ダリルの剣 ~バスク人剣士が見た日本の剣流~

mizuno sei

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第三章

初雪と子守歌

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「ニホンはひろいな┅┅ぜんぶのばしょまわるのは、なんねんかかる?」
「あはは┅┅そんなこと考えたこともありませんよ。でも、八ヶ月でまだ三分の一くらいでしょうから、あと二年も歩けば、蝦夷から九州まで歩けるんじゃないですか?」
「ふむ┅┅二年か┅┅」
「ん?何を考えているんです?まさか、あと二年旅をするなんてことを┅┅」

 ダリルはにやりと笑うと、それには答えず、前方を指さした。
「カズマ、あのみせは、なにをうっているのだ?」
 二人は東海道の浜松の近くを歩いていた。ダリルが指さしたのは、道端に軒を並べた屋台だった。
「ダリルさんの好物ですよ」
「おお、このにおい、うなぎか┅┅」

 二人は急ぎ足になって、客が列を作っている屋台に並んだ。隣の屋台からも香ばしい匂いが漂ってくる。魚や野菜に衣を着けてごま油で揚げる天ぷらの屋台だった。二人はうなぎの蒲焼きと天ぷらを買い込んで、富士山の見える小川の岸に腰を下ろした。
「んん┅┅これは最高の贅沢だな┅┅」
「酒があれば、なお良かったな」
「ええ、でもこれ以上の贅沢は望みますまい。青空と富士山、そして、うなぎに天ぷら、これだけで十分です」
 計馬の言葉にダリルもあえて反論せず、遠くにくっきりと見える雪を被った富士山を見つめながら、湯気を上げているうなぎの蒲焼きにかぶりついた。
「しかし、本当に良かったのか?せっかくの出世話を断って┅┅」
「ええ、良かったんです。何度も言いますが、それがしには城勤めは性に合いませぬ。それに通師のお役目にもやりがいを感じていますし┅┅」

 二人がそんな話をしていたのには理由がある。
 柳生宗矩は計馬のことをいたく気に入って、江戸を離れる前日の夜、ぜひ、江戸の近くの藩に仕官してほしいと申し出た。川越藩の松平信綱が島原の乱の折、宮本伊織と親交のあるオランダ語の通師がいることを聞いていたらしく、宗矩の話を聞いてぜひ自分の側近に迎えたいと言ったという。計馬が承諾してくれれば、鍋島家との仲介役は自分が引き受けるとまで言った。
 しかし、計馬はその申し出を固辞した。自分は城勤めができるような人間ではないし、通師は国を守るための大切な仕事だと考えている、というのがその理由だった。宗矩は残念がったが、宗冬はむしろ計馬には自由に生きて欲しいと願っている、と言って父親をなだめたのだった。

「さて、行きますか。宗矩様のお話では、尾張の国に面白い剣客がいるとのこと、早く会ってみたいものです」
「確か、居合いとかいう剣術の流派だったな?」
「はい、上泉伊勢守様の御孫に当たられる上泉秀信様が、長野夢楽斎殿から居合い術を学び、夢想流という一派を立てられたということです」

 二人は立ち上がって街道に戻り、松並木が続く海沿いの道を歩き出す。
「居合いは抜き打ちとどう違うのだ?」
「居合いの居とは、座っているということです。つまり、座ったままの状態で急に襲われたとき、いかに対処するかということで考案された剣術なのです」
「ほお、なるほどな┅┅つまり剣を抜く技術と早さを突き詰めたということか」
「ええ、それが一番の目的ではありますが、立ち技もあって、これは間合いの見極めと同時に受け流しと二の太刀の早さ、正確さを鍛錬します。それと、相手と組み合ったときの格闘術を鍛錬の中に入れている流派もあります。それがしも、かつて片山流居合いを少し学んだことがありますが、稽古の半分は格闘術の鍛錬でした」
「ふむ┅┅なるほど面白いな┅┅」
 ダリルは、計馬が時折見せる神速の抜き打ちに密かな憧れを持っていたが、居合いを学べば自分も出来るようになるのではないかと期待に胸を膨らませるのだった。

