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しおりを挟む第一章 路地裏の少年、ルート・ブロワー
「じゃあ、またな」
「おう、また明日」
高校生の道原進示は夕方の混雑した電車の中で友達に別れを告げ、人の波に押されるようにホームに出た。いつもと変わらない日常。〝また明日〟が来るとなにも疑わず、階段を下り始める。
だが突然、その〝明日〟は永遠に奪われ、もう二度とやってくることはなかった。
「きゃああっ、泥棒っ、だ、誰か、捕まえて!」
進示の背後で女性の叫び声が上がり、何事かと振り返ろうとした瞬間、誰かが激しくぶつかってきた。
空中に身体が浮かび上がり、真っ逆さまに階段の下へ落ちる。スローモーションのように妙に時間がゆっくりと流れ、なにが起きたのか分からず、呆然とホームの屋根や驚いてこちらを見ている人々の顔を見つめていた……
◇ ◇ ◇
路地裏のスラムで生まれ育った少年、ルート・ブロワーは小さく粗末なベッドの上で起き上がり、窓から差し込む光に照らされた小さな部屋を見回したあと、ふうっとため息を吐いた。
「また同じ夢を見た……いったいなんなのかな……?」
そうつぶやくルートであったが、繰り返し見るその夢の中の風景はどこか見覚えがあり、妙に懐かしさを感じさせる。ルートの住んでいる場所とは似ても似つかないのに、どうしてそんな風に感じるのかなんとも腑に落ちない気持ちになるのだった。
ルートは、グランデル王国の南東にあるポルージャという街のスラムで生まれた。プラチナブロンドのくせっ毛と小さな顔に青く澄んだ瞳が印象的な、一見女の子のように見える少年であった。
彼の母親は娼婦だ。父親は分からない。成長してから母親に父親のことを尋ねたが、父親かもしれないという人物が五人もいて、ルートはその時点で父親捜しを断念した。
母親の名前はミーシャ・ブロワー。元々は遠い国から流れてきた行商人の一家の長女だったが、十二歳のとき、彼女の両親が盗賊に襲われて亡くなったため、他に身寄りもなかった彼女は幼い弟妹とともに奴隷商人に引き取られた。彼女を買い取ったのは娼館を経営するイボンヌ・ガルバンという老婆で、貧民街のならず者たちも恐れをなす顔役の一人だった。
ルートが生まれ育ったスラム街は、大通りと西の市場の間にある。元々ここは、市場で働く日雇いの労働者が集まって住み始めたことで生まれた。やがて、そこに借金を抱えて夜逃げをしてきた家族、犯罪を犯して逃げてきた罪人、仕事にあぶれた老人など、様々な理由を抱えた人々が少しずつ増えていき、長い年月の末にスラム街が形成されていったのだ。人が増えれば、彼らを取りまとめ、仕事を与える代わりに上納金を吸い上げてのし上がっていく〝ボス〟的な存在が生まれる。ポルージャのスラム街にも三人のボスがおり、娼館の女主人イボンヌ・ガルバンもその一人だった。
ミーシャにとって、ルートは望まない妊娠の末に生まれた子供だったが、彼女は生まれてきたルートを精一杯愛し、育てた。娼館で働く娼婦たちが住む粗末なアパートの一室で、母親とそこに住むたくさんの娼婦たちから可愛がられ、貧しいながらも、ルートは幸せな日々の中で成長していった。ルートは娼婦たち皆の子供のような存在だったのだ。
「母さん、行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい。気をつけてね」
朝の支度を終え、ルートは出掛けにミーシャに声をかける。
「ルート、ほら、お昼に食べな」
二階から娼婦のマーベルがルートにパンを投げ、ルートは落ちてくる硬い黒パンの塊をキャッチして、青く澄んだ瞳を細めた。
「ありがとう、マーベル」
「ルート~、これも食べて~」
今度は向こう隣りの窓から、リンゴが飛んでくる。彼女も娼婦の一人で名前はベーベという。
「いつもありがとう、べーべ」
「えへへ、愛してるよ~ルート~」
ルートは窓から声をかける娼婦たちに手を振りながら、走っていく。
