間はかかるだろう。
それに弁当はできたら毎日用意したいと小金さんは言っていた。
僕に務まるだろうかと不安だったが、とりあえずやってみるか、と腹をくくってはいた。
それが弁当ではなく食堂になるとは。
「やっぱり温かいものを食べて欲しくなっちゃって。それに、ここなら人とお喋りしながら楽しく食事できるでしょ。そういうのも大事だと思うんだ」
「たしかにそうですね」
でも、僕は時間的に無理だ。
「これ、娘に作ってもらったんだ。いろいろ細かいことが書いてあるから、読んでみてくれる」
クリアファイルの中から、きれいにプリントアウトされた用紙を取り出して読んだ。
それによると、食堂はお昼の十二時から夕方の六時まで営業するとある。
提供するのは日替わり定食ひとつだけ。
栄養バランスがとれていて、満腹になれる料理。子供も大人もおいしく食べられるメニューが理想、とある。
「新君、忙しいだろうけど、出てもらえる日はあるかな?」
僕はうーんと考え込んだ。
「……月曜日は仕事がないので出られます」
今度は小金さんが考え込む。
「そうか。お休みって週に一日だけ?」
「はい。月曜しかないんです」
「でも無休で働かせるのはまずいな」
僕的には大丈夫だ。
小金さんは腕組みをしてさらに考え込む。
「新君、ファミレスで働いてどのくらいなの?」
「まだ二カ月ぐらいです」
もっと長く働いているような気がするけど、実際はまだそれしか経っていない。
小金さんの本音は、「ファミレスを辞めて食堂で働いて欲しい」だろう。
でも小金さんはそれ以上なにも言わなかったし、僕も黙っていた。
食堂の話はとりあえず保留になった。
ワインバーを出て、急ぎ足で居酒屋に向かう。
店に着くと、開店の準備をしながら、叔父さんに食堂の話をした。
「その食堂って、新に向いてるんじゃないか」
叔父さんにそう言われても、すぐにはぴんとこなかった。
でも、こんにゃくと唐辛子を炒めていると、そう言われればそうかもしれないと思った。
居酒屋の仕事を通じてわかったことがある。
僕は料理を通じてお客さんに元気になってもらいたい。
疲れているなら元気がでるものを食べさせたい。落ち込んでいるならやさしい味の料理を出してあげたい。
誰かと話したい気分なら話し相手にもなってあげたい。
そういうことを、小金さんの食堂ならできるのかもしれない。
でも、僕はファミレスの仕事もとても気に入っている。
仲間たちはみんないい人で居心地もいい。
なにより自信をくれた。
職場の同僚たちとうまくやることができるという。
それは僕にとってはとても重要なことだ。
その日、仕事を終えて深夜に家に帰ると、いつになく疲れを感じた。
「こんばんは」
振り返った彼は人の良い笑顔を浮かべる。
「こんばんは。さくらちゃんから伝言聞いた?」
「はい」
口ひげと丸眼鏡がトレードマークの小金敏雄さんは今六十歳だ。
髪には白いものが多く交じっているが、日焼けして引き締まった体をしている。自転車が趣味で休日は奥さんと走り回っているらしい。
「ちょうどよかった」
彼はカウンターの上に置いてあったクリアファイルを手に取った。
「これ、見てもらえる?」
「なんですか?」
「昼間、ここで食堂をはじめようかと思ってさ」
ここは夜、ワインバーとして営業しているが、昼間は近隣の農家や店から集めた不要な食材などを人々に提供している。中には生活用品などもあり、必要な分を誰でも自由に持っていっていい。
元々は小金さんの実家の農家で余った野菜を近所に住む学生さんなんかにあげていた。
そのことが人づてに評判になり、どんどん輪が広がっていったらしい。
先月、僕は若村さんに連れられて初めてこの店を訪れた。諏訪さんや彼女のお母さんも一緒に。
そのときに、若村さんは旦那さんが失業中であることを僕に教えてくれた。息子さんはまだ中学生で、彼女一人の稼ぎでは生活が苦しいということも。