 ダリルと計馬が遠江を過ぎ三河国に入る頃には、暦は師走となり、街道沿いの宿場にも冷たい北風が吹き抜けるようになっていた。
「うう、寒いですね┅┅早いとこ宿を探しましょう」
 二川の宿に入ったダリルと計馬は冷たくなった手をこすり合わせながら、まだ早い時間だったが、その日の宿を探して足早に通りを歩いて行った。

「あそこに宿屋がありますが、何やら騒がしいですね」
 宿屋の看板はすぐに見つかったが、入り口付近には人だかりができていた。近づいてみると、入り口の前で乳飲み子を抱いた野良着姿の若者と宿屋の番頭と思われる男が言い争いをしていた。

「┅┅どんな理由があろうと、勝手にお客の部屋に入れるわけにはいかないんだよ。あきらめな」
「そこを何とかお願いします。女房がこの宿に入ったところを見た者がいるんです。きっとあの男に騙されて┅┅」
「だめと言ったらだめだ。あんまりしつこいと、番屋に突き出しますよ」
「どうか、どうかお願いします┅┅」

「だめだって言ってるでしょう┅┅おーい、誰か、番屋に┅┅ひっ!」
 番頭が若者の手を振り払って、宿屋の中に入ろうとしたとき、突然ぐいと襟首を掴まれて後ろに引き戻された。驚いた番頭が後ろを振り返ると、つば広の帽子を被った赤い髪の
異人が鬼のような形相で睨んでいる。
「ひいい┅┅な、何ですか、あなたは┅┅」

「ああ、いや、驚かせてすまぬ┅┅」
 異人の後ろから、頭に手をやりながら旅姿の武士が苦笑しながら現れた。
「この者たちはそれがしの連れでな┅┅一晩の宿を頼みたいのだが、部屋は空いておるか?」
 計馬は路銀袋から一分金を二枚取り出して番頭の手に握らせながらそう言った。
「あ┅┅ああ、はいはい、お部屋なら空いておりますよ。へへへ┅┅それならそうと早く言って下されば良かったのに┅┅さあ、さあ、どうぞ、どうぞお入り下さい」

 計馬はあっけにとられた顔の若者に黙って頷いて、ついてくるように促した。ダリルはまだ番頭をにらみつけながら、先に中へ入っていった。
「あ、あの、お侍様┅┅」
「しっ┅┅何も言わず我らと一緒に来るのだ┅┅」
 計馬は若者にそう言うと、草鞋と足袋脱いで足洗い桶に手拭いを浸した。そして、自分の足を簡単に拭くと、若者に手拭いを差し出した。
「お前も足を拭け。どれ、赤ん坊はこちらへ┅┅」
 若者は戸惑いながらも、言われたとおり乳飲み子を計馬に預けて、自分の足を手拭いで拭いた。隣では、足を拭き終えたダリルが、先ほどまでとはうって変わって、人懐っこい笑顔で計馬が抱いた赤ん坊をあやしていた。

「お部屋に御案内します。どうぞ、こちらへ」
仲居の女が三人を案内して部屋へ連れて行く。と、それを見送った番頭は、下女の一人を呼んで言った。
「いちおうの事情を富三親分に言ってきておくれ。刃傷沙汰が起きるかもしれないってね」
 下女は頷いて、裏口の方から出て行った。

 この二川の宿の治安を預かっているのは、表向き人足稼業を営んでいる〝掛川の富三〟というやくざ者だった。この時代、江戸や大坂などの大都市には、町奉行所やその配下の自身番があって、それぞれの町の治安を守っていたが、その他の地方の町や村には奉行所の手は回らず、大きな城下町以外では主に名主や庄屋、そして表向きの稼業を営むやくざ者たちが小さなもめ事から訴訟事までを請け負って解決していたのである。

 さて、行きずりの町で小さなもめ事に首を突っ込んでしまったダリルと計馬は、宿屋の一室でもめ事の片方の中心人物に事情を聞いていた。
「┅┅ふむ、なるほど┅┅つまり、もともと女房とその遊び人の安次は恋仲だった。だが、安次は女に飽きて捨てた。その後、茶店で働いていた女をお前が見初めて女房にして子供も生まれたが、今になって安次がまた女房とよりを戻そうと、何度も自分の留守に女房のもとを訪れていたってことだな?」
「はい┅┅」

