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2 令子さんの袋麺
2 令子さんの袋麺(2)
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翌週、令子さんはひょこっと、入口から顔を覗かせた。
「貸し切りなの?」
叔父さんは、そうだよ、と笑った。
「令子さんの貸し切りだよ」
叔父さんの言葉に、令子さんが目を丸くする。
「どういういこと?」
僕らは先週の迷惑客の一件を詫びた。
「謝らないでよ。気にしてないから」と彼女は笑う。
「今日は好きなもの好きなだけ飲み食いしてってよ。店のおごりだから」と叔父さん。
「気を使わなくていいのに。でも……ラッキー」
からから笑う令子さんを見て、僕はほっとした。
嫌な目にあったから、しばらく店には来ないかもしれないと不安だった。
叔父さんも同じくほっとしたのか、うまそうに酒を飲んでいる。
僕が少しだけ入口の戸を開けると、春の夕暮れの風が吹き込んできた。
だんだん夜になっても気温が下がらなくなった。
桜も咲いて散って、過ごしやすい日が続いている。
「ゴマ豆腐作ってみたんでよかったら」
「うわ、嬉しい」
彼女が注文したメインは大好物の豚カツ。それに山菜とサツマイモの炊き込みご飯と、あさりの味噌汁も添える。
「私、小さな車買ったの。東京だし車は必要ないと思ってたけど、家族になにかあったときに、車があるとやっぱり便利でしょ。それに気分転換に一人でドライブもできるし。あと、念願のキャンプもしやすいかなって」
令子さんのいつになくはしゃいだ様子に、僕の頬もゆるむ。
「キャンプ、いいねえ。焚火したいなぁ」
叔父さんはマイムマイムのメロディーを口ずさみはじめた。キャンプファイヤーを囲んで踊ったのだろうか。
「おかさんや新君はキャンプとかする?」
「いんや。俺はバリバリのインドア&ドランカーだから」
叔父さんはなぜか胸をはる。
「ただの飲んだくれでしょ」
僕は叔父さんに突っ込みつつ、僕もしません、と答えた。
「でも、興味はあるんですよね。ソロキャンプとか流行ってるでしょ」
暇な時にそういう動画を見ることもある。
「ああ、最近よく聞くよね。でも、正直、女だけのキャンプは少し不安でもあるんだ。小さい子もいるし」
「ああ、そうだよな……」
酔客に令子さんがからまれた時のことを思い出したのか、叔父さんは顔をしかめた。
「令子ちゃん可愛いから心配だよ」
「可愛いって年じゃないけどね」
「そうだ、新。令子ちゃんの用心棒でもやったら? いや……お前じゃ無理か。腕っぷし弱そうだもんな」
二人から視線を向けられて、僕はむっとした。
そりゃ、僕の筋肉は料理でついただけの微々たるものだけどさ。
運動は苦手ではないが、いまは特になにもしていない。喧嘩はほとんどしたことがない。だいたい腕力でどうこうするのは好きじゃない。
だが確かに叔父さんの言う通り、用心棒には役不足だ。
「そんなことないでしょ。新君は男なんだし、いてくれるだけで安心感があると思うな」
意外な令子さんの言葉に、僕はどんな顔をしていいのかわからなくなった。
喜ぶべきか、そんなことはないと謙遜するべきか。
叔父さんがにやついた顔で僕を見ていることに気づいて、慌てて無表情を作った。
「だってよ、新君。じゃあ、いつかみんなで一緒にキャンプでもしたいもんだね」
叔父さんの言葉に令子さんはにっこり笑う。
「それ、楽しそう。日帰りでもいいし」
令子さん家族とのキャンプか。
思わぬ展開に戸惑いつつ、僕は無表情のままソラマメを茹でて、令子さんに出した。
彼女は今年初のソラマメだと言って大喜びしてくれた。
玲子さんはなんでもおいしそうに食べてくれるから作り甲斐がある。しかも食べっぷりがいい。彼女が食べ残したことは一度もない。
それにお酒がかなり強いとみた。ビールを数杯飲んでも顔色が変わらない。お酒はたしなむ程度と決めているようだから、飲み過ぎることはないけれど。
