まずい飯が食べたくて

森園ことり

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5 陽太さんの酢豚

5 陽太さんの酢豚(3)

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「変わったのかもしれません。変わらざるを得なかったというか。挫折をはじめて味わったので」
 僕の言葉に陽太さんは微笑み、ビールが入ったグラスを軽く掲げた。それをぐいっと一気に飲み干す。いつの間にか彼の顔は真っ赤になっていた。
 石川が少し心配そうに彼を横目で見ている。
 あんまり酔わせると鎌倉まで帰るのが大変そうだ。
 彼にビールを注ごうとしている叔父さんをさりげなく制して、僕は冷たい水のグラスを陽太さんの前に置いた。
 でも彼の手はビールを探すようにカウンターの上をさまよいはじめる。

「そういう僕ももっと若い時はとがってましたよ。客は黙って俺の料理を食ってればいいんだってね。でも、そういう態度って味に出るのかな。突然、客足が遠のいたことがありましてね。慌てましたよ。店をつぶすわけにはいかないですから……で、心を入れ替えて、お客さんに喜んでもらえるような店作り、料理を追求するようになったんです」

 ビールがないことに気づいた彼は水を一口含んで小さく息をついた。

「でも、うちみたいな店はどうしてもお客さんとの密なふれあいは難しい。こういう風にカウンター越しにおしゃべり、とはいかないですからね。何度か足を運んでくれている方には意識的に挨拶したりはしますよ。でも、うちの店のどこが気に入ってくれてるのかとか、どの程度満足してもらえているのかまではわからない。あと、お客さんがどういう方なのか、ということも」

 僕も藤堂で働いていた時、「よく見るけど、あのお客さんてどんな人だろう?」と思ったことがある。
 厨房からフロアが少し見えたので、頻繁に来る客は自然と覚えていた。

 週末ごとにドレスアップして一人で食べに来る中年女性、年の離れた美しい女性を伴ってくる高齢男性(親子ではないようだった)、帽子を深くかぶったまま食事をする若い男性、無言で食事をする黒いスーツ姿の三人の男たち、などなど。

 気にはなっても、彼らが何者であったのかは永遠の謎のままだ。藤堂では客に気軽に話しかけることは不可能だったから。
 でもここは違う。
 気になったことは、失礼にならない程度に触れる。相手もそれを待っていることがある。

「オープン当時からずっと通ってくれている近所の男性がいたんです。一人暮らしの中年男性で、道で会えば挨拶するぐらいの関係でした。でもね、二年ぐらいたった時、ぱたりと来なくなったんです」

 どうしたんだろう、と陽さんはあれこれ想像した。
 引っ越しをしたのかもしれないし、体調を崩して来られなくなったのかもしれない。

「でも、ある日、知り合いの店でばったりそのお客さんと会ったんです。相手は僕に気づかないふりをしていたから、僕も挨拶は控えました。でも、気まずそうな顔つきを見て、気づいたんです。そっか、ただ単にうちの店にはもう来る気になれなくなったんだなって」

 陽太さんは自分が傷ついていることに驚いた。
 無意識のうちに自分が一番傷つく理由を排除していたのだった。

「別にお客さんに飽きられることはよくあることだし、趣味嗜好が変わることも人間だからあります。僕だってありますからね。単純に新しいものに興味が移ることも。悲しい理由で来られなくなったんじゃないなら、それでいいじゃないかと思おうとしました。でも、なんだろう。なんだかもやもやしてしまって……」

 石川は少し驚いたような目で陽太さんを見ている。初めて聞く話なのかもしれない。

「たぶん、二年も自分の料理を食べに来てくれた相手と、なんの関係も築けないまま終わってしまったことが、悲しかったのかもしれないですね。こちらからもう一歩踏み出して、料理以外のことも少し話せていたら、なにか違ったのかなって。相手が(もうこの店には行かなくていいかな)と思ったら、それで終わり。それじゃあやっぱり寂しいですよ」

