4 / 11
第4話 「 真実の横顔 」
しおりを挟む
■■プロローグ
「こ……ここに来たのって、やっぱ間違いだったかも」
気質に似合った、明るく陽気な色の髪、と友人達に褒められた長めのボブを振り乱し、小鳥は今日も試練に耐えて生きていた。住み込みメイドという名目で、この館で働き始めてから、既に数ヶ月が経つ。
牛乳を床にひと垂らし。古布を使って丹念に磨き上げていく……というのが、本日の小鳥に課せられた使命である。メイドなのだから、掃除をするのは当たり前だが、何分、広い館であった。床を這いずる小鳥にとって、長い廊下の終点は地平線の彼方に見える。
「どうです? 終わりましたか?」
あ、試練野郎! と小鳥は小さくつぶやいた。黒く長い髪の毛を肩の辺りで縛った、長身の青年がエプロン姿で近づいてくる。この館の年若い主のお世話係であり、コック長であり、接客係であり、そして小鳥の教育係をも兼ねる。要するに超・万能執事であるこの男は、その名前を朱里といった。
「そんなに早く終わるわけナイでしょう? こーんなに長い廊下なのに」
「しかし、私は同面積の1階の床を既に拭き終えてしまいましたが?」
「幅広モップを使ってやれば、そりゃあ、雑巾のわたしより早いわよ」
「またまた、そんな言い逃れを」
「大体、何でモップがたった1本しかナイのよ? ココは!?」
「何時なんどき辞めるかも分からないメイドのためにモップを揃えるなど、出費のムダというものです」
「貴方、わたしを追い出したいんでしょう? 白野様と二人っきりで仲良く暮らしたいんでしょう? そーでしょう?」
「当たり前です」
……ああ、許されるものならば、この澄まし顔の執事の顔に、牛乳臭い雑巾を投げつけてやりたいっっ!
「私も困っているのですよ。すぐに逃げ出すだろうと思っていたのに、存外に貴女が頑張るので。……どうすれば追い出せますかねぇ?」
「何でそれをわたしに訊くの!? ってゆーか、この不況下ご時世における、裸一貫の女の意地を舐めるんじゃナイわよ!」
威勢良く啖呵が切られたところで、ドアのチャイムが来客を告げた。
「おや? こんな早朝からお客様とは、珍しいこともあるものです」
エプロンを手早く外し、モップといっしょに小鳥に渡すと、
「では、この続きはまた後日」
そんなオソロシイ台詞を残して、朱里は立ち去って行くのだった。
■■1
「こ……ここにに来たのって、やっぱ正解だったかも」
小鳥は胸をときめかせながら、お茶の用意を整えている。なんと館を訪ねてきたのは、演技派女優として有名な、ナタリー・サンクレアだったのだ。
知性的な美貌と愛くるしい眼差しの対比が印象的で、老若男女を問わず、絶大な人気を誇るこの女優は、その幼なじみであり、且つ、彼女が世に出るきっかけを作った、これまた高名なる映画監督と数年前に電撃結婚をした。
二人は当代一のベスト・カップルと、周囲から賞賛され祝福された。その後の暮らしぶりも支援者の期待を裏切らぬ<おしどり夫婦>ぶりで、デビュー当時から彼女のファンだった小鳥は、更に更に熱烈なファンとなり、彼ら夫婦の特集記事が載る雑誌を集めたり、映画館に通ってみたりしたものなのだ。そう……半年前、監督が不慮の事故で亡くなるまでは。
葬儀の日、喪の色のワンピースに身を包んだ、その悲痛な表情を最後に、ナタリーはその後一切、マスコミの前に姿を見せなくなっていた。帽子飾りの黒いレース越しにも感じる、最愛の夫を失った妻の哀しみ。小鳥は訃報記事に添えられた写真を見て、貰い涙にくれたものだ。
早く哀しみから立ち直り、再び銀幕の中に戻ってきて欲しい。あの愛くるしい瞳で、また一世を風靡して、スポットライトの中で輝いて欲しい。多くのファンがそう願い、小鳥もそんな中の一人だった。
そのナタリー・サンクレアの姿を、奇しくもこんな場所で、間近に見ることが出来るだなんて……
「わたし、ココで働いてて良かったよ~」
もう、陰険執事の攻撃にもメゲない! 小鳥は誓いも新たにそう思うのだった。
「あ、そうだ! サインって貰えないかしら? やっぱ、ダメかなぁ~? で、でもでも若しかしてチャンスがあるかもしれないしー……」 色紙を用意しておこう。あ、あとペンも当然。
大急ぎで2階の私室に駆け上がり、目当ての品を捜していると、
「小鳥ちゃん?」 穏やかな声に呼び止められた。
「何してるの? 今、誰か下に来てる?」
この館の主、白野がそこに立っていた。
■
「ナタリーです。ナタリー・サンクレアが来てるんですよ!」
勢い込んで話す小鳥に気圧されたように、白野はその青く澄んだ瞳を瞬かせた。線の細い少女めいた顔立ちと、それを縁取る栗色の巻き毛。まるで白馬の王子様といった雰囲気のこの少年は、小鳥をこの館に雇い入れた当の本人であったりする。
小鳥がここにやって来るまで。この広い屋敷には主の白野と執事の朱里。この二人だけが住んでいた。そして、白野は日がな一日、部屋に籠もって絵を描き続け、朱里はただ一人の主人の世話に甲斐甲斐しく明け暮れる。時折、絵を求めて訪れる客がある以外、二人は淡々とした日々を送り過ごして来たようだ。現在、その中に小鳥が仲間入りしたからと言って、ほとんどその生活に変りはない様子だが……。
それでも、彼女が入ったことで、この邸に幾ばくかの活気は加わったように見える。朱里と小鳥の息詰まる攻防を「活気」と呼んで良いならば、だが。
召使い二人の戦いに、気づいているのかいないのか……。春風駘蕩としたこの屋の主は、いつも穏やかに微笑んでいる。そして、それはこの館の<別名>に相応しく、不可思議な魅力を持ったアルカイック・スマイルなのだった。
そう。この館は巷でこう呼ばれている。
不思議の館、【幸福画廊】と。
■
「サンクレア?」
「そう、あの女優の! 銀幕スターまでこの画廊の絵を求めて来るんだなんて、スゴイです。白野様、わたし尊敬しちゃいます~! ……ん、あれれ?」
ちょっと待てよ、と小鳥は思った。画廊の客であるならば、例えアポイントのない者でも、当然、朱里は主である白野にその旨を取り次ぐ筈である。しかし、そんな様子もなく、朱里は一人で彼女と応対している。
ま、まさか、あの陰険執事・朱里の個人的な知り合いだったとか?
超最悪! と叫びかけた小鳥の思考を、白野の言葉が穏やかに遮った。
「……ああ、思い出した。以前、絵を頼まれた女性だ。でも、おかしいな」
「良かった、画廊のお客様で。……で、何がおかしいんです?」 思わず胸を撫で下ろしながら小鳥が問う。
「【幸福画廊】の絵を既に持っている人が、ここに再訪するのは、とても珍しいことだよ……。朱里が僕を呼びに来ないのも、とてもおかしい……」
白野が思案顔で柳眉をひそめる。そう言われてみれば、確かに不自然な事である。小鳥は階下の様子を窺った。館はいつもにも増して、ひっそりと静まりかえっている。
■■2
「お願いします、教えて下さい」
「そう申されましても。あれはあなた方ご夫妻がなさったお約束でしょう。しかも、ご主人亡き今、第三者の私どもがその約束を反故にするような事に、どうして荷担できましょう?」
「そう、主人は死にました。だからこそ、本当の事をご存知なのは、もうあなた方しか居ないんです!」
ナタリー・サンクレアは、面やつれていたが、やはり、とても美しかった。
朝から重苦しかった空からは、先刻からとうとう雨が降り始めていた。窓を叩く雨音が、部屋の中の空気を更に重いものにする。
カチャリとドアの音を響かせ、部屋に入ってきた主人に、朱里が一瞬「しまった……」という表情を浮かべる。少し遅れて、ティーセットを運んでくる小鳥をチラリと睨む。それを目で制して。白野は朱里の横に腰を下ろす。
「ああ……そう、貴方だわ。貴方が描いて下さったのよ。どうか、わたくしを助けてください」
ナタリーは胸に付けていたロケットを外すと、それを白野に差し示す。
「これ、覚えていらっしゃるわよね? こちらで描いて頂いた、わたくしの<最愛の人>の絵ですわ」
白野が小さく頷く。それに力を得たのか。ナタリーは何かに憑かれたようにしゃべり始めた。
「あの日、わたくしと主人は、揃いのロケットを用意して、こちらをお訪ねしたのです。結婚の記念に、この【幸福画廊】で絵を描いて頂こうと……。」
■
「このロケットにお二人の肖像画を、ですか?」
「ええ、普通、結婚したらマリッジリングを付けますでしょう? でも、わたくしのお仕事上、指輪は良くないんです。ずっと身に付けていると、どうしてもその指だけが細ってきてしまいますから。わたくしの演じる役柄はいつも既婚者だとは限りませんものね」
そう言って微笑みながら、ナタリーは金とプラチナで作られた、二つのロケットの蓋を開けてみせた。どちらもシンプルに見えて、繊細な細工の施された美しい品だ。
「それで考えたのですけれど、マリッジリングの代わりにペアのペンダントならどうかと思って。折角なら、お互いの写真を入れた……」
結婚を近日に控えた、女優と映画監督が、互いの顔を見合わせて微笑み合う。
「そうして、このロケットを作らせたのですけれど、わたくしね、思いましたの。このロケットには写真よりも絵を入れた方が相応しいんじゃないかしらって。ほら、アンティークにございますわよね? 細密画って言いますかしら? そんな感じの……」
確かに。レトロな雰囲気の漂う、この上品なロケットには、現代風の写真より、絵の方が遙かに似合いそうである。
「それで。絵を描いて頂くのなら、是非こちらにお願いしたいと思いまして。【幸福画廊】の絵を持つ者はきっと幸せになれると聞いておりますもの。わたくしたちも、その幸福にあやかりたくて。どうでしょう? お願い出来ますかしら?」
ナタリーは彼女のファンならば、一度で良いから見詰められてみたい、と言われるその愛くるしい眼差しで、画廊の主人と、執事を見詰める。
「細密画風……というのは珍しいご依頼ですが、分かりました。お引き受け致します」
朱里がそう応じた途端に、ナタリーは嬉しそうな歓声をあげる。
「ああ、良かった! あなた、ステキね。わたくしたちの幸せは、こちらのお二人に確約して頂けたようなものですもの」
「ああ、そうだね、ナタリー。……実は私としては多少気恥ずかしいんだが」
「まあ、あなた。そんな悲しいこと言わないで。お互いに最愛の人の絵をいつも胸に飾っているなんて、とってもロマンチックでステキじゃないの? ね?」
「いやはや。まったく、お恥ずかしい。私は彼女の願いを叶えるために、男の恥に目を瞑らなくちゃいけません」
「まあ、あなたったら」
仲睦まじい二人の様子を、白野の青い瞳が見詰めていた。
■
「わたくしたち、お互いの最愛の人を、それぞれのロケットに描いて頂きましたの」
「確かに、そのように承りました」
ナタリーはロケットの蓋をそっと開いた。
「わたくしの金のロケットには、主人の顔……」
「はい」
「わたくし、これを何度開いて見たか、分かりませんわ。そう、本当に何度も何度も。そのたびにとても幸せで、満ち足りた気持ちになりました。主人と巡り会えて良かった。この人と愛し合えて、なんて幸福なのかしら……って」
「ご主人は、貴女を残して逝かれることを、さぞ、心残りに思われたことでしょうね。お二人は本当に愛し合われておいででした」
淡々とした口調で、朱里が言う。雨音は途切れることなく続いていた。まるで引き裂かれた二人の涙のように。
「それほど、ご主人に愛された貴女が、何故今更、ここへいらしてしまったのでしょう? さあ、もうお引き取り下さい。ご主人とのお約束を無になさってはいけません」
■
どーゆーコト???
ドアにべったりと張り付いて、室内の様子を窺っていた小鳥は、うーむ……と頭を抱えてしまう。全く話が見えてこない。ナタリーが知りたがってる事って何だろう? 亡くなったご主人との約束って一体、何? 二人を描いたという、その絵の中に秘密があるの? 朱里さんは、表面上は普通に振る舞ってるみたいだけれど、ドア越しにだってわたしには分かるわ。アレは相当怒ってる。ナタリーをさっさと追い出したがってる。伊達に一つ屋根の下で面付き合わせちゃいないわよ。
それに……白野様。
どうして、一言も何もおっしゃらないのかしら? そりゃあ、普段から余り多くを語らない、大人しい方ではあるけれど。お茶を出す時に窺い見たナタリーはあんなに憔悴しきった様子だったのに。白野様は陰険執事と違って、誰にでも、とても優しいのに。傷ついた人には尚のこと、とてもとても優しいのに……。
その時、再び、チャイムの音が邸内に響いた。また、誰か来客のようだ。
カタンと、立ち上がる音がして、ツカツカと室内からこのドアに足音が近づいてくる。小鳥は慌てて、張り付いていたドアから離れた。
「どなたか、別のお客様がお見えのようです。私どもは忙しゅうございます。さあ、もうお引き取り頂けますね?」 ドアを開いた朱里が、ナタリーを促す。ナタリーは諦めたように立ち上がった。とても哀しい表情だった。
■■3
【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。
……ふざけやがって!
