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3 石川のグラタン
3 石川のグラタン(2)
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僕はフォークをおいて、水を一口飲んだ。
やはりそこを避けては通れない。
専門学校を出た後、僕はフランスに渡った。
有名レストランになんとか潜り込み、文字通り料理漬けの毎日を三年間送った。
帰国してから働きはじめたのが老舗レストランの藤堂だ。
フランスとはまた違う、緊張感のある職場の雰囲気にはじめは戸惑いながらも、これもまた修行だと日々料理に励んだ。
そうして二十四歳の時、世界的な料理のコンクールで幸運にも僕は優勝することができた。
腕のいい料理人は星の数ほどいるから、たまたま運とタイミングがよかっただけだ。
それでも、取材を受けたり、テレビや雑誌などに取り上げられたりした。
そのころからだ。職場の先輩たちからの風当たりが強くなったのは。
「調子にのるなよ」
そんな言葉を直接投げかけられたこともある。
藤堂は長年勤めている料理人がほとんどで、働きはじめて間もない僕のような人間が、世間でもてはやされるのが面白くなかったのだろう。
他人の失敗をなすりつけられたり、情報を与えられずにミスしたりすることが日常的になっていった。
小さい嫌がらせならもっとある。
同年代や年下の同僚たちとはうまくやっていたのだけれど、彼らにも先輩たちからの圧力があったのか、最終的には店で孤立するようになってしまった。
最終的にはオーナーに呼び出されて、「周りとうまくいっていないようだね」と心配されてしまった。
ここまで来ると、僕もこのままではいけないと思うようになった。
「ご迷惑をおかけしているようなので辞めます」
辞めることになって、正直僕はほっとしていた。
オーナーは、君に落ち度はないのだから辞める必要はない、と引き止めてくれた。
ただ、ここでは居心地が悪いだろううから地方の別の店で働かないかと打診された。
でも僕は断り、辞表を出したというわけだ。
「同じ系列の店だから、やりやすくなる保証はなかったしね」
石川は驚いたのかしばらく何も言わず、ただ眉をひそめていた。
「……そんな理由だったなんて。残念ですね」
「もう終わったことだから」
彼女は首を横に振った。
「先輩にはぜひうちの店で思う存分腕を振るってもらいたいです」
僕はアクアパッツァを再び食べはじめたけれど、彼女は少し食欲がなくなったようだった。水ばかり何度も飲んでいる。
そんな彼女を見て僕は苦笑した。
「石川がそんな顔することないよ。料理が冷めたらだいなしになるから食べよう」
「……はい」
彼女は再び食べはじめたが、まだなにか聞きたいことがあるような目で、ちらちら僕のことを見ていた。
「このへんで評判のお菓子ってある? 叔父にお土産に買っていこうかと思うんだけど」
「叔父さん? ああ、いまお手伝いしている居酒屋の」
「うん。酒飲みだけど甘党でもあるんだ」
石川は小さくうなずきながら、僕をじっと見た。
「叔父さんはずっとおひとりでお店をやられてたんですか?」
「そうだよ。だから僕が職を見つけても問題ないって言ってる」
石川は何度かうなずいてから、また思案気な顔つきをした。
デザートとコーヒーが運ばれてくると、彼女はやっと明るい表情になった。
「ここの焼き菓子なんてどうでしょう。このあたりでは評判ですし、とてもおいしいんですよ。マロンの粒がごろごろ入っているマドレーヌがおすすめです」
「へえ、おいしそう。じゃあ、それを買って帰るよ」
デザートのレアチーズケーキはとてもおいしかった。
でもランチ二回はさすがに満腹になる。ウエストがきつくて、何度もおなかに手がいった。
「あの、先輩」
チーズケーキを食べ終えた石川は、少し焦ったように口を開いた。
「先輩はまだ結婚とかされないですか?」
「結婚?」
意外な質問に驚いたが、即答した。
「しないよ。相手がいないもん」
石川もなぜか驚いたような顔をしている。
「え? 石川は結婚したの?」
苗字は変わってないようだけど、と思いながらたずねると、彼女も即答した。
「してません。私も相手はいません」
彼女は笑い、僕もつられて笑った。
「いい雰囲気のところごめんなさい」
いきなりバリトンのいい声が聞こえたかと思うと、髭をはやした大男がテーブルのすぐ横にずいと現れた。
「お兄ちゃん」
お兄ちゃんと石川に呼ばれた男は、満面の笑みを浮かべながら頭を下げた。
「はじめまして。月菜の兄の陽太(ようた)です」
彼は石川の隣の椅子にすっと腰をおろした。
座ってもでかい。190㎝ぐらいあるかもしれない。
顎にはもわもわと髭が生えているが、つぶらな目は人懐こくて可愛い。
少し長い髪はゴムですっきりとまとめられている。
石川と同じく色白なので、爽やかな青シャツがよく似合っていた。
「一応、今日ここで先輩と会うことを伝えておいたんです」
石川は言い訳するように説明した。
「はじめまして、斎藤新です」
僕は慌てて自己紹介をして、これから長い付き合いになるかもしれない陽太さんに頭を下げた。
「いやいや、そんな堅苦しいのはなしで」
陽太さんは豪快に笑い、大きな手を顔の前でぶんぶん振る。
感じのいいひとでよかった。
前の職場のこともあるし、お兄さんに気に入ってもらえるか、内心心配していた。
「今日は比較的お客が少なかったんで、店は同僚にまかせてきました。うちはそういうのけっこう融通がつくようにしてるんです」
