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7 叔父さんの天麩羅
7 叔父さんの天麩羅(5)
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コーヒーを買って公園のベンチで令子さんを待つ。
約束の時間を十分ほど過ぎた頃、もしかすると今夜彼女は現れないかもしれないと思った。
初夏の夜は空も少し明るく感じられる。
通りを行き交う人々の声もどこか軽やかだ。
三十分が経ち、冷たかったコーヒーもぬるくなってきた頃、令子さんがやってきた。
走ってきたようで肩で息をしている。シンプルな黒いワンピースにスニーカーという格好だ。
「遅れてごめんなさい。出がけにちょっと用事を頼まれちゃって」
令子さんの顔を見ると、余計な考えが消えた。
「こんばんは。走らなくてもよかったのに」
「待たせてるんだから走るよ」
令子さんと僕は一緒に笑う。
「今夜はスーパーに行かなくて大丈夫ですか?」
彼女はうなずいた。
「会社帰りに寄ったから大丈夫」
「コーヒー、ぬるくなっちゃいましたけど、どうぞ」
ありがと、と令子さんはコーヒーを受け取って、ベンチに腰をおろした。
最近急に暑くなってきたとか、雑談を少ししたあとで、僕は彼女に打ち明けた。
「僕、神楽坂のお店の話、断ったんです。これからも叔父の店で働きます」
令子さんはきれいな目を見開いて、何度か瞬きした。かなり驚いたようだ。
「そうなの」
「ええ」
「てっきり神楽坂のお店に行くんだと思ってた。叔父さんに頼まれたの? お店をこれからも一緒にやってくれって」
「いえ。僕ひとりで考えて決めたんです。もうちょっと、あの店で働いていたいなと思って」
「でも、どうするの? 一生あの店をやってくつもりはないんでしょ。別の考えがあるとか?」
「いずれ、自分の店は持ちたいと考えてます」
居酒屋でお客さんたちと言葉を交わしながら、自由に料理を作って出すのが、単純に楽しい。
令子さんがお店に来てくれて、一緒に過ごす時間だってとても特別に感じられる。
将来のことはちゃんと考えないといけないけど、いまある大切なものも大事にしたい。
そういう素直ないまの気持ちを、令子さんに伝えられたらなと思った。
でも、なぜか言葉が奥に引っ込んだまま、出てこない。
令子さんのコーヒーを飲む速度が少し速く感じられるからかもしれない。
「新君て大人びてるけど、まだ二十五歳だもんね。これからなんでも挑戦できる。未来は明るいね」
街頭の明かりを僕らは眺めた。
「令子さんが挑戦したかったことはなんですか?」
彼女は僕を見て、少し笑った。
「恥ずかしいから内緒」
「そう言われると、なおさら知りたくなります」
「なおさら言えなくなる」
令子さんの視線が公園の時計に向いた。
もうすぐ十時になろうとしている。
「ごめんね。そろそろ帰らないと」
もう? と僕は心の中で思った。
でも、これ以上遅くなると、彼女の家族が心配するだろう。
令子さんは腰を上げた。
「コーヒー、ありがとう。またお店に行くね。叔父さんによろしく」
僕も腰を上げて、別れの言葉をもごもご言っているうちに、彼女は公園の出口に急ぎ足で向かった。
家に送ることもできないんだ。
ここでたくさん話した夜が夢のように思える。
このまま一人の家に帰りたくなくて、夜の町をとぼとぼ歩き続けた。
約束の時間を十分ほど過ぎた頃、もしかすると今夜彼女は現れないかもしれないと思った。
初夏の夜は空も少し明るく感じられる。
通りを行き交う人々の声もどこか軽やかだ。
三十分が経ち、冷たかったコーヒーもぬるくなってきた頃、令子さんがやってきた。
走ってきたようで肩で息をしている。シンプルな黒いワンピースにスニーカーという格好だ。
「遅れてごめんなさい。出がけにちょっと用事を頼まれちゃって」
令子さんの顔を見ると、余計な考えが消えた。
「こんばんは。走らなくてもよかったのに」
「待たせてるんだから走るよ」
令子さんと僕は一緒に笑う。
「今夜はスーパーに行かなくて大丈夫ですか?」
彼女はうなずいた。
「会社帰りに寄ったから大丈夫」
「コーヒー、ぬるくなっちゃいましたけど、どうぞ」
ありがと、と令子さんはコーヒーを受け取って、ベンチに腰をおろした。
最近急に暑くなってきたとか、雑談を少ししたあとで、僕は彼女に打ち明けた。
「僕、神楽坂のお店の話、断ったんです。これからも叔父の店で働きます」
令子さんはきれいな目を見開いて、何度か瞬きした。かなり驚いたようだ。
「そうなの」
「ええ」
「てっきり神楽坂のお店に行くんだと思ってた。叔父さんに頼まれたの? お店をこれからも一緒にやってくれって」
「いえ。僕ひとりで考えて決めたんです。もうちょっと、あの店で働いていたいなと思って」
「でも、どうするの? 一生あの店をやってくつもりはないんでしょ。別の考えがあるとか?」
「いずれ、自分の店は持ちたいと考えてます」
居酒屋でお客さんたちと言葉を交わしながら、自由に料理を作って出すのが、単純に楽しい。
令子さんがお店に来てくれて、一緒に過ごす時間だってとても特別に感じられる。
将来のことはちゃんと考えないといけないけど、いまある大切なものも大事にしたい。
そういう素直ないまの気持ちを、令子さんに伝えられたらなと思った。
でも、なぜか言葉が奥に引っ込んだまま、出てこない。
令子さんのコーヒーを飲む速度が少し速く感じられるからかもしれない。
「新君て大人びてるけど、まだ二十五歳だもんね。これからなんでも挑戦できる。未来は明るいね」
街頭の明かりを僕らは眺めた。
「令子さんが挑戦したかったことはなんですか?」
彼女は僕を見て、少し笑った。
「恥ずかしいから内緒」
「そう言われると、なおさら知りたくなります」
「なおさら言えなくなる」
令子さんの視線が公園の時計に向いた。
もうすぐ十時になろうとしている。
「ごめんね。そろそろ帰らないと」
もう? と僕は心の中で思った。
でも、これ以上遅くなると、彼女の家族が心配するだろう。
令子さんは腰を上げた。
「コーヒー、ありがとう。またお店に行くね。叔父さんによろしく」
僕も腰を上げて、別れの言葉をもごもご言っているうちに、彼女は公園の出口に急ぎ足で向かった。
家に送ることもできないんだ。
ここでたくさん話した夜が夢のように思える。
このまま一人の家に帰りたくなくて、夜の町をとぼとぼ歩き続けた。
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