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7 叔父さんの天麩羅
7 叔父さんの天麩羅(2)
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信濃さんが帰ったあと、緊張感から解放されてほっと息をついた。
誰もいないカウンターに座り、水をゆっくり飲む。
そのあとも客が来る気配はなく、余りそうな総菜をプラスチックの入れ物に入れて輪ゴムでとめた。
店の戸は開け放しておいた。
通りを行く人の姿がよく見える。
六月末の夜風は気持ちがいい。光に誘われた虫たちがふらふらと飛んでくる。明日は蚊取り線香を買ってこよう。
しばらくして、見たことのあるワンピースがすうっと通りを横切っていった。
僕は慌てて外に飛び出して、「令子さん」と声をかけた。
彼女は振り返り、目を細めて微笑む。
「あら、こんばんは」
「こんばんは。これからスーパーですか?」
「うん。散歩がてらね」
僕は手に持っているビニール袋を彼女に差し出した。
「これ、よかったらもらってください。お惣菜なんですけど、今夜は客が来なくて余ってしまったので」
令子さんは大きめのビニール袋をちらりと見た。
「たくさんあるみたいだけど、そんなにいいの?」
「ええ。捨てることになったらもったいないですから」
そうねえ、と彼女は頬に手をやった。
「じゃあ、遠慮なくいただくね。ありがとう。今夜はそんなにお客さんがいないの?」
「ええ。よかったら寄っていきますか?」
令子さんは一瞬、店に入りたそうな顔をした。
でも首を横に振る。
「やめておく。今日は金曜じゃないから」
残念だが仕方ない。
「明日はお店休みよね?」
「ええ」
この前みたいに、また夜の公園で話したい。
でも、どう誘っていいのかわからない。
「お惣菜、ありがとう。じゃあまたね」
令子さんは手を振ってスーパーの方へ歩きだした。
あの、と僕は慌てて声を出した。
「よかったら、明日の夜、また公園でお喋りしませんか? この前みたいに……」
令子さんはぱちぱちと瞬きしてから、うなずいた。
「いいよ。雨が降らなかったら公園で会おっか。いまぐらいの時間でもいい?」
「はい。待ってます」
彼女と別れて店に戻ると、いてもたってもいられない気分で、その場で足踏みをした。
体がかっかして、一度は閉めた戸をまた開けた。
なんだかじっとしてられない。
食材をどんどん取り出して、煮たり焼いたり揚げたり、片っ端から料理していく。
なんだ僕は。
どうかしちゃったのか?
匂いに誘われたように、そのあとすぐ、客が数珠つなぎで入ってきた。
ご機嫌な僕はいつもよりよく喋って、その夜、店からは笑い声が絶えなかった。
*
翌朝、石川に電話をかけた。
「よく考えたんだけど、このまま叔父の居酒屋で働こうと思う」
そう告げると、石川は予想していたかのように落ち着いた反応をした。
『そうですか。残念ですけど、なんとなくこうなるかなとは思っていました』
電話の向こうで石川は明るく笑った。
『先輩、楽しそうに働いてましたから』
「そう?」
『ええ。ですからまあ……タイミングですよね。先輩が前の職場を辞めた直後に声をかけていたら、また違ったかもしれないですし』
そうかもしれない。
令子さんや常連のみんなとの仲が深まる前だったら、おそらく石川の話にすぐ飛びついていただろう。
「返事が遅くなってごめんな」
『それは気にしないでください』
「ほかにあてはあるの?」
『そうですね……兄の知り合いに声をかけようかと思います』
「そう。きっといい店になるよ。鎌倉の店は本当に良かったから」
少しの沈黙ののち、石川は小さく咳払いした。
『兄には私から伝えておきます。また、居酒屋に食べにいってもいいですか?』
「もちろん。僕も、神楽坂の店がオープンしたら食べに行くよ」
『ありがとうございます。では、また』