「そうそう。このまえの佐藤さんのおでんの話、良かったなあ」
令子さんは佐藤さんの母親が作ったおでんの話にいたく感動していた。
「それで私も、過去にまずいご飯をなにか食べたっけなあって思い返してみたの」
彼女は頬杖をついて宙を見つめた。
「それでパッと頭に思い浮かんだのが、父親が小さい頃作ってくれた袋麺だったんだよね」
「あれってたまに食うとうまいよなぁ」
ジャンクフード好きな叔父さんがにっと笑う。
「というかね、私、カップラーメンが昔、苦手だったの。なんか人工的な味がしておいしくないなぁって」
「まあ、わかる。俺が子供ん時は正直まずいのもあった」
叔父さんはこくこくうなずく。
「でも、袋麺は別。むしろ、けっこう好きだったんだ。たまにお父さんが作ってくれたの」
「具なし?」
「具はなかったなあ」
「俺は卵は落とすけどね」
鍋から直接ずるずる食べる叔父さんの姿が目に浮かぶ。
「小学校低学年ぐらいの記憶だと思うけど、お父さんが作ってる横で私が粉末スープの素を舐めてるの。味が濃くておいしくて。いま考えると、よく許してもらえたなって思う。もし娘が同じことしてたらやめさせるもん」
僕らはみんなで笑った。
即席麺を作る父親の手元を覗きこむ小さな令子さん。
彼女のお父さんはきっとやさしい人だったのだろう。
「お父さんが作った袋麺の味は正直覚えてないんだけど、その粉末スープの素の味は少しだけ覚えてる。不思議だな。記憶って」
彼女は豚カツにたっぷりソースをかけた。
「令子ちゃんて、ソースや醤油は多めにかけるよね。味が濃いのが好きなのは、子供の頃から変わらないわけだ」
叔父さんの指摘に令子さんは恥ずかしそうにはにかんだ。
「ぼんやりした味が苦手なの。そうそう、小さい時はタラコのつまみぐいもよくしてたよ。朝、母親がタラコを焼くんだけど、食べきれなかった分を別の皿によけておくわけ。それを私はもぐもぐ全部食べちゃうの」
「焼きタラコっておいしいですからね」
僕がそう言うと、「でしょ?」と令子さんは身を乗り出した。
「タラコは今でも大好き。でも、体のことを考えて、いつもの食事は塩分控えめを意識するようになったよ。味噌も醤油も家では減塩を使ってるし」
「ほう。じゃあ、その反動でここではたっぷりかけちゃうわけだ、ソースを」
「まあ、そのぐらいは許して欲しい」
彼女は豚カツにカラシもたっぷりつけた。
それをほおばり、炊き込みご飯も口にぎゅっと押し込む。
「健康には気を付けないとね。私にもし何かあったら、母親と娘がどうなることやら。最近は野菜にもドレッシングかけないでそのまま食べてるんだから」
叔父さんは苦笑した。
「ドレッシングぐらいかけたって大丈夫だよ。ノンオイルとかもあるだろうに」
「外でサラダ食べる時はドレッシングかけてるよ。家ではってこと」
かけるで思い出したけどさ、と叔父さんは顔をしかめた。
「このまえ、家でコショウを野菜いためにかけたら、大変な目にあったよ」
コショウ? と僕と令子さん。
「コショウの入れ物の蓋が開いてのかな。虫がびっしり中で繁殖してたんだよ」
その光景を思い出したかのように、叔父さんは顔をゆがめる。
「コショウも虫がつくのな。香辛料だから平気かと思ってた」
「想像しただけで鳥肌立っちゃった」
令子さんは身を縮めている。
「野菜いためにその虫入っちゃったんですか?」
どんな虫なんだろう。
「入ったけどつまんで捨てたよ。最初、コショウが固まったやつかと思ったんだけどさ……」
「いつからいたんでしょうね、その虫」
「それは言うな」
ぱちんと両手を叩いて、叔父さんは話を終わらせようとした。
自分から話し出したのに。
令子さんはすべてきれいにたいらげ、お酒も楽しむと、満足そうに帰っていった。
「令子ちゃんのお父さんの袋麺か」
叔父さんのつぶやきに、僕は皿を洗いながら振り返った。
「袋麺買っときましょうか?」
「粉末スープの素、舐めたくなっちゃった」