陽太さんは大きな声でそう話すと、やって来た店員にコーヒーを注文した。昼食は店で軽くすましてきたらしい。
やはりそこを避けては通れない。
専門学校を出た後、僕はフランスに渡った。
有名レストランになんとか潜り込み、文字通り料理漬けの毎日を三年間送った。
帰国してから働きはじめたのが老舗レストランの藤堂だ。
フランスとはまた違う、緊張感のある職場の雰囲気にはじめは戸惑いながらも、これもまた修行だと日々料理に励んだ。
そうして二十四歳の時、世界的な料理のコンクールで幸運にも僕は優勝することができた。
腕のいい料理人は星の数ほどいるから、たまたま運とタイミングがよかっただけだ。
それでも、取材を受けたり、テレビや雑誌などに取り上げられたりした。
そのころからだ。職場の先輩たちからの風当たりが強くなったのは。
「調子にのるなよ」
そんな言葉を直接投げかけられたこともある。
藤堂は長年勤めている料理人がほとんどで、働きはじめて間もない僕のような人間が、世間でもてはやされるのが面白くなかったのだろう。
他人の失敗をなすりつけられたり、情報を与えられずにミスしたりすることが日常的になっていった。
小さい嫌がらせならもっとある。
同年代や年下の同僚たちとはうまくやっていたのだけれど、彼らにも先輩たちからの圧力があったのか、最終的には店で孤立するようになってしまった。
最終的にはオーナーに呼び出されて、「周りとうまくいっていないようだね」と心配されてしまった。
ここまで来ると、僕もこのままではいけないと思うようになった。
「ご迷惑をおかけしているようなので辞めます」
辞めることになって、正直僕はほっとしていた。
オーナーは、君に落ち度はないのだから辞める必要はない、と引き止めてくれた。
ただ、ここでは居心地が悪いだろううから地方の別の店で働かないかと打診された。
でも僕は断り、辞表を出したというわけだ。
「同じ系列の店だから、やりやすくなる保証はなかったしね」
石川は驚いたのかしばらく何も言わず、ただ眉をひそめていた。
「……そんな理由だったなんて。残念ですね」
「もう終わったことだから」
彼女は首を横に振った。
「先輩にはぜひうちの店で思う存分腕を振るってもらいたいです」
僕はアクアパッツァを再び食べはじめたけれど、彼女は少し食欲がなくなったようだった。水ばかり何度も飲んでいる。
そんな彼女を見て僕は苦笑した。
「石川がそんな顔することないよ。料理が冷めたらだいなしになるから食べよう」
「……はい」
彼女は再び食べはじめたが、まだなにか聞きたいことがあるような目で、ちらちら僕のことを見ていた。
「このへんで評判のお菓子ってある? 叔父にお土産に買っていこうかと思うんだけど」
「叔父さん? ああ、いまお手伝いしている居酒屋の」
「うん。酒飲みだけど甘党でもあるんだ」
石川は小さくうなずきながら、僕をじっと見た。
「叔父さんはずっとおひとりでお店をやられてたんですか?」
「そうだよ。だから僕が職を見つけても問題ないって言ってる」
石川は何度かうなずいてから、また思案気な顔つきをした。
デザートとコーヒーが運ばれてくると、彼女はやっと明るい表情になった。
「ここの焼き菓子なんてどうでしょう。このあたりでは評判ですし、とてもおいしいんですよ。マロンの粒がごろごろ入っているマドレーヌがおすすめです」
「へえ、おいしそう。じゃあ、それを買って帰るよ」
デザートのレアチーズケーキはとてもおいしかった。
でもランチ二回はさすがに満腹になる。ウエストがきつくて、何度もおなかに手がいった。
「あの、先輩」
チーズケーキを食べ終えた石川は、少し焦ったように口を開いた。
「先輩はまだ結婚とかされないですか?」
「結婚?」
意外な質問に驚いたが、即答した。
「しないよ。相手がいないもん」
石川もなぜか驚いたような顔をしている。
「え? 石川は結婚したの?」
苗字は変わってないようだけど、と思いながらたずねると、彼女も即答した。
「してません。私も相手はいません」
彼女は笑い、僕もつられて笑った。
「いい雰囲気のところごめんなさい」
いきなりバリトンのいい声が聞こえたかと思うと、髭をはやした大男がテーブルのすぐ横にずいと現れた。
「お兄ちゃん」
お兄ちゃんと石川に呼ばれた男は、満面の笑みを浮かべながら頭を下げた。
「はじめまして。月菜の兄の陽太(ようた)です」
彼は石川の隣の椅子にすっと腰をおろした。
座ってもでかい。190㎝ぐらいあるかもしれない。
顎にはもわもわと髭が生えているが、つぶらな目は人懐こくて可愛い。
少し長い髪はゴムですっきりとまとめられている。
石川と同じく色白なので、爽やかな青シャツがよく似合っていた。
「一応、今日ここで先輩と会うことを伝えておいたんです」
石川は言い訳するように説明した。
「はじめまして、斎藤新です」
僕は慌てて自己紹介をして、これから長い付き合いになるかもしれない陽太さんに頭を下げた。
「いやいや、そんな堅苦しいのはなしで」
陽太さんは豪快に笑い、大きな手を顔の前でぶんぶん振る。
感じのいいひとでよかった。
前の職場のこともあるし、お兄さんに気に入ってもらえるか、内心心配していた。
「今日は比較的お客が少なかったんで、店は同僚にまかせてきました。うちはそういうのけっこう融通がつくようにしてるんです」
陽太さんは大きな声でそう話すと、やって来た店員にコーヒーを注文した。昼食は店で軽くすましてきたらしい。
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