ダリルの剣 ~バスク人剣士が見た日本の剣流~

mizuno sei

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第一章

ダリル流開眼 2

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 翌日、外はあいにくの雨だった。梅雨の走りか、時折遠くから雷鳴も聞こえていた。それでもダリルはどうしてもウナギが食いたいと言って、昼過ぎ雨の中を副島を伴って町へ出かけていった。

「本降りになってきましたね┅┅上がってくれればいいが┅┅」
「俺の生まれ故郷では、めったに雨が降らなくてな┅┅だから、雨が降ると村中が大喜びだった。大人も子供も水桶を抱えて外に立っていたものだ」
 ダリルはウナギと酒を交互に口にしながら言った。
「へえ、飲み水も貴重だったんですね┅┅日本ではまず水の心配はありません┅┅夏に日照りが続くことはたまにありますが┅┅」
「ああ、ニホンに来て驚いたことの一つは、川の多さだ。どこへ行っても必ず大小様々な川や水路がある。本当に恵まれた土地だ┅┅」
「なにしろ豊葦原の瑞穂の国ですからね┅┅日本に初めて降り立った神々は、どこまでも続く葦の草原と稲穂の波に思わず感激したそうです」

「うむ┅┅これだけの豊かな土地だ、イスパニアやポルトガルもさぞかし欲しがっただろう。だが、日本は国を閉ざした。これは英断だったな。これから先、イギリスやオランダも何とかニホンから利益を得ようとするだろうが、他の東や南の国々のように植民地にはならないだろう」
「そうですね┅┅それだけは何としても阻止しなければなりません┅┅」
 二人はそんな話をしながら羊の刻過ぎまでうなぎ屋で飲んでいた。外が少し小降りになった頃、二人は店を出て伊織の屋敷に戻った。

「あはは┅┅そうかうなぎ屋にのう┅┅ダリル殿はよほどうなぎが気に入られたようだな?」
 すでに帰宅していた伊織は帰ってきた二人の話を聞いて楽しげに笑った。
「ええ、カラスミより酒がすすむと仰せでして┅┅」
「ああ、その意見にはわしも賛成だ。よし、稽古が終わったら、うなぎを食いに行こう」
「ええっ?しかし、筆頭御家老様がうなぎ屋とは┅┅ちと具合が悪いのでは┅┅」
「なあに、構わぬよ┅┅わしは常日頃からなるべく市井の暮らしぶりを見て回るようにしておる┅┅なじみの店も何軒かあるのでな、その内の一軒に案内しよう」

 申の刻近くになり、三人は連れだって藩の道場へ向かった。雨はまだぽつぽつと降ってはいたが、西の空はだいぶ明るくなってきていた。
 道場の近くまで来てみると、門の傍らにすでに三人の人影があった。朽木が二人の門弟を伴って待っていたのだった。彼は伊織の姿を認めると頭を下げて迎えた。
「朽木元無斎だな?宮本伊織だ」
「はっ、お目通りかない、この上無き幸せに存じまする」
「うむ┅┅昨日の件はこの二人から聞いた。この門を一歩入れば、同じ剣の道を求むる同士だ、何の遠慮もいらぬぞ」
「ははっ、ありがたき幸せ。今日は当藩の若い二人も門弟として、後学のために連れて参りました。よろしくお願いいたしまする」
 二人の門弟たちは、それぞれ父親が藩のかなり重要な地位にある譜代の家臣の息子たちで、朽木が自分の格を上げるために、そして伊織に無言の圧力をかけるために選んだ者たちであった。しかし、伊織は一向に気にする様子も無く、二人に順番に気軽な態度で励ましの言葉を掛けていった。

 道場に入ると奥山源之助と門弟たち三人が、奧の壁際に正座して待っていた。
「奥山、邪魔するぞ」
「お待ちいたしておりました。本日は見学をお許し頂き有難き幸せにござりまする」
「うむ、まあ、見学とは言わず、良かったらともに汗を流そうぞ。ああ、紹介が遅れたな。
こちらは町で当理流を教えておられる朽木殿とその門弟たちだ。朽木殿、この者は武蔵流を学びおる奥山源之助と門弟たちだ」