「実は僕もです。じゃあいま、買ってきますよ」
今日はもう客が来ないかもしれない。
なにしろ(貸し切り)と貼り紙をしているのだから。
「俺が行くよ。少しぐらい歩かないとな。新も適当に休んでていいよ」
そう言うと、ふらっと叔父さんは店を出ていった。
一人になった店でふと不安にかられる。
あんなことがあったとはいえ、貸し切りの貼り紙をいつまでも貼っておいていいものだろうか。
それとも叔父さんはこの店を辞めてしまうつもりなんだろうか。
元々、風来坊みたいなところがある叔父さんは、若い頃にふらりと家を出たまま数年間、居所がわからなかったことがある。
人生のほとんどを、根無し草のような生活で送ってきた。
実家に戻ってきて、この店をはじめたのは中年になってからのことだ。
叔父さんの人柄と近所のやさしい人たちの応援もあって、なんとかいままでやってこられたようだけど、叔父自身がこの店に執着しているようには見えない。
なにか気に食わないことがあれば、簡単に手放してしまいかねない。
とはいえ、この店がなくなるようなことがあれば、叔父さんは困るだろう。人の下で働けるよう性分ではないのだから。
僕は少し考えてから表に出て、入口の戸に貼った(貸し切り)の貼り紙をはがした。
しばらくして、サラリーマンの二人連れが来店した。
そのあと常連さんも二人来て、店は久しぶりに賑わいを取り戻した。
叔父さんは一時間ほどして戻ってきたが、表の貼り紙がなくなっていることには触れなかった。
常連さんといつも通り楽しく話しながら、酒を飲んで、僕をたまに手伝ってくれた。
サラリーマンたちは近くの会社に勤めているらしく、すぐそこの煙草屋でこの店をすすめられたらしい。煙草屋のおじさんはうちの常連さんだ。
彼らに煮物をサービスするととても喜んでくれた。
会計の時には、「おいしいのに安いね。また来るよ」と声をかけてくれた。
そのあとも、客は店を閉めるまで途切れなかった。
久しぶりに売り上げもよく、叔父さんも上機嫌になった。
剥がした貼り紙は捨てずにおいたのだが、いつの間にかなくなっていた。
*
「貸し切りなの?」
叔父さんは、そうだよ、と笑った。
「令子さんの貸し切りだよ」
叔父さんの言葉に、令子さんが目を丸くする。
「どういういこと?」
僕らは先週の迷惑客の一件を詫びた。
「謝らないでよ。気にしてないから」と彼女は笑う。
「今日は好きなもの好きなだけ飲み食いしてってよ。店のおごりだから」と叔父さん。
「気を使わなくていいのに。でも……ラッキー」
からから笑う令子さんを見て、僕はほっとした。
嫌な目にあったから、しばらく店には来ないかもしれないと不安だった。
叔父さんも同じくほっとしたのか、うまそうに酒を飲んでいる。
僕が少しだけ入口の戸を開けると、春の夕暮れの風が吹き込んできた。
だんだん夜になっても気温が下がらなくなった。
桜も咲いて散って、過ごしやすい日が続いている。
「ゴマ豆腐作ってみたんでよかったら」
「うわ、嬉しい」
彼女が注文したメインは大好物の豚カツ。それに山菜とサツマイモの炊き込みご飯と、あさりの味噌汁も添える。
「私、小さな車買ったの。東京だし車は必要ないと思ってたけど、家族になにかあったときに、車があるとやっぱり便利でしょ。それに気分転換に一人でドライブもできるし。あと、念願のキャンプもしやすいかなって」
令子さんのいつになくはしゃいだ様子に、僕の頬もゆるむ。
「キャンプ、いいねえ。焚火したいなぁ」
叔父さんはマイムマイムのメロディーを口ずさみはじめた。キャンプファイヤーを囲んで踊ったのだろうか。
「おかさんや新君はキャンプとかする?」
「いんや。俺はバリバリのインドア&ドランカーだから」
叔父さんはなぜか胸をはる。
「ただの飲んだくれでしょ」
僕は叔父さんに突っ込みつつ、僕もしません、と答えた。
「でも、興味はあるんですよね。ソロキャンプとか流行ってるでしょ」
暇な時にそういう動画を見ることもある。