誰もが1度は耳にしたことのある【幸福画廊】の摩訶不思議。それを初めて聞いた時、ダグラスは先ずそう思った。
強請だの、たかりだの、盗みだの。そんなきな臭い世界を目の当たりに生きている彼にとって、現実とはもっとシビアなものであり、夢物語とはかけ離れた超リアルなものである。
「州警のダグラス刑事? 警察の方が当画廊にどういうご用向きでしょう?」
扉を開けたのは、黒いスーツに身を包んだ長身の男で、示したポリス・バッチに対し、穏やかな物腰でそう尋ねた。しかし、その穏やかさを裏切って、視線の鋭さといい、滲み出す雰囲気といい、油断ならなさを感じさせる男だと思う。刑事の勘という奴だ。
自分と入れ違いに、館から立ち去る俯きがちな女を見て、何処かで見たことのある顔だと思う。
「おい、ありゃあ、確か女優の……」
「お客様のプライバシーでございますので、どうぞご内聞に」
やはり、女優のナタリー・サンクレアだったか。痩せてやつれているのでちょっと見には分からなかったが……確かご亭主を事故で亡くしたんだったよな。それで、絶望しちまったんで、【幸福画廊】って夢物語に縋り付きに来たわけか? まったく金持ちの考えることってのは、解らんぜ。俺には関係ないけどな。
「セント伯爵、知ってるな? ここで絵を買った……」
「さて? 当画廊では沢山の絵を扱っておりますので……。確かにそのようなお客様がいらしたようにも覚えますが……」
そらとぼけてやがるな……。この朱里って執事、いけすかねぇ。
ダグラスはムッとする。大体、顔の良い上にキザったらしい男など、結婚サギ師かホストだと、この世の相場は決まっている。
【幸福画廊】。その噂を聞く度に、ペテンか眉唾モンだろうと感じてはいたが、当初の目的とは別に、そっちの探りを入れてみるのも悪くない。ダグラス刑事はそう思った。
■
「2日前、伯爵邸に賊が侵入し、伯爵秘蔵の絵画や美術品、十数点が盗み出された」
「ああ、はい。新聞に大きく載っておりましたね。先頃から横行している美術窃盗グループの仕業だとか。物騒な世の中になったものです。全く警察は何をしているのやら……。おっと、これは大変失礼なことを申しました」
バカ丁寧に頭を下げられ、ダグラスは更にムッとする。ゴホンと一つ咳払いをして、先を続けた。
「その盗まれた絵の中に、この画廊で買った絵も含まれているんだそうだ。他の美術品についてはどれも有名な物ばかりで、写真だのレプリカだの、資料が幾らでも揃うんだが、伯爵の話だと、ココで買った絵だけは全くそういう物がないそうでな。それで、販売元のお宅らに話を聞きに来たってわけさ」
「左様でございましたか。しかし、話と申されましても、これといって何も……」
「探し出す手掛かりに、盗まれた絵の特徴とか、来歴とか、作者とか、市場価値とか、そういったもんが知りたいわけだ。ああ、当然写真もな」
ノックが鳴って、小鳥がお茶を運んできた。
「写真はございません。来歴というのも特に。市場価値も無きに等しゅうございますねぇ。何せ、市場に出たことの一度も無い絵でございますから」
「ああ? 普通、画廊ってのは、カタログとか資料用に、絵の写真は撮っとくもんじゃないのか? 大体、高額で売り買いされる美術品ってのは、それ相応の保険に当然入ってるだろう? その書類に写真は不可欠だろうが!」
「当方で扱う絵で、保険契約を結んでいるものなどございませんよ」 朱里がクスリと笑う。
「その都度、お客様のご要望に合わせてお描きする絵でございます。ただお一方の為だけに生み出される絵でございます。ですから、出来上がった絵は必ずお客様ご自身が買い取って行かれますし、その絵が手放されて市場に上ることも、まずあり得ません。当画廊の扱う絵画は、非常に特殊なものなのです」
「……それを、このお坊ちゃんが描いてるって言うのか?」
ダグラスは、朱里の横に座っているまだ年若い白野を見る。着ているものは、細身の丈の長い白の中国服にズボン。そのくせ、顔立ちは栗色の巻き毛に青い瞳と、思いっきりな西洋風ときている。まるでメルヘン小説に出てくる白馬に跨った王子様といった雰囲気だ。
こいつが。このお坊ちゃん面した発育不良坊やが、噂にしおう【幸福画廊】の大ボス?
あり得ねー! とダグラス刑事は心の中で叫んだ。どちらかといえば、この執事だと名乗る朱里。こいつが影のボスなのだ。きっとそうに違いない。
「ああ、そうでした」 朱里が唐突に手を叩いて、ダグラス刑事の注意を引く。
「写真は1枚もございませんが、セント伯爵様の絵には、下書きがあったように思います。絵の雰囲気を知るための良い材料になるでしょう。しばらくお待ち頂けますか? ちょっと捜して参りますので」
朱里はそう残すと、小鳥を呼んで、二階へ上がっていった。
■
「これが下書きか?」
「左様でございます。これは鉛筆で描かれたラフ・スケッチですが、実際に伯爵様にお渡しした物は、油性画でございました」
「……」
自慢じゃないが、俺は絵の価値など解らない。芸術音痴で、絵に描かれた三段腹の裸婦像なんぞを見るよりは、そこら辺の道ばたで売られているヌード・グラビアでも眺めている方がずっと胸にクルものがある。
それは確かに認めるが、おいおい、この絵を絵画コレクターとしてその筋では有名なセント伯爵が、有り難がって買ったってのか?
あり得ねー! とダグラスは思う。別に下手くそだとは言わないが、こんな絵を大の男が部屋に飾って楽しみたいか? ヌード・グラビアがマシだろう。
「で、こいつを幾らで売ったんだ?」
そう単刀直入に尋ねられ、朱里が少し困った顔になる。
「その辺は……企業秘密と言う訳には?」
「警察を舐めてんじゃねーぞ!」
「いた仕方ございませんねぇ……。まあ、謝礼金と申しますか、お心付けと申しますか……」
ダグラス刑事をちょいちょいと指で手招き、その耳に顔を近づけて囁いた。刑事の目玉が丸くなる。
「……お前ら、マジでサギだろう!? それとも新手の宗教か? 善良な市民騙して法外な大金をせしめるなんざ、例え、おてんとうさんが許してもこの俺様が許さねーぞ」
こんなボロ絵にその値段だと? 止めた止めた。くだらねぇ、こんな絵なんぞ、捜索リストに入れられるか!? 馬鹿馬鹿しいったらありゃしねぇ!
■
「ちょっと、あんた、待ちなさいよ。誰が詐欺師ですって? 誰が他人を騙してお金をせしめてるんですって?」
小鳥だった。廊下でまたもや盗み聞きしていて、この刑事の言い草に黙って居られなくなったのだ。バン! と扉を開け放ち、大股でダグラスに向かって行くと、大柄な男の胸倉を掴まんばかりの勢いで、食って掛かる。
白野様はここを訪れる人の為に、その人が自分ですら気づかないような心の奥底に潜む想いを、本当に身を削るようにして描いているのだ。その人を救う為に。幸福になってもらう為に……。小鳥はそれを間近に見て、感じて、知っている。だからこそ、わたしはこの【幸福画廊】のメイドになろうと思ったんだもの。ちょっとでも何か役に立ちたいって思ったんだもの。
そんな【幸福画廊】の事を、白野様の事を、悪く言うなんて許せない。
陰険執事は……まあともかくとして。
「有りもしない冤罪をでっち上げてる暇があったら、さっさと帰って、美術窃盗団でも捕まえて見せなさいよ! このトンチキ刑事!」
「な、何だ何だぁー、ここのメイドはドアの向こうで立ち聞きする上に、口と態度まで悪いのか? 最悪メイドだな」
「ウルサイわね! さっさと出て行かないと、熱い紅茶を頭からぶっかけるわよ! 大体ね、絵の価値なんて警察風情が決めるもんじゃあないんだからね、クタバっちまえ! 腐敗警察!」
「な、なにをぉ~」
クックック……
場違いにも忍び笑っているのは、この館の主・白野である。彼は、ダグラス刑事への応対を全て召使いの二人に押しつけておいて、自分は何とも可笑しそうに、うっすらと目尻に涙まで溜めて、笑っているのだ。ある意味、精神構造の最も読めない人物であった。
「当家のメイドの躾が行き届いておりません事は重々承知しておりますが、私と致しましても、貴方の頭の上で、ポットがひっくり返されるのを、眺めてみたい気分でして……。申し訳ありませんが、クリーニング代が不要の内に、とっととお帰り願えませんか?」
有無を言わさぬ態度で、朱里が、その場の混乱に終止符を打った。
■■4
ダグラス刑事が出て行ったのを仁王立ちで見届けて、塩でも蒔いてやろうかと考えていたら、驚いたことに、とうに帰ったとばかり思っていたナタリーが、玄関ポーチのその陰に所在なげに立っていた。朱里も気づいて、深いため息をつく。不承不承と言わんばかりの様子で、再び館に招き入れた。
「あれほど愛した夫を、今更こんな風に疑うだなんて……わたくしを愚かな女だとお思いでしょうね?」
自嘲気味にナタリーは、そう言った。首を巡らせて窓の外を見遣る。あの人の葬儀の日の空も、こんな、しとしとと雨の降る、陰気で暗い色だった。
<きっかけ>は、ほんの些細な他人の一言。
葬儀に参列していた、女優仲間が交わしていた、たわいもないおしゃべりだ。
「……ほら、結婚記者会見の時、マスコミに見せてたじゃない? ペアのロケット」
「ああ、マリッジリングの代わりってアレ?」
「そう。何でも、監督。そのロケットをね、握りしめたまま亡くなってらしたそうなのよ。妻の写真を抱きしめて……だなんて。本当に奥様を愛してらしたのよねぇ~」
そうだった。突然の事故に見舞われた夫は、銀のロケットをその右の手にしっかりと握りしめたまま絶命していた。とても強い力で握りしめられていて、誰もその手を開くことが出来なかったくらいに。
わたくしは、嬉しかった。死の直前まで、夫がわたくしの事を思い続けてくれていたのだと分かったから。そして、同時に、わたくしの哀しみはいや増した。ああ、あなた、どうしてわたくしを置き去りにして逝っておしまいになったの?
夫の遺志を汲む形で、わたくしは、夫の手の内に銀のロケットを残したまま、亡骸を棺に納め、そして沢山の美しい花々と共に、荼毘に付した。わたくしの肖像と一緒に、夫は白くて細い一筋の煙となって、高い空へと還っていった。
「ふん、本当にそうかしら?」
それは、ライバル事務所に所属する女優の……きっと、やっかみ半分の一言だったに違いない。
「みんな、奥さんの写真を握りしめたまま死んだだなんて、美談ぶって語ってるけど、実際はどうだかねぇ?」
「どういうことよ?」
「ロケットの中身なんて、簡単に入れ替えられるじゃない? あの人達ってもう結婚して何年目? 今も本当に奥さんの写真が入っていたのかどうかなんて、分かりゃしないじゃない?
監督ってば実はさ、ロケットの中身が奥さん以外の女に変わっているのがバレるのが怖くて、咄嗟に握りしめちゃったのかもよ? だとしたら大笑いよねぇ」
「もう、アンタったらホントに口が悪いんだから。……でも、そうよね。そのロケットの中身を実際に覗いて見た訳じゃあないんですものね。その推理ってば面白ーい」
■
「わたくし、その会話を物陰で聞いてしまったんです。非道いと思いましたわ。あの人たちは知らないんです。ロケットに納まっているのが、写真ではなく、こちらで描いて、はめ込んで頂いた二人の細密画だなんて。他の物に取り替えることが出来るわけもないんだなんて」
わたくしは泣いた。悔しくて、哀しくて、寂しくて、ずっとずっと毎日を泣き暮らした。主人はあんなにわたくしを愛してくれていたのに。わたくしの肖像だからこそ、それを握りしめてくれたんだのに。
「悔しかったというお気持ちは分かりますが、貴女さえご主人の事を信じておられるのなら、それで充分ではありませんか。そうでしょう?」
ドアの向こうから、朱里の低い声が漏れてくる。
室内の様子をこっそりと窺っている小鳥は、朱里の意見に納得出来ないと思った。だって、そんなの女として悔しすぎる。自分の夫は自分のことを最期の最期まで想い続けていてくれたというのに、それを邪推されるだなんて、そんなのホントに悔しすぎる!
「そうか!」
小鳥は、ナタリーが今日ここへ来たわけが分かった気がした。彼女はきっと、ここでロケットの中の絵が描かれたんだってことの証明が欲しいんだわ。ご主人の監督が手の中に握りしめていた物が間違いなく自分の肖像だったんだってことを、そのイジワル女優達に見せつけて、謝らせてやるつもりなんだわ。
■
「違うんです……」
ナタリーが、か細い声でつぶやいた。
「そう……。最初の内は、わたくし、とても憤っていたんです。わたくしはともかく、主人の心を侮辱するだなんて許せないって。でも、ある日、ふと……思い出してしまったの……」
「何をです?」
「あの日……出来上がったロケットを受け取りに、主人といっしょにこちらに伺った時の事を、ですわ」
あの日。出来上がった細密画入りのロケットを、わたくしたちは、それぞれに受け取った。
わたくしが自分に手渡された金のロケットの蓋をそっと開けてみると、中には確かに夫が居た。とても、とても美しい仕上がりで、愛する人の穏やかな顔が、小さな楕円の金枠の中から、わたくしに微笑みかけていた。
「とても素晴らしい出来ですわ。わたくし、大切に致します」
「お気に召して頂けたご様子で、私どもも嬉しゅうございます」
朱里がそう返して、優雅に一礼する。
「あなたはどう?」
白野が夫に向かってそう訊いた。夫の銀のロケットを持つその手は、微かに震えているように見えた。きっと、夫もわたくしと同様に、【幸福画廊】の絵の出来映えに感動しているのに違いなかった。本当に生きているようにすら感じる、とても素晴らしい肖像だもの。夫のロケットの中のわたくしも、彼に笑みを投げかけているに違いないわ。
「そちらの絵も、早く見せてくださいな。楽しみだわ。わたくしはどんな風に描いて頂いているのかしらね?」
いけません!
「夫の手の中を覗き込もうとしたわたくしを、あの時、貴方、お止めになりましたわね?」
そして、続けてこう言ったのだ。
「【幸福画廊】の絵は、たった一人の為だけに描かれます。ですから、本来、他の方が見てはならないものなのですよ。どうか、誰にも……お互いにすらお見せにならずに、ご自分だけの物として、大切になさって下さい。そうでないと、この二つの絵に掛けられた幸福の魔法が解けてしまいますからね」
■
「僕は、あなた達の希望通りに、二人の胸の中にある<最愛の人>を描いた。あなた達の幸せを願いながら」
白野が夫を見上げながら、そう言った。「でも、もしも気に入らなかったなら、描き直すよ」
あの時の、この少年の瞳、まだ覚えている。深い澄んだ湖を連想わせるような、キレイで透明な青い瞳。多くのことを知り、癒し、優しく包み込んでいるような穏やかな色。
夫は、しばらく少年と見つめ合っていた。夫の瞳にも深い青の色が移り込んだかのように、それも美しく穏やかだった。そうして、夫はロケットの蓋を静かに閉じた。
「いや。確かにこれは名声高い【幸福画廊】の絵だ。……素晴らしい物です。肝に銘じて、一生涯大切にします」
そして、夫はわたくしに向き直ると、こう言った。
わたしは必ず君を幸せにするよ。約束する。だから、君も約束しておくれ。互いのロケットの中は見ないって。この【幸福画廊】の魔法が決して解けることのないように。
「わたくしたち、【幸福画廊】の言いつけを守って、決してお互いの肖像を覗き見したりはしませんでしたわ。わたくしたち、愛し、愛されて、幸せでした。これもきっと【幸福画廊】の魔法のお陰ね、って……。幸福の魔法が間違っても解けないように、絶対に見たりはしなかった。いいえ、見たいとすら一度も思わなかったわ。毎日が幸せでとても満ち足りていたんですもの」
でも……
ナタリーは自分の金のロケットを強く握りしめる。
でも、今は見たくて、見たくて、仕方がない。これと対の銀のロケットの中に描かれていた肖像は、本当にわたくしだったのか? それが知りたくて仕方がない!