 石川は僕をちらっと見て、少し困惑したように微笑んだ。それから、陽太さんの背中に手をおいて、そっと顔を覗き込む。

「お兄ちゃん、酔ったんじゃない? 気分悪くない?」
「気分はいいよ。ただ体が熱いかな……ちょっと」
「すみません、先輩。お水のおかわり、いただけますか?」
「もちろん。ちょっと待って」

 ところが、新しい水を出したときには既に陽太さんはカウンターに突っ伏していた。小さな寝息が聞こえてくる。

「すみません」

 小声で石川がすまなそうに謝る。
 僕は首を横に振った。

「大丈夫だけど、陽太さん、お酒弱かった?」
「そんなことはないんですけど……最近ちょっと忙しかったので、疲れてたのかもしれません」
「そっか。少し寝たほうが酔いもさめるかもね」

 叔父さんはふわーあとあくびをかみ殺した。

「眠気がうつった。あっちでちょっと横になっててもいい?」
「いいですよ」

 叔父さんがのろのろと奥の部屋に引き上げていくのを石川はそっと見送る。

「ほんとゆるいお店でしょ」

 僕の言葉に彼女は微笑んだ。

「なんか落ち着きます。こういう雰囲気だから兄も安心して酔っぱらえたのかもしれません。あんな風に話すなんて、意外でした」
「陽太さん、ほんとにいいひとだね。自慢の兄でしょ?」
「そうですね。兄がいなかったら、自分のお店を持つなんてずっと先のことでしたでしょうし……私は幸運です」
「石川の力も大きいよ。二人なら心強いし、なにより相談相手がいるってのが大きいよね」
「そこに先輩の力も加えていただいたら無敵なんですけど」

 僕がただ微笑むと、石川もはにかんで俯いた。

「そうだ。まだお腹に余裕ある? グラタン作っておいたんだけど」
「え、本当に作ってくれたんですか」
「もちろん。この前グラタンの話を聞いて、作ってみたくなったんだよね」
「食べます、食べたいです。先輩のグラタン、絶対おいしいに決まってる」

 下準備しておいた大きなグラタンをオーブンに入れて焼き上げる。
 赤いグラタン皿は30㎝はあるだろう。大人四人で食べてもちょうどいいぐらいの大きさだ。

「いい匂い。チーズが焦げる匂いって大好きなんです」
「僕も。ワインでも飲む?」
「じゃあ、ちょっとだけ」
「白ワインがいいかな」

 オーブンの中を覗くと、グラタンの表面がふつふつと踊るように盛り上がっている。どんどん焼き目がついてきた。
 冷えた白ワインを開けて、居酒屋の普通のグラスに注ぐ。

「ごめん。しゃれたグラスがないもんで」
「かまいませんよ。気取らないグラスで飲むのがまたいいじゃないですか」

 石川は上目遣いで僕をじっと見た。

「なんかロマンチックですね」
「どこが」
「全部です。とても特別な感じがします」

 なんと返せばいいかわからず、沈黙が続いた。
 咳払いをしてオーブンをチェックする。
 いい感じだ。

「できたよ」

 グラタン皿をオーブンからそっと取り出すと、石川は腰を浮かせて身を乗り出した。

「めちゃめちゃおいしそう。海老入ってます?」
「入れたよ。石川は海老好きだもんな」
「覚えててくれたんだ……」

 大きめのスプーンでとろりとしたグラタンを皿に盛り付ける。

「こんぐらいでいいかな……もっと食べられそうだったらおかわりして」
「ありがとうございます。グラタンって火傷しがちですよね」
「ふうふうして食べな」

 はい、とはにかみながら石川が皿を受け取る。
 僕も自分用に皿に盛り、高めのスツールに腰をおろした。

「乾杯しましょ」

 石川がワインのグラスを軽く掲げる。

「お母さんのしゃばしゃばグラタンに乾杯」

 僕の言葉に彼女はあははと笑いながら、グラスをカチンと合わせた。
 ワインを一口飲んで、グラタンをぱくり。
 うん、なかなかよくできた。
 マカロニもぷりっといい食感だ。

「おいしい」

 石川の口にもあったようで、満面の笑みを浮かべている。ぱくぱくと立て続けにスプーンを口に運んでいるのを見てほっとした。
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