「奥山にござる。ご高名はかねがね聞き及んでおりまする」
「朽木元無斎と申す。どうぞよしなにお願いいたす」
「よし、挨拶が終わったところで、さっそく稽古を始めるか。まずはおのおので体を慣らすことにしよう。その後だが、どうだろう、わし、奥山、副島、朽木殿が交代で三人ずつ前に立ち、ダリル殿と門弟たち五人が掛かり稽古をするというのは?勝負は一本とし、できるだけ数多く立ち合えるようにする┅┅」

 伊織の言葉に、すでに壁に掛けてある木刀を選んでいた副島とダリルは、一も二も無く賛成した。
「それでようござります」
「うむ、拙者もかまいませぬ」
 奥山と朽木も承諾して、稽古の中身が決まった。まずは各自で準備運動ということで、素振りをする者、手足や腰の筋肉をほぐす者、摺り足の練習を始める者など、道場のあちこちで思い思いに動き始めた。

「ダリルさん、寸止めは分かりますか?」
「いや、分からんが、言葉の中身から考えると、剣が相手に触れる寸前で止めるということか?」
「その通りです。木刀による稽古や試合は、本気で相手を打てば、ケガをさせたり、悪くすれば殺してしまいます。だから、打つ寸前で止める。これは不文律、つまり絶対に守らねばならぬ約束事です」
「ああ、それは分かっている。だが、こちらが止めても、相手が負けを認めず打ってきたらどうなる?」
「ええ、問題はそこです。未熟な者、卑劣な者はこの約束を守らない。ただ、立ち合っていれば、おのずと相手が未熟か、卑怯な者か分かるものです。その場合は、剣をたたき落とすか、試合をやめるか、ですね」
「┅┅わかった」
 ダリルは頷くと、左半身になって木剣を斜めに構えた。剣の位置は八相に近いが、体の向きは逆で、こんな構えは日本の剣術にはなかった。副島は興味深くダリルの準備運動を見ながら、素振りと足さばきを繰り返す。やがて、太鼓の音が響き渡った。

「それでは掛かり稽古を始めよう。まずは、わしと副島、朽木殿が立つ。終わったら、わしが抜けて奥山、後は順に副島、朽木殿の順で抜ける。それでよいな?」
 伊織の提案に全員が大きな声で返事して頷く。そして正面に向かって左側の壁にダリルと門弟たちが座り、正面に近い順に伊織、副島、朽木が三間ほどの間を空けて立った。
 奥山が大きく一つ太鼓を叩き、稽古の始まりを告げる。
「始めいっ」
 
 その声と同時に、門弟たちが我先に三人の立ち手のもとへ走り出す。ダリルは最初、じっくり見学することにした。
「お願いしますっ!」
 大きな声の挨拶と直後の気合いの声、いよいよ稽古が始まった。稽古と言っても、中身は試合と同じだ。ただし、真剣を使わないことと、立ち手と掛かり手の力量の差が大きいことが違う点だった。

 伊織は二刀ではなく、一刀で朽木の門弟を相手にしていた。門弟は大きな声で気合いのこもった打ち込みを繰り返していたが、伊織はほとんど動かず、余裕を持ってさばいていた。
(傍目から見ても力の差は歴然としている。いったい、あの違いは何だ?┅┅)
 ダリルは伊織と門弟の戦いを見ながら、違いの原因を考えた。
(┅┅そうか、間合いだ┅┅技を出すには自分の間合いの中に相手の体がなければならない。その間合いを作り出すのは、足と体の動きだ┅┅あの弟子は良く動いている、だが、無駄な動きが多く、間合いもばらばらだ┅┅イオリサマは最小限の動きだが、相手の間合いと自分の間合いがちゃんと分かっているので、余裕を持って先手を取ることができるのだ┅┅)
 ダリルはうん、と一つ頷くと、今度は副島に目を向けた。