「ああ、最近よく聞くよね。でも、正直、女だけのキャンプは少し不安でもあるんだ。小さい子もいるし」
「ああ、そうだよな……」
酔客に令子さんがからまれた時のことを思い出したのか、叔父さんは顔をしかめた。
「令子ちゃん可愛いから心配だよ」
「可愛いって年じゃないけどね」
「そうだ、新。令子ちゃんの用心棒でもやったら? いや……お前じゃ無理か。腕っぷし弱そうだもんな」
二人から視線を向けられて、僕はむっとした。
そりゃ、僕の筋肉は料理でついただけの微々たるものだけどさ。
運動は苦手ではないが、いまは特になにもしていない。喧嘩はほとんどしたことがない。だいたい腕力でどうこうするのは好きじゃない。
だが確かに叔父さんの言う通り、用心棒には役不足だ。
「そんなことないでしょ。新君は男なんだし、いてくれるだけで安心感があると思うな」
意外な令子さんの言葉に、僕はどんな顔をしていいのかわからなくなった。
喜ぶべきか、そんなことはないと謙遜するべきか。
叔父さんがにやついた顔で僕を見ていることに気づいて、慌てて無表情を作った。
「だってよ、新君。じゃあ、いつかみんなで一緒にキャンプでもしたいもんだね」
叔父さんの言葉に令子さんはにっこり笑う。
「それ、楽しそう。日帰りでもいいし」
令子さん家族とのキャンプか。
思わぬ展開に戸惑いつつ、僕は無表情のままソラマメを茹でて、令子さんに出した。
彼女は今年初のソラマメだと言って大喜びしてくれた。
玲子さんはなんでもおいしそうに食べてくれるから作り甲斐がある。しかも食べっぷりがいい。彼女が食べ残したことは一度もない。
それにお酒がかなり強いとみた。ビールを数杯飲んでも顔色が変わらない。お酒はたしなむ程度と決めているようだから、飲み過ぎることはないけれど。
「そうそう。このまえの佐藤さんのおでんの話、良かったなあ」
令子さんは佐藤さんの母親が作ったおでんの話にいたく感動していた。
「それで私も、過去にまずいご飯をなにか食べたっけなあって思い返してみたの」
彼女は頬杖をついて宙を見つめた。
「それでパッと頭に思い浮かんだのが、父親が小さい頃作ってくれた袋麺だったんだよね」
「あれってたまに食うとうまいよなぁ」
ジャンクフード好きな叔父さんがにっと笑う。
「というかね、私、カップラーメンが昔、苦手だったの。なんか人工的な味がしておいしくないなぁって」
「まあ、わかる。俺が子供ん時は正直まずいのもあった」
叔父さんはこくこくうなずく。
「でも、袋麺は別。むしろ、けっこう好きだったんだ。たまにお父さんが作ってくれたの」
「具なし?」
「具はなかったなあ」
「俺は卵は落とすけどね」
鍋から直接ずるずる食べる叔父さんの姿が目に浮かぶ。
「小学校低学年ぐらいの記憶だと思うけど、お父さんが作ってる横で私が粉末スープの素を舐めてるの。味が濃くておいしくて。いま考えると、よく許してもらえたなって思う。もし娘が同じことしてたらやめさせるもん」
僕らはみんなで笑った。
即席麺を作る父親の手元を覗きこむ小さな令子さん。
彼女のお父さんはきっとやさしい人だったのだろう。
「お父さんが作った袋麺の味は正直覚えてないんだけど、その粉末スープの素の味は少しだけ覚えてる。不思議だな。記憶って」
彼女は豚カツにたっぷりソースをかけた。
「令子ちゃんて、ソースや醤油は多めにかけるよね。味が濃いのが好きなのは、子供の頃から変わらないわけだ」
叔父さんの指摘に令子さんは恥ずかしそうにはにかんだ。
「ぼんやりした味が苦手なの。そうそう、小さい時はタラコのつまみぐいもよくしてたよ。朝、母親がタラコを焼くんだけど、食べきれなかった分を別の皿によけておくわけ。それを私はもぐもぐ全部食べちゃうの」
「焼きタラコっておいしいですからね」
僕がそう言うと、「でしょ?」と令子さんは身を乗り出した。
「タラコは今でも大好き。でも、体のことを考えて、いつもの食事は塩分控えめを意識するようになったよ。味噌も醤油も家では減塩を使ってるし」