 若者の名は清助と言った。町の近くの村で百姓をして、両親と妹を養っているという。
「それで、昨日の朝、起きたら女房がいなくなっていた┅┅あちこち知り合いの所を尋ねて回っていたら、茶店のばあさんが男と一緒に急ぎ足に歩いている女房を見かけて、不審に思い後を付けていったら、この宿屋に入っていったのを見たと┅┅」
「そうです┅┅だから、きっとお美代はここにいるはずなんです┅┅」
「まあ、待て┅┅話を聞いた限りでは、お前の女房は自分からその安次という男についていったことになる。そうであれば、女房はもうお前と子供を捨てる覚悟を決めておるのだ。お前が話をしても女房の心を変えるのは難しいと思うぞ┅┅」

 計馬の言葉清助は情けない顔でひんひんと泣き始め、それにつられて今までおとなしく寝ていた乳飲み子もぐずり始めた。これには計馬もダリルも困ってしまった。ダリルは清助の手から赤ん坊を取り上げて揺すりながらあやしはじめ、計馬は清助の肩を掴んで揺らしながら叱咤した。
「おい、大の男がめそめそするんじゃない。話が通じなかったら、女房の横っ面を一発ひっぱたいて、赤ん坊を胸に押しつけてやれ。いくら薄情な女でも、自分が産んだ子供には情が残っているはずだ。それでも帰らないと言うなら、潔くあきらめろ」
 清助は小さく何度も頷きながら、ようやく涙を拭いて泣き止んだ。

「山で子ヤギがメーメー啼けば┅┅村の母山羊走り出す┅┅夕日が山を染めるころ┅┅」
 ダリルは小さな声でバスク語の子守歌を歌っていた。太い腕に抱かれた乳飲み子はまだ泣いていたが、ダリルは計馬も初めて見るような優しい眼差しで乳飲み子を見つめていた。
「このこ、おなかすいてる┅┅カズマ、ミルクはうってないか?」
「ああ、日本人は牛や山羊の乳は飲まないから売ってないですね┅┅しかたない、こうなったら、母親を探し出すしかありません。それがしが┅┅」
 計馬がそこまで言いかけたとき、何やら部屋の外から足音と言い争う声が聞こえてきた。
そしてその騒ぎは計馬たちがいる部屋の前で止まった。

 いきなり勢いよく障子戸が開かれ、まだ若い女が飛び込んできた。
「清太郎┅┅ああ、清太郎┅┅」
 女はダリルが抱いている赤ん坊のそばに駆け寄ってきた。女の後ろからは、いかにも女が夢中になりそうな役者絵そのままのいなせな若い男がついてきていた。
「お、お美代おぉ┅┅」
 女は清助を見ると、何とも言えない表情で顔をそむけ、男がいる廊下の方へ出て行こうとした。
「おいおい、待ちな、赤ん坊の泣き声が聞こえて飛んできたんだろう?乳を欲しがっている我が子を置いて、どこへ行こうっていうんだい?」

 計馬の言葉に、女は背を向けたまますすり泣きを始めた。その腕を掴んで、男は外へ連れ去ろうとする。
「こ、この野郎、お美代を放せえ」
 清助は男に掴みかかっていったが、男に足蹴にされて後ろへひっくり返った。
「やれやれ┅┅結局痴話喧嘩に巻き込まれることになったな┅┅」
 計馬はため息を吐きながら廊下に出て行き、女の腕を掴んだ男に微笑を浮かべながら言った。
「なあ、兄さん、話を聞く限りじゃ、お前さんは他人の女房をかどあかして連れ去ろうとしている罪人だ。悪いことは言わない、女は諦めて逃げた方が良いよ」

 男は陰険な目で計馬をにらみつけながら、低い声ですごみをきかせながら答えた。
「関係ねえ奴は引っ込んでろ┅┅」
「いや、まあ、乗りかかった船でね、今さら放り出すわけにもいかないんだよ」
「なら、死にやがれ┅┅」
 男は計馬の耳元でそうささやくと、女の腕を掴んでいた手を放して素早く懐に入れた。そして、次の瞬間抜き放ったドスを計馬の腹部へ突き入れた。

