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第三章
尾張にて
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寛永十九年(1642年)も終わろうとしている師走の二十四日、ダリル・バスケスと副島計馬は尾張の城下町名古屋に着いた。予定ではもっと早く着くはずだったが、途中ダリルが風邪を患い、岡崎の宿で十日ほど療養したのである。人生で病気で寝込んだのは、四歳の時にはしかにかかって以来だというダリルは、やはり日本という異国の慣れない生活や気候のせいで疲れが溜まっていたのだろう。危うく肺炎になりかけたが、計馬が高額な金をはたいて「紫雪」という漢方薬を買い求め、それを三日間飲ませたことで快方に向かったのだった。
「金の調達は君に任せる┅┅必要なだけ使ってくれ」
「分かりました。ここは天下の御三家筆頭尾張公のお膝元、金銀の両替もたやすく出来るでしょう。ちょっと行ってきます」
まだ本調子ではないダリルを宿屋に寝かせて、計馬はダリルの金貨入りの革袋を預かって町に出かけていった。師走も押し詰まった暮れのせいか、町の中は人で溢れ、商家の店先も活気があった。
「ちょっとすまないが、両替屋はどこかにないか?」
計馬は大きな米問屋の店先で、掃除をしていた丁稚の少年に尋ねた。
「りょう┅┅がえ┅┅ええっと、ちょっとお待ち下さい┅┅」
少年はそう言うと店の中に駆け込んでいったが、しばらくすると、若い男を伴って出てきた。
「これはお待たせいたしました┅┅両替とは、銭替えのことでございましょうか?」
「ああ、それだ、それだ」
「それでしたら、この通りを左に行って┅┅」
計馬は二人に礼を言って、教えられた道を歩いて行った。さすがに名古屋は大きな町で、道を聞かなかったら何時間もうろうろしていたに違いない。
「これはまた珍しい物をお持ちになりましたな┅┅」
「うむ┅┅わたしの連れがオランダ商館に勤めるイスパニア人でな┅┅こうして母国の金貨は持ってきたが、このままでは使えぬので必要な分を両替しておるのだ」
「左様でしたか┅┅それは難儀でございますね。この純度ですと、一枚二両三分が相場でしょうか┅┅それで、何枚お換えになりますので?」
「なんとか一枚三両で十枚、三十両にならんか?」
「┅┅三両はちょっと┅┅ううむ┅┅では、手数料に一枚頂いて、十一枚で三十両ではいかがでしょうか?」
「よし、それで手を打とう」
計馬は革袋から、イスパニア金貨を十一枚取り出して店の主人に手渡した。
「お侍様はこちらの方も相当な腕とお見受けいたしました┅┅」
主人は三十両を紫色の布と一緒に手渡した後、剣を振る動作をしながら言った。
「ほう、分かるのか?」
「はい┅┅こういう商売を長年しておりますと、相手の目を見ればおおよそ心の内が分かるようになります。あなた様が先ほど一枚三両にならないかとおっしゃったとき、わたしはあなた様の目を見て思わず背筋がぞっとなりました。断れば首が飛ぶと感じました┅┅」
「あはは┅┅それはすまなかったな。そんな気は全く無かったが┅┅しかし、そんな殺気を悟られるようでは、まだまだ未熟だな┅┅」
「いえいえ、普通の者には感じ取れるものではございません。実は、わたしはもと柳生利厳様のお側に仕えておりました。上様のご命により、藩お抱えの銭替商をやらせて頂いておりますが、今でも柳生道場には時々通っております」
「何と┅┅あの柳生流随一といわれる利厳様の┅┅失礼だが、お名前を伺ってよろしいか?それがしは肥前藩士副島計馬と申す」
「あはは┅┅名乗るほどではございませんが┅┅今は銭屋正五郎を名乗っておりますが、本名を村井吉勝と申します」
「かたじけない。では、また金子が必要になったときはお願いいたす」
「今後ともよろしくごひいきにお願いします」
計馬は頭を下げて店を出て行った。
(いやあ、世の中にはいろいろな人間がいるものだな┅┅あれは相当にできる男だ)
計馬は金貨を渡したときに見た村井の手のひらを思い出していた。ごわごわして分厚く、小指と薬指の付け根には大きなタコができていた。相当竹刀や木刀を振っている証拠であり、所作にも隙が無かった。
尾張に来たからには、目的の上泉流居合いの見聞と同時に、是非とも尾張柳生流も見てみたかった。しかし、江戸の柳生流と違い、こちらは藩主が直々に印可を授ける形をとっており、「御流儀」とよばれている。簡単に見学が許されるとは思えない。一応、宗矩から紹介状はもらってきてはいたが┅┅。
(ん?あれは┅┅)
宿に戻ってみると、入り口の脇に若い二人の侍が立っている。誰かを待っているような様子に見えた。計馬が近づいていくと、二人は並んで姿勢を正した。
「副島様でございますか?」
「いかにもそれがしは副島計馬だが┅┅」
二人の若侍は嬉しそうに頷き合ってから、頭を下げた。
「主から、お屋敷にお連れするように仰せつかって、お待ちいたしておりました」
「主?いったい、どなたです?」
「はい、柳生利厳様です」
柳生兵庫助利厳は、石舟斎の長男厳勝の二男で、宗矩の甥に当たる。石舟斎は利厳が生まれたときに、「この子こそ、わが柳生流の道統を継ぐべき者」と言って喜んだという。その言葉通り、石舟斎は柳生流の印可と同時に指南書、目録、宝蔵院流の目録などすべてを利厳に与えた。文字通り柳生流の正統を継いだのである。
利厳は初め肥後の加藤清正に仕えたが、一年足らずで同僚との喧嘩事件を起こし、離藩して浪人になった。実は、これは計画的なものだったらしく、その後加藤家は改易となり、利厳は加藤家の改易の一年後に、尾張徳川家に五百石で召し抱えられた。他の仕事はせず、剣術指南のみであれば受けるといって、一切それ以上の家禄はもらおうとしなかった。五年後、利厳は藩主義直に新影流の免許を与えたが、その際、自分が受け継いだ指南書、目録もすべて献上した。そして、我が子利方が免許を受ける際には、義直から相伝を受ける形式を取った。つまり、これ以後、道統を継がせる場合は領主と柳生家が協同で行うことになった。ここから、尾張柳生流は「御流儀」と呼ばれるようになったのである。
「どうしますか、ダリルさん?まだきついなら断りましょう」
「俺はともかく、君は行った方がいいだろう。せっかくの招待をにべもなく断ったら、江戸の柳生家にも恥をかかせることになる」
「いやあ、それなんですよねえ┅┅参ったなあ┅┅」
「俺なら大丈夫だ。このところずっと酒を断って、十分体を休めていたから┅┅」
「ふむ┅┅分かりました┅┅でもきつくなったら言って下さいよ」
「ああ、分かった」
二人は相談を済ませると身なりを整えて部屋を出て行った。
すでに宿の前には柳生家の紋が入った駕籠が二台用意され、遠巻きに人々が集まって噂をしていた。
「お待たせいたした」
「いえ、めっそうもございません。では、どうぞお乗り下さい」
計馬とダリルは衆目の中、大名駕籠に乗り込んだ。ダリルは加賀に行くとき、民間の駕籠は体験していたが、その時よりずっと豪華で揺れも少なかった。
「殿、副島計馬殿、ダリル・バスケス殿ご到着にございます」
「おお、来たか。よし、座敷にお通ししろ」
尾張柳生家の主、柳生利厳はそう命じると、すっくと立ち上がった。背筋がぴんと伸び、体全体に何とも形容しがたいオーラのようなものをまとっていた。すでに六十三歳、人生の終焉を迎えようという年齢だったが、みじんもそんなことは感じさせない。現に今も道場で彼を後ろへ下がらせられる者は誰もいない。常に前へ前へ、新しい剣の境地を開き続けていた。
「待たせたのう、柳生兵庫じゃ。どうか面を上げてくれ」
「お初にお目に掛かります。肥前藩士で長崎奉行所通司の副島計馬と申します」
「おはつにおめにかかります。オランダしょうかんにつとめておるダリル・バスケスともします。よろしくおねがいします」
「うむ、楽に楽に┅┅よく来て下さった、礼を言いますぞ」
利厳が座ると、ようやく計馬たちは顔を上げた。
「ありがたき幸せ。ですが、なぜ我々のことを?」
「あはは┅┅驚かせてすまぬ。実はのう、貴殿たちのことは、江戸にいる二男の兵助からの手紙で知っておったのじゃ。なにせ江戸の柳生家では大騒ぎになったといってな┅┅それで、兵助は江戸の門弟たちを問い詰めて、詳しく話を聞いたらしい。あの、宗矩叔父が、何としても上様のお側に仕えさせたいと言っておる希代の剣客と鬼のように強い異国人が柳生家に逗留しておるということをな┅┅」
「何とも身に余るお言葉で、恐縮するばかりにて┅┅」
「まあ、噂には往々にして尾ひれがつくものじゃ、気にすることはない┅┅それでな、その後また兵助から手紙が来てな、自分が会いに行く前に貴殿らが江戸を発ったと、それはそれは悔しげでな┅┅あははは┅┅恐らく年を越す前に尾張に入ると思うから、必ず引き留めてその技量を確かめてくれと書いてきたのじゃ┅┅」
利厳はいかにも楽しげにそう言って笑った。計馬とダリルは顔を見合わせて苦笑する。
「┅┅しかし、大変だったぞ。町の入り口に門弟たちを交代で何日も見張らせていたからな。
予定より、かなり遅かったようだな?」
「はい┅┅実はダリル殿が風邪をこじらせてしまい、岡崎の宿に十日ほど滞在しておりました」
「ああ、そうであったのか┅┅もう、お加減はよろしいのか?」
「はい、だいじょうぶでござる」
「そうか┅┅では、さっそく近づきに酒を酌み交わすとしよう」
利厳がそう言って手を二回ほど叩くと、廊下の奥から下女や下男たちが手に手に膳や料理の皿を持って出てきた。あっという間に座敷は宴会場に変わった。
「失礼いたします」
襖が開かれ、颯爽とした若者と剣気を体中から溢れさせた壮年の武士が入ってきた。
「副島殿、ダリル殿、紹介いたす。わしの長男の利方と弟子の高田三之丞じゃ」
「副島計馬にござります。どうぞお見知りおきを」
「ダリル・バスケスともします。よろしくおねがいします」
「柳生利方です」
「高田三之丞と申す」
高田はじっと計馬を見つめながら挨拶をした。
「では、おのおの席に着いてくれ。ああ、副島殿とダリル殿はこちらへな」
