少し冷めた村人少年の冒険記

mizuno sei

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72 閑話 ブロスタの街:《海鳥亭》

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「小僧、お前、どこから来たんだ?」
「トーマだよ。アウグスト王国から来た」
「ほお、そんな遠くから来たのか。俺はバーツだ。で、子ども一人で何をしに来たんだ?」
「俺、冒険者なんだ。あちこち旅しているんだよ。今日は、ふと、海が見たくなってね」
「……そうか。その年で一人で生きているのか……くっ、泣かせるじゃねえか」
 バーツのおっちゃんは、そのごつい見た目に反して、涙もろく優しい人だった。

 やがて、馬車はプロスタの街の一番賑わう中心部に差し掛かった。小さい街だが、市場にはいろいろな物を売る露店が並び、人々の活気のある声が飛び交っている。

「ほら、着いたぞ、この店だ。小さな店だが、店主の腕は確かだ。うめえぞ」
「おお、楽しみだな。ありがとう、バーツのおっちゃん」
「おう。トーマ、この街にも冒険者ギルドはある。しばらくこの街に住んでみねえか? ここは小さいが、いい街だぞ」
「うん、少なくとも二、三日はいるつもりだよ」
「そうか。俺も、夕飯は久々にこの店で食うかな。よかったら、夕方この店に来てくれ。さっきのお礼もあるし、夕飯を奢るぜ」
「うん、分かった。じゃあ、また後で」
「おう、じゃあな」
 バーツのおっちゃんは、嬉しそうに手を上げながら、市場の奥に去っていった。

 さて、どんな料理が味わえるかな、楽しみだ。俺は期待にワクワクしながら、《海鳥亭》という看板が下がった店に入っていった。

「いらっしゃい。あら、坊や、一人なの?」
 押戸を開いたとたん、元気のいい女性の声が聞こえてきた。店の中は割と広く、奥にカウンターがあり、アニメや映画で見たヨーロッパの居酒屋そのままの感じだ。客も何人かいたが、その女性の声に一斉に俺の方を見た。

「あ、はい、一人ですが、ダメですか?」
 俺は少しバツの悪い気分で、入り口の所に立ったままその女性、恰幅の良いウェイトレス姿の人に尋ねた。

「いいえ、大歓迎よ。ごめんなさいね、子どもが一人でここに来ることはめったにないから……どこでもいいわよ、座って」
 この店のおかみさんだろうか。そう言うと、客のテーブルに料理を置いてから、俺が座った席に、ニコニコしながらやって来た。

「何が食べたいの? 今なら、二百ラグナで朝食セットがあるわよ」
 ラグナ? ああ、そうか、国が違うと貨幣単位も変わるのか。アウグストの貨幣は使えるのだろうか?

「ええっと、すみません、俺、冒険者でアウグストから来たんですが、まだ両替をしてなくて、アウグスト貨幣しか持ってないのですが……」
 俺の言葉に他の客たちも、驚いたようにざわつき始めた。

「まあ、アウグストから来たの? よく国境が通れたわね。辺境では戦争が起こったって聞いたけど……」

「あ、はい。この国の商人の護衛任務だったので、なんとか通してもらえました」
 俺の咄嗟の思いつきに、さっそく近くの客が疑問の声を発した。

「そいつはおかしいな。聞いた話だと、商人も含め、人の往来はいっさい禁止になったはずだが……」
 まずい。やはり思いつきの言い逃れはだめだな。

「ええっと、その商人の人が言うには、戦争が始まる前にアウグストに入っていて、戦争が始まったので慌てて帰ることにしたんだとか。そう言う理由を話したら、両方の警備兵の人も分かってくれたらしいです。少しお金が掛かったと言っていましたが……」

「なるほど、商人にはその手があったか」
「まあ、警備兵はそれが楽しくてやめられないそうだからな」
 客たちは、どうにか納得して笑い声を上げた。俺は、ほっと胸をなでおろした。

「お金は大丈夫よ。ちょっと前まではアウグスト貨幣も普通に使われていたからね。値段も同じでいいわ。大銅貨二枚ね」
 俺は、腰のポーチに手を入れて〈ルーム〉から、大銅貨を二枚取り出して女性に渡した。

「あいよ。じゃあ、すぐ持ってくるから待っててね」

 しばらく待って出てきたのは、白身魚のムニエル、黒パン、葉野菜のサラダ、そして魚の切り身や根菜が入ったスープだった。美味そうな匂いにお腹がグーッと鳴った。さっそく、手を合わせてから食べ始めた。
 まずはスープを一口すする。うす塩味のスープだが、魚と野菜のうま味が溶け込んでなんとも優しく体に染みる美味しさだ。俺は満足のため息を吐きながら、次にムニエルを食べてみた。こちらも塩とバター、少しの香辛料の味付けだが、素材の魚の美味しさを最大限に生かしている。
 俺は夢中になってスプーンとフォークを口に運び、あっという間に料理を平らげた。