この世界は、地球でいえば中世のヨーロッパに近い文化で、街並みもヨーロッパの古い街を思わせる見た目をしている。しかし、地球との大きな違いは、この世界の生活が『魔法』によって支えられ、形作られているという点だ。人々は様々な種類の魔法やスキルを持っており、それが将来の職業に大きくかかわる。また火をおこしたり、戦闘に使ったり、日常の色々な場面で魔法はこの世界の住人にとってなくてはならないものなのである。
八歳になったルートは、職人街にある鍛冶屋で下働きをするようになった。少しでも収入を得て母親を楽にしてやりたいと思ったのだ。ルートの住むグランデル王国では貴族以外の平民の子供たちは、八歳くらいから店の手伝いや下働きをして家計を支えるのがあたりまえだった。
そして、十歳になると『技能降授』の儀式に臨む。このとき、それぞれが持って生まれた能力が明らかになりスキルを与えられ、それに見合った職業へ進むのである。
ルートが下働きをしている鍛冶屋は、頑固で職人気質のドワーフ、ボーグの工房だった。ミーシャの常連客で冒険者のクリスが贔屓にしていた関係で、口をきいてもらい、なんとか働かせてもらえるようになったのである。
ボーグの工房には親方であるボーグと弟子のマリクとカミル、そして下働きのルートの四人しかいない。ボーグは高品質の武具や防具を作っていることで評判の一流の鍛冶師であったが、工房は小さく職人はボーグだけしかいなかった。というのも、ボーグは仕事に関しては決して妥協をしないし、儲けを第一に考える性格ではなかったのだ。いい加減な性格の弟子は採らず、気に入らない客の注文は容赦なく断った。そんな厳しい目は、当然八歳のルートにも向けられた。
「おい、ルート、なにグズグズしてやがる。早くCクラスの鉄鉱石もってこい」
「あ、はいっ、ただいま」
ボーグの言葉にルートはあわてながら答える。
「ルート、そっちがすんだら、このクズ鉄片づけておいてくれ」
「はーい、分かりました」
ボーグに続いてマリクからも指示が飛ぶ。ルートは一つ一つ言われた仕事を片づけていった。
ボーグと二人の弟子たちの間を毎日あたふたと駆け回る日々……汗とすすに顔を汚しながらも、ルートは楽しく充実した気持ちだった。
「汚え顔だな、ほら、これで顔拭きな」
昼食休憩になり、ルートはいつものように工房の裏で、井戸水でのどを潤したあと、ニワトコの木の下で昼食をとっていた。そこへ、カミルが井戸水で汗を流すためにやってきた。
カミルはドワーフ族で、小柄だがムキムキの筋肉が自慢だ。赤い髪をショートカットにして一見男にしか見えなかったが、れっきとした女性である。ボーグの親戚の娘で、ボーグのことを叔父貴と呼んでいる。
「ありがとうござ……って、カ、カミルさん、いきなり脱がないでくださいよ」
手渡されたタオルで顔を拭こうとしたルートはあわてて叫んだ。
「あはは……子供のくせになに色気づいてるんだい? あたしの裸なんか見たってしようもないだろう?」
「い、いや、そうかもしれませんが、女性として……」
ルートはそう言って赤くなった顔を伏せる。
「ふふん……あたしを女として見てくれるんだ、可愛いねえ」
「あ、あたりまえじゃないですか。カミルさんは、す、素敵な女性ですし、ぼ、僕も、い、一応男なんです」
カミルはルートの柔らかい金髪の頭を優しく撫でてから、シャツを着た。
「そんなこと言われたのは初めてだよ。ありがとう、ルート。すまなかったね、ほら、もう顔を上げていいぞ」
ルートはまだ赤い顔を上げて、ほっとしたように微笑んだ。
「でも、ルート、あんたには女たらしの素質があるね、将来女を泣かせるんじゃないよ。ふふ……」
「な、なにを言ってるんですか……ほんとに、もう……」
顔をすすで真っ黒にしたルートは、耳まで真っ赤になって抗議するのだった。
ルートが働くようになって何日か経った頃、ボーグはできあがった注文の品々を確認しながら、顎に手を当てて考え込んでいた。