上座に利厳一人が座り、後の四人は左右に分かれて向かい合うように座った。それぞれの膳には大きな徳利が一本ずつ乗せられていた。まずは手酌で盃に酒を満たす。このあたりも、いかにも武骨な尾張柳生家らしかった。
「では、良き出会いを祝して┅┅」
全員が静かに盃を上げ、一口で飲み干していく。
「お師匠、こんな小さな盃ではまどろっこしくてかないませぬ。いつもの奴を持って来てかまいませぬか?」
「あはは┅┅まったくせっかちな奴め┅┅好きにしろ」
高田は頭を下げて立ち上がると、どかどかと廊下を歩み去って行った。
「あのお方が、有名な〝おいたわしや〟の高田様でございますか?」
「おお、知っておったか?あはは┅┅そうじゃ、あの男じゃよ。道場に試合に来る者はまずあの男が相手をする┅┅たいていは、それで相手は帰っていく┅┅」
「おいた┅┅わしあ┅┅?」
「ああ、可哀想にという意味です。今出て行った彼は、試合の時、相手を打つ前にそう声を掛けてから打つのです。その名声は今や全国に知れ渡っています」
計馬はオランダ語でダリルに説明した。
「ほお、それほど強いのか┅┅そうは見えなかったが┅┅」
ダリルの答えに、利厳たちには分からないと知っていても、計馬は冷や汗をかく思いだった。
そこへまた大きな足音を響かせて、高田が帰ってきた。手には大きな赤い漆塗りの盃が握られていた。彼はそのまま自分の徳利を持って計馬の前に来ると、どっかと腰を下ろした。
「まずは、お近づきに一献┅┅」
無遠慮に差し出された大盃を計馬は両手で受け取った。
「ありがたく頂戴いたします」
高田はその盃に持ってきた徳利を傾けてどくどくと酒を注ぎ込んでいく。やがて、徳利の酒はなくなり、盃にはなみなみと酒が満たされていた。計馬はゆっくりと、しかし休むことなく、喉を鳴らしながら酒を飲み干していった。
「では、ご返杯を」
一気に酒を飲み干した計馬は、やや呆気にとられた顔の高田に杯を返し、今度は自分の徳利から酒を注いだ。高田はにやりと笑うと、、ごくごくと喉を鳴らしながらこれも一気に飲み干していった。
「ぷはーっ┅┅うん、なかなかやるのう、おぬし┅┅わははは┅┅」
「ヘイ、たかたさま、それがしにもそれを┅┅」
高田はぎょっとして、横から手を出したダリルの方を向いた。そしてまさかという顔で盃を差し出した。
「ダリルさん、無理をしては┅┅」
「大丈夫だ。このくらいの酒、なんでもない」
「ほお、ウワバミの高田に張り合えるウワバミが二匹もいたか┅┅あはは┅┅どれ、わしが注いで進ぜよう」
面白そうに眺めていた利厳が徳利を持ってダリルの側にやってきた。
「かたじけないでござる」
「いやいや┅┅だが、無理はなさるなよ」
「はい、だいじょうぶ┅┅」
ダリルもまた息継ぎもせず、一気に飲み干してしまった。
「どうぞ」
ダリルは高田に盃を返すと、自分の徳利を傾けて、盃をいっぱいに満たした。さすがの高田も今度は二回に分けて何とか酒を飲み干した。
「ふう┅┅いやあ、二人がかりではさすがに分が悪いのう┅┅わははは┅┅」
「もう十分じゃろう┅┅三之丞、戻って酒を持ってくるよう言って参れ」
「はっ┅┅では、酒樽を抱えて参りましょう」
高田はそう言うと、ややふらつきながら立ち上がり、盃を持ったまままた廊下の奥に消えていった。
「すまぬな┅┅あれが、奴なりの喜びの表し方なのじゃ」
「はい┅┅噂通りの豪快なお方です」
「うむ┅┅豪快だが、あのような性格じゃ、駆け引きができぬ。力で押し切れる相手には勝てるが、恐らく貴殿には通用しないであろうな」
「い、いえ、そのようなことは┅┅」
「副島殿も、ダリル殿も宗冬から一本取られたとか、まことでござるか?」
今まで表情一つ変えず、黙々と酒を飲んでいた利方が初めて口を開いた。
「ああ、はい、しかし、それがしはその前に一本面を取られております」
「兵助の話では、貴殿等が去って以降、江戸柳生の稽古ががらりと様変わりしたとか。竹刀一辺倒だったのに、木剣の稽古を取り入れ、足腰の鍛錬をするようになったという┅┅これは何か、貴殿たちから助言を受けたからに相違ないと┅┅」
計馬は度々名前が出てくる柳生兵助なる人物を知らなかった。しかし、話を聞く限り、卓越した才能の持ち主であると感じた。
柳生兵助厳包、後に連也斎を名乗る若干十八歳の若者は、計馬が予見した通り、尾張柳生流の至宝として、この後全国に名を轟かせることになる。
「宗冬様に、竹刀稽古の欠点は何かないか、と問われまして、上半身と下半身を同時に鍛える方が良いのではないかと申しただけです」
「ほう┅┅なぜ、そう思われたのかな?」
利厳はすでに理由を見抜いているような目で計馬を見つめながら問うた。
「竹刀は振りやすく、しかも柔らかくしなります。振って、止めて、打つ、これが自在に出来るようになると、つい、上半身の力だけで戦ってしまいがちです。いや、それで十分相手に勝てるのです。でも、そこに落とし穴がある。木刀や真剣はしならない、どうしても切り下ろす、あるいは振り抜く必要があります。上半身だけでそれをやろうとすると、足がついてゆけず、相手の相打ち覚悟の逆転技を受けてしまう危険が多々ある。ならば、とっさの動きに対応できるよう、鍛えるべきは下半身ではないか、そう考えました」
計馬の説明に、利方は何度も頷きながら感心したように聞いていた。一方。利厳はじっと虚空を見つめるように、視線をやや落として無表情で聞いていた。
「ふむ┅┅まあ至極当然のことだな┅┅まず鍛えるべきは足腰、これはどの流派であろうと同じ事┅┅」
「はい、その通りです。宗冬様たちもそれは分かっておられました」
「いや、違うな┅┅」
利厳は柔和な顔を一変させて、厳しい戦いを勝ち抜いてきた剣客の顔になっていた。
「奴らは分かっていなかったのだ、竹刀と真剣の違いを┅┅そして、勝ったと思った瞬間に逆転の技を受ける恐ろしさを、それを繰り出せる者がいることを┅┅」
確かに、宗矩、三厳、宗矩らが驚いたのは足腰を鍛えるという結論よりも、それを納得させた計馬の技に対してだったかもしれない。それにしても、江戸の柳生家に対する利厳のこの辛辣さは何だろう。計馬は驚きを持って利厳を見つめるのだった。
「┅┅いずれにしても、貴殿はその説明を彼らに納得させるだけの技量を見せたということだ。どうであろう、しばらく当家に滞在して、門弟たちに教えてやってはもらえまいか」
「い、いや、教えるなどとはおこがましい限りです。それがしも教えていただく立場で、門弟に加えていただけるなら、望外の幸せですが┅┅」
「ああ、それが良いなら、こちらは一向に構わぬ」
計馬は利厳の申し出をダリルに通訳した。しかし、ダリはそこまでの話をほとんど理解していた。
「こっちとしては、願ったり叶ったりだな。居合いは教えてもらえるのか?」
「あっ、そうでした。ちょっと訊いてみますね」
計馬は利厳の方を向いて言った。
「では、お言葉に甘えさせていただきます。その上に厚かましいお願いですが、ダリル殿は日本の剣術を知るためにこの旅をしておられるのですが、まだ居合いというものを見たことがないと。聞けば、この尾張には上泉信綱様の御孫に当たられる方がおられて、居合いの一派を立てておられるとか、出来ればその道場にも行ってみたいと考えているのですが、紹介していただくことは┅┅」
「あはは┅┅そのようなことは造作も無い。上泉道場なら、ここからさほど遠くないし、お互い遠慮の無い間柄じゃ。こちらから行かぬでも、たぶん向こうからやって来るだろうよ」
利厳はそう言って、あの柔和な顔でさも楽しげに笑った。
こうして、計馬とダリルはその日から尾張柳生屋敷に居候することになった。
(考えてみると、俺は幸運な男だな┅┅トウジに始まって、不思議な糸で結ばれたように日本に来て、カズマ、イオリサマ、トダサマ、ムネフユ┅┅いろいろな人間に出会い、いろいろなことを学ぶことができた┅┅そしてそれは剣を通して一本の道でつながっている┅┅)
尾張柳生家で初めて迎えた夜、ダリルは布団に入ってもなかなか寝付けなかった。これまでの半年余りの旅の思い出が次々に頭に浮かんでくる。
(ニホン┅┅俺が知っているどこの国ともまるで違う┅┅物質経済は他の国より遅れているが、精神文化は恐ろしく進んでいる┅┅いや、他の国とは違う方向に突出していると言った方が正しい。とにかく独特だ┅┅それでいて、人を引きつけて放さない魅力がある┅┅魔力と言っていいかもしれない┅┅俺はもう、たぶんヨーロッパに帰っても、ヨーロッパ人には戻れないだろう┅┅俺は空の上にいるという唯一絶対の神は信じないが、日本人が自分の周りのどこにでもいると感じている神、いや精霊は本当にいるような気がする。日本人を他の国の人間たちと大きく異ならせているのは、彼らの言霊・精霊信仰であるのは間違いない┅┅)
そこでダリルの思考は途切れ、そのまま夢の世界へ入っていった。
「御流儀」と呼ばれる尾張柳生流は、負けは絶対に許されないという宿命を背負っている。そのため日々の鍛錬は過酷を極めた。剣の稽古はもちろん、日頃の立ち居振る舞い、教養に至るまで厳しく己を高めることを要求された。
現在屋敷に住み込みで修業をしているのは、高田三之丞を筆頭に五人。彼らは朝の六時前には起きて、おのおの素振りや足腰の鍛錬を一刻ほど行う。その後、どんなに寒い日でも井戸端で水を浴びて汗を流し、体を清める。それから朝食作りや掃除などの雑事に取りかかり、終われば各自の部屋で書を読んだり、字の練習に励む。軽い昼食をとった後、道場の掃除。やがて、非番の藩士たちが稽古のために続々と集まってくる。師範代の三之丞はもちろん、他の四人も稽古の中心になって門弟たちを引っ張っていく。稽古が終わるのは夕方の五時前後、それから道場の掃除、夕食の準備を当番制で行う。夕食後に片付けを済ませると、風呂当番以外はようやく自由な時間となる。こんな毎日を、長い者ではもう七年続けているのである。
多くの門弟たちは新影流の「目録位」までを目標にしているが、三之丞たち内弟子はその上の「外伝位」「内伝位」、そして「皆伝位」を目指している。三之丞は現在「内伝位」を授けられており、門弟たちの中では抜きんでた存在だった。