「ほう。じゃあ、その反動でここではたっぷりかけちゃうわけだ、ソースを」
「まあ、そのぐらいは許して欲しい」
彼女は豚カツにカラシもたっぷりつけた。
それをほおばり、炊き込みご飯も口にぎゅっと押し込む。
「健康には気を付けないとね。私にもし何かあったら、母親と娘がどうなることやら。最近は野菜にもドレッシングかけないでそのまま食べてるんだから」
叔父さんは苦笑した。
「ドレッシングぐらいかけたって大丈夫だよ。ノンオイルとかもあるだろうに」
「外でサラダ食べる時はドレッシングかけてるよ。家ではってこと」
かけるで思い出したけどさ、と叔父さんは顔をしかめた。
「このまえ、家でコショウを野菜いためにかけたら、大変な目にあったよ」
コショウ? と僕と令子さん。
「コショウの入れ物の蓋が開いてのかな。虫がびっしり中で繁殖してたんだよ」
その光景を思い出したかのように、叔父さんは顔をゆがめる。
「コショウも虫がつくのな。香辛料だから平気かと思ってた」
「想像しただけで鳥肌立っちゃった」
令子さんは身を縮めている。
「野菜いためにその虫入っちゃったんですか?」
どんな虫なんだろう。
「入ったけどつまんで捨てたよ。最初、コショウが固まったやつかと思ったんだけどさ……」
「いつからいたんでしょうね、その虫」
「それは言うな」
ぱちんと両手を叩いて、叔父さんは話を終わらせようとした。
自分から話し出したのに。
令子さんはすべてきれいにたいらげ、お酒も楽しむと、満足そうに帰っていった。
「令子ちゃんのお父さんの袋麺か」
叔父さんのつぶやきに、僕は皿を洗いながら振り返った。
「袋麺買っときましょうか?」
「粉末スープの素、舐めたくなっちゃった」
「実は僕もです。じゃあいま、買ってきますよ」
今日はもう客が来ないかもしれない。
なにしろ(貸し切り)と貼り紙をしているのだから。
「俺が行くよ。少しぐらい歩かないとな。新も適当に休んでていいよ」
そう言うと、ふらっと叔父さんは店を出ていった。
一人になった店でふと不安にかられる。
あんなことがあったとはいえ、貸し切りの貼り紙をいつまでも貼っておいていいものだろうか。
それとも叔父さんはこの店を辞めてしまうつもりなんだろうか。
元々、風来坊みたいなところがある叔父さんは、若い頃にふらりと家を出たまま数年間、居所がわからなかったことがある。
人生のほとんどを、根無し草のような生活で送ってきた。
実家に戻ってきて、この店をはじめたのは中年になってからのことだ。
叔父さんの人柄と近所のやさしい人たちの応援もあって、なんとかいままでやってこられたようだけど、叔父自身がこの店に執着しているようには見えない。
なにか気に食わないことがあれば、簡単に手放してしまいかねない。
とはいえ、この店がなくなるようなことがあれば、叔父さんは困るだろう。人の下で働けるよう性分ではないのだから。
僕は少し考えてから表に出て、入口の戸に貼った(貸し切り)の貼り紙をはがした。
しばらくして、サラリーマンの二人連れが来店した。
そのあと常連さんも二人来て、店は久しぶりに賑わいを取り戻した。
叔父さんは一時間ほどして戻ってきたが、表の貼り紙がなくなっていることには触れなかった。
常連さんといつも通り楽しく話しながら、酒を飲んで、僕をたまに手伝ってくれた。
サラリーマンたちは近くの会社に勤めているらしく、すぐそこの煙草屋でこの店をすすめられたらしい。煙草屋のおじさんはうちの常連さんだ。
彼らに煮物をサービスするととても喜んでくれた。
会計の時には、「おいしいのに安いね。また来るよ」と声をかけてくれた。
そのあとも、客は店を閉めるまで途切れなかった。
久しぶりに売り上げもよく、叔父さんも上機嫌になった。
剥がした貼り紙は捨てずにおいたのだが、いつの間にかなくなっていた。
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