電話を切ったあと、少しだけ寂しい気持ちになった。
神楽坂の店という逃げ道はこれで消えた。
頑張らなくては。
誰もいないカウンターに座り、水をゆっくり飲む。
そのあとも客が来る気配はなく、余りそうな総菜をプラスチックの入れ物に入れて輪ゴムでとめた。
店の戸は開け放しておいた。
通りを行く人の姿がよく見える。
六月末の夜風は気持ちがいい。光に誘われた虫たちがふらふらと飛んでくる。明日は蚊取り線香を買ってこよう。
しばらくして、見たことのあるワンピースがすうっと通りを横切っていった。
僕は慌てて外に飛び出して、「令子さん」と声をかけた。
彼女は振り返り、目を細めて微笑む。
「あら、こんばんは」
「こんばんは。これからスーパーですか?」
「うん。散歩がてらね」
僕は手に持っているビニール袋を彼女に差し出した。
「これ、よかったらもらってください。お惣菜なんですけど、今夜は客が来なくて余ってしまったので」
令子さんは大きめのビニール袋をちらりと見た。
「たくさんあるみたいだけど、そんなにいいの?」
「ええ。捨てることになったらもったいないですから」
そうねえ、と彼女は頬に手をやった。
「じゃあ、遠慮なくいただくね。ありがとう。今夜はそんなにお客さんがいないの?」
「ええ。よかったら寄っていきますか?」
令子さんは一瞬、店に入りたそうな顔をした。
でも首を横に振る。
「やめておく。今日は金曜じゃないから」
残念だが仕方ない。
「明日はお店休みよね?」
「ええ」
この前みたいに、また夜の公園で話したい。
でも、どう誘っていいのかわからない。
「お惣菜、ありがとう。じゃあまたね」
令子さんは手を振ってスーパーの方へ歩きだした。
あの、と僕は慌てて声を出した。
「よかったら、明日の夜、また公園でお喋りしませんか? この前みたいに……」
令子さんはぱちぱちと瞬きしてから、うなずいた。
「いいよ。雨が降らなかったら公園で会おっか。いまぐらいの時間でもいい?」
「はい。待ってます」
彼女と別れて店に戻ると、いてもたってもいられない気分で、その場で足踏みをした。
体がかっかして、一度は閉めた戸をまた開けた。
なんだかじっとしてられない。
食材をどんどん取り出して、煮たり焼いたり揚げたり、片っ端から料理していく。
なんだ僕は。
どうかしちゃったのか?
匂いに誘われたように、そのあとすぐ、客が数珠つなぎで入ってきた。
ご機嫌な僕はいつもよりよく喋って、その夜、店からは笑い声が絶えなかった。
*
翌朝、石川に電話をかけた。
「よく考えたんだけど、このまま叔父の居酒屋で働こうと思う」
そう告げると、石川は予想していたかのように落ち着いた反応をした。
『そうですか。残念ですけど、なんとなくこうなるかなとは思っていました』
電話の向こうで石川は明るく笑った。
『先輩、楽しそうに働いてましたから』
「そう?」
『ええ。ですからまあ……タイミングですよね。先輩が前の職場を辞めた直後に声をかけていたら、また違ったかもしれないですし』
そうかもしれない。
令子さんや常連のみんなとの仲が深まる前だったら、おそらく石川の話にすぐ飛びついていただろう。
「返事が遅くなってごめんな」
『それは気にしないでください』
「ほかにあてはあるの?」
『そうですね……兄の知り合いに声をかけようかと思います』
「そう。きっといい店になるよ。鎌倉の店は本当に良かったから」
少しの沈黙ののち、石川は小さく咳払いした。
『兄には私から伝えておきます。また、居酒屋に食べにいってもいいですか?』
「もちろん。僕も、神楽坂の店がオープンしたら食べに行くよ」
『ありがとうございます。では、また』
電話を切ったあと、少しだけ寂しい気持ちになった。
神楽坂の店という逃げ道はこれで消えた。
頑張らなくては。
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