■
テーブルに用意された紅茶は、誰の手も付けられぬまま、すっかり冷め切ってしまっていた。外の雨は降り止みそうにもない。しとしとと何時までも絶え間なく、途切れることなく降り続く。
まるで、わたくしの心のようだ……
ナタリーはふと、そう思う。きっかけは、そう。ほんの小さな些細な事。空気中に含まれる小さな塵の一粒を核にして、そこに少しずつ水蒸気が集まり、それがやがて大きな雲に成長する。そして、自分の重さに耐えられなくなり、雨となって溢れだす。
わたくしの心に芽生えてしまった小さな疑惑の種。
一つが発芽すれば、枝を伸ばし、根を広げ、もうその生長を止められない。愛し、愛された日々。幸福だった結婚生活。でも、今はもうあの全てが疑わしい。懐かしい夫のあの、はにかむような笑顔の記憶さえも呪わしい。
わたくしはあの人に騙されていたのではないかしら? あの「愛」と信じた日々は嘘だったのではないかしら?
「私たちはお互いの<最愛の人>を描いて下さい、と【幸福画廊】にお願いしました。そして、描いて頂きました。わたくしの最愛の人の絵は、確かに夫の顔でした。でも、夫は? あの銀のロケットに描かれていたのは、一体誰だったのですか!? わたくしだったの? 違ったの? どうか、教えて。この狂おしい想いからわたくしを解放して下さい!」
感極まって泣き出すナタリーを、画廊の二人は静かに見詰めている。
「愛しておられたのでしょう? ご主人を。何故信じ続けて差し上げないのです?」
「信じたの。信じたいのよ。でも、あの人はもう居ない。自分を信じろと言ってくれない。わたくしに愛してるって囁きかけてくれない。わたくしを抱きしめる手はもう2度と戻っては来ない」
信じ続けていたかった……。
信じきれなかったことが悪いのか、信じさせなかった事が悪いのか、
それとも。そもそも、信じたことこそが悪かったのか?
「……ねぇ」 白野が始めて口を開いた。
「何をもって、<真実>とか、<偽物>だとか。そんなことを貴女は言うの? 彼自身? 彼との思い出? それとも、ちっぽけな絵の1枚?」
愛を信じることも、それを信じさせることも、どちらも簡単なことじゃあないよね。でも、ご主人はそれを成し遂げていたでしょう? ……だから、貴女は泣くんでしょう?
■■5
昨日とはうって変わって、今日は朝から快晴だった。窓からは明るい光が差し込んでいるが、小鳥の心は暗く晴れない。主の白野はある依頼人の頼みで、朱里を伴って出かけている。小鳥は独り留守番である。
昨日やり残していた、廊下の拭き掃除を続けながら、時折り大きなため息をつく。小鳥はショックを受けていた。結局、可哀想なナタリーは白野からも朱里からも、何も答えを貰えなかった。
「亡くなったご主人との約束を違えることはできません」
その一点張りだった。その気持ちも分からぬではないが……。やはり、それではあまりにもナタリーの想いが哀しすぎる。
大体、真実はどうなんだろう? 白野様が銀のロケットに描いた<最愛の人>は、彼女の疑惑通り、ナタリーではなかったのだろうか? でも、白野様はロケットの絵を「二人の幸せを願って」描いたと言っていた。夫婦の幸せを祈って作られる絵に、そもそも夫婦以外の人物が描かれることなんて、あり得るのか? そんなことが出来るのか?
「……しかも、白野様ってば依頼人に対して、絶対嘘を付かない人なのよねぇ~」
大きな大きなため息が出る。この考えは堂々巡りだ。1つの疑問が次の疑問を投げかける。そして、その疑問は更に先の疑問へと繋がり膨らむ。それに足下を掬われて、もう身動きが取れなくなる。
■
「大体さ!」
ビチャっと牛乳を床にぶちまけて。腹立ち紛れに、小鳥はモップをゴシゴシと力任せに床の敷き板に擦りつける。
「大体、ナタリーさんを描いたのにしろ、もしかして違う女性を描いたのにしろ、もうそんなことはどうでもいいから、『ナタリーさん、ロケットに描かれていたのは間違いなく貴女ですよ』とか、言ってあげればいいんじゃないの!」
『嘘も方便』って言うじゃない。それが一番良いんじゃない。全てが丸く収るんじゃない。
だって、旦那様もロケットも、もうとっくにこの世にはナイんだから。どっちも焼かれて消えて無くなっちゃったんだから。ナタリーさんには真実なんて分かりようがない。白野様か朱里さんか、どちらかが「イエス」と言えば、「イエス」だし、「ノー」って言えば「ノー」なのよ。誰もそれに異議を唱えることなんて出来ないわ。
「とにかく! このままじゃ、ナタリーさんは可哀想すぎるわよ!」
幾ら腹を立てていても、床に大量の牛乳を振りまいたのはまずかった。小鳥は濡れた床で滑ってしまい、したたか腰を打ち付けた。それはそれは痛かった。多分青あざになっているだろう、と小鳥は思った。
■
チャイムが鳴って、小鳥は痛むおしりをさすりさすり、階段を下っていった。昨日に引き続き、この館の玄関ベルがこうも頻繁に活躍するのは珍しい。あと1回でも鳴ろうものなら、ギネス更新だわね……と小鳥は思う。
ドアの外に立っていたのは、昨日のダグラス刑事で、小鳥は心底うんざりする。
「主人も執事も、どちらも揃って外出中です。お話でしたら、アポを取ってからまたお越し下さい。さようなら!」
そう言って、さっさと扉を閉じようとしたが、
「わー、待て待て!」
っと、止められた。片足をドアの隙間に差し込まれてしまって、きちんと閉じてしまうことが出来ない。そうこうしている内に、玄関の内にまで入り込まれてしまっていた。なんて力の強い男だ。
「何よ! こーゆーのって、不法侵入って言うんじゃないの? 警察呼ぶわよ!」
「はいはい。お呼びでしょうか? その警察です」
しまった、モップを持って降りてくるんだった。そうしたら、こいつの顔を牛乳まみれにしてやれたのに。
「いや、冗談だって。そう尖るなよ。今日は仕事で来たんじゃねーから。俺、謝りに来たんだって」
「はあ?」
「昨日は、最悪メイドだの何だの、色々言って悪かった。すまん!」
手の平を返したような態度とはこの事だ。昨日と今日のお天気のように、180度雲行きが違う。
「一体どういう風の吹き回しなのよ?」
「いや、その、なんだ。俺にも思うところがあってだな」
胡散臭いなー、とは思ったが、何となくクサクサして、話し相手が欲しかったのも事実である。
「……まあ、いいわ。丁度お茶の時間よね。一人で飲むのもつまんないから、付き合いなさいよ。美味しいとっておきのお茶菓子もあるわよ」
「おお! 俺は、賄賂は謹んで受け取る主義だ」
誰がおまえなんぞに贈賄なんかするか! バカ!
心の中でそんな罵声が浮かんだが、幾ら何でもそれをそのまま口にするほど、小鳥も直情思考ではないのだった。
■
「おお! このチーズケーキ、ホントに美味いな」
「でしょ? 当家自慢の名コック、執事サマの一八番よ」
「なんだ? あいつは料理もやるのか?」
「料理、洗濯、お裁縫、家電の修理に絵の具の調合。害虫駆除からメイドいびりまで、オールマイティ。何でもやるわよ」
「……得体の知れねー執事だな」
ケーキを口いっぱいに頬張りながら、ダグラス刑事が呻る。
「まーね。でも、いい人よ」
「ふーん」
「悪い人でもあるけどさ」
「何だ? そりゃあ」
「言ってるわたしにも、よく分かんない」
ふふ……っと、小鳥は小さく笑う。
何だがここでは色んな事が次から次から起きて、わたしはその度に沢山のことを考える。万華鏡を覗くと、くるくる不可思議な風景が回転するのに似て、わたしの心もくるくる回る。
でも、それって嫌いじゃない。わたしは【幸福画廊】が嫌いじゃない。
「人間ってさ、イロイロだなー、って思うのよ」
「『真実の横顔』って奴だな」
「なぁに? それ」
「昨日あれから、伯爵邸に行ったんだ。そこでウンチクを学んだのさ」
■■6
セント伯爵は、美術コレクターとしてのみならず、篤志家としても知られている。ダグラス刑事が子供の頃入っていた施設に、伯爵が慰問に来ていたという経緯から、二人は元々面識があった。
「伯爵、他の絵はともかく、あの眉唾もんの【幸福画廊】の絵なんざ、捜索リストから外しちまってもいいですね?」
「ダグラス。お前さん、またわしの話をちっとも聞いとりゃせんかったな? わしは、他の美術品は後回しにして、兎に角、【幸福画廊】の絵を捜してくれるようにと、そう言うたじゃろうが」
施設を慰問に来ていた頃の伯爵は、当時からもう白い口髭を蓄えた爺さんだったが、まだ杖をついてはいなかった。自分の身体が大きくなるのに比例して、伯爵はだんだん縮んでいく。俺も流石に二十歳を過ぎて、もうデカくはならないだろうから、この人にももうこれ以上、縮んで欲しくないもんだ……と思う。
「あの画廊の連中は、胡散臭すぎる。あんなインチキ商売に騙されるほど、ボケちまったんじゃないでしょうね? そのうち、幸運の金の便座とか売りつけられんで下さいよ」
「何じゃ? 【幸福画廊】の住人どもに会うたんかい?」
「会いましたよ。ベビードールみたいな画家と、外見も腹の中も真っ黒そうな執事と、妙に威勢の良いメイドが居ました」
「ほっほっほ……その姉ちゃんは美人じゃったか?」
「デッカイ目玉がくるくるよく動く姉ちゃんでしたよ。『並』です」
「まあ、おなごはいいわい。儂ゃ、あの画廊の白野クンが好みでのー」
「アンタ、まだその悪趣味、改善されてなかったんですか?」
「『衆道』は貴族の嗜みじゃ!」
ダグラスは、自分が老人の嗜好に合わぬ外見であることを、心底神に感謝する。そういや、州警の本部長が、彼の『お手つき』だという噂は本当だろうか? 確かに本部長は往年の美少年ぶりを彷彿とさせる端正な容姿の持ち主だが。
「他の絵なんぞいいから、【幸福画廊】の絵を取り戻してくれ!」
「どうして、そんなにあの絵がいいんです?」
「そりゃあ、お前さん、決まっとる。あの絵の価値を知っておるのが、この世で唯一、儂一人だけだからさ」
■
セント伯爵は、豪華な室内の一角に設けられた、大きな書棚を杖でもって指し示す。
「ええかの? あそこに納められとるんは、美術全集でな、今回盗まれた品の多くは、あの中にも掲載されとる」
「天文学的な価値のあるもんも多いと聞いてますよ。そういう美術品と比べて、あの画廊の絵の何処がそんなにいいっていうんです?」
「つまりじゃ。先頃、惜しくも永逝したA国の天才画家、ジェームズ・E・アイヒマンの絵だの何だの。それらの価値は、芸術音痴のお前さんみたいな者まで含めて、世界中の万人が知っておる、ということじゃよ」
例えばだ。それを誰かが偶然拾ってしまったとして、あっさりゴミに捨てたりするか? 粗末な扱いが出来ると思うか? そう老人はダグラスに問うた。
高名な芸術品が、自分の手元から奪われたとしても、それは決してその作品の<消滅>を意味するのではない。今は悪人の手元にあっても、やがて歴史のその先で再び世間に戻ってくる。
「奪うて行ったのが、美術品ばかり専門に狙う、窃盗団だというなら尚更じゃ。しかし、あの画廊の絵の価値は……儂だけにしか解らんのじゃ。簡単にこの世から消されてしまう。儂は……儂はそれがのぅ、この身を割かれるほどに忍びない……」
老人が薄い瞼をしょぼしょぼと瞬かせる。
「あれは、儂だけの為に描かれた珠玉の名品。そうなんじゃよ。」
■
「ダグラス、ちょっとこっち来てみぃ」
伯爵が自分を手招きする。ダグラスが老人の傍に寄ると、
「お、そこじゃ。もちっと右寄りに立っておれ」 言われたとおりに、立ってみる。
「今、お前さんの目の前には何がある?」
「べっぴんさんの胸像」
「じゃあ、こっちの方へ回ってきて、像を正面から見てご覧」
「……あ!」
美の女神を象ったのであろうこの像は、右から仰ぎ見た時には全く気づかなかったが、その左半身は無惨にも焼け爛れ、溶け落ちていた。
「あっち側から見ても、分からんじゃろう? 悲しい戦争の爪痕じゃ」
「ひでぇもんだな」
「非道いもんじゃ。じゃが、この女神さん、儂はこの傷があるからこそ美しいと思うとる」
老人はそう言って、像の傷口を優しく撫ぜる。
「この女神さんはな、昔。非道く辛い目に遭うたんじゃ。儂と同じく戦争を知っとる。儂の心と同じ場所に傷がある。儂の子供の頃の記憶なぞ、この像と同じで、焼け爛れて傷だらけじゃ。それは儂だけが知っていて、他の誰にも見えん傷口じゃがな」
老人はこの像を『真実の横顔』」と呼んでいる、と言った。
「物の価値だの、真価だのはな、人それぞれの考えや、生き方によって、違うてくる。本当の真実なんて、そんなものはありゃあせん。それぞれの胸の内に潜めたものだけが、その者の信じる真実じゃ。儂は、この胸像を見て、そう気づいた」
【幸福画廊】の絵もな、そういう絵なんじゃよ。人の心を写す絵じゃ。傷口を共有し、そして癒してくれる絵じゃ。解ったか、ダグラス? 小難しい話になってしもうたが、知恵熱出して寝込んじゃいかんぞ。
老人の言を、謹んで拝聴していたダグラスは、彼の最後の台詞にがっくりと肩を落とす。ああ、全くこの爺さんは、いつも一言多いんだ……。
「この傷があるからこそ、この女神さんは窃盗団には盗まれなんだ。儂と女神さんには幸いじゃったの」
セント伯爵がそう言って笑う。この爺さんが、親のない俺の<人生の師>だ。
そうかい、爺さん。爺さんに取って真実に価値がある物ってのは、俺みたいな青二才に量り知れるような半端なもんじゃねぇんだな。
【幸福画廊】の絵を捜そう、とダグラスは思った。爺さんの心を取り戻してやろう、とダグラスは思った。
■■7
「ふーん、『真実の横顔』かぁ……」
小鳥は、ダグラス刑事の顔をじっと見詰める。
「なんだよ」
「ねぇ、ちょっと横向いて見せてよ」
「ああ?」
怪訝そうにしながらも、小鳥の言葉通り、ダグラス刑事が横を向く。
「……どうだ? 俺の『真実の面』を見つけたか?」
「あんまし、ハンサムとは言えないなーってくらい?」 ダグラスは思わず、コケそうになった。
「あんた、今までの俺の話、ゼンッゼン通じてねぇだろう?」
「ん。知恵熱出そう」
「ご同類か。実を言うと、俺も後遺症で、今朝起きた時頭痛がしたよ」
紅茶を注ぎ足しながら、小鳥は大きなため息をつく。
「真実か……わたしも今それで悩んでいたりするのよねぇ……」
「はん?」
「ほら、刑事さんも昨日ここですれ違ったでしょ? 女優のナタリー・サンクレア。彼女のは・な・し」
「ああ、彼女、痩せてたよなぁ。まだご亭主の死から立ち直れてないんだな。おしどり夫婦で有名だったもんな、気の毒に」
「そうなんだけど……ちょっと事情がフクザツなのよ」
そして、その時、唐突に。小鳥にある良策が閃いた。
■
「ちょっと……そうだわ! 下書きよ!」
「な、何だぁ~? 急にデカイ声だして」
セント伯爵の絵に下書きがあったように、ナタリー夫妻の絵にだって下書きがあるかも知れないわ。だとしたら、ロケットの中に描かれていたのが誰だったか、真実がはっきりするんだわ。
ああ、そうだ。そうなんだ。わたしってば、ホントに馬鹿だ。どうして今まで気づかなかったんだろう?