計馬とダリルも早速翌日から、三之丞たちと同じ日課で修行を始めた。当然、利厳たちは二人を客分として遇する予定だったのでやめるようにたしなめたが、二人は「ここにお世話になる間は┅┅」ということで引かなかったのである。
その三日目のことだった。この日、道場では「仮目録位」を受ける二人の藩士に対する試験が行われた。車の運転で言えば、免許(目録位)をもらう前の仮免許であり、これに合格すれば一応師範代として道場を訪ねてきた他流派の剣客と試合することが許される。
利厳立ち会いのもと、まず仮目録位で習得すべき技が披露される。演じるのは利方と三之丞だ。立ったまま相手の剣を奪い取る技、座った状態で相手の剣を奪い取る技、そして七つの構えからの斬り合いの型二十七種。これを見て覚え、一つずつ実際にやっていくのである。ほとんどの門弟たちは、年に何回かは仮目録を受ける先輩たちを見ているので、前もって練習は十分できている。だから、型の試験はほとんどの者が合格できた。だが、問題はその後だった。
「では、これより切り抜け十本を行う。なお、今日は当道場にお招きした副島殿とダリル殿にも入って頂く。では、浅川から参れ」
「はっ、お願いします」
仮目録取得に挑む二人のうちで、年配の方の藩士が道場の中央に立った。
「では、副島殿はここに┅┅ダリル殿は、下田の後ろ、そこへお座り下さい┅┅うん、これでいいかのう┅┅では、始めるか」
三之丞が壁際に他の十三人の門弟たちを並べ、計馬とダリルをその途中に配置した後、自分も一番後ろに並んだ。
これから始まるのは最終試験、十人抜きの実技試験である。試験を受ける者は、次々に挑んでくる者たちと竹刀を使った一本勝負の試合をする。十人に勝てれば仮目録をもらうことができるというわけだ。だが、これがなかなかに大変である。皆、互いを知り尽くした相手であり、簡単に合格はさせないぞと本気で向かってくる。しかも、休み無しなので体力はどんどん削られていく。なるべく早く十人に勝たないと、途中で体力が無くなっておしまいということになりかねないのだ。実際、過去にこれを一回で通過できたのは、受験者のうち半分にも満たないというから、尋常ではない。これが、免許皆伝の最終試験では倍の二十人抜きになるという。
(防具も着けず十人抜きか┅┅いやはや凄まじいな┅┅これが御流儀の厳しさか)
計馬は気迫のこもった声と激しくぶつかり合う竹刀の音を聞きながら、体の内から湧き上がってくる高揚感を快く感じていた。
しかし、さすがは仮目録を受けようという上級者である。浅川はあっという間に五人から一本を取って、まだ息も上がっていなかった。次は計馬の番だった。
「おねがいします」
この試験はとにかく受験者を休ませず攻め立てることが肝心なので、挨拶はしなくて良いという暗黙の了解があった。だが、計馬はいつもの試合と同じように頭を下げて挨拶した。
「やああっ」
その瞬間、浅川は竹刀を突きだして突進してきた。卑怯だが違反ではない。むしろ、隙を見せた計馬に非があった。誰もが、計馬の喉に竹刀の先が食い込んだと思った。
「あっ┅┅」
だが、浅川の竹刀は空を突き、右足が床に着いた時には、計馬は背後にいて、振り返ろうとする浅川の首筋にぴたりと竹刀が当てられていた。
(ほう┅┅見事なものだな┅┅一刀流┅┅いや、中条流か┅┅)
利厳はあごに手をやりながら、思わず頬を緩めた。
(な、なんだ、あの体のさばきは┅┅見えなかったぞ┅┅動きが見えなかったぞ┅┅)
三之丞は思わず立ち上がりそうになって、拳を握りしめていた。
六人まで勝ち抜いたものの、浅川の動きは急激に鈍くなっていた。いよいよ次はダリルの番だった。
(可哀想だが、こいつはもうスタミナ切れだな┅┅)
「おねがいします」
ダリルはちょこんと頭を下げて挨拶すると、いつものように腰を落として肩に竹刀を担ぎ、左手を前に出して手を開いた。
(ほう、これはまた珍しい構えだな┅┅飯篠長威斎がこのような構えをしたと古文書で見た記憶はあるが┅┅)
利厳がそんなことを考えているうちに、ダリルが独特のかけ声とともに浅川に向かって突進していった。
「ヒョーォォ」
浅川は低い下段の構えで、突きや切り上げ、攻撃をかわしてからの返し技を狙った。ダリルは躊躇なく浅川の間合いに踏み込んでくる。と、浅川が今だと思った瞬間、ダリルは急激に方向を変え、右に回転しながら竹刀を振り抜いていた。そしてそれは狭い隙間を通って、浅川の左胴を強く撃ち抜いた。
あまりに早い動きに、周囲も打たれた浅川も茫然となったまま声も出せずにいた。
「ありがとござました」
ダリルは頭を下げると、壁際の列の最後尾に平然と歩いて行って座った。
「お、おい、次はお前だぞ」
「あ、ああ┅┅」
今まで見たことのない計馬とダリルの剣技に、門弟たちは皆動揺していた。
浅川はその後も頑張ったが、結局七本目を取れず動けなくなって門弟たちに運ばれていった。
「次、高野っ」
「はっ、お願いします」
次に試験に挑むのは、まだ二十代と思われる藩士である。しかし、引き締まった体と強い意志を秘めた目をした精悍な若者だった。
彼も最初から連続で五人を退け、六人目の計馬を迎えた。
「お願いします」
「お願いします」
計馬の挨拶に高野も応え、二人は静かに最初の構えに入った。計馬は正眼、高野は右上段、そしてゆっくりと竹刀を下に引き、刀身を右斜め下に倒して半身になる。計馬がずいと前に出ると、いきなり計馬の竹刀を下から撥ね上げてきた。軽い牽制の動きだったので、竹刀を飛ばされることはなかったが、正眼のままではやりにくいことは確かだ。しかし、計馬はかまわず再び前に出る。高野は先ほどよりやや強めに、計馬の竹刀を撥ね上げる。
三回目、計馬は竹刀の先をやや下げて、ほぼ水平の状態でさっきより大きく前に踏み出した。高野はいったん後ろに下がった後、迫ってくる竹刀を強く撥ね上げた。だが、ぐっと体重を掛けた計馬の竹刀はわずかに上に動いただけだった。計馬はその機を逃さず、高野の竹刀を上から抑え込んで前に進んでいく、高野は慌てて後ろに下がりながら、右に竹刀を引いて外そうとした。
「てやああっ」
計馬はそのまま前に飛び込み、高野のみぞおち辺りに竹刀を突き入れた。
「ぐふっ」
見ていた利厳は、思わずため息を吐いて目を伏せた。
(愚か者め┅┅三回も同じ事を続ければそうなることは分かっておろうに┅┅)
外から見ただけでは、何ということもない地味な勝負だったので、驚きの声も聞こえなかったが、利厳の目は獲物を狙う虎の目のように鋭くなっていた。
計馬には負けたものの、高野はさすがに若いだけあって次から連続で三本取り、いよいよ残り二本となった。十人目はダリルだった。
「おねがいします」
「お願いします」
高野は荒い息だったが、まだ目は死んでいなかった。さっと正眼に構えて、ダリルの早い飛び込みに備える。ダリルは腰を落として、右手でゆっくりと竹刀を回しながら、右前に移動していく。高野も右に回りながら、右上段に構え直した。
(狙いは頭ではなく、竹刀か┅┅)
ダリルはそう読んで、竹刀を左に引き、少しずつ間合いを詰めていった。
(ダリルさん、それが居合いの構えですよ┅┅)
見ていた計馬は思わずにこりと顔をほころばせながら心の中でつぶやいた。
「ヒョオオッ」
ダリルがかけ声とともに前に走る。高野はぐっと踏みとどまって、ダリルが間合いの中に入ってくるのを待った。ダリルが相手の間合いに入る直前に鋭く竹刀を横に払うと、高野がそれを見切って上段から打ち下ろす。ダリルは右にさっと移動してかわし、返しで高野の肩口を袈裟に切る。しかし、それを予想していた高野は竹刀でそれを受けると、手首をくるりと返してダリルの頭に振り下ろす。ダリルは間一髪後ろに跳んでそれをかわした。
ほんの数秒間に繰り広げられた攻防は見事なものだった。門弟たちは、おおっという感嘆の声を上げ、三之丞は思わず立ち上がって満面の笑みで大きく頷いた。
(さすがに簡単にはいかないな┅┅だが、次で終わりだ)
ダリルはにやりと口元に笑みを浮かべると、再び左に竹刀を倒して姿勢を低くする。高野も再び上段に構えて気合いの声を上げる。
「せやああっ」
ダリルが突進する。高野がぐっと力をこめる。ダリルが間合いに入る直前に横に┅┅払わなかった。
「何っ!」
ダリルは跳んだ。前に走った勢いをそのままに、間合いに入る直前で前にジャンプしたのである。高野は思いきり竹刀を振り下ろした。しかし、もうダリルは目の前に迫っていた。竹刀がぶつかり合うのと同時に、体がぶつかり合った。ダリルの体当たりをまともに受けた高野は後ろに倒れ、ダリルは竹刀を彼の喉元に突きつけた。
「なんだあれは┅┅めちゃくちゃだな」
「喧嘩じゃないんだ┅┅汚いやり方だぞ」
門弟たちはダリルのやり方にざわざわと騒ぎ始めた。
「騒ぐでない、愚か者ども┅┅」
師範席から利厳が一喝した。
「┅┅試合と喧嘩はどこが違うか、誰か答えてみよ」
その問いに門弟たちはお互いの顔を見合わせる。やがて、その内の一人がしっかりとした口調で答えた。
「試合は怨恨ではなく、ちゃんとした決まりにのっとって互いの技量を研鑽するためのもの。だから、ケガがないよう互いに気をつけます。一方、喧嘩は怨恨から起こり、互いを傷つけ、命を奪い合います。そこには決まりも何もありません」
「では、貴様は何の怨恨もない相手に真剣での決闘を挑まれたとき、試合をするのか、喧嘩をするのか、どっちだ?」
「そ、それは、試合の心構えをもって┅┅」
「だから負けるのだ┅┅命を奪われた後で、今のは試合だったとか、やり方が汚いだとか言えると思っているのか?」
門弟たちは何も言えずうつむいてしまった。
「ダリル殿、見事であった。あれは、実戦で覚えた技か?」
利厳の問いに、ダリルは少し考えてからオランダ語で答えた。
「計馬、通訳を頼む。今のやり方に、日本人は快く思わないだろう。自分でも、決して良いやり方だとは思わない。これは、鎧を着た相手と戦ったとき何度か使ったものだ。強い相手に勝つには普通の事をやっていてはだめだ。負ければ死ぬのなら、死ぬまでもがいて勝つ方法を考えなければいけない┅┅それが、ヨーロッパ人のやり方だ」