「この店があって、本当にすごく助かってるのよ。ワインバーだからたまにお酒なんかもくれるし。子供が好きそうなお菓子とかもたっぷり持たせてくれるのよ。だから、さくらちゃんも遠慮しないで利用してみて」
食費を切り詰めて倒れた諏訪さんを心配して、小金さんの店を紹介したのだ。
諏訪さんは小金さんの人柄が気に入ったのか、意外にもすぐに打ち解けた様子だった。
「ごはんはちゃんと食べないとね」という彼の言葉にも素直にうなずいていた。
諏訪さんのお母さんは少しふっくらした、おおらかそうな人で、諏訪さんが止めに入るほど、あれやこれやたくさん食材をダンボール箱に詰めていた。
驚いたことに小金さんは僕の叔父さんと顔見知りだった。
お酒に目がない叔父さんは、小金さんのワインバーにも何度か足を運んでいたらしい。
小金さんのほうも居酒屋に来たことがあるようだった。
「ここで食堂をやるんですか」
少し前に、無料の弁当を配りたいので作ってくれないかと小金さんから頼まれていた。
もちろんお給料はきちんと出すと。
もちろんお手伝いしたい。
でも、どうやって時間を作り出そうか悩んでいた。
昼間はファミレス、夜は居酒屋の仕事がある。
そうなると、弁当は早朝に作るしかない。
急いでやっても一時間から二時間はかかるだろう。
それに弁当はできたら毎日用意したいと小金さんは言っていた。
僕に務まるだろうかと不安だったが、とりあえずやってみるか、と腹をくくってはいた。
それが弁当ではなく食堂になるとは。
「やっぱり温かいものを食べて欲しくなっちゃって。それに、ここなら人とお喋りしながら楽しく食事できるでしょ。そういうのも大事だと思うんだ」
「たしかにそうですね」
でも、僕は時間的に無理だ。
「これ、娘に作ってもらったんだ。いろいろ細かいことが書いてあるから、読んでみてくれる」
クリアファイルの中から、きれいにプリントアウトされた用紙を取り出して読んだ。
それによると、食堂はお昼の十二時から夕方の六時まで営業するとある。
提供するのは日替わり定食ひとつだけ。
栄養バランスがとれていて、満腹になれる料理。子供も大人もおいしく食べられるメニューが理想、とある。
「新君、忙しいだろうけど、出てもらえる日はあるかな?」
僕はうーんと考え込んだ。
「……月曜日は仕事がないので出られます」
今度は小金さんが考え込む。
「そうか。お休みって週に一日だけ?」
「はい。月曜しかないんです」
「でも無休で働かせるのはまずいな」
僕的には大丈夫だ。
小金さんは腕組みをしてさらに考え込む。
「新君、ファミレスで働いてどのくらいなの?」
「まだ二カ月ぐらいです」
もっと長く働いているような気がするけど、実際はまだそれしか経っていない。
小金さんの本音は、「ファミレスを辞めて食堂で働いて欲しい」だろう。
でも小金さんはそれ以上なにも言わなかったし、僕も黙っていた。
食堂の話はとりあえず保留になった。
ワインバーを出て、急ぎ足で居酒屋に向かう。
店に着くと、開店の準備をしながら、叔父さんに食堂の話をした。
「その食堂って、新に向いてるんじゃないか」
叔父さんにそう言われても、すぐにはぴんとこなかった。
でも、こんにゃくと唐辛子を炒めていると、そう言われればそうかもしれないと思った。
居酒屋の仕事を通じてわかったことがある。
僕は料理を通じてお客さんに元気になってもらいたい。
疲れているなら元気がでるものを食べさせたい。落ち込んでいるならやさしい味の料理を出してあげたい。
誰かと話したい気分なら話し相手にもなってあげたい。
そういうことを、小金さんの食堂ならできるのかもしれない。
でも、僕はファミレスの仕事もとても気に入っている。
仲間たちはみんないい人で居心地もいい。
なにより自信をくれた。
職場の同僚たちとうまくやることができるという。
それは僕にとってはとても重要なことだ。
その日、仕事を終えて深夜に家に帰ると、いつになく疲れを感じた。
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