「ちょっと、ダグラス刑事、アンタも手伝いなさいよ! 捜し物が商売なんでしょ? 白野様達が帰ってくる前に、絶対見つけ出さなくちゃ」
「おいおい、一体何を捜そうって言うんだ? 主が戻る前にって、まさか非合法な事やらかそう、ってんじゃねぇだろうな?」
「大丈夫。人助けよ、人助け!」
わたし、昨日、セント伯爵の下書きを捜す朱里さんの手伝いをしたわ。資料部屋は、几帳面な彼の仕事らしく、とっても丁寧に年代別のファイリングがされていた。ナタリーさんが結婚した年は覚えてるし、そのちょっと前のファイルを捜せば良いはずだもの。きっとすぐに見つかるわ。
二人は二階に駆け上がる。
「いーい? ナタリー・サンクレアが描かれているファイルを捜して。刑事さんはこっちの端から。そしてわたしは反対からよ」
■
玄関チャイムの音が響いた。ギネス物だ。ああ、確かに。
「お、おい。ここの奴らが帰ってきたんじゃないか?」
「馬鹿ねぇ、違うわよ。自分の家に入るのに、わざわざチャイム鳴らす人なんかが居るわけないでしょう? 多分、きっと、押し売りよ」
もう一度、チャイムが押される。
「おい、お前出なくていいのか?」
「うるさいわねぇ、わたしは今、忙しいの! 刑事さんが出てくれればいいでしょう?」
「何で俺が?」
「ほら、いいからさっさと行く!」
あり得ねー! そうぼやきながら、ダグラス刑事が降りていく。小鳥はそんな事には構わずに、ファイルを懸命に捜している。
4月のファイル……5月のファイル……6月のファ……
「あったー!!」
「え、何だって? 何が何処に?」 ダグラス刑事が階段を駆け上ってくる。
「ダグラス刑事、在ったわよ、ほら、ナタリー・サンクレアの絵の下書、き……」
嬉々として振り返った小鳥の目に映ったのは、ダグラス刑事と、その後ろに立つ、ナタリー・サンクレア。その人だった。
■
「あの、わたくしの絵の下書きって?」
「あ……いえ、あのその、こ……これはですね……」
「ごめんなさいね。わたくし、どうしてもこちらに足が向いてしまうのを押さえることが出来なくて……」
「い、いえ。あの……」
「その中に、主人の最愛の人の絵が入っているのね? そうなのね?」
あー! もう、ダグラス刑事ったら、どうして彼女を二階まで上げちゃうのよ? 何で玄関で待たせるとか、客間に通すとか、出来ないのよ?
あとたった五分でも前にこのファイルが見つかってたら、ナタリーに下書きの存在を知られる前に、中身を確かめることが出来たのにー!
もしも、もしもよ。この中に入ってる下書きの絵がナタリーじゃない別人だったら、どーすんのよ!? わたしぃ~?
「そうなんでしょう? お願い、それを見せて下さい!」
「……」
ナタリーが必死の目で小鳥を見つめる。
小鳥は、観念した。腹を括った。違う。ダグラス刑事の所為じゃない。自分がちゃんと出て行かなかったのが悪いのだ。全部わたしの責任だ。
「……そうです。この中に、ロケットの絵の下書きが入っています」
カサ……っと乾いた微かな音を立てて、スケッチが取り出される。少し湿った、カビくさい臭いがして、何だか妙に切なくなる。
封筒の中には二枚の紙が入っていた。
上の一枚は、確かにナタリーのご主人の絵だ。小鳥は写真で見知っているだけだが、よく特徴が捕らえられていると思う。
そう。きっとこれが、ナタリーの金のロケットに納められた絵の下書き。
じゃあ、この下の1枚が……
小鳥はじんわりと沸いてきた生唾を飲み込む。
神様!
小鳥は震える手で、紙をめくり上げた。
■
「……」
それは、女の横顔だった。鉛筆で走り書きされてような、とても簡略なラフ・スケッチ。
しかし、その面立ちは確かに、確かに。
ツンと高い鼻、細い顎のライン、すっきりと伸びた美しい首筋。
確かにナタリー・サンクレア。彼女自身に間違いない。
良かった! ご主人が愛してたのは、やっぱり奥さんだったんだ。
二人は相思相愛で、白野様は幸せな二人をちゃんと描いてらしたんだ!
小鳥は叫び出したいくらいの喜びに駆られた。良かった。ナタリーさんの心は、きっとこれで癒される。
「わたくしじゃない……」
歓喜に沸き上がった血液が、瞬時に凍り付くような。そんな言葉がナタリーの口唇からこぼれ落ちたのはその時だった。
「違うわ。これは、わたくしじゃない。わたくしは一度も……肩よりも短い長さに髪を切り揃えた事はないんです。これは、10年も前に亡くなった、わたくしの双子の妹です……」
■■8
「どうしました、小鳥さん? 食が進まないようですが」
「……」
もう、夜になっていた。白野と朱里が戻っていて、三人で同じ食卓を囲んでいる。
ナタリーは既に居ない。ダグラス刑事ももう居ない。
「おなかでも壊しましたか? ああ、そういえば、私が作っておいたケーキ。ホール丸ごと跡形もなかったようですが、まさか一人で食べてしまったんじゃあないでしょうね?」
「……ごめんなさい」
「いえ、別に食べた事を咎めているのではありませんよ。ただ、食べ過ぎるな、と言っているんです」
「……本当に顔色が良くないね。朱里、棚から薬箱を……」
ぽろぽろぽろ……
俯いた小鳥の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
ダメだ。やっぱりわたし、黙ってられない。この二人に嘘なんか付けない!
「どうしました? そんなに辛いんですか? 少し横に……」
「ご、ごめんなさい、白野様。わたし、白野様たちの留守中にやっていらしたナタリーさんに、あのロケットの下書きを捜して見せてしまったんです!」
白野の眉が軽く上がる。朱里の瞳が、細く眇められた。
「わたし、ホントにバカだから、勝手な真似をして……。ナタリーさんのご主人の最愛の人は、彼女の妹さんだったってことを、ナタリーさんに知られちゃったんです……」
「そう……見せちゃったんだ」
ぽろぽろと涙が溢れる。
わたし、もうこの館に居られなくなる? この館を追い出されちゃう?
【幸福画廊】で働けなくなる?
「ごめんなさい、わたし、わたし」 辞めたくない! 小鳥は思った。
わたし、ずっとここに居たい。そうよ……わたし「ここが嫌いじゃない」なんて、そんな程度に。
違う。ここが好きなんだ。大好きなんだ。わたし、ホントに本当に……
白野が小鳥の肩に手を乗せた。
「いいんだよ。過去はもう取り戻せない。……それで、彼女は何て言ってた?」
「もう……もういいって。本当のことが分かって、良かったって」
■
「いいのよ、あなたはわたくしの為を思って、これを見せて下さったんですもの」
ナタリー・サンクレアは、不思議なほど落ち着いた様子で、そう言った。寧ろ、絵の主が自分でなかったことを喜んでいるように見えたくらいだ。
「有り難う。わたくし、これで踏ん切りが着きました。気持ちの整理がつきました。夫に裏切られていたことは悲しいけれど、何だか、真実が分かってすっきりしたわ」
まさか、主人の愛した女性が妹だっただなんて……。死んでしまった人たちに恨み言なんて言えないわ。主人は天国で妹と再会して、きっと幸せに暮らしていると思うの。もう、それで良いと思うの。 仕事に復帰して、沢山、良いお芝居に出て、そして……全て忘れるわ。
礼を言って去っていくナタリーを見送る。あんな強気な台詞を言っていたけど、実際はすごいショックを受けているんじゃないかしら? 本当に大丈夫なのかしら?
ダグラスが、小鳥に耳打ちする。
「おい、俺がちゃんと自宅に戻るまで見ててやるよ」
何が何だかよくわからんが、あんた、彼女が心配なんだろ? そうした方がいいんだろ?
小鳥は、こくこくと頷く。にやっと笑って男が出て行く。
ダグラス刑事。……ありがとうね。
「そう……」
小鳥の言葉に、白野は小さく頷いた。後から受けた連絡によると、ナタリーは無事に帰宅したらしい。余程昨日の彼女よりしっかりとした足取りに見えたと、ダグラス刑事は言っていた。
「小鳥ちゃん、頑張ったんだね」
白野のそんな言葉に、小鳥の涙は更に沢山溢れ出す。うえ、うえ……っと子供のようにしゃくりあげる。朱里がハンカチを差し出し、「鼻水が出てますよ」 と言った。
■
館の2階、白野のアトリエ。
窓の外には細い月が冴え冴えと浮かんでいる。白野はその月の光をキャンバスに映そうと、細い絵筆を動かしている。
自分から少し離れた場所で、新しいキャンバスに帆布を張る作業をしている男の、その名前を静かに呼んだ。
「朱里」
「はい」
今夜の月は、青白い輪郭を漆黒の夜空にはっきりと浮かび上がらせて、まるで鋭利な刃物のようだ。運命がある日突然振り上げる死の鎌の色とは、あるいはこんな光かもしれない。
「お前、小鳥ちゃんを利用したね。もう一枚の絵を隠したろう。小鳥ちゃんがナタリーさんの為に、下書きを捜し出す事を見越した上で……」
朱里が作業の手を止めた。二人の視線が交差する。
「僕はあの時、銀のロケット用に2枚の絵を描いた。本体を飾るために1枚。そして、蓋にはめ込む用にもう1枚。うり双つの女性の顔だよ。短い髪の1枚と、そして、長い髪をしたもう1枚」
三人は幼なじみだった。男は双子の姉妹の内、病弱な妹を選び愛した。しかし、その想いに、男自らが確と気づくゆとりすら与えずに、運命は余りにも早く、若い生命を天に召し上げてしまう。三人が二人になった。共に歩んで行きたいと思った。
彼は確かに死んだ妹娘の面影を忘れ去ることが出来ずにいたが、だからと言ってそれは、姉娘の想いを裏切ったことになるのだろうか?
「愛」とはそれほどまでに頑なに、他のそれの存在を拒むのか?
「お怒りですか?」
「……」
「どうしてです? 例え2枚目の絵があったとしても、どうせ、ナタリー・サンクレアはそれを信じなかったでしょう。信じる気のない者に事実を告げるなど、時間の無駄というものです」
■
彼女は既に<夫の愛>ではなく、<自分の疑い>をこそ信じていた。だからこそ、この画廊へ来たのである。 疑いを真実にする為の単なる<通過儀礼>として、画廊との繋がりを利用しようとしただけだ。既に彼女の内で用意された答えに見合う証拠のみしか、受け付けることはなかっただろう。
「基本的に【幸福画廊】の不思議とは、それを信じることで成り立ちます」
彼女は気づけなかっただけですよ。信じ続けることも、信じさせていくことも、どちらも同じくらい、とても難しいことなのだとは。
「……」
「貴方様があの日、ロケットの中に納めた2枚の絵には、『生きている者と共に生きよ』という意味も確かに含まれていたでしょう。私がやったのもそれと同じ事です。違いますか?」
彼女はこれからも生きて行かねばならない。夫の死という重い試練を乗り越えて。
それには、<私を愛してくれた夫>よりも<私を裏切った夫>である方が、ずっと楽な作業なのだ。彼女自身が無意識の内に、その方法を選択したまでのこと。自分が生きていく為に安易で都合の良い、一番手っ取り早い方法を取ったという、ただそれだけの事。
朱里が白野に近づいていく。何も言わず、月の銀光を背に受けて立つ主人の白い頬に、ゆっくりと手を伸ばす。
「理不尽ですね。貴方は全ての事をお許しになるのに、唯一、私にだけ手厳しい。それは私を信じておられるからですか? それとも信じておられないからですか?」
……非道い仕打ちだと思いませんか? そのうち報いを受けますよ?
朱里の指先が今にも触れそうに近づいた時、白野はその手を逃れて、すっと後ろへ一歩下がった。白野の口唇は固く引き結ばれ、朱里の頬には逆に薄い笑みが浮かぶ。
「……冗談ですよ。これからも未来永劫、私は貴方の<忠実なる召使い>です。何なりとご命令に従いましょう」
白野の視線が床に落ちた。
「なら……出ていって」
主人の言葉に、朱里が恭しく一礼する。
「かしこまりました」
■■エピローグ
白野のアトリエを出た朱里は、そのまま小鳥の私室へと足を向けた。
扉をノックすると、小鳥は既にパジャマ姿で、朱里の前に出てきた。沢山泣いたものだから、まだ瞼が腫れぼったい。
「小鳥さん、勤務時間外で悪いんですが、お休み前のホットミルクを、白野様に運んで差し上げて下さい」
「あら? それっていつも貴方が。珍しいのね」
小鳥は驚いた顔になる。実際、この館で働き始めてからこれまで、白野の世話に関する仕事を朱里から頼まれたことなど皆無なのだ。
朱里は、そんな小鳥の表情を見て、微かに笑った。
「抜かりました。お怒りを買ってしまったようなので、ね。私もまだまだ役に徹しきれない未熟者だと言うことです」
では、お願いしましたよ。そう、念を押すと、小鳥が口を開くのを待たず、朱里は自室に戻っていった。扉が固く閉ざされる。
不思議だな……と小鳥は思う。
わたし達、こうして一つ屋根の下で暮らしているのに、個々の部屋の扉が閉じられてしまえば、もうそれだけで、お互いがどんな様子かは分からない。今、誰が何を思っているのかも……。
【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。
【幸福画廊】
そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。
■
ナタリー・サンクレアは、それからしばらくの後、映画界に復帰した。
最近では、新しい恋の噂もちらほらと持ち上がっているようだ。
美術品窃盗グループはまだ捕まらない。ダグラス刑事は、日々走り回っているらしい。
季節はやがて、秋を迎える。
「こ……ここに来たのって、やっぱ間違いだったかも」
気質に似合った、明るく陽気な色の髪、と友人達に褒められた長めのボブを振り乱し、小鳥は今日も試練に耐えて生きていた。住み込みメイドという名目で、この館で働き始めてから、既に数ヶ月が経つ。
牛乳を床にひと垂らし。古布を使って丹念に磨き上げていく……というのが、本日の小鳥に課せられた使命である。メイドなのだから、掃除をするのは当たり前だが、何分、広い館であった。床を這いずる小鳥にとって、長い廊下の終点は地平線の彼方に見える。
「どうです? 終わりましたか?」
あ、試練野郎! と小鳥は小さくつぶやいた。黒く長い髪の毛を肩の辺りで縛った、長身の青年がエプロン姿で近づいてくる。この館の年若い主のお世話係であり、コック長であり、接客係であり、そして小鳥の教育係をも兼ねる。要するに超・万能執事であるこの男は、その名前を朱里といった。
「そんなに早く終わるわけナイでしょう? こーんなに長い廊下なのに」
「しかし、私は同面積の1階の床を既に拭き終えてしまいましたが?」
「幅広モップを使ってやれば、そりゃあ、雑巾のわたしより早いわよ」
「またまた、そんな言い逃れを」
「大体、何でモップがたった1本しかナイのよ? ココは!?」
「何時なんどき辞めるかも分からないメイドのためにモップを揃えるなど、出費のムダというものです」
「貴方、わたしを追い出したいんでしょう? 白野様と二人っきりで仲良く暮らしたいんでしょう? そーでしょう?」
「当たり前です」
……ああ、許されるものならば、この澄まし顔の執事の顔に、牛乳臭い雑巾を投げつけてやりたいっっ!