「っ!ぐわああぁっ」
 ボキッという嫌な音が聞こえ、ドスが男の手を離れて廊下に乾いた音を立てて落ちた。
「痛えええぇっ┅┅ちくしょおおぉっ」
 男は変な角度で曲がった腕を押さえながら、廊下を転げ回って喚いた。
「いきなり刃物で刺そうとするからそんな目に遭うんだ」

 計馬は切られた羽織の裾の辺りを苦々しい顔で見ながらそう言うと、ドスを拾い上げて部屋の奥に投げやった。お美代という女は、へなへなとその場に座り込んで、恐ろしさに声も出せずもがき苦しむ愛人の男を見つめていた。

 そのとき、廊下の奥の方からどかどかと大きな足音を立てて数人の男たちが、番頭に案内されながら近づいてきた。
「何の騒ぎでえ、いったい?」
 一番後ろから、銀糸に黒の派手な市松模様の羽織を着た太った男が現れて、倒れてもがいている安次を見下ろしながらそう言った。
「おう、てめえら、富三親分がお尋ねになっているんだ、答えろ」
 二人の手下らしき男たちが、計馬と赤ん坊を抱いたダリル、そして清助と女房を見回しながらすごんだ。

「ああ、詳しい話はそこの番頭にでも聞いてくれ。この男は、あのドスで俺を刺そうとしたから腕の関節をきめたが、ちょっと力を入れすぎて折ってしまったようだ」
「ふん┅┅安次、ざまあねえな┅┅そうか、この女が例の女か┅┅確かになかなかいい女じゃねえか。ふふふ┅┅」
 富三は下卑た笑いを浮かべながらお美代を眺めた後、手下たちにあごで合図した。手下たちは、一人が倒れた安次を抱え起こすと、もう一人はお美代の腕を掴んで引き起こした。
「おいおい、ちょっと待て。女をどこに連れて行く気だ?」
「なんだ、てめえ?何か文句があるのか?」

「まあ、待て、しげ┅┅」
 富三は手下をたしなめると、笑みを浮かべながら計馬を見つめた。
「へへ┅┅どんなわけでこの者たちに関わられたかは知りやせんが、この二川で物騒な真似はしないでおくんなさい┅┅この町は将軍様の天領の中にあって、あっしがお上に代わって取り仕切らせていただいておりやす。文句があるなら、将軍様に直々に申し出ていただきましょうか」

 富三はそれが決めぜりふと思っているのだろう、言い終わるとどうだと言わんばかりにふんぞり返って鼻の穴を大きくした。
「そうか、では、そうしよう」
「えっ┅┅な、何と┅┅」
「ああ、いや、こっちの話だ。清助、赤子と女房は、しばらくこの親分に預かってもらうぞ。よいな?」
「へ、へい┅┅でも┅┅」
 清助は心配げに息子と女房を交互に見ながらうなだれた。
「しんぱいいらぬ。カズマにまかせろ」
 ダリルは赤ん坊をお美代に手渡しながら清助にささやいた。
 富三たちは何か納得がいかないような顔で、計馬たちを何度も振り返りながら去って行った。

「おい、番頭、待て」
「ひっ、な、何でございましょう」
 計馬はそっとその場を離れようとしていた番頭の男を呼び止めて、顔を近づけていった。
「富三には月々いくら納めておる?」
「へ?な、何のお話か分かりませんが┅┅」
「そうか?じゃあ、さっき渡した金は返してもらおう。我らは宿を出るからな」
「そ、それは、急なお発ちで┅┅」
「富三にいくら納めているか教えてくれたら、半分はくれてやる。どうだ?」
 番頭は観念したのか、懐から一分金を取り出して計馬に差し出した。
「┅┅月に一両二分でございます」
「他の店も同じか?」
「はい、おそらく┅┅」
「よし、よく話してくれた。このことは誰にも言うなよ、特に富三にはな」
 番頭は何度も頷いた後、足早に逃げ去っていった。

「さて、われわれは宿を替えましょう」
「どこへ行くのだ?」
「そうですねえ┅┅やはり近い方がいいんじゃないでしょうか」
「ふむ┅┅ざっと何人ぐらいだと考えている?」
「夜だと多くて二十人くらいじゃないかな」
 ダリルは苦笑しながらつば広の帽子を被った。
「簡単に言ってくれる┅┅まあ、鉄砲が無ければ何とかなるか┅┅」