計馬の通訳を聞きながら、利厳はにこやかな顔で何度も頷いた。
「まことにその通りじゃ。かつて、戦国の世ではそれが当たり前の考え方であった。それが太平の世になり、剣術を棒きれで叩き合う遊びにしか考えられぬ若者たちが増えてきた。
確かに今の世に、常日頃から命の危険を感じながら生きよ、というのは無理かも知れぬ。であれば、剣術などやめれば良いのだ。他に生きる道はいくらでもある。だが、我らはこうして剣の道を志した。剣術とはすなわち、剣による戦いに勝つためのすべだ。命をやりとりする中で生き抜く方法を極めていくこと、これ以外にない」
計馬の通訳を聞いて、ダリルはにっこりと微笑み、利厳に向かって深く頭を下げた。
「よし、高野、そなたには仮目録を与えよう。この後も心して研鑽に励め。浅川、そなたは明日、もう一度十人斬り抜きをやってみよ。よいな」
高野も浅川もその場に正座して頭を下げた。
「では、本日の稽古はこれにて終了する」
利厳は門弟たちにそう告げた後、計馬とダリルの方を向いた。
「副島殿、ダリル殿、しばし待っていてくれぬか。三之丞、お前もだ」
利厳はそう言うと、門弟たちが道場を出て行くまで静かに瞑目した。そして、道場が静かになると、おもむろに目を開いて立ち上がった。
「三之丞、副島殿と試合ってみよ。ダリル殿は、わしとな」
利厳はあの穏やかな笑みを浮かべて言った。しかし、計馬とダリルの目には、大地にのんびりと寝そべっていた竜が起き上がって、二人の前に立ちはだかったように見えた。
計馬とダリルは死地に乗り込む心構えで立ち上がった。一方、三之丞は湧き上がる闘志をそのままに、どかどかと道場の中央に出て行った。
まずは計馬と三之丞との試合だった。
「お願いします」
「お願いします」
挨拶の後、計馬も三之丞もさっと正眼に構えた。三之丞は例によって竹刀をやや右に引いた柳生新影流の正眼だ。利厳とダリルは道場の隅で素振りや構え、屈伸などをしながら試合を見ている。
「ええいっ」
最初に仕掛けたのは三之丞だった。正眼に構えたままするすると出て行き、突くと見せかけて、左からの切り上げで計馬の右腕を狙った。計馬は竹刀を右に引いてそれを受けると、手首を返して上から三之丞の竹刀を抑え込む。三之丞は下で竹刀を回してそれを外すと、すかさず面を打ってくる。計馬は後ろに跳びすざってそれを間一髪でかわす。
(早い┅┅それに以外と冷静に間合いを測っている)
さすがに伊達に尾張柳生道場の師範代はやっていない。しかし、計馬には三之丞の一つの弱点が見えていた。先ほどからの門弟たちとの試合の中で、それは発見したものだった。
計馬はするすると前に出ていった。三之丞はさっと上段に構える。
(やはりな┅┅)
計馬は心の内で頷くと、そこから一気に電撃の早さで飛び込んでいった。三之丞が驚きに目を見開いて、慌てて竹刀を振り下ろす。計馬は竹刀の鍔元でそれを受けると、そのままの勢いで三之丞を押していった。
「ぬううっ」
三之丞は押されまいとして上体に力を入れた。その瞬間、計馬は不意に右に体をひねり、体勢を崩した三之丞が慌てて竹刀を上げるところに胴を払い、とどめに首の後ろを竹刀で押さえたのであった。
「ま、参りました」
あまりの完敗に、三之丞は茫然として床に片膝をついたまま空間を見据えていた。
「副島殿、見事であった。三之丞、そちの弱点を見抜かれたな」
「っ!┅┅弱点┅┅それは┅┅」
「うむ、そちは力が強い。それゆえ、たいていの相手は鍔迫り合いを避け、間合いを遠く取って戦う。今までの相手は、例えるなら逃げるウサギを追い詰めて仕留めるようなものであった。ところが、副島殿は逆に力で押してきた。逃げていたウサギが牙をむいて襲いかかってきたようなものじゃ。そちは慌てた。そして余計な力を入れた┅┅」
「あ┅┅」
三之丞は視界がぱっと開けるような思いで、目を輝かせながらしっかりと頷いた。
「さて、では参ろうかの、ダリル殿」
竜の目が自分に向けられたとき、ダリルは加賀で冨田重康の前に立った時のことを思い出していた。重康はとらえどころのない風のように感じたが、利厳はまるで越えることが出来ない岩の壁のような感じだった。
「おねがいします」
「お願いします」
計馬と三之丞が一心に見守る中、二人は竹刀を構えた。
ダリルは腰を落として竹刀を右肩に乗せ、左手をゆっくりと前に上げて手のひらを利厳に向けた。それに対して利厳は右下に剣先を向け、刀身をわずかに開いた下段に構えた。
(右へ行っても左へ行っても、切り上げからの突きや切り返しが来る。かといって跳べば、降りてくるところを串刺しか。いずれにしても先に仕掛ければ負ける。ならば┅┅)
ダリルは一気に前に走って、間合いを詰めていった。そして相手の間合いに入る寸前の所で止まり、腰を落としたままじっと利厳を見つめた。
無表情だった利厳の顔に、いかにも楽しげな笑みが浮かんだ。
(まさに野獣だな、この男┅┅理ではなく、本能を優先させて動いている)
利厳の竹刀がダリルの目の前でスーッと上に上がり、彼の顔の前で止まった。
「ヒョオオッ」
「やあああっ」
裂帛の気合いの声とともに、バチッ、バチッっと二回連続で竹刀がぶつかり合う音が響いて、再び道場に静寂が戻った。
ダリルと利厳はどちらも正眼に構えたまま、腰を落としてにらみ合っていた。
次の瞬間、今度は利厳が前に走った。
「えええいっ」
利厳の突きを受け流そうとしたダリルの竹刀が、バシッという高い音の後、ダリルの手を離れて床に落ちていった。
ダリルは片膝をつき両腕を前に出したまま茫然と床を見つめていた。両手首はズキズキという痛みと痺れでぶるぶると震えていた。
何が起きたのかは分かっていた。利厳は突きを受けられた瞬間、手首を返してダリルの籠手を打ったのである。だが、その早さは最初から意図していなければ出来ないものだった。
「理を知れば、十歩先のワナも避けられるし、敵の仕掛けたワナも利用出来る。だが、それに固執して心の柔軟さを失えば、とっさの理外の動きには対応できぬ。
理外もまた理の内と心得て、常に柔軟に対応する事が最も肝要なのじゃ。とはいえ、何事も経験で会得するしかないがのう┅┅」
ダリルはようやく起き上がって竹刀を拾い、深々と頭を下げた。
「ありがとござました」
(理外も理の内┅┅つまり、予想外の相手の動きにも対応できる心構えということか┅┅そうすれば、予想外ということは無くなる。確かにその通りだが、それはもう神に近い、いや神そのものと言って良い境地だろう)
ダリルは計馬の側に歩いていきながら、思わず小さなため息を吐いた。
「お疲れ様でした。あれは避けるのは無理です。誰も避けられないでしょう」
計馬は前を向いたまま、低い声でそう言った。
「では、副島殿、稽古をいたそうか」
「はっ、お願いします」
計馬は竹刀を手に、怪物の前に歩み出ていった。戦国の世を生き抜き、幾多の修羅場を経験してきた剣豪の強さは異次元のものだ。勝とうなどと考えるのもおこがましい。
(虚心坦懐、己の弱さをはっきりと見せてもらうこと、そこから新たな道は始まる)
計馬は自分の持てる力を出し切って、利厳にぶつかっていった。そして、利厳もまた、出し惜しみすることなく、三本連続で計馬の相手をした。
一本目は、計馬の竹刀が右後方へ大きくはじき飛ばされて終わった。二本目は、ダリルと同じように籠手を打たれた。そして、三本目┅┅。
「やあああっ」
「ええいっ」
「とおおっ」
二人の激しい切り結びに、竹刀が折れてしまうのではないかと思われるほどだった。両者とも顔から汗を滴らせ、肩で息をしている。
高田三之丞は、師のこうした姿を見るのは初めてだった。師が一人で稽古をしているときでも、めったに肩で息をすることはない。ましてや、弟子入りしてからこの方、人を相手にこれほど長時間試合をする師を見たことはなかった。
(なんとも楽しげなお顔だ。久しぶりに血湧き肉躍る相手に出会われたのじゃなあ)
ダリルも、計馬の生き生きとした姿に、三之丞と同じ感慨を抱いていた。
(計馬の奴、子供のような顔をしやがって┅┅よほど楽しいのだな。まあ、それはよく分かるが┅┅この試合はいったい何なんだ、二人とも人間とはとうてい思えない┅┅)
ダリルは目の前の二人が、日本刀を手にヨーロッパの戦場で暴れ回る姿を想像し、思わず背筋に寒気をおぼえた。いったいどれほどの数の生首やばらばらの手足が戦場を埋め尽くすことだろう。
「せいっ」
西日が差し込む道場で、汗が跳び散り光の中に輝いて散っていった。
計馬が倒れ込みながら放った必殺の払捨刀を、利厳は竹刀で受け、そのまま計馬の腕を足で踏み押さえたのである。
「参りました」
「いやはや、手こずったわ、あははは┅┅」
利厳はいかにも楽しげに笑いながら、手を差し伸べて計馬を引き起こした。
ダリルと計馬はそれから五日間尾張柳生屋敷に滞在し、新しい年の始まりをここで迎えた。上泉道場も訪れ、居合いの練習もすることができた。そして九日目の朝、二人は利厳をはじめ世話になった人々に別れを告げて、再び旅の途に就いた。
「名残は尽きぬが、二人ともくれぐれも体に気をつけて、達者にのう」
「はい、利厳様もいつまでもお元気で。陰ながらご多幸をお祈りいたしております」
「たいへんおせわになりました。いっしょうわすれません」
「うむ┅┅またいつでも訪ねてくれ、皆待っておるぞ」
見送りに出ていたのは利厳一人だった。利方は二日前に用事で江戸へ発っていた。そして、高田三之丞は┅┅。
「師匠、京都の土産はシバ漬けと茶菓子で良かったですかいのう?」
「おお、北野松吉の茶菓子じゃぞ」
「しかと承った。では、副島殿、ダリル殿、いざ、京の都へ出立じゃ」
意気揚々と二人の前に立って歩き出した。
ダリルと計馬はもう一度利厳に頭を下げてから、三之丞の後を追って歩き出す。
「高田殿、さように急がれては、途中でへばりますぞ」
「なあに、これでも廻国修行で鍛えた足じゃ、京までなぞ造作も無いわ」
「い、いや、それがしたちはゆっくりと景色でも見ながらですな┅┅」