(予定よりかなり早く仕上がったな。しかも、我ながらいい出来だ……)
「親方、どうかしたんですか?」
ルートを帰したあと、道具の片づけをしていたマリクが、ボーグに気がついて声をかける。
「うむ……いや、この頃やけに仕事がはかどると思ってな……この注文の品もかなり手の込んだものだが、予定より三日も早く仕上がったんだ」
マリクの問いかけにボーグが答える。
「ああ、そういえば、確かに仕事の効率って言うんですか、わずらわしい手間が省けるって感じで、やりやすくなりましたね」
「そうだな。なにより材料選びの手間が少なくなったのが一番だ」
マリクの言葉に近くにいたカミルも頷いて言った。
三人は同時に顔を見合わせて、共通の原因に思い当たる。
「……ルートのやつのおかげ……ってことか……」
ボーグが認めたくないような口ぶりでつぶやいた。
「あの子はいい子だよ。素直でまじめだし、よく気が利くし……」
カミルがにこにこしながら言った。
「あいつ、言われた分量の材料をきちんと持ってくるんだよな。たぶん算術ができるんですよ。どこで習ったか知らないが」
マリクが首をひねりながらそう言った。
そんな工房のメンバーの会話など知るはずもないルートは、いつものように夕暮れの街路を走って帰っていく。
「ただいまぁ」
「おかえり、ルート、お疲れ様」
ルートが家に帰ると、ミーシャが壁にかけられた古い鏡の前で、パフを持った手を振ってから、また化粧を続けた。ルートは顔や手足を桶の水で洗うと、布でごしごしと頭から足先までを拭いた。
「夕飯はベーコンエッグを作っておいたから、黒パンと一緒に食べてね」
「うん、分かった」
ミーシャが仕事に出ていくと、ルートは汲み置きの水をカップに汲んできて、テーブルにつく。
「いただきます」
育ち盛りのルートにとっては、なんとも少ない夕食だったが、他の食事など知らない彼は、不満や悲しみを感じることもなく、にこにこしながらおいしそうに食べる。食事を終えてあと片づけをすませると、ルートは自分の寝室からクズ紙の束と、鉛筆を持ってきた。
毎日の日課で、午後九時を知らせる教会の鐘が鳴るまで、ルートはこの家に二冊しかない本のうちの一冊、『商人に必要な基礎知識』という本を読み、大事だと思う部分を紙に書き写していく。
この本は亡くなった祖父の遺品の一つとして、ミーシャに与えられたものだ。ちなみに、祖母の遺品の髪飾りや指輪はイボンヌが、娼婦には必要ないという理由でミーシャから取り上げてしまった。もう一冊の本は、娼婦のロザリーが、ルートの五歳の誕生日にプレゼントしてくれたもので、挿絵の入った童話の本だった。
ルートは三歳の頃から、身の回りにある文字を母に教えてもらい読み書きを覚え、四歳になる頃にはほとんどできるようになっていた。息子の非凡さを喜んだミーシャは、自分が得意な計算をルートに教え始めた。ミーシャ自身も幼い頃、行商人だった父に計算を教え込まれた経験があったため、簡単な算術は教えることができた。驚くことに、ルートは算術でもその非凡さを発揮した。一桁の足し算引き算はひと月ほどでマスターし、二桁、三桁、そしてかけ算、割り算も半年ほどで完璧にできるようになったのである。そんなわけで、ミーシャが教えられることはそれ以上なくなり、今は祖父の残した本がルートにとっての先生代わりとなった。
「ふむ……品物の相場が決まる原理は分かったけど……お金って、誰が作ってるんだろう? やっぱり王様かな? ……ええっと、お金……お金……っと、これかな、『貨幣について』」
こうして、知的好奇心旺盛なルートは、海綿が水を吸うように楽しく知識を吸収していった。
◇ ◇ ◇
ルートが九歳になる少し前のある日のこと。その日は工房の仕事が休みだったため、昼すぎにミーシャと彼女の仕事仲間であるマーベル、ポーリーとともに市場へ買い出しに出かけていた。
娼婦たちは週に一度、こうして交代で皆の一週間分の食料や雑貨を購入するのだ。大量に購入したほうが値段が安くなるというのが大きな理由だった。