「私も困っているのですよ。すぐに逃げ出すだろうと思っていたのに、存外に貴女が頑張るので。……どうすれば追い出せますかねぇ?」
「何でそれをわたしに訊くの!? ってゆーか、この不況下ご時世における、裸一貫の女の意地を舐めるんじゃナイわよ!」
威勢良く啖呵が切られたところで、ドアのチャイムが来客を告げた。
「おや? こんな早朝からお客様とは、珍しいこともあるものです」
エプロンを手早く外し、モップといっしょに小鳥に渡すと、
「では、この続きはまた後日」
そんなオソロシイ台詞を残して、朱里は立ち去って行くのだった。
■■1
「こ……ここにに来たのって、やっぱ正解だったかも」
小鳥は胸をときめかせながら、お茶の用意を整えている。なんと館を訪ねてきたのは、演技派女優として有名な、ナタリー・サンクレアだったのだ。
知性的な美貌と愛くるしい眼差しの対比が印象的で、老若男女を問わず、絶大な人気を誇るこの女優は、その幼なじみであり、且つ、彼女が世に出るきっかけを作った、これまた高名なる映画監督と数年前に電撃結婚をした。
二人は当代一のベスト・カップルと、周囲から賞賛され祝福された。その後の暮らしぶりも支援者の期待を裏切らぬ<おしどり夫婦>ぶりで、デビュー当時から彼女のファンだった小鳥は、更に更に熱烈なファンとなり、彼ら夫婦の特集記事が載る雑誌を集めたり、映画館に通ってみたりしたものなのだ。そう……半年前、監督が不慮の事故で亡くなるまでは。
葬儀の日、喪の色のワンピースに身を包んだ、その悲痛な表情を最後に、ナタリーはその後一切、マスコミの前に姿を見せなくなっていた。帽子飾りの黒いレース越しにも感じる、最愛の夫を失った妻の哀しみ。小鳥は訃報記事に添えられた写真を見て、貰い涙にくれたものだ。
早く哀しみから立ち直り、再び銀幕の中に戻ってきて欲しい。あの愛くるしい瞳で、また一世を風靡して、スポットライトの中で輝いて欲しい。多くのファンがそう願い、小鳥もそんな中の一人だった。
そのナタリー・サンクレアの姿を、奇しくもこんな場所で、間近に見ることが出来るだなんて……
「わたし、ココで働いてて良かったよ~」
もう、陰険執事の攻撃にもメゲない! 小鳥は誓いも新たにそう思うのだった。
「あ、そうだ! サインって貰えないかしら? やっぱ、ダメかなぁ~? で、でもでも若しかしてチャンスがあるかもしれないしー……」 色紙を用意しておこう。あ、あとペンも当然。
大急ぎで2階の私室に駆け上がり、目当ての品を捜していると、
「小鳥ちゃん?」 穏やかな声に呼び止められた。
「何してるの? 今、誰か下に来てる?」
この館の主、白野がそこに立っていた。
■
「ナタリーです。ナタリー・サンクレアが来てるんですよ!」
勢い込んで話す小鳥に気圧されたように、白野はその青く澄んだ瞳を瞬かせた。線の細い少女めいた顔立ちと、それを縁取る栗色の巻き毛。まるで白馬の王子様といった雰囲気のこの少年は、小鳥をこの館に雇い入れた当の本人であったりする。
小鳥がここにやって来るまで。この広い屋敷には主の白野と執事の朱里。この二人だけが住んでいた。そして、白野は日がな一日、部屋に籠もって絵を描き続け、朱里はただ一人の主人の世話に甲斐甲斐しく明け暮れる。時折、絵を求めて訪れる客がある以外、二人は淡々とした日々を送り過ごして来たようだ。現在、その中に小鳥が仲間入りしたからと言って、ほとんどその生活に変りはない様子だが……。
それでも、彼女が入ったことで、この邸に幾ばくかの活気は加わったように見える。朱里と小鳥の息詰まる攻防を「活気」と呼んで良いならば、だが。
召使い二人の戦いに、気づいているのかいないのか……。春風駘蕩としたこの屋の主は、いつも穏やかに微笑んでいる。そして、それはこの館の<別名>に相応しく、不可思議な魅力を持ったアルカイック・スマイルなのだった。
そう。この館は巷でこう呼ばれている。
不思議の館、【幸福画廊】と。
■
「サンクレア?」
「そう、あの女優の! 銀幕スターまでこの画廊の絵を求めて来るんだなんて、スゴイです。白野様、わたし尊敬しちゃいます~! ……ん、あれれ?」
ちょっと待てよ、と小鳥は思った。画廊の客であるならば、例えアポイントのない者でも、当然、朱里は主である白野にその旨を取り次ぐ筈である。しかし、そんな様子もなく、朱里は一人で彼女と応対している。
ま、まさか、あの陰険執事・朱里の個人的な知り合いだったとか?
超最悪! と叫びかけた小鳥の思考を、白野の言葉が穏やかに遮った。
「……ああ、思い出した。以前、絵を頼まれた女性だ。でも、おかしいな」
「良かった、画廊のお客様で。……で、何がおかしいんです?」 思わず胸を撫で下ろしながら小鳥が問う。
「【幸福画廊】の絵を既に持っている人が、ここに再訪するのは、とても珍しいことだよ……。朱里が僕を呼びに来ないのも、とてもおかしい……」
白野が思案顔で柳眉をひそめる。そう言われてみれば、確かに不自然な事である。小鳥は階下の様子を窺った。館はいつもにも増して、ひっそりと静まりかえっている。
■■2
「お願いします、教えて下さい」
「そう申されましても。あれはあなた方ご夫妻がなさったお約束でしょう。しかも、ご主人亡き今、第三者の私どもがその約束を反故にするような事に、どうして荷担できましょう?」
「そう、主人は死にました。だからこそ、本当の事をご存知なのは、もうあなた方しか居ないんです!」
ナタリー・サンクレアは、面やつれていたが、やはり、とても美しかった。
朝から重苦しかった空からは、先刻からとうとう雨が降り始めていた。窓を叩く雨音が、部屋の中の空気を更に重いものにする。
カチャリとドアの音を響かせ、部屋に入ってきた主人に、朱里が一瞬「しまった……」という表情を浮かべる。少し遅れて、ティーセットを運んでくる小鳥をチラリと睨む。それを目で制して。白野は朱里の横に腰を下ろす。
「ああ……そう、貴方だわ。貴方が描いて下さったのよ。どうか、わたくしを助けてください」
ナタリーは胸に付けていたロケットを外すと、それを白野に差し示す。
「これ、覚えていらっしゃるわよね? こちらで描いて頂いた、わたくしの<最愛の人>の絵ですわ」
白野が小さく頷く。それに力を得たのか。ナタリーは何かに憑かれたようにしゃべり始めた。
「あの日、わたくしと主人は、揃いのロケットを用意して、こちらをお訪ねしたのです。結婚の記念に、この【幸福画廊】で絵を描いて頂こうと……。」
■
「このロケットにお二人の肖像画を、ですか?」
「ええ、普通、結婚したらマリッジリングを付けますでしょう? でも、わたくしのお仕事上、指輪は良くないんです。ずっと身に付けていると、どうしてもその指だけが細ってきてしまいますから。わたくしの演じる役柄はいつも既婚者だとは限りませんものね」
そう言って微笑みながら、ナタリーは金とプラチナで作られた、二つのロケットの蓋を開けてみせた。どちらもシンプルに見えて、繊細な細工の施された美しい品だ。
「それで考えたのですけれど、マリッジリングの代わりにペアのペンダントならどうかと思って。折角なら、お互いの写真を入れた……」
結婚を近日に控えた、女優と映画監督が、互いの顔を見合わせて微笑み合う。
「そうして、このロケットを作らせたのですけれど、わたくしね、思いましたの。このロケットには写真よりも絵を入れた方が相応しいんじゃないかしらって。ほら、アンティークにございますわよね? 細密画って言いますかしら? そんな感じの……」
確かに。レトロな雰囲気の漂う、この上品なロケットには、現代風の写真より、絵の方が遙かに似合いそうである。
「それで。絵を描いて頂くのなら、是非こちらにお願いしたいと思いまして。【幸福画廊】の絵を持つ者はきっと幸せになれると聞いておりますもの。わたくしたちも、その幸福にあやかりたくて。どうでしょう? お願い出来ますかしら?」
ナタリーは彼女のファンならば、一度で良いから見詰められてみたい、と言われるその愛くるしい眼差しで、画廊の主人と、執事を見詰める。
「細密画風……というのは珍しいご依頼ですが、分かりました。お引き受け致します」
朱里がそう応じた途端に、ナタリーは嬉しそうな歓声をあげる。
「ああ、良かった! あなた、ステキね。わたくしたちの幸せは、こちらのお二人に確約して頂けたようなものですもの」
「ああ、そうだね、ナタリー。……実は私としては多少気恥ずかしいんだが」
「まあ、あなた。そんな悲しいこと言わないで。お互いに最愛の人の絵をいつも胸に飾っているなんて、とってもロマンチックでステキじゃないの? ね?」
「いやはや。まったく、お恥ずかしい。私は彼女の願いを叶えるために、男の恥に目を瞑らなくちゃいけません」
「まあ、あなたったら」
仲睦まじい二人の様子を、白野の青い瞳が見詰めていた。
■
「わたくしたち、お互いの最愛の人を、それぞれのロケットに描いて頂きましたの」
「確かに、そのように承りました」
ナタリーはロケットの蓋をそっと開いた。
「わたくしの金のロケットには、主人の顔……」
「はい」
「わたくし、これを何度開いて見たか、分かりませんわ。そう、本当に何度も何度も。そのたびにとても幸せで、満ち足りた気持ちになりました。主人と巡り会えて良かった。この人と愛し合えて、なんて幸福なのかしら……って」
「ご主人は、貴女を残して逝かれることを、さぞ、心残りに思われたことでしょうね。お二人は本当に愛し合われておいででした」
淡々とした口調で、朱里が言う。雨音は途切れることなく続いていた。まるで引き裂かれた二人の涙のように。
「それほど、ご主人に愛された貴女が、何故今更、ここへいらしてしまったのでしょう? さあ、もうお引き取り下さい。ご主人とのお約束を無になさってはいけません」
■
どーゆーコト???
ドアにべったりと張り付いて、室内の様子を窺っていた小鳥は、うーむ……と頭を抱えてしまう。全く話が見えてこない。ナタリーが知りたがってる事って何だろう? 亡くなったご主人との約束って一体、何? 二人を描いたという、その絵の中に秘密があるの? 朱里さんは、表面上は普通に振る舞ってるみたいだけれど、ドア越しにだってわたしには分かるわ。アレは相当怒ってる。ナタリーをさっさと追い出したがってる。伊達に一つ屋根の下で面付き合わせちゃいないわよ。
それに……白野様。
どうして、一言も何もおっしゃらないのかしら? そりゃあ、普段から余り多くを語らない、大人しい方ではあるけれど。お茶を出す時に窺い見たナタリーはあんなに憔悴しきった様子だったのに。白野様は陰険執事と違って、誰にでも、とても優しいのに。傷ついた人には尚のこと、とてもとても優しいのに……。
その時、再び、チャイムの音が邸内に響いた。また、誰か来客のようだ。
カタンと、立ち上がる音がして、ツカツカと室内からこのドアに足音が近づいてくる。小鳥は慌てて、張り付いていたドアから離れた。
「どなたか、別のお客様がお見えのようです。私どもは忙しゅうございます。さあ、もうお引き取り頂けますね?」 ドアを開いた朱里が、ナタリーを促す。ナタリーは諦めたように立ち上がった。とても哀しい表情だった。
■■3
【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。
……ふざけやがって!