「あははは┅┅そうかそうか、急ぐ旅でもないしのう。分かった、ゆるりと参ろう、初春の空はのどかに晴れ渡り、ぬしと二人の初詣、べべんべんべん┅┅」
何の唄かも分からないが、合いの手を入れて口ずさみながら、三之丞は上機嫌だ。後ろの二人は顔を見合わせて思わず苦笑したあと、同時に良く晴れた空を見上げた。家並みの続く尾張の城下の空に、幾つかの凧が大空の海を悠々と泳いでいた。
「金の調達は君に任せる┅┅必要なだけ使ってくれ」
「分かりました。ここは天下の御三家筆頭尾張公のお膝元、金銀の両替もたやすく出来るでしょう。ちょっと行ってきます」
まだ本調子ではないダリルを宿屋に寝かせて、計馬はダリルの金貨入りの革袋を預かって町に出かけていった。師走も押し詰まった暮れのせいか、町の中は人で溢れ、商家の店先も活気があった。
「ちょっとすまないが、両替屋はどこかにないか?」
計馬は大きな米問屋の店先で、掃除をしていた丁稚の少年に尋ねた。
「りょう┅┅がえ┅┅ええっと、ちょっとお待ち下さい┅┅」
少年はそう言うと店の中に駆け込んでいったが、しばらくすると、若い男を伴って出てきた。
「これはお待たせいたしました┅┅両替とは、銭替えのことでございましょうか?」
「ああ、それだ、それだ」
「それでしたら、この通りを左に行って┅┅」
計馬は二人に礼を言って、教えられた道を歩いて行った。さすがに名古屋は大きな町で、道を聞かなかったら何時間もうろうろしていたに違いない。
「これはまた珍しい物をお持ちになりましたな┅┅」
「うむ┅┅わたしの連れがオランダ商館に勤めるイスパニア人でな┅┅こうして母国の金貨は持ってきたが、このままでは使えぬので必要な分を両替しておるのだ」
「左様でしたか┅┅それは難儀でございますね。この純度ですと、一枚二両三分が相場でしょうか┅┅それで、何枚お換えになりますので?」
「なんとか一枚三両で十枚、三十両にならんか?」
「┅┅三両はちょっと┅┅ううむ┅┅では、手数料に一枚頂いて、十一枚で三十両ではいかがでしょうか?」
「よし、それで手を打とう」
計馬は革袋から、イスパニア金貨を十一枚取り出して店の主人に手渡した。
「お侍様はこちらの方も相当な腕とお見受けいたしました┅┅」
主人は三十両を紫色の布と一緒に手渡した後、剣を振る動作をしながら言った。
「ほう、分かるのか?」
「はい┅┅こういう商売を長年しておりますと、相手の目を見ればおおよそ心の内が分かるようになります。あなた様が先ほど一枚三両にならないかとおっしゃったとき、わたしはあなた様の目を見て思わず背筋がぞっとなりました。断れば首が飛ぶと感じました┅┅」
「あはは┅┅それはすまなかったな。そんな気は全く無かったが┅┅しかし、そんな殺気を悟られるようでは、まだまだ未熟だな┅┅」
「いえいえ、普通の者には感じ取れるものではございません。実は、わたしはもと柳生利厳様のお側に仕えておりました。上様のご命により、藩お抱えの銭替商をやらせて頂いておりますが、今でも柳生道場には時々通っております」
「何と┅┅あの柳生流随一といわれる利厳様の┅┅失礼だが、お名前を伺ってよろしいか?それがしは肥前藩士副島計馬と申す」
「あはは┅┅名乗るほどではございませんが┅┅今は銭屋正五郎を名乗っておりますが、本名を村井吉勝と申します」
「かたじけない。では、また金子が必要になったときはお願いいたす」
「今後ともよろしくごひいきにお願いします」
計馬は頭を下げて店を出て行った。
(いやあ、世の中にはいろいろな人間がいるものだな┅┅あれは相当にできる男だ)
計馬は金貨を渡したときに見た村井の手のひらを思い出していた。ごわごわして分厚く、小指と薬指の付け根には大きなタコができていた。相当竹刀や木刀を振っている証拠であり、所作にも隙が無かった。
尾張に来たからには、目的の上泉流居合いの見聞と同時に、是非とも尾張柳生流も見てみたかった。しかし、江戸の柳生流と違い、こちらは藩主が直々に印可を授ける形をとっており、「御流儀」とよばれている。簡単に見学が許されるとは思えない。一応、宗矩から紹介状はもらってきてはいたが┅┅。
(ん?あれは┅┅)
宿に戻ってみると、入り口の脇に若い二人の侍が立っている。誰かを待っているような様子に見えた。計馬が近づいていくと、二人は並んで姿勢を正した。
「副島様でございますか?」
「いかにもそれがしは副島計馬だが┅┅」
二人の若侍は嬉しそうに頷き合ってから、頭を下げた。
「主から、お屋敷にお連れするように仰せつかって、お待ちいたしておりました」
「主?いったい、どなたです?」
「はい、柳生利厳様です」
柳生兵庫助利厳は、石舟斎の長男厳勝の二男で、宗矩の甥に当たる。石舟斎は利厳が生まれたときに、「この子こそ、わが柳生流の道統を継ぐべき者」と言って喜んだという。その言葉通り、石舟斎は柳生流の印可と同時に指南書、目録、宝蔵院流の目録などすべてを利厳に与えた。文字通り柳生流の正統を継いだのである。
利厳は初め肥後の加藤清正に仕えたが、一年足らずで同僚との喧嘩事件を起こし、離藩して浪人になった。実は、これは計画的なものだったらしく、その後加藤家は改易となり、利厳は加藤家の改易の一年後に、尾張徳川家に五百石で召し抱えられた。他の仕事はせず、剣術指南のみであれば受けるといって、一切それ以上の家禄はもらおうとしなかった。五年後、利厳は藩主義直に新影流の免許を与えたが、その際、自分が受け継いだ指南書、目録もすべて献上した。そして、我が子利方が免許を受ける際には、義直から相伝を受ける形式を取った。つまり、これ以後、道統を継がせる場合は領主と柳生家が協同で行うことになった。ここから、尾張柳生流は「御流儀」と呼ばれるようになったのである。
「どうしますか、ダリルさん?まだきついなら断りましょう」
「俺はともかく、君は行った方がいいだろう。せっかくの招待をにべもなく断ったら、江戸の柳生家にも恥をかかせることになる」
「いやあ、それなんですよねえ┅┅参ったなあ┅┅」
「俺なら大丈夫だ。このところずっと酒を断って、十分体を休めていたから┅┅」
「ふむ┅┅分かりました┅┅でもきつくなったら言って下さいよ」
「ああ、分かった」
二人は相談を済ませると身なりを整えて部屋を出て行った。
すでに宿の前には柳生家の紋が入った駕籠が二台用意され、遠巻きに人々が集まって噂をしていた。
「お待たせいたした」
「いえ、めっそうもございません。では、どうぞお乗り下さい」
計馬とダリルは衆目の中、大名駕籠に乗り込んだ。ダリルは加賀に行くとき、民間の駕籠は体験していたが、その時よりずっと豪華で揺れも少なかった。
「殿、副島計馬殿、ダリル・バスケス殿ご到着にございます」
「おお、来たか。よし、座敷にお通ししろ」
尾張柳生家の主、柳生利厳はそう命じると、すっくと立ち上がった。背筋がぴんと伸び、体全体に何とも形容しがたいオーラのようなものをまとっていた。すでに六十三歳、人生の終焉を迎えようという年齢だったが、みじんもそんなことは感じさせない。現に今も道場で彼を後ろへ下がらせられる者は誰もいない。常に前へ前へ、新しい剣の境地を開き続けていた。
「待たせたのう、柳生兵庫じゃ。どうか面を上げてくれ」
「お初にお目に掛かります。肥前藩士で長崎奉行所通司の副島計馬と申します」
「おはつにおめにかかります。オランダしょうかんにつとめておるダリル・バスケスともします。よろしくおねがいします」
「うむ、楽に楽に┅┅よく来て下さった、礼を言いますぞ」
利厳が座ると、ようやく計馬たちは顔を上げた。
「ありがたき幸せ。ですが、なぜ我々のことを?」
「あはは┅┅驚かせてすまぬ。実はのう、貴殿たちのことは、江戸にいる二男の兵助からの手紙で知っておったのじゃ。なにせ江戸の柳生家では大騒ぎになったといってな┅┅それで、兵助は江戸の門弟たちを問い詰めて、詳しく話を聞いたらしい。あの、宗矩叔父が、何としても上様のお側に仕えさせたいと言っておる希代の剣客と鬼のように強い異国人が柳生家に逗留しておるということをな┅┅」
「何とも身に余るお言葉で、恐縮するばかりにて┅┅」
「まあ、噂には往々にして尾ひれがつくものじゃ、気にすることはない┅┅それでな、その後また兵助から手紙が来てな、自分が会いに行く前に貴殿らが江戸を発ったと、それはそれは悔しげでな┅┅あははは┅┅恐らく年を越す前に尾張に入ると思うから、必ず引き留めてその技量を確かめてくれと書いてきたのじゃ┅┅」
利厳はいかにも楽しげにそう言って笑った。計馬とダリルは顔を見合わせて苦笑する。
「┅┅しかし、大変だったぞ。町の入り口に門弟たちを交代で何日も見張らせていたからな。
予定より、かなり遅かったようだな?」
「はい┅┅実はダリル殿が風邪をこじらせてしまい、岡崎の宿に十日ほど滞在しておりました」
「ああ、そうであったのか┅┅もう、お加減はよろしいのか?」
「はい、だいじょうぶでござる」
「そうか┅┅では、さっそく近づきに酒を酌み交わすとしよう」
利厳がそう言って手を二回ほど叩くと、廊下の奥から下女や下男たちが手に手に膳や料理の皿を持って出てきた。あっという間に座敷は宴会場に変わった。
「失礼いたします」
襖が開かれ、颯爽とした若者と剣気を体中から溢れさせた壮年の武士が入ってきた。
「副島殿、ダリル殿、紹介いたす。わしの長男の利方と弟子の高田三之丞じゃ」
「副島計馬にござります。どうぞお見知りおきを」
「ダリル・バスケスともします。よろしくおねがいします」
「柳生利方です」
「高田三之丞と申す」
高田はじっと計馬を見つめながら挨拶をした。
「では、おのおの席に着いてくれ。ああ、副島殿とダリル殿はこちらへな」
上座に利厳一人が座り、後の四人は左右に分かれて向かい合うように座った。それぞれの膳には大きな徳利が一本ずつ乗せられていた。まずは手酌で盃に酒を満たす。このあたりも、いかにも武骨な尾張柳生家らしかった。
「では、良き出会いを祝して┅┅」
全員が静かに盃を上げ、一口で飲み干していく。
「お師匠、こんな小さな盃ではまどろっこしくてかないませぬ。いつもの奴を持って来てかまいませぬか?」