しばらく歩きスラム街を抜け、市場へ通じる曲がり角に差しかかったとき、先頭を歩いていたマーベルが急に立ち止まった。なんだろうと思って、ルートが見てみると前方の通りを横切って、衛兵が行き倒れの遺体をいくつか担架に乗せて運んでいるところだった。
「っ! こ、子供……」
ルートはそのうちの一つの遺体に、思わず声を上げた。
この街で行き倒れて死ぬ人は珍しくない。ルートも仕事の行き帰りに、何度か運ばれていく遺体を見たことがあった。でも、それは年老いた人がほとんどで、幼い子供の遺体を見たのは初めてだった。ミーシャがあわててルートの目を手で塞いで、自分のほうへ抱き寄せた。息子と同じ年くらいの子供の悲惨な姿を、見せたくなかったのだろう。
だが、もうルートの目には、やせ細って土気色になった少女の姿が焼きついていた。
「おや、おそろいで買い物かい? あんまり無駄遣いするんじゃないよ。ひひひひ……」
いつの間にそこにいたのか突然横合いから、イボンヌの皮肉たっぷりな笑い声が聞こえてくる。
イボンヌは七十をすぎた老女だが、派手な化粧をして宝石つきの指輪をいくつもはめ、高価な毛皮のコートを羽織っている。
「ふん、余計なお世話さね。あんたこそ、こんなところでなにをしているんだい?」
娼婦たちの中で最年長のマーベルは姉御肌で、イボンヌにも物怖じすることなく、対抗し言い返した。
「ひひひひ……相変わらず生意気な子だね、マーベル。なあに、行き倒れのガキがいるって耳に入ったから、見にきたのさ。もし、まだ生きているなら安く買い取ろうと思ったんだけどねぇ……ありゃあ、もうダメだね」
イボンヌのその衝撃的な言葉を、ルートはそのあともずっと忘れることはなかった。あの、死んだ少女の哀れな姿とともに彼の脳裏に焼きついて離れなかった。
幼い子供が行き倒れてしまうことは、ポルージャのスラム街だけでなく、この世界のあちこちで見られる光景だった。ミーシャや他の娼婦たちも、運よく大人になれただけで、一歩間違えればあの少女のようになってしまってもおかしくなかったのだ。
(スラムに生まれたというだけで生きていくこともままならないなんて、この世の中は絶対間違っている……でも、この世界や街を変えるためにはどうしたらいいんだろう……)
この日以来、ルートは折に触れて自分の心に問いかけるようになった。
(あの死んだ女の子は、たぶん親がいない孤児だったんだろうな……親が死んだのか、捨てられたのか……なぜ、自分の子供を捨てるんだろう? やっぱり貧しいから? つまり、お金があれば捨てられることはなかった? ……お金を得るためには仕事が必要だ。仕事が少ないから、お金が得られず、子供を育てられない親が生まれ、しかたなく捨ててしまう。世の中にもっと仕事がたくさん増えれば、あんなかわいそうな子供たちを救える……)
八歳の少年がそこまで考えるだけでも褒められたことだったが、流石にそのあとの「どうすれば世の中の仕事が増えるのか」「そのためにはなにが必要か」については、どんなに考えても答えは出てこなかった。
しかし、このときの経験は、後のルートの生き方を決めるうえで大切な下地になったのである。
第二章 『技能降授』の儀式
朝日が一つしかない窓から差し込み、狭い床と古ぼけたベッドの脚を照らす。
「んん……ふう」
ルートはベッドから出ると、すぐに着替えを始めた。
顔は相変わらず女の子のようだったが、首から下は彼の年齢にしては驚くほど筋骨たくましかった。ルートは今日十歳の誕生日を迎えていた。二年間、ボーグの鍛冶屋で下働きをして、毎日力仕事や雑用を懸命にこなしていたため大分筋力がついたのだ。つぎはぎだらけの茶色のズボンは、ぶかぶかだったのが、今や膝のすぐ下ぐらいの丈になっている。身長もずいぶん伸びた。
ルートは、なるべく音をたてないようにしながら洗面所に行って顔を洗う。深夜に帰ってきて、まだ寝ているミーシャを起こさないようにするためだ。
