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第五章

第三十四話 諏訪湖にかかる虹

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「相変わらず、口だけは達者じゃな、こわっぱ。
スサノオよ、惑わされるな。こやつは我らの苦しみなど何も分かっていない。心の中では我らのことをあざ笑っておるのだ」

「あんたねえ」
 今にも爆発しそうなメイリーを抑えながらも、サクヤも怒りのあまりブルブルと手を震わせながらミズチをにらみつけていた。

「もう、何もかも遅い┅俺はすべてを捨てたんだ、もう、何も戻っては来ない┅」
「やり直すのに、遅いということはありません。
 今、あなたはすべてを捨てたと言いましたが、一番大切なものが残っているではありませんか」

 笠原の顔が苦悶にゆがんだ。
「俺は┅俺は┅」

「ふん、やはりおぬしもただの人間だったようじゃな、スサノオよ。もう、ふぬけには頼まぬ、われが直接射矢王を倒す」
 笠原を見限ったミズチが、何やら自信ありげにそう言って前に出てきた。

「馬鹿じゃない?あんたにできるわけないじゃない」
「ふっ、良いのか?われを殺せば、あの使霊の娘も死ぬぞ?」
「な、ど、どういうことよ?」

 俺たちは驚いて、笠原と使霊の少女の方を見た。
「誓詞呪縛だ┅二年前、この呪縛のやり方をこいつに教えてもらい、裏の連中と顔つなぎをしてもらう代わりに、契約の証しとしてユリカに誓詞呪縛をかけられた┅」
 笠原がうめくように言った。

「なんてことを┅」
「あんたって、ほんと卑劣さだけは一級品ね」
「ふひひひ┅お褒めにあずかり光栄だよ。さあて、まずはお嬢さん方から、いたぶってやろうか」
 ミズチは勝ち誇った顔で、メイリーとサクヤに近づいていった。

「わたしのことなど構わず、その奸物を成敗してください」
 先ほどまで涙にくれていたユリカが、その儚げな顔に強い意志をこめて俺たちの方を見て言った。

(誓詞呪縛って、何なんだ?)
 俺はメイリーとサクヤをかばうようにミズチの前に立ちはだかりながらサクヤたちに尋ねた。
(誓詞呪縛は、魂の契約です。相手の魂と自分の魂を呪言で縛り、どちらかが死ねばもう一方も死ぬという、今では使う事は許されない禁呪の法です)
(何とか解く方法は無いのか?)
(呪縛を掛けたほうが解かないかぎり、解呪はできません┅)

「さあ、こわっぱ、覚悟はいいか?今から貴様をいたぶって動けないようにしてから、貴様の大切な女たちを目の前で犯してやる┅ふひひひひ┅」
 ミズチはそう言うと、俺につかみかかってきた。

俺はどうすることもできなかった。使霊の娘の命がミズチの手に握られている以上、ミズチが自ら解呪するのを待つしかなかった。

「うぐっ┅がふっ┅」
「修一様っ!」
「兄様っ!」
(手、手は出すなっ┅何か、何か方法を考える、それまで我慢しろ)

「あはははは┅ざまあないのう、こわっぱ┅これまでの恨み、思い知れぇぇっ」
 ミズチは狂喜しながら、地面に倒れた俺の上に乗って、拳で俺の顔面を殴り続けた。

「ん?な、何だ、急に力が┅」
 突然、ミズチが血にまみれた拳を振り上げたまま、後ろへゆっくりと倒れ込んだ。

「ユリカ┅すまない┅俺は┅」
 笠原は血の滴るナイフを地面にポトリと落とした。
 背中から心臓の近くを刺された使霊の少女は、地面に倒れて衣服を真っ赤に鮮血で染めながらも、優しく微笑んで主人に手を差し伸べた。
「いいえ、これで┅いいんです┅もう何も言わないで┅分かってますから┅」

「く、くそがああっ┅千載一遇の機会を┅ううっ、ぐううう┅」
 ミズチは胸を押さえて苦しみ悶えた。そして、その苦しみから逃れるために、ついにユリカとの魂の誓約を自ら解いたのである。

「ハァ┅ハァ┅役立たずどもめぇぇっ┅」
 ミズチが起き上がるのを見て、俺は呪縛が解けたことを悟った。

「サクヤっ、彼女を!」
「はいっ!」
 サクヤはユリカの元へ素早く移動し、傷口に気を注ぎ始めた。

「姉様、どう?あたしも手を貸そうか?」
「うん┅大丈夫、心臓をそれてるから、血を止めれば命は助かるわ」
「そう、良かった┅さあて、じゃあ、始末をつけますか┅」
 メイリーは黒い羽を生やした妖魔の姿に変身した。

 ミズチカヌシは荒い息を吐きながら、やっとの思いでその場に立っていた。
 メイリーが近づいてくると、彼は諦めたように怨嗟に満ちた目を閉じた。
「ひと思いにやれ┅見苦しい姿はさらしたくない」

「何勝手なこと言ってるのよ。兄様をさんざん苦しめておいて。ふふふ┅じゃあ、まず毒でも味わってみる?」
 メイリーはそう言うと、指先をトゲに変化させてミズチの首筋に近づけていった。

「ひいいっ、ま、待て、助けてくれええ、死にたくない、死にたくない、頼む、頼む┅」
 覚悟を決めたかに見えたミズチは、地面にうずくまって震えながら、狂ったように命乞いを始めた。