 清助は何が何やら分からず、おろおろと二人を交互に見ていた。
「さあ、清助、いくぞ。いいか?男の方は我らに任せておけ。お前は女房を逃げないようにしっかり捕まえておけ」
「ふんっ┅┅こうだ、いいか?」
 ダリルが空中に向かって往復の平手打ちをし、足で何かを踏みつけるしぐさをしながらにやりと笑った。
 
その夜は冷え込んで、戌の刻前あたりからちらちらと雪が舞い始めた。ダリルにとっては日本での初めての雪であった。
 ちょうどその頃、二川の宿場の中央に店を構えた富三一家は、賑やかな酒宴の最中だった。近くの本陣の家主から酒樽の差し入れもあり、貯め込んだみかじめ料で贅沢な料理を取り寄せ、何人かの遊女を侍らせて、まさに我が世の春といった様子だった。

「親分、安次の野郎が話があると┅┅」
「ん┅┅話?ちっ、陰気臭え野郎だぜ┅┅」
 せっかくの気分を邪魔されて、富三は舌打ちしながら廊下の外に立っている男のもとへ出て行った。
「なんだ、安次、話ってのは?」

 右腕に添え木を当てて布で巻いた若い男は、富三に頭を下げて、陰気な声で言った。
「どうも、お世話になりやした。今夜のうちに江戸へ発とうと思いやして┅┅」
「何?この夜更けに出て行くってのか?女と赤子を連れて?何をそんなに焦っていやがるんだ┅┅」
「へい、何か、嫌な予感がして┅┅」
「嫌な予感?あの二人連れの侍のことか?ぬははは┅┅おめえ、人殺しは平気なくせに案外肝が小せえんだな┅┅あいつらに何が出来るってんだ?二人だけでここに乗り込んで来るってか?それこそ飛んで火に入る夏の虫ってやつじゃねえか┅┅おい、野郎ども、ちょっと聞け。安次の野郎が、おめえらじゃ頼りねえってよ┅┅うははは┅┅」
「なにい、やい、安次┅┅なめた口きいてくれるじゃねえか┅┅」
「い、いや、あっしは、ただ┅┅」

 酔いが回ったやくざ者たちは、安次を中に引き込んで絡み始める。安次の中で何かが心の奥から溶岩のように湧き上がってくる。それが外に出てしまうと自分でも自分を抑えきれなくなることを、安次は知っていた。
「┅┅せえんだよ┅┅」
「ん?何か言ったか?ああん、おいっ」
「うるせえって言ってんだよぉっ!」
 安次は左手で目の前の男が腹に巻いたさらしに差しているドスを奪い取ると、口にくわえて鞘から抜き取った。
「て、てめえ、頭がおかしくなったか」
 その場にいた十六人のやくざ者たちは一斉に刃物を抜いて身構え、遊女たちは悲鳴を上げながら外へ逃げ出していった。

「おっ、何か騒ぎが起きたようですね。喧嘩かな┅┅これは都合が良い」
 闇に紛れて、塀を乗り越えて屋敷の裏に入り込んだダリルと計馬、そして百姓の清助は騒ぎに乗じて裏口から屋敷の中に入っていった。
「まずはこいつの女房を探し出して外に連れ出しましょう」
「ああ、わかった」
 三人は薄暗い屋敷の中を忍び足で移動していく。

「ぐわああっ┅┅て、てめえっ」
 たがが外れた安次は狂ったようにドスを振り回し、手当たり次第にやくざ者たちに切りつけていった。しかし、相手は多勢、自分も体のあちこちを斬られて次第に動きが鈍くなっていく。
「安次さんっ」
 不意に女の悲鳴のような叫び声が響き、安次もやくざ者たちも一瞬動きを止めてそちらに目を向けた。赤子を抱いたお美代が廊下に立って泣きながら安次を見つめていた。そして、その後ろから異国人の男と若い侍が現れた。

