まずい飯が食べたくて

森園ことり

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6 杏奈ちゃんの蕎麦

6 杏奈ちゃんの蕎麦(5)

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 しばらくして駅に背を向けると、少し離れた場所に令子さんが立っていた。

 いつかの夜のようにワンピースを着ている。
 あれから夜もかなり暖かくなったので、カーディガンは羽織っていなかった。
 半袖から白い腕が細く伸びている。

「いまの新君の彼女?」

 口の端をわずかにあげた令子さんに僕は首を横に振ってみせた。

「後輩です。料理学校の時の」
「そうなんだ」

 彼女はあまり信じていないような顔つきで歩きはじめた。

「夜のお買い物ですか?」

 令子さんの隣に並んで歩く。

「ううん。今日はただの散歩」

 散歩にしては遅すぎる。もう十時をまわっていた。

「たまには気分転換しないと」

 今日、なにかあったんだろうか。

 令子さんの横顔をそっと見ても、その表情からはなにもわからない。
 少し疲れているようには見える。

「今日はお店、貸し切りだったみたいね」

 店に来たんだ。

 もしかすると、ちょっと飲みたい気分だったのかもしれない。

「さっきの後輩の誕生日祝いをしてたんです」
「そうだったんだ。あなたたち、お似合いに見えたよ」
「本当にただの後輩です。僕、他に気になる人がいるんで」

 令子さんは目を見開いて僕を見た。

「そうなんだ。どういうひと?」
「いまはまだ秘密で。いつか教えます」
「じゃあ……私の知ってる人なんだ」
「どうでしょう」
「そうなると、限られるね。共通の知り合いだと……七尾君とか?」
「どうしてそうなるんです。僕は女性が恋愛対象なんで」
「ふうん」と令子さんは足を止めた。

 そして、すぐそばにある自動販売機を指さす。

「おごってあげる。なにがいい?」

 僕はブラックコーヒーを指さした。

 令子さんは同じコーヒーを二本買って、一本僕にくれた。
 並んでゆっくり歩きだす。 

「令子さんの誕生日はいつなんですか?」
「三月」
「じゃあ、来年は誕生日にサービスしますよ」
「やった。楽しみ」

 通りがかった小さな公園を令子さんはじっと見つめる。

「少し寄っていきます?」

 僕の提案に、彼女は嬉しそうに笑ってうなずいた。
 公園に入っていくと、象を模した黄色い滑り台が静かに街頭に照らされていた。囲むように銀杏の木が植えられている。


 ペンキのはげかけた赤いベンチに僕らは腰をおろした。

「実は今日ね、杏奈と夕飯のことで喧嘩したの」

 令子さんは仕事を終えると、スーパーでかき揚げと蕎麦を買って帰った。
 だが、家に帰るとそばつゆが切れていた。

「だから、だしの素や醤油で適当につゆを作ってみたの。そうしたら、杏奈が食べたくないって言ってね。味が全然しないっていうの」

 おいしくない、食べたくない、と杏奈ちゃんは一口も蕎麦に口をつけなかった。

「私もなんだか頭にきてね。せっかく作ったのに、そういう態度はひどいんじゃないって。じゃあ、かきあげとご飯だけでも食べなさいって言ったんだけど、あの子、へそ曲げて言うこときかなくて」

 味がしない蕎麦と聞いて、ある記憶がよみがえった。

「僕、蕎麦屋で同じ体験したことありますよ。出てきた蕎麦がまったく味がしなかったんです」
「お店で?」

 令子さんは面白そうな表情を浮かべてコーヒーを一口飲む。
 今夜のコーヒーはなぜか苦く感じられない。令子さんにおごってもらったからかもしれない。

「僕、本当に驚いて、まわりを見回したぐらいです。けっこう大きなきちんとした店で、客もたくさん入ってたんです。誰も『味がしない!』って文句を言うでもなく、普通に食べてて。だから、なんで僕だけ味しないんだ、って余計驚いたんです」

 それこそ、お湯のようなつゆだった。自分の味覚がどうかしてしまったのかと思いながら我慢して全部食べた。

「いまでも謎なんですよね。つゆの色はついてたから、だしが薄かったのかもしれない……すみません、脱線しました」

 夜空に光る月は鋭く欠けている。
 二羽の鳥が影絵のようにゆっくり空を横切っていった。

「ううん」
 
 令子さんはくすっと笑った。

「そうだよね。だしって大事だよね。私、めんどくさくて、いつも目分量なの。だから作るたびに味が違うって家族からは不評でね。ちゃんとはかればいいんだけど、つい適当にやっちゃう。私のごはん、全部まずいんだって。杏奈にはいつもそう言われる」

 令子さんは苦笑し、僕をちらっと見た。

「料理が下手な人間のこと、どう思う?」
「別になんとも。料理上手の人って、実は少ないんじゃないかな。もしみんながみんなうまかったら、わざわざおいしい店を探して食べにいかないだろうし。料理下手どころか、いっさい作らない人もたくさんいますよ」

 なるほど、と令子さんは笑った。

「そう考えると、劣等感に苛まれずにすむ」
「令子さんはがんばり過ぎです」

 それから一時間ぐらい、僕らはいろんな話をした。

 令子さんがヒールの靴を卒業したこと。満員電車が嫌い過ぎて一時間早く家を出ていること。自分へのご褒美に週に一度はおいしいランチを食べていること。

 僕は将来の夢を話した。自然に囲まれた温暖な土地で、古民家を改装した一軒家の店を持つ。お客は一日に一組だけ。お客さんの希望の食材を使い、世界に一つだけのコース料理を提供する。

 話は盛り上がり過ぎて、気づくと十一時を過ぎていた。

「大変」

 さすがに令子さんは慌てたけれど、どこか楽しんでいるようでもあった。

 話したりない。

 そんな思いを抱きながら、僕は令子さんと公園をあとにした。
 彼女を家まで送り届けると、アパートの明かりはすべて消えていた。

「もう寝てるみたい」

 かえってほっとしたように、令子さんは僕に笑いかけた。

「たくさん話せて楽しかった。ありがとね」

 令子さんは囁くように声をひそめた。あたりがしんとしているから。

「僕もすごく楽しかったです」

 彼女は小さくうなずいてから、アパートの階段を上がっていった。
 その足音が聞こえなくなるまで、僕はそこに立っていた。

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