「メイリー、もういい、そいつのことはミタケノウチノツカサ様にまかせよう。後でキツネ岩へ連れて行く」
 俺は腫れ上がった口でなんとかそう言うと、ミズチが動けないように緊縛の術を掛けた。そして、うなだれて立っている笠原へ近づいていった。

「笠原さん、死ぬつもりなら許しませんよ」

 笠原はいったん顔を上げて俺を見てから、またうなだれた。
「ふ┅やはり俺ごときが戦える相手ではなかったな┅好きにしてくれ」

「冬馬様┅」
 傷が塞がり、意識を取り戻したユリカは、久しぶりに晴れ晴れとした表情の御主人を見て、うれし涙を流した。
「ユリカ┅」

 笠原は使霊の少女のそばに歩み寄り、かがみ込んで頭を垂れた。
「ユリカ┅辛い思いばかりさせてすまなかった┅俺は┅」

「いいえ┅もう、何も言わないで┅あなたの苦しみを分かっていたのに、何もしてあげられなかった┅どうか、許して下さい┅」
「いや、違う、違うんだ┅どうか、聞いてくれ┅」

笠原はそう叫ぶと、ユリカを膝に抱いてその場に座った。
「射矢王、君たちもどうか聞いてくれ┅。
 俺はガンに冒されている┅いや、ユリカ、どうか怒らないで聞いてくれ。俺は、怖かったんだ┅お役目に失望し、酒に溺れ、何も出来ずにどんどん年老いてゆく自分と、いつまでもあの頃のままで、美しいユリカを見るたびに、いい知れない絶望と恐怖が襲ってきた。
 いつかは、ユリカに愛想を尽かされて見捨てられるんじゃないかと┅。
 そんな時、ユリカが妊娠したことを知った。嬉しかった┅それこそ飛び回って叫びたいほど嬉しかった┅」
 笠原はこらえきれずに涙を流し、喉を詰まらせた。
 ユリカもまた新たな涙を溢れさせながら嗚咽し、笠原の胸に顔を埋めていた。

「┅だが、同時に深い後悔と絶望が俺を包んでいた。その頃俺は、お役目を返上し、生活のための収入を得るために、悪事に手を染めていたからだ。今さら、もう一度お役目をさせてくれとは言えないし、宮内庁も許さないだろう。高校にも行っていない俺が、まともな職に就くのも難しかった。
 生まれてくる子供のためにも金が欲しかった俺は、さらに危険な仕事に手を染めるようになった。当然命を狙われるようなこともあった。

 だから、ユリカを長野の俺の実家に預けることにしたんだ。だが、おふくろは、ユリカが紗由美を産んで半年後、ユリカを俺の元へ帰した。子供は自分が育てるから、俺の側にいるようにと言って┅本当はその時俺は長野に帰るべきだったんだ┅。
 だが、できなかった┅惨めに打ちのめされた俺でも、お役目だったという糞みたいなプライドがあった┅意地があった┅世の中から汚い金を巻き上げ、贅沢三昧の生活をして笑ってやろう┅そんな馬鹿な意地にこだわって、東京での生活を続けた。

 その結果がこれだ┅四ヶ月前、占いの仕事をしているときに、突然めまいがして動けなくなった。なんとか自力で病院に行って検査を受けたら、肝臓ガンだった。余命は一年半┅まあ、なにもかも自分の行いの結果だ、甘んじて受け入れよう┅だが、ユリカと娘には辛い思いばかりさせて、何もしてやれない自分が腹立たしくて、情けなくて┅」

 過酷な運命というしかなかった。
 確かに、彼は自分の心の弱さのために人生を無駄にしたのだ、この結果は自業自得だと、突き放して批判することもできるだろう。
だが、俺にはとてもそんな言葉は吐けなかった。なぜなら、俺にもその弱さがあり、現にサクヤのことで、彼と同じように人生を投げ出していたかもしれないからだ。

「笠原さん┅今からでも長野の娘さんと一緒に暮らしませんか。あなたの気持ちを考えると、辛いとは思いますが、このままでは絶対に後悔が残ると思うんです」

 俺の言葉に、笠原はしばらく下を向いてじっと考え込んでいた。

「冬馬様┅」
 もう泣くことしかできないユリカは、涙に濡れた顔を上げて苦悩する御主人を見つめた。

「ユリカ┅こんな俺を、許してくれるか?」
「ああ、冬馬様┅はい┅はい┅愛しております、これまでも┅これからも、永遠に┅」
 ユリカの目からようやく悲しみの涙ではなく、幸福の涙が溢れて流れ落ちていった。

 こうして、前お役目笠原冬馬は、忌まわしい過去と決別して、愛する使霊ユリカとともに娘のいる長野の実家へ帰っていった。そして、余命一年半という宣告にもかかわらず、それから三年間よく頑張って生き延びた。

 三年という短い時間だったが、冬馬とユリカはありったけの愛情を娘に注ぎ、幸福で満ち足りた日々を過ごした。

 安らかな臨終の時を迎えた冬馬は、愛娘の紗由美を枕元に呼んでこう告げた。
「何か困ったことがあったら、射矢王様を頼りなさい。そして、彼の手助けをしなさい。彼なら、きっとお前の生きるべき道を教えてくれるはずだ」
 そう言って彼は、俺の名前と住所が書かれたメモを手渡した。

 冬馬が旅立った三日後、ユリカも愛娘を胸に抱きながら、静かに光となって天に帰って行った。
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