「死にやがれっ」
一人のやくざ者が叫んで、油断していた安次の脇腹にドスを突き刺した。
安次のうめき声とお美代の悲鳴が同時に上がった。
「清助、女房をしっかり捕まえておけ」
計馬はそう言うと、刀を抜いて鉄火場に乗り込んでいく。ダリルは清助とお美代の前に立って二人を守るように、周囲をにらみつける。
「てめえら、この富三一家に喧嘩を売ったことを後悔させてやる┅┅おい、やっちまえ」

 酔いの勢いも手伝って、手下のやくざ者たちは口々怒号を吐きながら計馬に襲いかかってきた。計馬は刀を反対に持ち替えて、手当たり次第に彼らを峰打ちに叩き伏せていく。二人のやくざ者が計馬の横をすり抜けて、清助とお美代を人質にしようと襲いかかっていったが、ダリルのロングソードに二人とも腕を切られて、痛みに叫びながら床を転げ回った。あっという間に座敷の床の上には八人の手下たちが倒れ込み、残るは富三と四人の手下だけになった。

「ま、待て、なあ、話をしようじゃねえか。そこの女は返してやる。か、金が欲しいならやろうじゃないか。なあ、それで手を打たないか?」
「なんだ、もう降参か?だが、お前をこのまま生かしておいたら、また仕返しに来るだろうし、町の者たちも高いみかじめ料を払い続けなければならないよな┅┅町のためにはお前たちはいなくなった方がいいのではないか?」
「野郎っ、ふざけるなあっ」
 富三と手下たちは開き直ったのか、再び長ドスを振り上げて一斉に襲いかかってきた。さすがの計馬も四人いっぺんに相手するのはきつい。一人の男の腕を峰打ちで叩いてドスを落とさせたが、横に回ったやくざ者が突進して突き出したドスは避けきれなかった。
〝刺された〟と思った次の瞬間、男がうめき声を上げてがっくりと床に倒れ込んだ。

「珍しく油断したな」
「ダリルさん、助かりました」
 清助たちを守る必要がなくなったダリルが、計馬の隣に並んだ。こうなったら、富三たちに勝ち目は無い。富三と手下の二人は脱兎のごとく座敷から逃げ出していく。ダリルがそれを追いかけていって、廊下を抜ける前に三人とも切り倒してしまった。

 ダリルが三人とも絶命したのを確かめて戻ってくると、計馬は脇腹を刺された安次の傷にさらしを巻き付けていた。
「これでよし┅┅なあに、命に関わる傷じゃない。ただ、化膿しないように医者に診せて消毒してもらえ」
 安次は荒い息を吐きながら、顔を背けて何も答えなかった。
「さてと┅┅邪魔する奴はいなくなった。後はお前たちの話し合いだ┅┅」
 計馬はそう言って立ち上がると、うなだれているお美代に目を向けた。
「元はと言えば、お前が息子を置いて黙って出て行ったのが原因だ。清助に何か言うことは無いか?」
 お美代はおずおずと顔を上げて若い夫の方を向いた。
「ごめんなさい、あんた┅┅ごめんなさい┅┅」
「もういいんだよ┅┅さあ、帰ろう」

 清助がそう言って妻の肩を抱こうとすると、妻の方は体をよじってそれを拒んだ。
「お、お美代┅┅」
「あたし┅┅あたし、もう帰れない┅┅どうか、こんな女のことは忘れて┅┅」
「な、何を言ってるんだ┅┅お前、まだこんな男のことを┅┅」
「ごめんなさい┅┅ごめんなさい、許して┅┅」
 清助は茫然と青ざめた顔で、お美代と安次をかわるがわる見つめていた。計馬とダリルも何と言葉を掛けて良いか分からず、顔を見合わせてため息を吐く。

 と、次の瞬間、やけくそになった清助がそばに落ちていた長ドスを拾い上げて、震える手で床に座ったままの安次に刃先を向けた。
「お前さえ┅┅お前さえいなければ┅┅」
「おい、清助、馬鹿な真似はよせっ」