「ごちそうさま、とても美味しかったです」

「そうかい? うれしいねえ。また来ておくれ」

「はい、また、夕方来ますね。ところで、この店では生の魚の切り身なんか、食べられますか?」
 俺は新鮮な刺身が食いたくなって、そう尋ねてみた。

「えっ、生の切り身? あんた、食ったことがあるのかい?」
 ウィトレスの女性は、びっくりした顔と声でそう言った。

 ああ、やっぱり無理か。そうだよな。いくら新鮮だといっても、アニサキスや細菌で腹を壊すリスクは避けられない。ましてや、前世の日本人のように刺身が好きな人間が、この世界にいるとは思えないしな。

「お前さん、この子が生の切り身、食いたいってさ」
 女性は大声で厨房の方に向かって叫んだ。

「本当かっ? そいつは珍しいな、二十年ぶりか、あの無口な剣士以来だろう?」
 厨房から出てきたこの店の主人であろう五十代のいかつい顔の男が、何やらうれし気にそう言った。
「おい、坊主、生の切り身を食いたいのか?」

「あ、はい、できれば……」

「がはは……ようし、任せろ。生の魚の美味さを知っている奴がいるとは嬉しいぜ。待ってろよ」
 主人はそう言って笑いながら奥に消えて行った。

「お、おい、生の魚なんて食えるのか?」
「うえっ、俺は遠慮しとくぜ。腹壊すのがおちだ」
 他の客たちは、しかめ面でそんな話をしていた。

 やはり、魚の生食習慣は漁師の街でもないらしい。だが、無口な剣士ってなんか気になるな。日本人的な匂いがするが、俺と同じ日本人の転生者、あるいは転移者かもしれない。ナビも以前、転生者はかなりいるって言っていたからな。

 五分あまり過ぎた時、厨房から店主が自ら大きな皿を持って出てきた。
「さあ、できたぜ。バルホースとセプラ、ボカルの切り身だ。この〝ショユソース〟をつけて食べてみろ。顎が落ちるくらいうめえぞ」

 店主がそう言ってテーブルに置いた皿を見て、俺は目を輝かせた。
(おお、刺身だ。間違いなく刺身だよ。それに、この小皿の液体、醤油だよな……うん、ちょっと魚臭いが、魚醤(ぎょしょう)だな。そうか、この世界には間違いなく日本人の転生者が来ていたんだ。醤油を一から創り出すのはあきらめて、魚醤を教えたのかな? それとも、どこかに醤油は存在するのだろうか? 夢が膨らむな)

「おい、どうした? 食わねえのか?」

「あ、ああ、いえ、感動に浸っていました。すごく美味そうですね。いただきます」
 俺はブラスタの街で食べたバルホースの刺身をフォークに刺して、魚醤を少しつけてからおもむろに口へ運んだ。
 口の中に上品な脂と魚醤の塩味が絡まって、至高の旨味が口いっぱいに広がる。

「美味い……」

「がははは……あたりめえだ。新鮮な魚は、こうやって食べるのが一番うめえんだ」
 俺が夢中になってパクパクと刺身を口に運ぶのを、主人は満足そうに眺めながらそう言った。

「そ、そんなに美味いのか?」
 他の客たちが俺の食べる姿に興味を惹かれて、近くに集まって来た。

 俺は、口をもぐもぐさせながら、皿を客たちに差し出した。

「い、いいのか?」
 一人の客の問いに俺が頷くと、その男は恐る恐る切り身の一つを指でつまんで、魚醤にくぐらせ、目をつぶりながら口に放り込んだ。そして、ゆっくりと二、三回口を動かした。

「う、うめえっ、なんだこの美味さはっ!」
「そんなに美味いのか? 俺ももらっていいか?」
「どうぞ」
 客たちは次々に刺身に手を伸ばし、食べては感動の声を上げる。主人は豪快に笑いながら、いかにも嬉し気に刺身がいかに美味いか、切り方から語り出す。
後から入って来た客も、何事かと集まり、珍しい生魚の切り身についての話に加わっていった。

 こうして、その日、ブラスタの街の一件の食堂で、新しい料理のメニューが生まれた。〈サシミ〉と呼ばれるその料理は、ブラスタの街の名物料理として瞬く間にローダス王国内はもとより、大陸中の国々に噂が広がっていった。そして、あちこちから美食家を自認する客たちが集まるようになるのである。
 もちろん、その頃にはトーマはこの街にはいなかった。ただ、大きな宿屋兼レストランとなった《海鳥亭》のシェフでもあるオーナーは、懐かしそうに、一人の少年の思い出を誰彼となく語った。

「……生魚の切り身は、ずっと昔に一度出したことがあったんだよ。だけど、その時の客は無口でね。美味いのか不味いのか分からなかった。だが、二回目に出したときの、あの小僧は、そりゃあもう、幸せそうな顔でパクパク食うんだよ。それで、俺も、自信をもってこの切り身を売り出そうって、決心がついたんだ」


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