誰もが1度は耳にしたことのある【幸福画廊】の摩訶不思議。それを初めて聞いた時、ダグラスは先ずそう思った。
強請だの、たかりだの、盗みだの。そんなきな臭い世界を目の当たりに生きている彼にとって、現実とはもっとシビアなものであり、夢物語とはかけ離れた超リアルなものである。
「州警のダグラス刑事? 警察の方が当画廊にどういうご用向きでしょう?」
扉を開けたのは、黒いスーツに身を包んだ長身の男で、示したポリス・バッチに対し、穏やかな物腰でそう尋ねた。しかし、その穏やかさを裏切って、視線の鋭さといい、滲み出す雰囲気といい、油断ならなさを感じさせる男だと思う。刑事の勘という奴だ。
自分と入れ違いに、館から立ち去る俯きがちな女を見て、何処かで見たことのある顔だと思う。
「おい、ありゃあ、確か女優の……」
「お客様のプライバシーでございますので、どうぞご内聞に」
やはり、女優のナタリー・サンクレアだったか。痩せてやつれているのでちょっと見には分からなかったが……確かご亭主を事故で亡くしたんだったよな。それで、絶望しちまったんで、【幸福画廊】って夢物語に縋り付きに来たわけか? まったく金持ちの考えることってのは、解らんぜ。俺には関係ないけどな。
「セント伯爵、知ってるな? ここで絵を買った……」
「さて? 当画廊では沢山の絵を扱っておりますので……。確かにそのようなお客様がいらしたようにも覚えますが……」
そらとぼけてやがるな……。この朱里って執事、いけすかねぇ。
ダグラスはムッとする。大体、顔の良い上にキザったらしい男など、結婚サギ師かホストだと、この世の相場は決まっている。
【幸福画廊】。その噂を聞く度に、ペテンか眉唾モンだろうと感じてはいたが、当初の目的とは別に、そっちの探りを入れてみるのも悪くない。ダグラス刑事はそう思った。
■
「2日前、伯爵邸に賊が侵入し、伯爵秘蔵の絵画や美術品、十数点が盗み出された」
「ああ、はい。新聞に大きく載っておりましたね。先頃から横行している美術窃盗グループの仕業だとか。物騒な世の中になったものです。全く警察は何をしているのやら……。おっと、これは大変失礼なことを申しました」
バカ丁寧に頭を下げられ、ダグラスは更にムッとする。ゴホンと一つ咳払いをして、先を続けた。
「その盗まれた絵の中に、この画廊で買った絵も含まれているんだそうだ。他の美術品についてはどれも有名な物ばかりで、写真だのレプリカだの、資料が幾らでも揃うんだが、伯爵の話だと、ココで買った絵だけは全くそういう物がないそうでな。それで、販売元のお宅らに話を聞きに来たってわけさ」
「左様でございましたか。しかし、話と申されましても、これといって何も……」
「探し出す手掛かりに、盗まれた絵の特徴とか、来歴とか、作者とか、市場価値とか、そういったもんが知りたいわけだ。ああ、当然写真もな」
ノックが鳴って、小鳥がお茶を運んできた。
「写真はございません。来歴というのも特に。市場価値も無きに等しゅうございますねぇ。何せ、市場に出たことの一度も無い絵でございますから」
「ああ? 普通、画廊ってのは、カタログとか資料用に、絵の写真は撮っとくもんじゃないのか? 大体、高額で売り買いされる美術品ってのは、それ相応の保険に当然入ってるだろう? その書類に写真は不可欠だろうが!」
「当方で扱う絵で、保険契約を結んでいるものなどございませんよ」 朱里がクスリと笑う。
「その都度、お客様のご要望に合わせてお描きする絵でございます。ただお一方の為だけに生み出される絵でございます。ですから、出来上がった絵は必ずお客様ご自身が買い取って行かれますし、その絵が手放されて市場に上ることも、まずあり得ません。当画廊の扱う絵画は、非常に特殊なものなのです」
「……それを、このお坊ちゃんが描いてるって言うのか?」
ダグラスは、朱里の横に座っているまだ年若い白野を見る。着ているものは、細身の丈の長い白の中国服にズボン。そのくせ、顔立ちは栗色の巻き毛に青い瞳と、思いっきりな西洋風ときている。まるでメルヘン小説に出てくる白馬に跨った王子様といった雰囲気だ。
こいつが。このお坊ちゃん面した発育不良坊やが、噂にしおう【幸福画廊】の大ボス?
あり得ねー! とダグラス刑事は心の中で叫んだ。どちらかといえば、この執事だと名乗る朱里。こいつが影のボスなのだ。きっとそうに違いない。
「ああ、そうでした」 朱里が唐突に手を叩いて、ダグラス刑事の注意を引く。
「写真は1枚もございませんが、セント伯爵様の絵には、下書きがあったように思います。絵の雰囲気を知るための良い材料になるでしょう。しばらくお待ち頂けますか? ちょっと捜して参りますので」
朱里はそう残すと、小鳥を呼んで、二階へ上がっていった。
■
「これが下書きか?」
「左様でございます。これは鉛筆で描かれたラフ・スケッチですが、実際に伯爵様にお渡しした物は、油性画でございました」
「……」
自慢じゃないが、俺は絵の価値など解らない。芸術音痴で、絵に描かれた三段腹の裸婦像なんぞを見るよりは、そこら辺の道ばたで売られているヌード・グラビアでも眺めている方がずっと胸にクルものがある。
それは確かに認めるが、おいおい、この絵を絵画コレクターとしてその筋では有名なセント伯爵が、有り難がって買ったってのか?
あり得ねー! とダグラスは思う。別に下手くそだとは言わないが、こんな絵を大の男が部屋に飾って楽しみたいか? ヌード・グラビアがマシだろう。
「で、こいつを幾らで売ったんだ?」
そう単刀直入に尋ねられ、朱里が少し困った顔になる。
「その辺は……企業秘密と言う訳には?」
「警察を舐めてんじゃねーぞ!」
「いた仕方ございませんねぇ……。まあ、謝礼金と申しますか、お心付けと申しますか……」
ダグラス刑事をちょいちょいと指で手招き、その耳に顔を近づけて囁いた。刑事の目玉が丸くなる。
「……お前ら、マジでサギだろう!? それとも新手の宗教か? 善良な市民騙して法外な大金をせしめるなんざ、例え、おてんとうさんが許してもこの俺様が許さねーぞ」
こんなボロ絵にその値段だと? 止めた止めた。くだらねぇ、こんな絵なんぞ、捜索リストに入れられるか!? 馬鹿馬鹿しいったらありゃしねぇ!
■
「ちょっと、あんた、待ちなさいよ。誰が詐欺師ですって? 誰が他人を騙してお金をせしめてるんですって?」
小鳥だった。廊下でまたもや盗み聞きしていて、この刑事の言い草に黙って居られなくなったのだ。バン! と扉を開け放ち、大股でダグラスに向かって行くと、大柄な男の胸倉を掴まんばかりの勢いで、食って掛かる。
白野様はここを訪れる人の為に、その人が自分ですら気づかないような心の奥底に潜む想いを、本当に身を削るようにして描いているのだ。その人を救う為に。幸福になってもらう為に……。小鳥はそれを間近に見て、感じて、知っている。だからこそ、わたしはこの【幸福画廊】のメイドになろうと思ったんだもの。ちょっとでも何か役に立ちたいって思ったんだもの。
そんな【幸福画廊】の事を、白野様の事を、悪く言うなんて許せない。
陰険執事は……まあともかくとして。
「有りもしない冤罪をでっち上げてる暇があったら、さっさと帰って、美術窃盗団でも捕まえて見せなさいよ! このトンチキ刑事!」
「な、何だ何だぁー、ここのメイドはドアの向こうで立ち聞きする上に、口と態度まで悪いのか? 最悪メイドだな」
「ウルサイわね! さっさと出て行かないと、熱い紅茶を頭からぶっかけるわよ! 大体ね、絵の価値なんて警察風情が決めるもんじゃあないんだからね、クタバっちまえ! 腐敗警察!」
「な、なにをぉ~」
クックック……
場違いにも忍び笑っているのは、この館の主・白野である。彼は、ダグラス刑事への応対を全て召使いの二人に押しつけておいて、自分は何とも可笑しそうに、うっすらと目尻に涙まで溜めて、笑っているのだ。ある意味、精神構造の最も読めない人物であった。
「当家のメイドの躾が行き届いておりません事は重々承知しておりますが、私と致しましても、貴方の頭の上で、ポットがひっくり返されるのを、眺めてみたい気分でして……。申し訳ありませんが、クリーニング代が不要の内に、とっととお帰り願えませんか?」
有無を言わさぬ態度で、朱里が、その場の混乱に終止符を打った。
■■4
ダグラス刑事が出て行ったのを仁王立ちで見届けて、塩でも蒔いてやろうかと考えていたら、驚いたことに、とうに帰ったとばかり思っていたナタリーが、玄関ポーチのその陰に所在なげに立っていた。朱里も気づいて、深いため息をつく。不承不承と言わんばかりの様子で、再び館に招き入れた。
「あれほど愛した夫を、今更こんな風に疑うだなんて……わたくしを愚かな女だとお思いでしょうね?」
自嘲気味にナタリーは、そう言った。首を巡らせて窓の外を見遣る。あの人の葬儀の日の空も、こんな、しとしとと雨の降る、陰気で暗い色だった。
<きっかけ>は、ほんの些細な他人の一言。
葬儀に参列していた、女優仲間が交わしていた、たわいもないおしゃべりだ。
「……ほら、結婚記者会見の時、マスコミに見せてたじゃない? ペアのロケット」
「ああ、マリッジリングの代わりってアレ?」
「そう。何でも、監督。そのロケットをね、握りしめたまま亡くなってらしたそうなのよ。妻の写真を抱きしめて……だなんて。本当に奥様を愛してらしたのよねぇ~」
そうだった。突然の事故に見舞われた夫は、銀のロケットをその右の手にしっかりと握りしめたまま絶命していた。とても強い力で握りしめられていて、誰もその手を開くことが出来なかったくらいに。
わたくしは、嬉しかった。死の直前まで、夫がわたくしの事を思い続けてくれていたのだと分かったから。そして、同時に、わたくしの哀しみはいや増した。ああ、あなた、どうしてわたくしを置き去りにして逝っておしまいになったの?
夫の遺志を汲む形で、わたくしは、夫の手の内に銀のロケットを残したまま、亡骸を棺に納め、そして沢山の美しい花々と共に、荼毘に付した。わたくしの肖像と一緒に、夫は白くて細い一筋の煙となって、高い空へと還っていった。
「ふん、本当にそうかしら?」
それは、ライバル事務所に所属する女優の……きっと、やっかみ半分の一言だったに違いない。
「みんな、奥さんの写真を握りしめたまま死んだだなんて、美談ぶって語ってるけど、実際はどうだかねぇ?」
「どういうことよ?」
「ロケットの中身なんて、簡単に入れ替えられるじゃない? あの人達ってもう結婚して何年目? 今も本当に奥さんの写真が入っていたのかどうかなんて、分かりゃしないじゃない?
監督ってば実はさ、ロケットの中身が奥さん以外の女に変わっているのがバレるのが怖くて、咄嗟に握りしめちゃったのかもよ? だとしたら大笑いよねぇ」
「もう、アンタったらホントに口が悪いんだから。……でも、そうよね。そのロケットの中身を実際に覗いて見た訳じゃあないんですものね。その推理ってば面白ーい」
■
「わたくし、その会話を物陰で聞いてしまったんです。非道いと思いましたわ。あの人たちは知らないんです。ロケットに納まっているのが、写真ではなく、こちらで描いて、はめ込んで頂いた二人の細密画だなんて。他の物に取り替えることが出来るわけもないんだなんて」
わたくしは泣いた。悔しくて、哀しくて、寂しくて、ずっとずっと毎日を泣き暮らした。主人はあんなにわたくしを愛してくれていたのに。わたくしの肖像だからこそ、それを握りしめてくれたんだのに。
「悔しかったというお気持ちは分かりますが、貴女さえご主人の事を信じておられるのなら、それで充分ではありませんか。そうでしょう?」
ドアの向こうから、朱里の低い声が漏れてくる。
室内の様子をこっそりと窺っている小鳥は、朱里の意見に納得出来ないと思った。だって、そんなの女として悔しすぎる。自分の夫は自分のことを最期の最期まで想い続けていてくれたというのに、それを邪推されるだなんて、そんなのホントに悔しすぎる!
「そうか!」
小鳥は、ナタリーが今日ここへ来たわけが分かった気がした。彼女はきっと、ここでロケットの中の絵が描かれたんだってことの証明が欲しいんだわ。ご主人の監督が手の中に握りしめていた物が間違いなく自分の肖像だったんだってことを、そのイジワル女優達に見せつけて、謝らせてやるつもりなんだわ。
■
「違うんです……」
ナタリーが、か細い声でつぶやいた。
「そう……。最初の内は、わたくし、とても憤っていたんです。わたくしはともかく、主人の心を侮辱するだなんて許せないって。でも、ある日、ふと……思い出してしまったの……」
「何をです?」
「あの日……出来上がったロケットを受け取りに、主人といっしょにこちらに伺った時の事を、ですわ」
あの日。出来上がった細密画入りのロケットを、わたくしたちは、それぞれに受け取った。
わたくしが自分に手渡された金のロケットの蓋をそっと開けてみると、中には確かに夫が居た。とても、とても美しい仕上がりで、愛する人の穏やかな顔が、小さな楕円の金枠の中から、わたくしに微笑みかけていた。
「とても素晴らしい出来ですわ。わたくし、大切に致します」
「お気に召して頂けたご様子で、私どもも嬉しゅうございます」
朱里がそう返して、優雅に一礼する。
「あなたはどう?」
白野が夫に向かってそう訊いた。夫の銀のロケットを持つその手は、微かに震えているように見えた。きっと、夫もわたくしと同様に、【幸福画廊】の絵の出来映えに感動しているのに違いなかった。本当に生きているようにすら感じる、とても素晴らしい肖像だもの。夫のロケットの中のわたくしも、彼に笑みを投げかけているに違いないわ。
「そちらの絵も、早く見せてくださいな。楽しみだわ。わたくしはどんな風に描いて頂いているのかしらね?」
いけません!
「夫の手の中を覗き込もうとしたわたくしを、あの時、貴方、お止めになりましたわね?」
そして、続けてこう言ったのだ。
「【幸福画廊】の絵は、たった一人の為だけに描かれます。ですから、本来、他の方が見てはならないものなのですよ。どうか、誰にも……お互いにすらお見せにならずに、ご自分だけの物として、大切になさって下さい。そうでないと、この二つの絵に掛けられた幸福の魔法が解けてしまいますからね」
■
「僕は、あなた達の希望通りに、二人の胸の中にある<最愛の人>を描いた。あなた達の幸せを願いながら」
白野が夫を見上げながら、そう言った。「でも、もしも気に入らなかったなら、描き直すよ」
あの時の、この少年の瞳、まだ覚えている。深い澄んだ湖を連想わせるような、キレイで透明な青い瞳。多くのことを知り、癒し、優しく包み込んでいるような穏やかな色。
夫は、しばらく少年と見つめ合っていた。夫の瞳にも深い青の色が移り込んだかのように、それも美しく穏やかだった。そうして、夫はロケットの蓋を静かに閉じた。
「いや。確かにこれは名声高い【幸福画廊】の絵だ。……素晴らしい物です。肝に銘じて、一生涯大切にします」
そして、夫はわたくしに向き直ると、こう言った。
わたしは必ず君を幸せにするよ。約束する。だから、君も約束しておくれ。互いのロケットの中は見ないって。この【幸福画廊】の魔法が決して解けることのないように。
「わたくしたち、【幸福画廊】の言いつけを守って、決してお互いの肖像を覗き見したりはしませんでしたわ。わたくしたち、愛し、愛されて、幸せでした。これもきっと【幸福画廊】の魔法のお陰ね、って……。幸福の魔法が間違っても解けないように、絶対に見たりはしなかった。いいえ、見たいとすら一度も思わなかったわ。毎日が幸せでとても満ち足りていたんですもの」
でも……
ナタリーは自分の金のロケットを強く握りしめる。
でも、今は見たくて、見たくて、仕方がない。これと対の銀のロケットの中に描かれていた肖像は、本当にわたくしだったのか? それが知りたくて仕方がない!
■
テーブルに用意された紅茶は、誰の手も付けられぬまま、すっかり冷め切ってしまっていた。外の雨は降り止みそうにもない。しとしとと何時までも絶え間なく、途切れることなく降り続く。
まるで、わたくしの心のようだ……
ナタリーはふと、そう思う。きっかけは、そう。ほんの小さな些細な事。空気中に含まれる小さな塵の一粒を核にして、そこに少しずつ水蒸気が集まり、それがやがて大きな雲に成長する。そして、自分の重さに耐えられなくなり、雨となって溢れだす。
わたくしの心に芽生えてしまった小さな疑惑の種。
一つが発芽すれば、枝を伸ばし、根を広げ、もうその生長を止められない。愛し、愛された日々。幸福だった結婚生活。でも、今はもうあの全てが疑わしい。懐かしい夫のあの、はにかむような笑顔の記憶さえも呪わしい。
わたくしはあの人に騙されていたのではないかしら? あの「愛」と信じた日々は嘘だったのではないかしら?