 ここは他の二ヶ所と比べて静かだった。奥山の門弟が二刀を持ち、剣先を合わせるように中段に構え、副島は正眼の構えだった。どちらもまだ技を出さなかったが、門弟の方はじりじりと後ろに下がっていた。副島がずいと半歩間合いを詰めると、門弟ははっとして一歩下がる。すでに、門弟は壁の近くまで追い詰められていた。それに気づいた門弟が慌てて左回りに移動すると、副島もそれに合わせて体の向きを変える。
(動けないのか┅┅踏みとどまるのがやっとの状態だな┅┅へたに動けば一撃必殺の技が来る、そんな恐怖を感じさせるだけの圧倒的な力量┅┅さすがだな┅┅)
 ダリルは苦笑を浮かべると、一番向こう側の朽木と奥山の門弟との勝負に目を向けた。

 こちらはお互いに激しく打ち合い、気合いの声も賑やかに響いていた。そして、一番早く勝負がついた。
 朽木の突きを小刀で擦り上げながら長刀を払った門弟だったが、それは朽木の胴を捕らえるには浅かった。朽木は切り返しから門弟の左肩に一撃を入れた。
「ま、参りました」
 寸止めはしたようだが、かなり強めの一撃だったので、門弟は頭を下げた後、左肩を押さえながら戻ってきた。

 太鼓の音が響き、一本目の掛かりが終わった。伊織が上座に下がり、替わって奥山が一番奥に立った。ダリルは素早く立って、奥山の前に移動する。
「二本目、始めいっ」
 伊織が太鼓を叩き、二本目の掛かり稽古が始まった。
「お願いします」
「オネガイシマス」
 ダリルは覚えた日本語を初めて使って、ちょこんと頭を下げる。

 奥山は二刀を持ち、小刀は正眼、長刀は低い上段に構えた。それに対して、ダリルは左半身で姿勢を低くし、刀身を自分の近くで斜めに構えた。例の日本の剣術には無い構えである。
(何だこの構えは┅┅こちらに間合いを測らせぬためか┅┅それとも┅┅)
 奥山はダリルがどんな動きで攻めてくるのか予想がつかなかった。

「ヒョオオオ┅┅」
 ダリルは独特のかけ声とともに奥山の右側に突進してきた。奥山は体を右に回しながら、長刀をダリルの頭めがけて振り下ろす。ダリルは小さく刀身の先を振ってそれを受け流すと、そのまま右下からの切り上げで奥山の右腕を狙った。
「くっ!」
 何とか小刀でそれを受けたものの、バランスは大きく崩れた。空いた胴を守るために急いで二刀を交差させて下げたが、ダリルはなおも右に回り込みながら奥山の右腕を狙ってくる。

 その様子をじっと見守っていた伊織は、思わず笑みをこぼしながら小さく頷いた。
(そうきたか、なるほどな┅┅二刀流は小刀で受け、長刀で切り、突くが基本だ。その攻撃する方の腕を狙い、攻撃を封じるとともに拍子の動きを取らせない。無理に拍子を取ろうとして大きく動けば┅┅)
「トオオォッ」
 ダリルは右に払った奥山の長剣をそのまま撥ね上げ、切り返して体重の乗った右足のすねへぴたりと刀身を当てた。
「参った┅┅」
 奥山が負けを認め、ダリルはさっと剣を引いて頭を下げた。
「アリガト┅┅ゴザマシタ┅┅」
「ありがとうございました」

 ダリルが壁際に戻ってくると、朽木の門弟の一人が寄ってきた。
「お見事にござりました」
「アア、アリガト┅┅」
「言葉はお分かりですか?」
 ダリルは肩をすくめて、日本語は話せないとオランダ語で答えた。
「これは失礼しました」
 門弟は頭を下げて離れていった。
(やれやれ┅┅そうだな、そろそろ日本語も覚えないといかんな┅┅)

 ダリルが心の中でそうつぶやいていると、三回目の太鼓が鳴った。副島が上座に退き、伊織が一番奥に立った。
「ダリル殿、参られい」
 二刀を手にした伊織がダリルを逆指名して叫んだ。ダリルはにやりと笑って立ち上がる。
自分の弟子ではないが、やはり二刀流の師範を負かされて伊織が燃えないわけがない。
「三本目、始めいっ」
 副島が太鼓を打ち鳴らし、三本目の稽古が始まる。
「オネガイシマス」
「お願いします」

 ダリルは先ほどと同じ構えをとって、じりじりと左に回りながら、時折前に踏み出したり、右にさっと動いたりして伊織を牽制した。伊織はほとんど構えず、だらりと両手を下げていたが、刃は常に外向きにしていた。

 不意に伊織がするすると間合いを詰めてきた。ダリルはやや遅れて左前に走り出す。二人の間合いが一瞬のうちに交わり、離れていく。と、伊織はダリルの動きを読んでいたかのように滑らかな方向転換で、ダリルの方へ一気に迫った。ダリルは抜き打ちに剣を横に払う。伊織はそれを両方の剣を十字に組んで受け、軽く左に押し流すと、そのまま長刀を右に払った。さすがのダリルもこれは避け切れまいと伊織が思った瞬間、左からダリルの木剣が胴を狙って迫ってくるのが見えた。ダリルは後ろに倒れながら、捨て身の切り返しを放ったのである。言わば、一刀流の払捨刀の変形、力任せの逆胴であった。伊織は、何とかその一撃を小刀で受け止め、大きく右へ飛んだ。

 とどめを刺されるのを逃れたダリルは、起き上がって構え直す。
(何という腕力と反射神経だ┅┅あれをかわしながら、振った刀を引き戻すなど、日本人にはとうてい真似が出来ない┅┅)
 伊織は内心呆れながら、再びするすると間合いを詰めていった。
(だめだ┅┅一度目は何とか無様な姿だったが逃れることができた。しかし、このままでは確実に首を切られる┅┅)
 ダリルはそう思いながら、さっと間合いを外すと、木剣を片手で持って半身に構えた。日本に来る前まで慣れ親しんだレイピアの構えであった。
(ほう、今度は西洋の剣術か、面白い┅┅)
 伊織は微笑みを浮かべながら、ダリルの剣をたたき落とすもくろみで十字に剣を組みながらゆっくりと近づいていく。
 
 ダリルはかつて、ビルバオでのフランス軍との戦いを思い出していた。戦力は互角だったが、フランス軍の前線に大鎌使いの老将がいて、その一人のために味方の前衛部隊があっという間に壊滅させられたことがあった。
 大鎌は楯にもなって矢の攻撃が通用しない。鉄砲は弾丸をこめるのに時間が掛かるうえに、味方が退却するのに紛れて迫ってくるので狙いもつけられなかった。誰かが彼を止めなければ、敗北は目に見えていた。ダリルはその老英雄の前に立った。周囲は二人に敬意を払って誰も手を出さなかった。文字通り、一対一の決闘だった。その時の老英雄と伊織の姿が重なって見えた。とうてい力では勝てない相手だ。

 老英雄との戦いで勝負を分けたのは、スピードだった。一度全力で振った大鎌をもう一度振るには剣より遙かに力と時間が必要だ。必殺の一撃を何とかかわしてふところに飛び込めば勝機が生まれる。ダリルは位置を変えながら、逃げたい恐怖と戦いながら、少しずつ相手との距離を縮めていった。相手が鎌を振る毎に一歩ずつ、一歩ずつ、相手が距離を取ろうとしてもそれについていった。そして、ついに焦った相手が全力で鎌を振ってきたとき、ダリルは相手の体に組み付いていた。老将は穏やかな笑みを浮かべてダリルを讃え、自ら鎌で首を切って果てた。

 伊織はこの時の老将よりも手強い相手だとダリルは感じていた。何しろ隙が無い。スピードで勝ることもできない。ほとんどお手上げ状態だった。しかし、剣は大鎌よりも間合いは短い。伊織がダリルを打つためにはやはりダリルの間合いに入らねばならない。つまり、間合いの勝負では無く、相打ちにできるかどうかの勝負だ。
(┅┅こうすれば、イオリサマはたぶん俺の木剣をたたき落とそうと考えるだろう。その間に間合いをどれだけ詰められるか┅┅)
 ダリルは半身のままゆっくり右へ回り始める。今度はさっきと逆で、相手に防御させながら長刀の攻撃をかいくぐらなければならない。
 
 この二人の勝負以外はすでに決着がついていたが、副島はまだ太鼓を鳴らそうとしなかった。奥山と朽木は壁際に下がって、他の者と一緒にこの勝負の行方を見守る。

 ダリルはありったけの集中力と培ってきた技術、そして天性の運動神経を使って、片手で木剣を操り、攻撃を繰り出しながら伊織の長刀の一撃をかわし続けた。伊織が小刀で受け流しつつ長刀を振るう姿は、外から見守る者たちにとっては、まるで美しい舞いを見ているようだった。二本の剣が一つの生き物のように連動し、流れるような足の運び、体の動きと相まって神々しささえ感じさせた。しかし、それは外から見ている者の気楽さに過ぎなかった。実際戦っているダリルには、伊織の姿が悪魔のように見えていた。
(くそっ、一歩も中に入れない。それどころかだんだん下がらされている┅┅このままでは崖っぷちに追い詰められて終わりだ┅┅何か、何か手は無いか┅┅)

 必死に打開策を考えるダリルの脳裏に、ふと海賊と戦ったときのトウジの姿が思い浮かんできた。圧倒的な多勢で、しかも鉄砲を持った敵に対して、トウジは躊躇無く飛び込んでいき、無人の荒野を行くように敵をなぎ倒していった。あの時、トウジはどうして鉄砲を避けられたか。
(っ!┅┅そうか、これだ!)
 ダリルは突然後ろに飛び退いて、両手を体の前で交差させ剣を体に巻き付けるように後ろに隠した。そして、前屈みになり、正面からなるべく頭と肩以外が的にならないような体勢をとった。
(ん?これは┅┅)
 伊織は不審に思いながらも用心して防御の構えを取った。その瞬間、ダリルは弾丸のごとく突進してきた。

 見守る誰もが、その無謀とも思える玉砕戦法に驚き、そして息を飲んだ。伊織は二つの剣を前で交差させ、ダリルの初太刀を受け流しつつ、長刀の右払いで胴を狙い、外れたら切り返して袈裟に切り落とすつもりだった。そして、二人の間合いは重なった。

 ダリルはぎりぎりまで待って、右手を横に払う。伊織は予想していたのでそれを二つの剣で受け、そのまま流しながら体を左に開いて長刀を繰り出す。だが、この時、前屈みになっていたダリルの胴は伊織の目からは隠れていた。そのほんのわずかな誤差がダリルにチャンスをもたらした。
 伊織の長刀が飛んでくるのに合わせて、ダリルは水に飛び込むようにわずかに体をひねりながら前に飛んだ。伊織の長刀はダリルの胴をかすめて空を切った。ダリルは床に足が着くのと同時に木剣を伊織の左胸に向かって突き出す。

 おおっ、というどよめきが道場に響き渡った。誰もがダリルの起死回生の一手に感動し、彼が勝ったと思った。
しかし┅┅ダリルと伊織はしばらく動かないまま、お互いを見つめていた。ダリルの剣先は正確に伊織の左胸の手前一寸ほどで止められていた。が、伊織の小刀もまた、ダリルの右脇腹の一寸手前で止められていたのである。
「あ、相打ち┅┅か┅┅」
 副島は茫然としてつぶやいた後、はっと我に返って太鼓を打ち鳴らした。
「ありがとうございました」
「アリガトゴザマシタ┅┅」
 ダリルは頭を下げた後、大きく肩で息をした。地獄の底から生き返ったような気がして、思わずぶるっと体が震えた。

「ダリル殿、お見事でござった。この宮本伊織、不覚を取ったのは十一年前、小野忠常殿に小手を一本取られて以来でござる。良い勉強をさせていただきました」
 副島が側に寄ってきて、伊織の言葉を通訳する。
 ダリルは改めて目礼した後、小さく首を振って言った。
「いや、相打ちにするのが精一杯だった。今も震えが止まらない。ずっと恐怖の中でもがいていたんだ┅┅」

「それは誰しも同じですよ┅┅」
 副島がダリルの言葉を通訳した後、微笑みながら言った。
「┅┅恐怖を感じない剣士など、ただの狂人にすぎません。剣の道の奥に進めば進むほど、ますます恐怖は大きくなっていきます。我々はその恐怖とともに前に進んでいくしかないのです」
「副島が何と言ったか分からぬが、恐らく誰もが恐怖を感じながら剣の道を進んでいくのだと言ったのだろう。むしろ、その怖さが分かったと言うことは、一歩剣の境地が進んだと考えられても良いでしょう。これからのダリル殿の剣技がどこまで進化するか、楽しみにしておりますぞ」
「ダリル流の開眼ですね」
 副島が通訳した後、楽しげにそう言った。

 小雨が絶え間なく降り続き、木々の若葉を濡らしている。門の脇に咲き誇った紫陽花の花が、旅立とうとする二人の足下を明るく照らしているかのようだった。
「もう引き留めるのはあきらめた。だが、帰りには必ずまたここに立ち寄ると約束してくれ┅┅」
「はい、必ず┅┅」
「俺の進化をぜひまた見てもらいたい。ウナギもまた食いたいので、必ず立ち寄らせてもらう。美しいマダムにもまた会いたいからな」
 副島は苦笑しながらダリルの言葉を通訳する。見送りに来た伊織も、妻の沙江も思わず声を出して笑った。
「では、行って参ります」
「うむ、良い旅を┅┅」
「どうか、お気を付けて┅┅」
 伊織と沙江に見送られながら、ダリルと副島は石段を下っていった。

「ずいぶん長居をしてしまいましたね┅┅」
「ああ┅┅我が家にいるような心地よさだった┅┅それにしても、たいした男だな、ミヤモトイオリという男┅┅あの若さで、希代の剣士であり、希代の宰相┅┅」
 ダリルは伊織の爽やかな笑顔を思い出しながら、故郷の雪を被ったアルプスの峰を思い浮かべていた。
「ええ┅┅あの方に会った誰もが感じるんですよ┅┅この人の前では、へたなウソや策略など通用しない┅┅皆、素のままの姿でぶつかるしかないと┅┅」
 副島はそう言いながら、先日の道場での一場面を思い出していた。掛かり稽古が終わって、皆が休憩していたとき、伊織が朽木の側にやって来て声を掛けた。
「これまでそなたの道場には、細川公への気がねもあって出向かなかったが、なかなか良い門弟も育っておるようだ。これからはたまに顔を出しても良いか?」
 
 朽木は思いがけない言葉に戸惑いながらも、つい積年の思いの一端を漏らしてこう答えた。
「はっ、ありがたき幸せ┅┅さ、さりながら、お父上の武蔵様は、当理流は卑怯な剣術とさげすまれ嫌われていたとお聞きしております。ご子息の御家老様が当道場に出向かれたとなれば、お父上のお顔に泥を塗ることにはなりませぬか?」
 伊織はそれを聞くと豪快に笑った後、こう答えた。
「┅┅父上らしいな┅┅実はな、父上の父上、新免無二斎様は当理流を創始なさり、それを息子の武蔵、つまり父上に受け継がせようとされたのだ。しかし、父上は無二斎様への反発もあって、家を飛び出され、独自の剣術を切り開く道に進んで行かれた。つまり、父上は当理流そのものを否定されていたのではない。親への反抗心がそのような言葉となって出てきたまでだ。それに、父上とわしも別の人間だ。この藩のために力を尽くしてくれておる者に感謝こそすれ、嫌うなどということがあろうか。これからも、この藩のために、よろしく頼むぞ」
 朽木はそれを聞くと、これまでの誤解を恥じ入ってその場に平伏したのだった。
 
 副島はそこまで思い出したとき、ふと伊織の父武蔵が、なぜ伊織に剣の奥義を伝えなかったのか、理解できたように思った。
(そうか、武蔵様は見抜いておられたのだ、伊織様には剣の奥義など必要ないと┅┅伊織様に備わった人としての力量があれば、剣にこだわる必要などないのだから┅┅)
「おい、副島、分かれ道だぞ。どっちへ行くんだ?」
 ダリルの声に、我に返った副島は明るい声で雨に煙る一本の道を指さした。
「北です。いよいよ海峡を越えて本州に向かいますよ」
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