台所でいつものように魔石コンロに火を入れ、手早く二人分のハムエッグをこしらえたあと、やかんを火にかける。黒パンを切ってハムエッグをはさみ、ティーポットに紅茶の葉を入れ、沸いたお湯を注ぐ。
母さんへ
朝食作っておいたので、食べてください。親方のところで仕事の準備をしてきます。九時前には帰ってきます。今日はよろしくお願いします。 ルート
簡単なメモをテーブルに置くと、自分の分のハムエッグサンドをベルトに下げた布袋に入れて、外へ出た。
まだ、教会の六つの鐘が鳴る前で、通りにはほとんど人影がない。ポルージャの街では朝の六時に六つ鐘が鳴り、三時間経過するごとに鐘の回数が減っていく。午前六時は六つ鐘、午前九時は五つ鐘、正午は四つ鐘というような具合で、鐘の音によって時間が表されるのだ。
街の人々は鐘の音によって時間の経過を知り、それを生活の指標としていた。
ちょうど六つ鐘が鳴った頃、ルートはボーグの工房に着いた。工房に到着するとまず裏へ回り、職人専用の出入り口を開ける。鍵はここで働く者しか知らないある場所に隠してあるのだ。早速掃除を始め、三つある魔石炉に火を入れる。この世界では、様々な道具に魔石が利用されている。魔石とは読んで字のごとく魔力を含んだ(正確に言うと色々な割合で魔素が含まれた)鉱石で、鉱山やダンジョンから採掘される。魔物の体の中からも魔石は採取することができ、魔物の魔力の源・核となっている。魔石はその純度に応じてランクづけされており、庶民が生活に使うものは、ランク外のいわゆるクズ石と呼ばれるものだ。この工房で使われているのは、クズ石より一つ上のCランクの魔石だ。炉の横の石板には火属性の魔法陣が描かれていて、そこに魔力を通すと魔石から火を出すことができる。ルートは魔石の量を調節して、ちょうど種火程度になるようにする。
「これでよしっと……」
炉に火を入れたあとは、石桶に井戸から冷却用の水を汲んで入れておく。三人分あるので、結構な重労働だ。
「おお、おはよう、ルート」
「カミルさん、おはようございます」
「ふああ……よお、ルート」
「おはようございます、マリクさん」
井戸で水汲みをしていると、カミルとマリクの二人が前後して裏口へ現れる。
「あれ? 今日は休みじゃなかったのか?」
ルートが汲み上げた桶の水で顔を洗っていると、カミルが尋ねてくる。
「あ、はい、準備が終わったら帰らせてもらいます。すみません」
「……ったく、あんたって子は……ほんとにくそ真面目だね」
「い、いえ、それほどでも……」
「ほめたんじゃねえっての……ぷっ、あははは……」
カミルは思わず噴き出して、豪快に笑いながら、寝癖がついたルートの髪をわしわしと撫でまわした。
「では、親方、今日はこれで帰らせてもらいます」
工房の下準備を終えたルートは、ボーグにあいさつして裏口へ向かおうとした。
「うむ……ああ、ちょっと待て……」
ボーグはルートを呼び止めると、立ち上がって事務室のほうに入っていく。なんだろうと、ルートが待っていると、やがて事務室から出てきたボーグが小さな革袋を持って近づいてきた。
「ほれ、これを持っていけ」
「これ、なんでしょうか?」
「ん……まあ、その、なんだ……お前、今日が十歳の誕生日なんだろう? これで、うまいもんでも食え」
ボーグはしきりにあごひげを触りながらそう言うと、ルートの手に革袋を強引に押しつけて、仕事場へ去っていった。
「えっ、えっ? あの……」
「ルート、なにも言わずもらっときな。誕生日おめでとう」
カミルがウインクしながら言った。
「ハッピー・バースデー、ルート。どんなスキルだったか、あとで教えてくれよな」
マリクが大げさに両手を上げてひらひらさせながら言った。
「あ、ありがとうございます、皆さん……」
ルートは工房の仕事仲間の温かい祝福に思わず泣きそうになって、あわてて深く頭を下げると、裏口へ走り去っていった。
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