「私たちはお互いの<最愛の人>を描いて下さい、と【幸福画廊】にお願いしました。そして、描いて頂きました。わたくしの最愛の人の絵は、確かに夫の顔でした。でも、夫は? あの銀のロケットに描かれていたのは、一体誰だったのですか!? わたくしだったの? 違ったの? どうか、教えて。この狂おしい想いからわたくしを解放して下さい!」
感極まって泣き出すナタリーを、画廊の二人は静かに見詰めている。
「愛しておられたのでしょう? ご主人を。何故信じ続けて差し上げないのです?」
「信じたの。信じたいのよ。でも、あの人はもう居ない。自分を信じろと言ってくれない。わたくしに愛してるって囁きかけてくれない。わたくしを抱きしめる手はもう2度と戻っては来ない」
信じ続けていたかった……。
信じきれなかったことが悪いのか、信じさせなかった事が悪いのか、
それとも。そもそも、信じたことこそが悪かったのか?
「……ねぇ」 白野が始めて口を開いた。
「何をもって、<真実>とか、<偽物>だとか。そんなことを貴女は言うの? 彼自身? 彼との思い出? それとも、ちっぽけな絵の1枚?」
愛を信じることも、それを信じさせることも、どちらも簡単なことじゃあないよね。でも、ご主人はそれを成し遂げていたでしょう? ……だから、貴女は泣くんでしょう?
■■5
昨日とはうって変わって、今日は朝から快晴だった。窓からは明るい光が差し込んでいるが、小鳥の心は暗く晴れない。主の白野はある依頼人の頼みで、朱里を伴って出かけている。小鳥は独り留守番である。
昨日やり残していた、廊下の拭き掃除を続けながら、時折り大きなため息をつく。小鳥はショックを受けていた。結局、可哀想なナタリーは白野からも朱里からも、何も答えを貰えなかった。
「亡くなったご主人との約束を違えることはできません」
その一点張りだった。その気持ちも分からぬではないが……。やはり、それではあまりにもナタリーの想いが哀しすぎる。
大体、真実はどうなんだろう? 白野様が銀のロケットに描いた<最愛の人>は、彼女の疑惑通り、ナタリーではなかったのだろうか? でも、白野様はロケットの絵を「二人の幸せを願って」描いたと言っていた。夫婦の幸せを祈って作られる絵に、そもそも夫婦以外の人物が描かれることなんて、あり得るのか? そんなことが出来るのか?
「……しかも、白野様ってば依頼人に対して、絶対嘘を付かない人なのよねぇ~」
大きな大きなため息が出る。この考えは堂々巡りだ。1つの疑問が次の疑問を投げかける。そして、その疑問は更に先の疑問へと繋がり膨らむ。それに足下を掬われて、もう身動きが取れなくなる。
■
「大体さ!」
ビチャっと牛乳を床にぶちまけて。腹立ち紛れに、小鳥はモップをゴシゴシと力任せに床の敷き板に擦りつける。
「大体、ナタリーさんを描いたのにしろ、もしかして違う女性を描いたのにしろ、もうそんなことはどうでもいいから、『ナタリーさん、ロケットに描かれていたのは間違いなく貴女ですよ』とか、言ってあげればいいんじゃないの!」
『嘘も方便』って言うじゃない。それが一番良いんじゃない。全てが丸く収るんじゃない。
だって、旦那様もロケットも、もうとっくにこの世にはナイんだから。どっちも焼かれて消えて無くなっちゃったんだから。ナタリーさんには真実なんて分かりようがない。白野様か朱里さんか、どちらかが「イエス」と言えば、「イエス」だし、「ノー」って言えば「ノー」なのよ。誰もそれに異議を唱えることなんて出来ないわ。
「とにかく! このままじゃ、ナタリーさんは可哀想すぎるわよ!」
幾ら腹を立てていても、床に大量の牛乳を振りまいたのはまずかった。小鳥は濡れた床で滑ってしまい、したたか腰を打ち付けた。それはそれは痛かった。多分青あざになっているだろう、と小鳥は思った。
■
チャイムが鳴って、小鳥は痛むおしりをさすりさすり、階段を下っていった。昨日に引き続き、この館の玄関ベルがこうも頻繁に活躍するのは珍しい。あと1回でも鳴ろうものなら、ギネス更新だわね……と小鳥は思う。
ドアの外に立っていたのは、昨日のダグラス刑事で、小鳥は心底うんざりする。
「主人も執事も、どちらも揃って外出中です。お話でしたら、アポを取ってからまたお越し下さい。さようなら!」
そう言って、さっさと扉を閉じようとしたが、
「わー、待て待て!」
っと、止められた。片足をドアの隙間に差し込まれてしまって、きちんと閉じてしまうことが出来ない。そうこうしている内に、玄関の内にまで入り込まれてしまっていた。なんて力の強い男だ。
「何よ! こーゆーのって、不法侵入って言うんじゃないの? 警察呼ぶわよ!」
「はいはい。お呼びでしょうか? その警察です」
しまった、モップを持って降りてくるんだった。そうしたら、こいつの顔を牛乳まみれにしてやれたのに。
「いや、冗談だって。そう尖るなよ。今日は仕事で来たんじゃねーから。俺、謝りに来たんだって」
「はあ?」
「昨日は、最悪メイドだの何だの、色々言って悪かった。すまん!」
手の平を返したような態度とはこの事だ。昨日と今日のお天気のように、180度雲行きが違う。
「一体どういう風の吹き回しなのよ?」
「いや、その、なんだ。俺にも思うところがあってだな」
胡散臭いなー、とは思ったが、何となくクサクサして、話し相手が欲しかったのも事実である。
「……まあ、いいわ。丁度お茶の時間よね。一人で飲むのもつまんないから、付き合いなさいよ。美味しいとっておきのお茶菓子もあるわよ」
「おお! 俺は、賄賂は謹んで受け取る主義だ」
誰がおまえなんぞに贈賄なんかするか! バカ!
心の中でそんな罵声が浮かんだが、幾ら何でもそれをそのまま口にするほど、小鳥も直情思考ではないのだった。
■
「おお! このチーズケーキ、ホントに美味いな」
「でしょ? 当家自慢の名コック、執事サマの一八番よ」
「なんだ? あいつは料理もやるのか?」
「料理、洗濯、お裁縫、家電の修理に絵の具の調合。害虫駆除からメイドいびりまで、オールマイティ。何でもやるわよ」
「……得体の知れねー執事だな」
ケーキを口いっぱいに頬張りながら、ダグラス刑事が呻る。
「まーね。でも、いい人よ」
「ふーん」
「悪い人でもあるけどさ」
「何だ? そりゃあ」
「言ってるわたしにも、よく分かんない」
ふふ……っと、小鳥は小さく笑う。
何だがここでは色んな事が次から次から起きて、わたしはその度に沢山のことを考える。万華鏡を覗くと、くるくる不可思議な風景が回転するのに似て、わたしの心もくるくる回る。
でも、それって嫌いじゃない。わたしは【幸福画廊】が嫌いじゃない。
「人間ってさ、イロイロだなー、って思うのよ」
「『真実の横顔』って奴だな」
「なぁに? それ」
「昨日あれから、伯爵邸に行ったんだ。そこでウンチクを学んだのさ」
■■6
セント伯爵は、美術コレクターとしてのみならず、篤志家としても知られている。ダグラス刑事が子供の頃入っていた施設に、伯爵が慰問に来ていたという経緯から、二人は元々面識があった。
「伯爵、他の絵はともかく、あの眉唾もんの【幸福画廊】の絵なんざ、捜索リストから外しちまってもいいですね?」
「ダグラス。お前さん、またわしの話をちっとも聞いとりゃせんかったな? わしは、他の美術品は後回しにして、兎に角、【幸福画廊】の絵を捜してくれるようにと、そう言うたじゃろうが」
施設を慰問に来ていた頃の伯爵は、当時からもう白い口髭を蓄えた爺さんだったが、まだ杖をついてはいなかった。自分の身体が大きくなるのに比例して、伯爵はだんだん縮んでいく。俺も流石に二十歳を過ぎて、もうデカくはならないだろうから、この人にももうこれ以上、縮んで欲しくないもんだ……と思う。
「あの画廊の連中は、胡散臭すぎる。あんなインチキ商売に騙されるほど、ボケちまったんじゃないでしょうね? そのうち、幸運の金の便座とか売りつけられんで下さいよ」
「何じゃ? 【幸福画廊】の住人どもに会うたんかい?」
「会いましたよ。ベビードールみたいな画家と、外見も腹の中も真っ黒そうな執事と、妙に威勢の良いメイドが居ました」
「ほっほっほ……その姉ちゃんは美人じゃったか?」
「デッカイ目玉がくるくるよく動く姉ちゃんでしたよ。『並』です」
「まあ、おなごはいいわい。儂ゃ、あの画廊の白野クンが好みでのー」
「アンタ、まだその悪趣味、改善されてなかったんですか?」
「『衆道』は貴族の嗜みじゃ!」
ダグラスは、自分が老人の嗜好に合わぬ外見であることを、心底神に感謝する。そういや、州警の本部長が、彼の『お手つき』だという噂は本当だろうか? 確かに本部長は往年の美少年ぶりを彷彿とさせる端正な容姿の持ち主だが。
「他の絵なんぞいいから、【幸福画廊】の絵を取り戻してくれ!」
「どうして、そんなにあの絵がいいんです?」
「そりゃあ、お前さん、決まっとる。あの絵の価値を知っておるのが、この世で唯一、儂一人だけだからさ」
■
セント伯爵は、豪華な室内の一角に設けられた、大きな書棚を杖でもって指し示す。
「ええかの? あそこに納められとるんは、美術全集でな、今回盗まれた品の多くは、あの中にも掲載されとる」
「天文学的な価値のあるもんも多いと聞いてますよ。そういう美術品と比べて、あの画廊の絵の何処がそんなにいいっていうんです?」
「つまりじゃ。先頃、惜しくも永逝したA国の天才画家、ジェームズ・E・アイヒマンの絵だの何だの。それらの価値は、芸術音痴のお前さんみたいな者まで含めて、世界中の万人が知っておる、ということじゃよ」
例えばだ。それを誰かが偶然拾ってしまったとして、あっさりゴミに捨てたりするか? 粗末な扱いが出来ると思うか? そう老人はダグラスに問うた。
高名な芸術品が、自分の手元から奪われたとしても、それは決してその作品の<消滅>を意味するのではない。今は悪人の手元にあっても、やがて歴史のその先で再び世間に戻ってくる。
「奪うて行ったのが、美術品ばかり専門に狙う、窃盗団だというなら尚更じゃ。しかし、あの画廊の絵の価値は……儂だけにしか解らんのじゃ。簡単にこの世から消されてしまう。儂は……儂はそれがのぅ、この身を割かれるほどに忍びない……」
老人が薄い瞼をしょぼしょぼと瞬かせる。
「あれは、儂だけの為に描かれた珠玉の名品。そうなんじゃよ。」
■
「ダグラス、ちょっとこっち来てみぃ」
伯爵が自分を手招きする。ダグラスが老人の傍に寄ると、
「お、そこじゃ。もちっと右寄りに立っておれ」 言われたとおりに、立ってみる。
「今、お前さんの目の前には何がある?」
「べっぴんさんの胸像」
「じゃあ、こっちの方へ回ってきて、像を正面から見てご覧」
「……あ!」
美の女神を象ったのであろうこの像は、右から仰ぎ見た時には全く気づかなかったが、その左半身は無惨にも焼け爛れ、溶け落ちていた。
「あっち側から見ても、分からんじゃろう? 悲しい戦争の爪痕じゃ」
「ひでぇもんだな」
「非道いもんじゃ。じゃが、この女神さん、儂はこの傷があるからこそ美しいと思うとる」
老人はそう言って、像の傷口を優しく撫ぜる。
「この女神さんはな、昔。非道く辛い目に遭うたんじゃ。儂と同じく戦争を知っとる。儂の心と同じ場所に傷がある。儂の子供の頃の記憶なぞ、この像と同じで、焼け爛れて傷だらけじゃ。それは儂だけが知っていて、他の誰にも見えん傷口じゃがな」
老人はこの像を『真実の横顔』」と呼んでいる、と言った。
「物の価値だの、真価だのはな、人それぞれの考えや、生き方によって、違うてくる。本当の真実なんて、そんなものはありゃあせん。それぞれの胸の内に潜めたものだけが、その者の信じる真実じゃ。儂は、この胸像を見て、そう気づいた」
【幸福画廊】の絵もな、そういう絵なんじゃよ。人の心を写す絵じゃ。傷口を共有し、そして癒してくれる絵じゃ。解ったか、ダグラス? 小難しい話になってしもうたが、知恵熱出して寝込んじゃいかんぞ。
老人の言を、謹んで拝聴していたダグラスは、彼の最後の台詞にがっくりと肩を落とす。ああ、全くこの爺さんは、いつも一言多いんだ……。
「この傷があるからこそ、この女神さんは窃盗団には盗まれなんだ。儂と女神さんには幸いじゃったの」
セント伯爵がそう言って笑う。この爺さんが、親のない俺の<人生の師>だ。
そうかい、爺さん。爺さんに取って真実に価値がある物ってのは、俺みたいな青二才に量り知れるような半端なもんじゃねぇんだな。
【幸福画廊】の絵を捜そう、とダグラスは思った。爺さんの心を取り戻してやろう、とダグラスは思った。
■■7
「ふーん、『真実の横顔』かぁ……」
小鳥は、ダグラス刑事の顔をじっと見詰める。
「なんだよ」
「ねぇ、ちょっと横向いて見せてよ」
「ああ?」
怪訝そうにしながらも、小鳥の言葉通り、ダグラス刑事が横を向く。
「……どうだ? 俺の『真実の面』を見つけたか?」
「あんまし、ハンサムとは言えないなーってくらい?」 ダグラスは思わず、コケそうになった。
「あんた、今までの俺の話、ゼンッゼン通じてねぇだろう?」
「ん。知恵熱出そう」
「ご同類か。実を言うと、俺も後遺症で、今朝起きた時頭痛がしたよ」
紅茶を注ぎ足しながら、小鳥は大きなため息をつく。
「真実か……わたしも今それで悩んでいたりするのよねぇ……」
「はん?」
「ほら、刑事さんも昨日ここですれ違ったでしょ? 女優のナタリー・サンクレア。彼女のは・な・し」
「ああ、彼女、痩せてたよなぁ。まだご亭主の死から立ち直れてないんだな。おしどり夫婦で有名だったもんな、気の毒に」
「そうなんだけど……ちょっと事情がフクザツなのよ」
そして、その時、唐突に。小鳥にある良策が閃いた。
■
「ちょっと……そうだわ! 下書きよ!」
「な、何だぁ~? 急にデカイ声だして」
セント伯爵の絵に下書きがあったように、ナタリー夫妻の絵にだって下書きがあるかも知れないわ。だとしたら、ロケットの中に描かれていたのが誰だったか、真実がはっきりするんだわ。
ああ、そうだ。そうなんだ。わたしってば、ホントに馬鹿だ。どうして今まで気づかなかったんだろう?