 清助が安次に向かって突進しようとした刹那、ダリルが清助の腕を掴んで、横に放り投げていた。
「おまえ、バカ┅┅こんなおんな、けって、すてろっ!」
 ダリルが珍しく本気で怒って顔を紅潮させていた。彼は清助の手からドスをもぎ取ると、それを壁に向かって力まかせに投げつけた。そして、お美代の方を向いて叫んだ。
「おい、おんな、こどもはせいすけにかえせ」
 しかし、お美代は首を振った。
「い、いやです、この子はあたしが┅┅」
 お美代の答えに今度はダリルが切れてロングソードを抜こうとしたので、計馬はあわててダリルを押しとどめた。

「ふう、やれやれ┅┅」
 計馬は苦笑しながらお美代の方へ向き直った。
「おまえはつくづく身勝手な女だな┅┅お前とその安次がこれからどこでどうのたれ死にしようと、知ったことではないがな、子供には何の罪も無い。当初は子供を捨ててその男と逃げようとしたのだろう?そんな母親に育てられたら子供が可哀想だ。それに、その安次が他の男の子供を可愛がるとはとうてい思えぬ。さあ、子供はこちらに渡せ」
 お美代は声を上げて泣きながら赤子を抱きしめていたが、計馬が赤子を引き離そうとすると仕方なく手を放して、床に泣き崩れた。
 計馬は赤子を清助に手渡すと、お美代と安次に言った。
「さあ、今夜のうちにこの町から出て行け。この後も二度とこの子に会おうなどと思うな」
 そう言うと、ダリルと清助を促してその場を去って行った。

 外はもう夜中で辺りは暗闇に包まれ、しんしんと冷え込んでいた。
「清助┅┅まだ未練はあるだろうが、その子のためにも早く忘れて、もっと心根のいい女を嫁にもらうことだ」
「は、はい┅┅どうも、お世話になりました」
 清助は抜け殻のように生気の無い顔で頭を下げると、赤子を胸に抱いてとぼとぼと村へ帰っていった。

 翌日、計馬とダリルはこの町の名主、加納作右衛門の屋敷を訪れ、事の顛末を説明した。
加納家は代々本陣を仰せつかっている郷士で、廻船問屋を営んでいる。富三一家とは屋敷も近く、仕事の上でも懇意にしていた間柄だった。しかし、話を聞くと膝をついて頭を下げながら、こう言った。
「富三の悪事はこの町の者は皆知っておりました。しかし、怖くて誰も逆らえませんでした。恥ずかしながら、手前も本陣を預かる身でありながら、何の口出しも、お上に訴えることもできず、仕事の請負までさせておりました。この責任はいかような形でも取らせていただきます」
「ああ、いやいや、我らもお上に訴えるつもりはないので、どうか穏便に済ませていただきたい。それがしは、江戸の柳生様と親しくさせていただいておるゆえ、此度のことを書状でお知らせし、ただの悪人退治として処理していただこうと思っている。これが、その書状だ。飛脚に頼んで柳生様に届けて欲しい」

 最後まで恐縮しきりの作右衛門に後の始末を託して、二人は二川の宿を後にした。
「おや、また降ってきましたね」
 灰色の空からちらちらと雪が舞い落ちてきた。ダリルは返事もせず、仏頂面で歩いていた。昨夜宿に帰った後も珍しく酒を飲まずに布団に横になった。その不機嫌の理由を、計馬は何となく察していた。

「女って奴は、分かっていてどうしてわざわざ不幸な道を歩こうとするんですかね?」
 計馬の問いに、ダリルは大きく一つため息を吐く。
「┅┅わからん┅┅たぶん、惚れてしまったらどうしようもなくなるんだろう┅┅」
「そうですね┅┅そこが、どうしようもなく馬鹿なところで┅┅どうしようもなく可愛いところでもありますね┅┅」
 ダリルは唇を引き結んで、計馬の方を見る。計馬は何食わぬ顔で微笑みを浮かべながら、雪の舞い落ちてくる空を見上げていた。
「お、お前という奴は、何かこう┅┅腹が立つ┅┅」
「ええっ?それがしが何をしたというのですか?」
「知らん┅┅だが、何となく、むしょうに腹が立つ」
「そ、そんなぁ┅┅謂われのない誹謗に断固抗議します。これは善良な人間にとっての┅┅」
(┅┅そして、どうしようもなく良い奴だよ)
 ダリルは計馬の抗議を聞き流しながら、心の中でつぶやくのだった。
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