「あはは┅┅まったくせっかちな奴め┅┅好きにしろ」
高田は頭を下げて立ち上がると、どかどかと廊下を歩み去って行った。
「あのお方が、有名な〝おいたわしや〟の高田様でございますか?」
「おお、知っておったか?あはは┅┅そうじゃ、あの男じゃよ。道場に試合に来る者はまずあの男が相手をする┅┅たいていは、それで相手は帰っていく┅┅」
「おいた┅┅わしあ┅┅?」
「ああ、可哀想にという意味です。今出て行った彼は、試合の時、相手を打つ前にそう声を掛けてから打つのです。その名声は今や全国に知れ渡っています」
計馬はオランダ語でダリルに説明した。
「ほお、それほど強いのか┅┅そうは見えなかったが┅┅」
ダリルの答えに、利厳たちには分からないと知っていても、計馬は冷や汗をかく思いだった。
そこへまた大きな足音を響かせて、高田が帰ってきた。手には大きな赤い漆塗りの盃が握られていた。彼はそのまま自分の徳利を持って計馬の前に来ると、どっかと腰を下ろした。
「まずは、お近づきに一献┅┅」
無遠慮に差し出された大盃を計馬は両手で受け取った。
「ありがたく頂戴いたします」
高田はその盃に持ってきた徳利を傾けてどくどくと酒を注ぎ込んでいく。やがて、徳利の酒はなくなり、盃にはなみなみと酒が満たされていた。計馬はゆっくりと、しかし休むことなく、喉を鳴らしながら酒を飲み干していった。
「では、ご返杯を」
一気に酒を飲み干した計馬は、やや呆気にとられた顔の高田に杯を返し、今度は自分の徳利から酒を注いだ。高田はにやりと笑うと、、ごくごくと喉を鳴らしながらこれも一気に飲み干していった。
「ぷはーっ┅┅うん、なかなかやるのう、おぬし┅┅わははは┅┅」
「ヘイ、たかたさま、それがしにもそれを┅┅」
高田はぎょっとして、横から手を出したダリルの方を向いた。そしてまさかという顔で盃を差し出した。
「ダリルさん、無理をしては┅┅」
「大丈夫だ。このくらいの酒、なんでもない」
「ほお、ウワバミの高田に張り合えるウワバミが二匹もいたか┅┅あはは┅┅どれ、わしが注いで進ぜよう」
面白そうに眺めていた利厳が徳利を持ってダリルの側にやってきた。
「かたじけないでござる」
「いやいや┅┅だが、無理はなさるなよ」
「はい、だいじょうぶ┅┅」
ダリルもまた息継ぎもせず、一気に飲み干してしまった。
「どうぞ」
ダリルは高田に盃を返すと、自分の徳利を傾けて、盃をいっぱいに満たした。さすがの高田も今度は二回に分けて何とか酒を飲み干した。
「ふう┅┅いやあ、二人がかりではさすがに分が悪いのう┅┅わははは┅┅」
「もう十分じゃろう┅┅三之丞、戻って酒を持ってくるよう言って参れ」
「はっ┅┅では、酒樽を抱えて参りましょう」
高田はそう言うと、ややふらつきながら立ち上がり、盃を持ったまままた廊下の奥に消えていった。
「すまぬな┅┅あれが、奴なりの喜びの表し方なのじゃ」
「はい┅┅噂通りの豪快なお方です」
「うむ┅┅豪快だが、あのような性格じゃ、駆け引きができぬ。力で押し切れる相手には勝てるが、恐らく貴殿には通用しないであろうな」
「い、いえ、そのようなことは┅┅」
「副島殿も、ダリル殿も宗冬から一本取られたとか、まことでござるか?」
今まで表情一つ変えず、黙々と酒を飲んでいた利方が初めて口を開いた。
「ああ、はい、しかし、それがしはその前に一本面を取られております」
「兵助の話では、貴殿等が去って以降、江戸柳生の稽古ががらりと様変わりしたとか。竹刀一辺倒だったのに、木剣の稽古を取り入れ、足腰の鍛錬をするようになったという┅┅これは何か、貴殿たちから助言を受けたからに相違ないと┅┅」
計馬は度々名前が出てくる柳生兵助なる人物を知らなかった。しかし、話を聞く限り、卓越した才能の持ち主であると感じた。
柳生兵助厳包、後に連也斎を名乗る若干十八歳の若者は、計馬が予見した通り、尾張柳生流の至宝として、この後全国に名を轟かせることになる。
「宗冬様に、竹刀稽古の欠点は何かないか、と問われまして、上半身と下半身を同時に鍛える方が良いのではないかと申しただけです」
「ほう┅┅なぜ、そう思われたのかな?」
利厳はすでに理由を見抜いているような目で計馬を見つめながら問うた。
「竹刀は振りやすく、しかも柔らかくしなります。振って、止めて、打つ、これが自在に出来るようになると、つい、上半身の力だけで戦ってしまいがちです。いや、それで十分相手に勝てるのです。でも、そこに落とし穴がある。木刀や真剣はしならない、どうしても切り下ろす、あるいは振り抜く必要があります。上半身だけでそれをやろうとすると、足がついてゆけず、相手の相打ち覚悟の逆転技を受けてしまう危険が多々ある。ならば、とっさの動きに対応できるよう、鍛えるべきは下半身ではないか、そう考えました」
計馬の説明に、利方は何度も頷きながら感心したように聞いていた。一方。利厳はじっと虚空を見つめるように、視線をやや落として無表情で聞いていた。
「ふむ┅┅まあ至極当然のことだな┅┅まず鍛えるべきは足腰、これはどの流派であろうと同じ事┅┅」
「はい、その通りです。宗冬様たちもそれは分かっておられました」
「いや、違うな┅┅」
利厳は柔和な顔を一変させて、厳しい戦いを勝ち抜いてきた剣客の顔になっていた。
「奴らは分かっていなかったのだ、竹刀と真剣の違いを┅┅そして、勝ったと思った瞬間に逆転の技を受ける恐ろしさを、それを繰り出せる者がいることを┅┅」
確かに、宗矩、三厳、宗矩らが驚いたのは足腰を鍛えるという結論よりも、それを納得させた計馬の技に対してだったかもしれない。それにしても、江戸の柳生家に対する利厳のこの辛辣さは何だろう。計馬は驚きを持って利厳を見つめるのだった。
「┅┅いずれにしても、貴殿はその説明を彼らに納得させるだけの技量を見せたということだ。どうであろう、しばらく当家に滞在して、門弟たちに教えてやってはもらえまいか」
「い、いや、教えるなどとはおこがましい限りです。それがしも教えていただく立場で、門弟に加えていただけるなら、望外の幸せですが┅┅」
「ああ、それが良いなら、こちらは一向に構わぬ」
計馬は利厳の申し出をダリルに通訳した。しかし、ダリはそこまでの話をほとんど理解していた。
「こっちとしては、願ったり叶ったりだな。居合いは教えてもらえるのか?」
「あっ、そうでした。ちょっと訊いてみますね」
計馬は利厳の方を向いて言った。
「では、お言葉に甘えさせていただきます。その上に厚かましいお願いですが、ダリル殿は日本の剣術を知るためにこの旅をしておられるのですが、まだ居合いというものを見たことがないと。聞けば、この尾張には上泉信綱様の御孫に当たられる方がおられて、居合いの一派を立てておられるとか、出来ればその道場にも行ってみたいと考えているのですが、紹介していただくことは┅┅」
「あはは┅┅そのようなことは造作も無い。上泉道場なら、ここからさほど遠くないし、お互い遠慮の無い間柄じゃ。こちらから行かぬでも、たぶん向こうからやって来るだろうよ」
利厳はそう言って、あの柔和な顔でさも楽しげに笑った。
こうして、計馬とダリルはその日から尾張柳生屋敷に居候することになった。
(考えてみると、俺は幸運な男だな┅┅トウジに始まって、不思議な糸で結ばれたように日本に来て、カズマ、イオリサマ、トダサマ、ムネフユ┅┅いろいろな人間に出会い、いろいろなことを学ぶことができた┅┅そしてそれは剣を通して一本の道でつながっている┅┅)
尾張柳生家で初めて迎えた夜、ダリルは布団に入ってもなかなか寝付けなかった。これまでの半年余りの旅の思い出が次々に頭に浮かんでくる。
(ニホン┅┅俺が知っているどこの国ともまるで違う┅┅物質経済は他の国より遅れているが、精神文化は恐ろしく進んでいる┅┅いや、他の国とは違う方向に突出していると言った方が正しい。とにかく独特だ┅┅それでいて、人を引きつけて放さない魅力がある┅┅魔力と言っていいかもしれない┅┅俺はもう、たぶんヨーロッパに帰っても、ヨーロッパ人には戻れないだろう┅┅俺は空の上にいるという唯一絶対の神は信じないが、日本人が自分の周りのどこにでもいると感じている神、いや精霊は本当にいるような気がする。日本人を他の国の人間たちと大きく異ならせているのは、彼らの言霊・精霊信仰であるのは間違いない┅┅)
そこでダリルの思考は途切れ、そのまま夢の世界へ入っていった。
「御流儀」と呼ばれる尾張柳生流は、負けは絶対に許されないという宿命を背負っている。そのため日々の鍛錬は過酷を極めた。剣の稽古はもちろん、日頃の立ち居振る舞い、教養に至るまで厳しく己を高めることを要求された。
現在屋敷に住み込みで修業をしているのは、高田三之丞を筆頭に五人。彼らは朝の六時前には起きて、おのおの素振りや足腰の鍛錬を一刻ほど行う。その後、どんなに寒い日でも井戸端で水を浴びて汗を流し、体を清める。それから朝食作りや掃除などの雑事に取りかかり、終われば各自の部屋で書を読んだり、字の練習に励む。軽い昼食をとった後、道場の掃除。やがて、非番の藩士たちが稽古のために続々と集まってくる。師範代の三之丞はもちろん、他の四人も稽古の中心になって門弟たちを引っ張っていく。稽古が終わるのは夕方の五時前後、それから道場の掃除、夕食の準備を当番制で行う。夕食後に片付けを済ませると、風呂当番以外はようやく自由な時間となる。こんな毎日を、長い者ではもう七年続けているのである。
多くの門弟たちは新影流の「目録位」までを目標にしているが、三之丞たち内弟子はその上の「外伝位」「内伝位」、そして「皆伝位」を目指している。三之丞は現在「内伝位」を授けられており、門弟たちの中では抜きんでた存在だった。
計馬とダリルも早速翌日から、三之丞たちと同じ日課で修行を始めた。当然、利厳たちは二人を客分として遇する予定だったのでやめるようにたしなめたが、二人は「ここにお世話になる間は┅┅」ということで引かなかったのである。
その三日目のことだった。この日、道場では「仮目録位」を受ける二人の藩士に対する試験が行われた。車の運転で言えば、免許(目録位)をもらう前の仮免許であり、これに合格すれば一応師範代として道場を訪ねてきた他流派の剣客と試合することが許される。
利厳立ち会いのもと、まず仮目録位で習得すべき技が披露される。演じるのは利方と三之丞だ。立ったまま相手の剣を奪い取る技、座った状態で相手の剣を奪い取る技、そして七つの構えからの斬り合いの型二十七種。これを見て覚え、一つずつ実際にやっていくのである。ほとんどの門弟たちは、年に何回かは仮目録を受ける先輩たちを見ているので、前もって練習は十分できている。だから、型の試験はほとんどの者が合格できた。だが、問題はその後だった。
「では、これより切り抜け十本を行う。なお、今日は当道場にお招きした副島殿とダリル殿にも入って頂く。では、浅川から参れ」
「はっ、お願いします」
仮目録取得に挑む二人のうちで、年配の方の藩士が道場の中央に立った。
「では、副島殿はここに┅┅ダリル殿は、下田の後ろ、そこへお座り下さい┅┅うん、これでいいかのう┅┅では、始めるか」
三之丞が壁際に他の十三人の門弟たちを並べ、計馬とダリルをその途中に配置した後、自分も一番後ろに並んだ。
これから始まるのは最終試験、十人抜きの実技試験である。試験を受ける者は、次々に挑んでくる者たちと竹刀を使った一本勝負の試合をする。十人に勝てれば仮目録をもらうことができるというわけだ。だが、これがなかなかに大変である。皆、互いを知り尽くした相手であり、簡単に合格はさせないぞと本気で向かってくる。しかも、休み無しなので体力はどんどん削られていく。なるべく早く十人に勝たないと、途中で体力が無くなっておしまいということになりかねないのだ。実際、過去にこれを一回で通過できたのは、受験者のうち半分にも満たないというから、尋常ではない。これが、免許皆伝の最終試験では倍の二十人抜きになるという。
(防具も着けず十人抜きか┅┅いやはや凄まじいな┅┅これが御流儀の厳しさか)
計馬は気迫のこもった声と激しくぶつかり合う竹刀の音を聞きながら、体の内から湧き上がってくる高揚感を快く感じていた。
しかし、さすがは仮目録を受けようという上級者である。浅川はあっという間に五人から一本を取って、まだ息も上がっていなかった。次は計馬の番だった。
「おねがいします」
この試験はとにかく受験者を休ませず攻め立てることが肝心なので、挨拶はしなくて良いという暗黙の了解があった。だが、計馬はいつもの試合と同じように頭を下げて挨拶した。
「やああっ」
その瞬間、浅川は竹刀を突きだして突進してきた。卑怯だが違反ではない。むしろ、隙を見せた計馬に非があった。誰もが、計馬の喉に竹刀の先が食い込んだと思った。
「あっ┅┅」
だが、浅川の竹刀は空を突き、右足が床に着いた時には、計馬は背後にいて、振り返ろうとする浅川の首筋にぴたりと竹刀が当てられていた。
(ほう┅┅見事なものだな┅┅一刀流┅┅いや、中条流か┅┅)
利厳はあごに手をやりながら、思わず頬を緩めた。
(な、なんだ、あの体のさばきは┅┅見えなかったぞ┅┅動きが見えなかったぞ┅┅)
三之丞は思わず立ち上がりそうになって、拳を握りしめていた。
六人まで勝ち抜いたものの、浅川の動きは急激に鈍くなっていた。いよいよ次はダリルの番だった。
(可哀想だが、こいつはもうスタミナ切れだな┅┅)
「おねがいします」
ダリルはちょこんと頭を下げて挨拶すると、いつものように腰を落として肩に竹刀を担ぎ、左手を前に出して手を開いた。
(ほう、これはまた珍しい構えだな┅┅飯篠長威斎がこのような構えをしたと古文書で見た記憶はあるが┅┅)
利厳がそんなことを考えているうちに、ダリルが独特のかけ声とともに浅川に向かって突進していった。
「ヒョーォォ」
浅川は低い下段の構えで、突きや切り上げ、攻撃をかわしてからの返し技を狙った。ダリルは躊躇なく浅川の間合いに踏み込んでくる。と、浅川が今だと思った瞬間、ダリルは急激に方向を変え、右に回転しながら竹刀を振り抜いていた。そしてそれは狭い隙間を通って、浅川の左胴を強く撃ち抜いた。
あまりに早い動きに、周囲も打たれた浅川も茫然となったまま声も出せずにいた。
「ありがとござました」
ダリルは頭を下げると、壁際の列の最後尾に平然と歩いて行って座った。
「お、おい、次はお前だぞ」
「あ、ああ┅┅」
今まで見たことのない計馬とダリルの剣技に、門弟たちは皆動揺していた。
浅川はその後も頑張ったが、結局七本目を取れず動けなくなって門弟たちに運ばれていった。
「次、高野っ」
「はっ、お願いします」
次に試験に挑むのは、まだ二十代と思われる藩士である。しかし、引き締まった体と強い意志を秘めた目をした精悍な若者だった。
彼も最初から連続で五人を退け、六人目の計馬を迎えた。
「お願いします」
「お願いします」
計馬の挨拶に高野も応え、二人は静かに最初の構えに入った。計馬は正眼、高野は右上段、そしてゆっくりと竹刀を下に引き、刀身を右斜め下に倒して半身になる。計馬がずいと前に出ると、いきなり計馬の竹刀を下から撥ね上げてきた。軽い牽制の動きだったので、竹刀を飛ばされることはなかったが、正眼のままではやりにくいことは確かだ。しかし、計馬はかまわず再び前に出る。高野は先ほどよりやや強めに、計馬の竹刀を撥ね上げる。
三回目、計馬は竹刀の先をやや下げて、ほぼ水平の状態でさっきより大きく前に踏み出した。高野はいったん後ろに下がった後、迫ってくる竹刀を強く撥ね上げた。だが、ぐっと体重を掛けた計馬の竹刀はわずかに上に動いただけだった。計馬はその機を逃さず、高野の竹刀を上から抑え込んで前に進んでいく、高野は慌てて後ろに下がりながら、右に竹刀を引いて外そうとした。
「てやああっ」
計馬はそのまま前に飛び込み、高野のみぞおち辺りに竹刀を突き入れた。
「ぐふっ」
見ていた利厳は、思わずため息を吐いて目を伏せた。
(愚か者め┅┅三回も同じ事を続ければそうなることは分かっておろうに┅┅)
外から見ただけでは、何ということもない地味な勝負だったので、驚きの声も聞こえなかったが、利厳の目は獲物を狙う虎の目のように鋭くなっていた。
計馬には負けたものの、高野はさすがに若いだけあって次から連続で三本取り、いよいよ残り二本となった。十人目はダリルだった。
「おねがいします」
「お願いします」
高野は荒い息だったが、まだ目は死んでいなかった。さっと正眼に構えて、ダリルの早い飛び込みに備える。ダリルは腰を落として、右手でゆっくりと竹刀を回しながら、右前に移動していく。高野も右に回りながら、右上段に構え直した。
(狙いは頭ではなく、竹刀か┅┅)
ダリルはそう読んで、竹刀を左に引き、少しずつ間合いを詰めていった。
(ダリルさん、それが居合いの構えですよ┅┅)
見ていた計馬は思わずにこりと顔をほころばせながら心の中でつぶやいた。
「ヒョオオッ」
ダリルがかけ声とともに前に走る。高野はぐっと踏みとどまって、ダリルが間合いの中に入ってくるのを待った。ダリルが相手の間合いに入る直前に鋭く竹刀を横に払うと、高野がそれを見切って上段から打ち下ろす。ダリルは右にさっと移動してかわし、返しで高野の肩口を袈裟に切る。しかし、それを予想していた高野は竹刀でそれを受けると、手首をくるりと返してダリルの頭に振り下ろす。ダリルは間一髪後ろに跳んでそれをかわした。
ほんの数秒間に繰り広げられた攻防は見事なものだった。門弟たちは、おおっという感嘆の声を上げ、三之丞は思わず立ち上がって満面の笑みで大きく頷いた。
(さすがに簡単にはいかないな┅┅だが、次で終わりだ)
ダリルはにやりと口元に笑みを浮かべると、再び左に竹刀を倒して姿勢を低くする。高野も再び上段に構えて気合いの声を上げる。
「せやああっ」
ダリルが突進する。高野がぐっと力をこめる。ダリルが間合いに入る直前に横に┅┅払わなかった。
「何っ!」
ダリルは跳んだ。前に走った勢いをそのままに、間合いに入る直前で前にジャンプしたのである。高野は思いきり竹刀を振り下ろした。しかし、もうダリルは目の前に迫っていた。竹刀がぶつかり合うのと同時に、体がぶつかり合った。ダリルの体当たりをまともに受けた高野は後ろに倒れ、ダリルは竹刀を彼の喉元に突きつけた。
「なんだあれは┅┅めちゃくちゃだな」
「喧嘩じゃないんだ┅┅汚いやり方だぞ」
門弟たちはダリルのやり方にざわざわと騒ぎ始めた。
「騒ぐでない、愚か者ども┅┅」
師範席から利厳が一喝した。
「┅┅試合と喧嘩はどこが違うか、誰か答えてみよ」
その問いに門弟たちはお互いの顔を見合わせる。やがて、その内の一人がしっかりとした口調で答えた。
「試合は怨恨ではなく、ちゃんとした決まりにのっとって互いの技量を研鑽するためのもの。だから、ケガがないよう互いに気をつけます。一方、喧嘩は怨恨から起こり、互いを傷つけ、命を奪い合います。そこには決まりも何もありません」
「では、貴様は何の怨恨もない相手に真剣での決闘を挑まれたとき、試合をするのか、喧嘩をするのか、どっちだ?」
「そ、それは、試合の心構えをもって┅┅」
「だから負けるのだ┅┅命を奪われた後で、今のは試合だったとか、やり方が汚いだとか言えると思っているのか?」
門弟たちは何も言えずうつむいてしまった。
「ダリル殿、見事であった。あれは、実戦で覚えた技か?」
利厳の問いに、ダリルは少し考えてからオランダ語で答えた。
「計馬、通訳を頼む。今のやり方に、日本人は快く思わないだろう。自分でも、決して良いやり方だとは思わない。これは、鎧を着た相手と戦ったとき何度か使ったものだ。強い相手に勝つには普通の事をやっていてはだめだ。負ければ死ぬのなら、死ぬまでもがいて勝つ方法を考えなければいけない┅┅それが、ヨーロッパ人のやり方だ」
計馬の通訳を聞きながら、利厳はにこやかな顔で何度も頷いた。
「まことにその通りじゃ。かつて、戦国の世ではそれが当たり前の考え方であった。それが太平の世になり、剣術を棒きれで叩き合う遊びにしか考えられぬ若者たちが増えてきた。
確かに今の世に、常日頃から命の危険を感じながら生きよ、というのは無理かも知れぬ。であれば、剣術などやめれば良いのだ。他に生きる道はいくらでもある。だが、我らはこうして剣の道を志した。剣術とはすなわち、剣による戦いに勝つためのすべだ。命をやりとりする中で生き抜く方法を極めていくこと、これ以外にない」
計馬の通訳を聞いて、ダリルはにっこりと微笑み、利厳に向かって深く頭を下げた。
「よし、高野、そなたには仮目録を与えよう。この後も心して研鑽に励め。浅川、そなたは明日、もう一度十人斬り抜きをやってみよ。よいな」
高野も浅川もその場に正座して頭を下げた。
「では、本日の稽古はこれにて終了する」
利厳は門弟たちにそう告げた後、計馬とダリルの方を向いた。
「副島殿、ダリル殿、しばし待っていてくれぬか。三之丞、お前もだ」
利厳はそう言うと、門弟たちが道場を出て行くまで静かに瞑目した。そして、道場が静かになると、おもむろに目を開いて立ち上がった。
「三之丞、副島殿と試合ってみよ。ダリル殿は、わしとな」
利厳はあの穏やかな笑みを浮かべて言った。しかし、計馬とダリルの目には、大地にのんびりと寝そべっていた竜が起き上がって、二人の前に立ちはだかったように見えた。
計馬とダリルは死地に乗り込む心構えで立ち上がった。一方、三之丞は湧き上がる闘志をそのままに、どかどかと道場の中央に出て行った。
まずは計馬と三之丞との試合だった。
「お願いします」
「お願いします」
挨拶の後、計馬も三之丞もさっと正眼に構えた。三之丞は例によって竹刀をやや右に引いた柳生新影流の正眼だ。利厳とダリルは道場の隅で素振りや構え、屈伸などをしながら試合を見ている。
「ええいっ」
最初に仕掛けたのは三之丞だった。正眼に構えたままするすると出て行き、突くと見せかけて、左からの切り上げで計馬の右腕を狙った。計馬は竹刀を右に引いてそれを受けると、手首を返して上から三之丞の竹刀を抑え込む。三之丞は下で竹刀を回してそれを外すと、すかさず面を打ってくる。計馬は後ろに跳びすざってそれを間一髪でかわす。
(早い┅┅それに以外と冷静に間合いを測っている)
さすがに伊達に尾張柳生道場の師範代はやっていない。しかし、計馬には三之丞の一つの弱点が見えていた。先ほどからの門弟たちとの試合の中で、それは発見したものだった。
計馬はするすると前に出ていった。三之丞はさっと上段に構える。
(やはりな┅┅)
計馬は心の内で頷くと、そこから一気に電撃の早さで飛び込んでいった。三之丞が驚きに目を見開いて、慌てて竹刀を振り下ろす。計馬は竹刀の鍔元でそれを受けると、そのままの勢いで三之丞を押していった。
「ぬううっ」
三之丞は押されまいとして上体に力を入れた。その瞬間、計馬は不意に右に体をひねり、体勢を崩した三之丞が慌てて竹刀を上げるところに胴を払い、とどめに首の後ろを竹刀で押さえたのであった。
「ま、参りました」
あまりの完敗に、三之丞は茫然として床に片膝をついたまま空間を見据えていた。
「副島殿、見事であった。三之丞、そちの弱点を見抜かれたな」
「っ!┅┅弱点┅┅それは┅┅」
「うむ、そちは力が強い。それゆえ、たいていの相手は鍔迫り合いを避け、間合いを遠く取って戦う。今までの相手は、例えるなら逃げるウサギを追い詰めて仕留めるようなものであった。ところが、副島殿は逆に力で押してきた。逃げていたウサギが牙をむいて襲いかかってきたようなものじゃ。そちは慌てた。そして余計な力を入れた┅┅」
「あ┅┅」
三之丞は視界がぱっと開けるような思いで、目を輝かせながらしっかりと頷いた。
「さて、では参ろうかの、ダリル殿」
竜の目が自分に向けられたとき、ダリルは加賀で冨田重康の前に立った時のことを思い出していた。重康はとらえどころのない風のように感じたが、利厳はまるで越えることが出来ない岩の壁のような感じだった。
「おねがいします」
「お願いします」
計馬と三之丞が一心に見守る中、二人は竹刀を構えた。
ダリルは腰を落として竹刀を右肩に乗せ、左手をゆっくりと前に上げて手のひらを利厳に向けた。それに対して利厳は右下に剣先を向け、刀身をわずかに開いた下段に構えた。
(右へ行っても左へ行っても、切り上げからの突きや切り返しが来る。かといって跳べば、降りてくるところを串刺しか。いずれにしても先に仕掛ければ負ける。ならば┅┅)
ダリルは一気に前に走って、間合いを詰めていった。そして相手の間合いに入る寸前の所で止まり、腰を落としたままじっと利厳を見つめた。
無表情だった利厳の顔に、いかにも楽しげな笑みが浮かんだ。
(まさに野獣だな、この男┅┅理ではなく、本能を優先させて動いている)
利厳の竹刀がダリルの目の前でスーッと上に上がり、彼の顔の前で止まった。
「ヒョオオッ」
「やあああっ」
裂帛の気合いの声とともに、バチッ、バチッっと二回連続で竹刀がぶつかり合う音が響いて、再び道場に静寂が戻った。
ダリルと利厳はどちらも正眼に構えたまま、腰を落としてにらみ合っていた。
次の瞬間、今度は利厳が前に走った。
「えええいっ」
利厳の突きを受け流そうとしたダリルの竹刀が、バシッという高い音の後、ダリルの手を離れて床に落ちていった。
ダリルは片膝をつき両腕を前に出したまま茫然と床を見つめていた。両手首はズキズキという痛みと痺れでぶるぶると震えていた。
何が起きたのかは分かっていた。利厳は突きを受けられた瞬間、手首を返してダリルの籠手を打ったのである。だが、その早さは最初から意図していなければ出来ないものだった。
「理を知れば、十歩先のワナも避けられるし、敵の仕掛けたワナも利用出来る。だが、それに固執して心の柔軟さを失えば、とっさの理外の動きには対応できぬ。
理外もまた理の内と心得て、常に柔軟に対応する事が最も肝要なのじゃ。とはいえ、何事も経験で会得するしかないがのう┅┅」
ダリルはようやく起き上がって竹刀を拾い、深々と頭を下げた。
「ありがとござました」
(理外も理の内┅┅つまり、予想外の相手の動きにも対応できる心構えということか┅┅そうすれば、予想外ということは無くなる。確かにその通りだが、それはもう神に近い、いや神そのものと言って良い境地だろう)
ダリルは計馬の側に歩いていきながら、思わず小さなため息を吐いた。
「お疲れ様でした。あれは避けるのは無理です。誰も避けられないでしょう」
計馬は前を向いたまま、低い声でそう言った。
「では、副島殿、稽古をいたそうか」
「はっ、お願いします」
計馬は竹刀を手に、怪物の前に歩み出ていった。戦国の世を生き抜き、幾多の修羅場を経験してきた剣豪の強さは異次元のものだ。勝とうなどと考えるのもおこがましい。
(虚心坦懐、己の弱さをはっきりと見せてもらうこと、そこから新たな道は始まる)
計馬は自分の持てる力を出し切って、利厳にぶつかっていった。そして、利厳もまた、出し惜しみすることなく、三本連続で計馬の相手をした。
一本目は、計馬の竹刀が右後方へ大きくはじき飛ばされて終わった。二本目は、ダリルと同じように籠手を打たれた。そして、三本目┅┅。
「やあああっ」
「ええいっ」
「とおおっ」
二人の激しい切り結びに、竹刀が折れてしまうのではないかと思われるほどだった。両者とも顔から汗を滴らせ、肩で息をしている。
高田三之丞は、師のこうした姿を見るのは初めてだった。師が一人で稽古をしているときでも、めったに肩で息をすることはない。ましてや、弟子入りしてからこの方、人を相手にこれほど長時間試合をする師を見たことはなかった。
(なんとも楽しげなお顔だ。久しぶりに血湧き肉躍る相手に出会われたのじゃなあ)
ダリルも、計馬の生き生きとした姿に、三之丞と同じ感慨を抱いていた。
(計馬の奴、子供のような顔をしやがって┅┅よほど楽しいのだな。まあ、それはよく分かるが┅┅この試合はいったい何なんだ、二人とも人間とはとうてい思えない┅┅)
ダリルは目の前の二人が、日本刀を手にヨーロッパの戦場で暴れ回る姿を想像し、思わず背筋に寒気をおぼえた。いったいどれほどの数の生首やばらばらの手足が戦場を埋め尽くすことだろう。
「せいっ」
西日が差し込む道場で、汗が跳び散り光の中に輝いて散っていった。
計馬が倒れ込みながら放った必殺の払捨刀を、利厳は竹刀で受け、そのまま計馬の腕を足で踏み押さえたのである。
「参りました」
「いやはや、手こずったわ、あははは┅┅」
利厳はいかにも楽しげに笑いながら、手を差し伸べて計馬を引き起こした。
ダリルと計馬はそれから五日間尾張柳生屋敷に滞在し、新しい年の始まりをここで迎えた。上泉道場も訪れ、居合いの練習もすることができた。そして九日目の朝、二人は利厳をはじめ世話になった人々に別れを告げて、再び旅の途に就いた。
「名残は尽きぬが、二人ともくれぐれも体に気をつけて、達者にのう」
「はい、利厳様もいつまでもお元気で。陰ながらご多幸をお祈りいたしております」
「たいへんおせわになりました。いっしょうわすれません」
「うむ┅┅またいつでも訪ねてくれ、皆待っておるぞ」
見送りに出ていたのは利厳一人だった。利方は二日前に用事で江戸へ発っていた。そして、高田三之丞は┅┅。
「師匠、京都の土産はシバ漬けと茶菓子で良かったですかいのう?」
「おお、北野松吉の茶菓子じゃぞ」
「しかと承った。では、副島殿、ダリル殿、いざ、京の都へ出立じゃ」
意気揚々と二人の前に立って歩き出した。
ダリルと計馬はもう一度利厳に頭を下げてから、三之丞の後を追って歩き出す。
「高田殿、さように急がれては、途中でへばりますぞ」
「なあに、これでも廻国修行で鍛えた足じゃ、京までなぞ造作も無いわ」
「い、いや、それがしたちはゆっくりと景色でも見ながらですな┅┅」
「あははは┅┅そうかそうか、急ぐ旅でもないしのう。分かった、ゆるりと参ろう、初春の空はのどかに晴れ渡り、ぬしと二人の初詣、べべんべんべん┅┅」
何の唄かも分からないが、合いの手を入れて口ずさみながら、三之丞は上機嫌だ。後ろの二人は顔を見合わせて思わず苦笑したあと、同時に良く晴れた空を見上げた。家並みの続く尾張の城下の空に、幾つかの凧が大空の海を悠々と泳いでいた。
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