「ちょっと、ダグラス刑事、アンタも手伝いなさいよ! 捜し物が商売なんでしょ? 白野様達が帰ってくる前に、絶対見つけ出さなくちゃ」
「おいおい、一体何を捜そうって言うんだ? 主が戻る前にって、まさか非合法な事やらかそう、ってんじゃねぇだろうな?」
「大丈夫。人助けよ、人助け!」
わたし、昨日、セント伯爵の下書きを捜す朱里さんの手伝いをしたわ。資料部屋は、几帳面な彼の仕事らしく、とっても丁寧に年代別のファイリングがされていた。ナタリーさんが結婚した年は覚えてるし、そのちょっと前のファイルを捜せば良いはずだもの。きっとすぐに見つかるわ。
二人は二階に駆け上がる。
「いーい? ナタリー・サンクレアが描かれているファイルを捜して。刑事さんはこっちの端から。そしてわたしは反対からよ」
■
玄関チャイムの音が響いた。ギネス物だ。ああ、確かに。
「お、おい。ここの奴らが帰ってきたんじゃないか?」
「馬鹿ねぇ、違うわよ。自分の家に入るのに、わざわざチャイム鳴らす人なんかが居るわけないでしょう? 多分、きっと、押し売りよ」
もう一度、チャイムが押される。
「おい、お前出なくていいのか?」
「うるさいわねぇ、わたしは今、忙しいの! 刑事さんが出てくれればいいでしょう?」
「何で俺が?」
「ほら、いいからさっさと行く!」
あり得ねー! そうぼやきながら、ダグラス刑事が降りていく。小鳥はそんな事には構わずに、ファイルを懸命に捜している。
4月のファイル……5月のファイル……6月のファ……
「あったー!!」
「え、何だって? 何が何処に?」 ダグラス刑事が階段を駆け上ってくる。
「ダグラス刑事、在ったわよ、ほら、ナタリー・サンクレアの絵の下書、き……」
嬉々として振り返った小鳥の目に映ったのは、ダグラス刑事と、その後ろに立つ、ナタリー・サンクレア。その人だった。
■
「あの、わたくしの絵の下書きって?」
「あ……いえ、あのその、こ……これはですね……」
「ごめんなさいね。わたくし、どうしてもこちらに足が向いてしまうのを押さえることが出来なくて……」
「い、いえ。あの……」
「その中に、主人の最愛の人の絵が入っているのね? そうなのね?」
あー! もう、ダグラス刑事ったら、どうして彼女を二階まで上げちゃうのよ? 何で玄関で待たせるとか、客間に通すとか、出来ないのよ?
あとたった五分でも前にこのファイルが見つかってたら、ナタリーに下書きの存在を知られる前に、中身を確かめることが出来たのにー!
もしも、もしもよ。この中に入ってる下書きの絵がナタリーじゃない別人だったら、どーすんのよ!? わたしぃ~?
「そうなんでしょう? お願い、それを見せて下さい!」
「……」
ナタリーが必死の目で小鳥を見つめる。
小鳥は、観念した。腹を括った。違う。ダグラス刑事の所為じゃない。自分がちゃんと出て行かなかったのが悪いのだ。全部わたしの責任だ。
「……そうです。この中に、ロケットの絵の下書きが入っています」
カサ……っと乾いた微かな音を立てて、スケッチが取り出される。少し湿った、カビくさい臭いがして、何だか妙に切なくなる。
封筒の中には二枚の紙が入っていた。
上の一枚は、確かにナタリーのご主人の絵だ。小鳥は写真で見知っているだけだが、よく特徴が捕らえられていると思う。
そう。きっとこれが、ナタリーの金のロケットに納められた絵の下書き。
じゃあ、この下の1枚が……
小鳥はじんわりと沸いてきた生唾を飲み込む。
神様!
小鳥は震える手で、紙をめくり上げた。
■
「……」
それは、女の横顔だった。鉛筆で走り書きされてような、とても簡略なラフ・スケッチ。
しかし、その面立ちは確かに、確かに。
ツンと高い鼻、細い顎のライン、すっきりと伸びた美しい首筋。
確かにナタリー・サンクレア。彼女自身に間違いない。
良かった! ご主人が愛してたのは、やっぱり奥さんだったんだ。
二人は相思相愛で、白野様は幸せな二人をちゃんと描いてらしたんだ!
小鳥は叫び出したいくらいの喜びに駆られた。良かった。ナタリーさんの心は、きっとこれで癒される。
「わたくしじゃない……」
歓喜に沸き上がった血液が、瞬時に凍り付くような。そんな言葉がナタリーの口唇からこぼれ落ちたのはその時だった。
「違うわ。これは、わたくしじゃない。わたくしは一度も……肩よりも短い長さに髪を切り揃えた事はないんです。これは、10年も前に亡くなった、わたくしの双子の妹です……」
■■8
「どうしました、小鳥さん? 食が進まないようですが」
「……」
もう、夜になっていた。白野と朱里が戻っていて、三人で同じ食卓を囲んでいる。
ナタリーは既に居ない。ダグラス刑事ももう居ない。
「おなかでも壊しましたか? ああ、そういえば、私が作っておいたケーキ。ホール丸ごと跡形もなかったようですが、まさか一人で食べてしまったんじゃあないでしょうね?」
「……ごめんなさい」
「いえ、別に食べた事を咎めているのではありませんよ。ただ、食べ過ぎるな、と言っているんです」
「……本当に顔色が良くないね。朱里、棚から薬箱を……」
ぽろぽろぽろ……
俯いた小鳥の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
ダメだ。やっぱりわたし、黙ってられない。この二人に嘘なんか付けない!
「どうしました? そんなに辛いんですか? 少し横に……」
「ご、ごめんなさい、白野様。わたし、白野様たちの留守中にやっていらしたナタリーさんに、あのロケットの下書きを捜して見せてしまったんです!」
白野の眉が軽く上がる。朱里の瞳が、細く眇められた。
「わたし、ホントにバカだから、勝手な真似をして……。ナタリーさんのご主人の最愛の人は、彼女の妹さんだったってことを、ナタリーさんに知られちゃったんです……」
「そう……見せちゃったんだ」
ぽろぽろと涙が溢れる。
わたし、もうこの館に居られなくなる? この館を追い出されちゃう?
【幸福画廊】で働けなくなる?
「ごめんなさい、わたし、わたし」 辞めたくない! 小鳥は思った。
わたし、ずっとここに居たい。そうよ……わたし「ここが嫌いじゃない」なんて、そんな程度に。
違う。ここが好きなんだ。大好きなんだ。わたし、ホントに本当に……
白野が小鳥の肩に手を乗せた。
「いいんだよ。過去はもう取り戻せない。……それで、彼女は何て言ってた?」
「もう……もういいって。本当のことが分かって、良かったって」
■
「いいのよ、あなたはわたくしの為を思って、これを見せて下さったんですもの」
ナタリー・サンクレアは、不思議なほど落ち着いた様子で、そう言った。寧ろ、絵の主が自分でなかったことを喜んでいるように見えたくらいだ。
「有り難う。わたくし、これで踏ん切りが着きました。気持ちの整理がつきました。夫に裏切られていたことは悲しいけれど、何だか、真実が分かってすっきりしたわ」
まさか、主人の愛した女性が妹だっただなんて……。死んでしまった人たちに恨み言なんて言えないわ。主人は天国で妹と再会して、きっと幸せに暮らしていると思うの。もう、それで良いと思うの。 仕事に復帰して、沢山、良いお芝居に出て、そして……全て忘れるわ。
礼を言って去っていくナタリーを見送る。あんな強気な台詞を言っていたけど、実際はすごいショックを受けているんじゃないかしら? 本当に大丈夫なのかしら?
ダグラスが、小鳥に耳打ちする。
「おい、俺がちゃんと自宅に戻るまで見ててやるよ」
何が何だかよくわからんが、あんた、彼女が心配なんだろ? そうした方がいいんだろ?
小鳥は、こくこくと頷く。にやっと笑って男が出て行く。
ダグラス刑事。……ありがとうね。
「そう……」
小鳥の言葉に、白野は小さく頷いた。後から受けた連絡によると、ナタリーは無事に帰宅したらしい。余程昨日の彼女よりしっかりとした足取りに見えたと、ダグラス刑事は言っていた。
「小鳥ちゃん、頑張ったんだね」
白野のそんな言葉に、小鳥の涙は更に沢山溢れ出す。うえ、うえ……っと子供のようにしゃくりあげる。朱里がハンカチを差し出し、「鼻水が出てますよ」 と言った。
■
館の2階、白野のアトリエ。
窓の外には細い月が冴え冴えと浮かんでいる。白野はその月の光をキャンバスに映そうと、細い絵筆を動かしている。
自分から少し離れた場所で、新しいキャンバスに帆布を張る作業をしている男の、その名前を静かに呼んだ。
「朱里」
「はい」
今夜の月は、青白い輪郭を漆黒の夜空にはっきりと浮かび上がらせて、まるで鋭利な刃物のようだ。運命がある日突然振り上げる死の鎌の色とは、あるいはこんな光かもしれない。
「お前、小鳥ちゃんを利用したね。もう一枚の絵を隠したろう。小鳥ちゃんがナタリーさんの為に、下書きを捜し出す事を見越した上で……」
朱里が作業の手を止めた。二人の視線が交差する。
「僕はあの時、銀のロケット用に2枚の絵を描いた。本体を飾るために1枚。そして、蓋にはめ込む用にもう1枚。うり双つの女性の顔だよ。短い髪の1枚と、そして、長い髪をしたもう1枚」
三人は幼なじみだった。男は双子の姉妹の内、病弱な妹を選び愛した。しかし、その想いに、男自らが確と気づくゆとりすら与えずに、運命は余りにも早く、若い生命を天に召し上げてしまう。三人が二人になった。共に歩んで行きたいと思った。
彼は確かに死んだ妹娘の面影を忘れ去ることが出来ずにいたが、だからと言ってそれは、姉娘の想いを裏切ったことになるのだろうか?
「愛」とはそれほどまでに頑なに、他のそれの存在を拒むのか?
「お怒りですか?」
「……」
「どうしてです? 例え2枚目の絵があったとしても、どうせ、ナタリー・サンクレアはそれを信じなかったでしょう。信じる気のない者に事実を告げるなど、時間の無駄というものです」
■
彼女は既に<夫の愛>ではなく、<自分の疑い>をこそ信じていた。だからこそ、この画廊へ来たのである。 疑いを真実にする為の単なる<通過儀礼>として、画廊との繋がりを利用しようとしただけだ。既に彼女の内で用意された答えに見合う証拠のみしか、受け付けることはなかっただろう。
「基本的に【幸福画廊】の不思議とは、それを信じることで成り立ちます」
彼女は気づけなかっただけですよ。信じ続けることも、信じさせていくことも、どちらも同じくらい、とても難しいことなのだとは。
「……」
「貴方様があの日、ロケットの中に納めた2枚の絵には、『生きている者と共に生きよ』という意味も確かに含まれていたでしょう。私がやったのもそれと同じ事です。違いますか?」
彼女はこれからも生きて行かねばならない。夫の死という重い試練を乗り越えて。
それには、<私を愛してくれた夫>よりも<私を裏切った夫>である方が、ずっと楽な作業なのだ。彼女自身が無意識の内に、その方法を選択したまでのこと。自分が生きていく為に安易で都合の良い、一番手っ取り早い方法を取ったという、ただそれだけの事。
朱里が白野に近づいていく。何も言わず、月の銀光を背に受けて立つ主人の白い頬に、ゆっくりと手を伸ばす。
「理不尽ですね。貴方は全ての事をお許しになるのに、唯一、私にだけ手厳しい。それは私を信じておられるからですか? それとも信じておられないからですか?」
……非道い仕打ちだと思いませんか? そのうち報いを受けますよ?
朱里の指先が今にも触れそうに近づいた時、白野はその手を逃れて、すっと後ろへ一歩下がった。白野の口唇は固く引き結ばれ、朱里の頬には逆に薄い笑みが浮かぶ。
「……冗談ですよ。これからも未来永劫、私は貴方の<忠実なる召使い>です。何なりとご命令に従いましょう」
白野の視線が床に落ちた。
「なら……出ていって」
主人の言葉に、朱里が恭しく一礼する。
「かしこまりました」
■■エピローグ
白野のアトリエを出た朱里は、そのまま小鳥の私室へと足を向けた。
扉をノックすると、小鳥は既にパジャマ姿で、朱里の前に出てきた。沢山泣いたものだから、まだ瞼が腫れぼったい。
「小鳥さん、勤務時間外で悪いんですが、お休み前のホットミルクを、白野様に運んで差し上げて下さい」
「あら? それっていつも貴方が。珍しいのね」
小鳥は驚いた顔になる。実際、この館で働き始めてからこれまで、白野の世話に関する仕事を朱里から頼まれたことなど皆無なのだ。
朱里は、そんな小鳥の表情を見て、微かに笑った。
「抜かりました。お怒りを買ってしまったようなので、ね。私もまだまだ役に徹しきれない未熟者だと言うことです」
では、お願いしましたよ。そう、念を押すと、小鳥が口を開くのを待たず、朱里は自室に戻っていった。扉が固く閉ざされる。
不思議だな……と小鳥は思う。
わたし達、こうして一つ屋根の下で暮らしているのに、個々の部屋の扉が閉じられてしまえば、もうそれだけで、お互いがどんな様子かは分からない。今、誰が何を思っているのかも……。
【幸福画廊】
その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。
これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。
その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。
全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。
【幸福画廊】
そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。
■
ナタリー・サンクレアは、それからしばらくの後、映画界に復帰した。
最近では、新しい恋の噂もちらほらと持ち上がっているようだ。
美術品窃盗グループはまだ捕まらない。ダグラス刑事は、日々走り回っているらしい。
季節はやがて、秋を迎える。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
【R18】もう一度セックスに溺れて
ちゅー
恋愛
--------------------------------------
「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」
過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。
--------------------------------------
結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
完結【R―18】様々な情事 短編集
秋刀魚妹子
恋愛
本作品は、過度な性的描写が有ります。 というか、性的描写しか有りません。
タイトルのお品書きにて、シチュエーションとジャンルが分かります。
好みで無いシチュエーションやジャンルを踏まないようご注意下さい。
基本的に、短編集なので登場人物やストーリーは繋がっておりません。
同じ名前、同じ容姿でも関係無い場合があります。
※ このキャラの情事が読みたいと要望の感想を頂いた場合は、同じキャラが登場する可能性があります。
※ 更新は不定期です。
それでは、楽しんで頂けたら幸いです。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる