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第一章
ダリル流開眼 1
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翌日、伊織は城に出仕するために屋敷を後にした。ダリルと副島は、小倉の町にもう一つあるという当理流の道場を見学しに小倉の町中に出かけていった。
「賑やかで、美しい町だな┅┅」
「ええ、ここは博多に次ぐ商人の町ですからね。全国からいろいろな物が集まり、九州の各地へと運ばれていくんです」
二人は商家が立ち並ぶ通りを、店先を眺めながらゆっくりと歩いて行った。
「ん?何か良い匂いがするな┅┅」
ダリルがそう言って立ち止まり、鼻をクンクン鳴らしながら辺りを見回した。副島は思い当たるものを見つけて、ダリルを一件の店先へ誘っていった。
「あはは┅┅この匂いはわざと外に向かって出しているんですよ、食べてみますか?」
副島が連れて入ったのは、うなぎ屋だった。
「うなぎ?いや、見たことも聞いたこともないな」
「んん、実物はあまり見ない方がいいかもしれませんね。でも、味は抜群ですよ。昔から食べていた魚ですが、最近は醤油が一般に広まったおかげで、醤油をかけて焼く食べ方が
うまいと人気でしてね」
店の中は香ばしい匂いが漂い、客も多かった。二人は酒とうなぎ焼きを注文して席に座った。
「ああ、あれがそうか?」
隣の席に運ばれてきた大きな皿の上の物を見て、ダリルは傭兵時代、カンパーニャの野戦で串焼きにして食べた蛇のことを思い出していた。
「見た目は悪いですが、まあ話の種に食べてみて下さい」
副島がそう言っている間に、酒と小鉢に入った香の物が運ばれてきた。二人はキュウリと大根の糠漬けをポリポリやりながら酒を何杯か酌み交わした。
「へい、お待ちどうさま」
やがて、二つの皿にぶつ切りで串焼きにされた黒い炭のようなものが運ばれてきた。ダリルは、まさに蛇の串焼きだと思い、しかめ面で皿を見つめていた。一方、副島はさっそく串を持ってかぶりついた。
「ほふ┅┅ほおお┅┅んん┅┅うまいっ!」
黒い炭の中身は真っ白な肉と細い骨だった。
いかにもうまそうに再びかぶりつく副島を見て、ダリルも覚悟を決め一口かじってみた。
醤油の香ばしい香りとぱりっとした皮の食感、そして甘くふっくらした肉のうまみが口の中に広がった。それは、蛇の串焼きとは似て非なる物だった。
「┅┅うまいな┅┅うん、これはうまい」
ダリルは独り言をつぶやくと、その後は夢中になってかぶりつき始めた。口の中がうなぎの油でいっぱいになると、酒を何杯か流し込み、またかぶりつく。やがて、皿の上はきれいに骨までしゃぶられたうなぎの残骸と二本の串だけになった。
「ふう┅┅さすがに一匹食うと腹一杯になりますね」
「俺はまだいけるぞ┅┅カラスミが最高の酒の肴だと思っていたが、これはその上をいくな┅┅」
「あはは┅┅喜んでもらえて良かったです。日本の各地にはまだいろいろな名物がありますよ。楽しみにしていて下さい」
二人は満足して店を出ると、紫川に掛かる橋を渡って問屋や長屋が建ち並ぶ通りに入った。伊織に聞いた道場の場所はこの辺りだった。
「ああ、あれでしょう┅┅ずいぶんと大きな道場ですね」
道場は辻になった通りの一角に立派な漆喰の壁で囲まれ、屋根付きの門がその隆盛ぶりを示していた。門に掲げられた看板には、当理流刀法・十手術朽木道場とあった。細川氏がこの地を治めていた頃に藩の道場として開かれ、現在まで続いているという話だった。
二人が門を入ると、石畳の通路の先から気合いのこもった幾つもの声が聞こえてきた。非番の若い藩士たちが稽古に励んでいるのだろう。庭先の井戸の側には汗を拭く何人かの門弟たちの姿があった。彼らは歩いてくる副島とダリルの姿を見ると、道着を整えながら近づいてきた。
「御免、失礼ですがどちらの方で、どのような御用向きで参られたのですか?」
若い門弟の一人が頭を下げてから問いかけた。
「それがしは肥前藩士副島計馬、こちらはオランダ商館から来られたダリル殿でござる。御家老宮本伊織様からご紹介頂き、後学のため当道場の稽古を見学させて頂きたく参りました」
「ご、御家老様の┅┅失礼いたしました、どうぞこちらへ」
若い門弟たちは伊織の名前を聞いて慌てながら、二人を道場へ案内した。道場の上がり口まで来たとき、中から紺の道着姿の総髪の武士が出てきて、階段の上にひざまづいた。
「ようこそ当道場へおいで下さいました。師範をしております朽木元無斎と申します。御家老宮本様のご紹介とうかがいましたが┅┅」
朽木はいかにも慇懃な様子で二人を出迎えたが、副島はむっとした顔で彼をにらみつけていた。というのも、普通なら二人を道場に上げてから改めて挨拶をするのだが、朽木は二人が階段の下にいる状態で、上から挨拶をしたからである。これは、暗に自分が格上であると知らせると同時に、伊織という名前に対する反発の意味が込められていると、副島は感じた。
「いかにも┅┅こちらのダリル殿は、オランダ商館の依頼で剣術修行のため全国を回られる途中でござる。我ら先日は町外れにある新影流中江道場を尋ねましたが、まことに心技体そろった見事な稽古をされており感服いたした次第┅┅これなら、もう一つの当道場も、さぞや素晴らしい稽古をされておるに違いないと期待してうかがいました、が┅┅」
「が?┅┅何でござる?」
「ああ、いや┅┅何でもござらぬ┅┅さて、どうやら稽古の邪魔になるようですな、ダリル殿引き上げましょう」
副島はわざわざ日本語でそう言うと、ダリルに帰ろうと合図して背を向けた。
「しばし、待たれよ」
朽木は明らかに怒りをにじませた表情で階段を降りてきた。
「どうやら当道場を愚弄しに参られたようですな?」
「いやいや、とんでもない。できれば、稽古を見せて頂き、一手御指南を頂けたらと思っておりました」
副島がにこやかな顔でそう答えると、朽木はひくひくとこめかみを震わせながらも、何とか冷静な口調で言った。
「いいでしょう、それがしが直々にお相手いたす。道場へ参られよ」
副島は小さな声でダリルに通訳すると、拳を握ってにやりと笑った。
「やりましたね┅┅うまく食いついてくれました」
「┅┅君は恐ろしく頭の切れる策士だな┅┅一番敵にしたくないタイプだ」
「褒め言葉だとありがたく受け取っておきましょう。いや、さっきからのあの朽木という男の態度がどうも気にくわなくて┅┅伊織様をないがしろにする心根が見え隠れするんですよ┅┅」
二人は小さな声でそんなやりとりをしながら、道場に上がっていった。ざっと見ても二百畳を越える広い道場には、二十人余りの門弟たちが思い思いの武器を手に、型稽古に励んでいた。
「あの珍しい武器は何だ?」
上座のかたわらに座って稽古を見始めたとたん、ダリルが副島に質問した。
「あれは十手という武器です。悪人を取り締まる奉行所の役人が主に使っています。あれはけっこう厄介ですよ。相応の使い手なら、あれで刀を折ることができます」
数人の門弟が、刃引きの刀を持った相手と十手を使った捕縛の技を稽古していた。
「なるほど┅┅あの根元の部分で剣を挟み、てこの原理で抑え込むのか┅┅」
ダリルが納得して頷いた直後、太鼓の音が響き渡った。門弟たちが稽古をやめて、さっと両側の壁際に移動する。
「本日は珍しい客人がおいでなので、皆に紹介いたす。肥前藩士の副島殿と、オランダ商館から来られたダリル殿だ。お二方は剣術修行の途中でここにお立ち寄りになった。それと、御家老宮本様のお知り合いでもある。これからお二方に剣術の御指南をいただくゆえ、皆しっかりと見て学ぶように、よいな?」
はっと言う声が一斉に道場内に響き渡った。
「さて、副島殿、刀、十手、棒、槍、どれでお相手いたそうか?」
朽木はいかにも自慢げな顔でそう尋ねた。副島はダリルにそれを通訳して伝える。
「俺は、あの十手とかいう奴と戦ってみたい」
「分かりました」
副島は頷くと、朽木に言った。
「ダリル殿は十手でお願いしたいと┅┅それがしは何でも構いません。朽木殿の得意な獲物でお願いいたす」
「ほお、随分と自信がおありのようですな。ちなみに何流を学ばれたのか?」
副島は立ち上がって、木刀が掛けてある所へ歩いて行った。そして、一本の木刀を手にすると朽木を振り返った。
「小野忠常様に一刀流を学んでござる┅┅」
それを聞いて門弟たちがどよめき、朽木も内心の驚きを隠せず、目を見開いた。まだ、九州では一刀流を学んだ者がほとんどいなかったからだ。しかし、その名声はこの地にも届いていた。
朽木は唇を引き締めながら、門弟にたんぽ槍を持ってくるように命じた。木の槍の先に布を巻き付けたものだ。
「いざ、参られいっ」
「では、参る」
朽木と副島は道場の中央で相対した。槍を頭の上で何回か回した後、朽木は腰を落として左半身に構えた。それに対して副島は右下段に構え、突きに対する防御を優先とした。
「さあっ┅┅さあ、さあさあ、てやっ、とおっ」
朽木は摺り足で間合いを詰めてくると、軽く突きを放ち、副島が下から払い上げるとそのまま槍を振りかぶって、副島の頭上に振り下ろしてきた。副島は切り返しでそれを受けると、素早く手首を返して上から抑え込む。そのとたん、朽木は槍を横に払って副島の足を狙ってきた。かろうじて後ろに飛んでそれをかわした副島は、姿勢を低くして右下段に構え直す。
(なるほど┅┅薙刀と棒術を合わせたようなやり方だな┅┅それならば┅┅)
副島は正眼に構え直し、じりじりと間合いを詰めていった。普通に戦ったのでは、どうしても間合いが遠い槍の攻撃をかわしてから、相手のふところに飛び込まなくてはならない。しかし、この相手は普通に突きで決めるのではなく、打ち下ろしか足払い、あるいは切り返しから石突きを腹に打ち込む技で決めようとするに違いない。
相手の呼吸を感じながら、副島は技を繰り出す間合いを測る。
「さあっ┅┅さあ、さあ、さあっ」
朽木が再び間合いを詰めてきた。副島の後の先の技しか考えていない緩慢な足の運びだった。
その瞬間、誰もが意表を突かれ、声も出せなかった。勝負は一瞬で、あっけなく決まった。まさか副島が先の先で飛び込んでくるとは思っていなかった朽木は、慌てて槍を突き出した。しかし、飛び込む早さはそのままに右に飛んだ副島は、振り向いて槍を振りかぶろうとする朽木の左胴に突きを入れていたのである。
朽木はよろよろと後ろに歩いて、がくりと膝を折った。肋骨は折れていなかったが、一瞬息が出来ないほどの衝撃が全身を走った。
「ま、参った┅┅」
副島は頭を下げると、朽木の側に歩み寄った。
「少々力を入れ過ぎました。相すみませぬ」
「いや、これしき何でもござらぬ┅┅それにしても、あのような捨て身の技┅┅いや、負けたから言うのではないが、いささか邪道ではござらぬか?」
「あはは┅┅なるほど、そうかもしれません。だが、これが一刀流なのでござるよ。何もむやみに命を捨てに行くのではござらぬ。相手の考え、動きの速さ、呼吸などを踏まえて、決して避けられぬ一本道に相手を誘い込む。相手がそれ以上の技量を持っていればこちらの負け、ただそれだけでござる」
朽木はううんと唸って、ようやく立ち上がった。
「┅┅なるほど、避けられぬ一本道か┅┅いや勉強になりもうした、かたじけない」
「いやいや、こちらこそ良い修行をさせて頂きました。薙刀と棒術の技を組み入れた槍術と見ましたが┅┅」
「左様、当流派は刀技はもちろん、槍、薙刀、十手、手裏剣などあらゆる武器を修練することを教えとしております。違う武器を知ることで技に広がりが生まれる。槍術に薙刀と棒術の技を取り入れたのは拙者の工夫でござる」
「なるほど、勉強になりました┅┅さて、ダリル殿の相手でござるが┅┅」
副島の言葉に、朽木はまだ痛む左の脇腹を押さえながら苦笑して言った。
「今の拙者では相手はつとまらぬゆえ、弟子にお相手させまする。平塚、十手でお相手いたせ」
「は、はっ」
指名された若者は緊張した面持ちで壁に掛けてある十手を取りに立ち上がった。一方、ダリルはすでに屈伸運動をしながら、楽しげな顔で副島を見ていた。
「見事だった┅┅槍相手に突っ込んでいく馬鹿を初めて見たぞ」
「馬鹿とはひどいなあ┅┅あはは┅┅」
「┅┅そういう馬鹿じゃないと、運命を変えることはできないんだ┅┅」
副島は表情を引き締めてダリルを見つめた。
「では、今度はそれがしが見せてもらう番ですね」
ダリルはにやりと微笑むと、木刀を手に中央へ出て行った。
副島と朽木の試合の興奮がようやく静まり、道場内は静寂と張り詰めた緊張感に包まれた。
「いざっ」
門弟が頭を軽く下げ、かけ声を掛けて構えると、ダリルもちょこんと頭を下げて、いつものように腰を落とし、片手で木刀をゆっくり回し始める。
十手は相手の打ち出した刀を受けて抑え込むのが本来の使い方だ。だから、めったにこちらから先手で打ち出すことはない。ダリルもそれは分かっているので、するすると間合いを詰めていった。
「ヒョオオ┅┅」
独特のかけ声とともに、ダリルは突きと切りの連続技を繰り出し始めた。ところが、それを見ていた副島は、唖然として思わず声を上げそうになった。というのは、ダリルの突きも切りも全く気が入っておらず、まるで素人のような動きだったからだ。
案の定、いくら若輩とはいえ朽木に指名された門弟である、ダリルの突きや切りを受け流していたが、何回目かの突きを捕らえ、気合いの声とともに木刀を抑え込んだのである。
(へへ┅┅やっと捕まえたか。じゃあ、こいつを抜き取って┅┅っ!)
ダリルがにやりとほくそ笑んで次の動きに移ろうとした瞬間、門弟が足を振り上げて、気合いの声とともにダリルの木刀を踏みつけた。あっという間も無く、ダリルの手から木刀は離れ、門弟は十手を彼にぐいと突きつけた。
(へえ、こいつは参ったな┅┅なるほど、こういう手段があったのか┅┅)
ダリルは茫然として床を見つめた後、にっこり微笑みながら両手を上げた
「ダリルさん、何をやってるんですか┅┅それじゃあ本当の馬鹿じゃないですか┅┅」
副島は額に手を当てながら、思わず日本語でつぶやいた。
あまりにもあっけない勝負に、誰もがきょとんとしていた。勝った門弟も、本当に良いのかといった表情でダリルを見ている。当の本人だけが、やや恥ずかしそうに後頭部を何度も押さえながらも、満足げな顔で副島の側に戻ってきた。
「十手という奴はなかなか面白いな」
「ええ、生半可に剣術をかじった者では太刀打ちできませんよ。でも、ダリルさんのはあからさま過ぎです。何を考えておられたのですか?」
「ああ、あの十手の押さえ込みを逃れる手段を思いついたのでな、試してみようとしたんだが、その前にやられてしまった┅┅」
二人がオランダ語でやりとりしているところへ、朽木が近づいてきた。
「お疲れでござった┅┅この後ご予定が無ければ、奧で粗茶でも飲んでゆかれませぬか?」
「はあ、特に予定はござらぬが┅┅」
副島はそう答えると、ダリルの意向を尋ねた。
「そうだな┅┅俺は十手以外の武器についても聞いてみたいが┅┅君は彼のイオリサマへの敵意について訊かなくてもいいのか?」
「┅┅ええ、おおよその察しはつきますが、そうですね、じゃあそうしますか」
道場と回廊でつながった朽木の住居は、一介の町道場主が住むにはあまりにも立派な造りで、広い庭や馬小屋も備えた大名の別荘といっても通用するものだった。
「聞いたところでは、こちらは細川公がおられた頃の藩の道場だったとか┅┅今でも肥後藩とはご交流がござるのか?」
座敷の前で広い庭を見渡しながら、副島はそれとなく探りを入れた。それに対して朽木はむっとした顔ですぐには返事をせず、障子戸を開いて二人を招き入れた。
「肥後藩とは何もござらぬ┅┅」
朽木はいつも自分が座っている上座の座布団と肘つきを移動させ、部屋の両側で対面するように、自分の前方に二つの座布団を並べた。そしてお互いが座った後、ぶっきらぼうな声で先ほどの副島の問いに答えた。
「┅┅細川公がこの地を去られる折には、すでに御指南役は新影流の氏井弥四郎殿と宮本武蔵殿に決まっておった。当道場はこの地に捨て置かれたのだ」
(やはりそうか┅┅武蔵殿が突然肥後に行くと決まり、指南役同然だった朽木はそのせいで見捨てられたと思ったのだな┅┅まあ、実際そうではあるが┅┅)
「しかし、普通なら藩の道場も閉鎖するところでしょう。そのままになされたのは、細川公が朽木殿にこの地で後続の育成に励んでもらいたいというお心だったのでは?」
副島の言葉に、朽木は下を向いて胸の内を整理している様子だった。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
そこへ、まだ前髪を上げて間もないくらいの門弟の少年が盆を抱えて入ってきた。
「どうぞ」
「おお、かたじけない。そなた、まだ若いが修行は辛くないか?」
「はい、お師匠や先輩方に大変良くして頂いておりますゆえ、何も辛くはありません」
「そうか、これからもしっかり励みたまえ」
「はい、ありがとうござりまする」
少年はうれしげに頭を下げて出て行った。
「良き若者が育っておりますね。これも日頃からの朽木殿の薫陶のたまものでしょう」
朽木は丁寧に手をついて頭を下げた。
「お褒めに預かり、かたじけのうござる┅┅先ほどの貴公の言葉、実は細川藩の御家老有吉頼母様からも同様のお言葉を頂いてござる。それゆえ、拙者も今日まで精一杯そのお心に応えようと力を尽くして参ったのだ。ところがここにきて、小笠原公は藩の道場を造り、そこで武蔵流の指南を始められた。これは筆頭家老宮本伊織様にご配慮なされたことに違いござらぬ┅┅この道場もいずれは┅┅」
「ああ、なるほど┅┅それが伊織様への、ひいては我々への敵愾心の理由でござったか┅┅」
副島はダリルへの通訳を終えた後、小さく頷きながらそう言った。
「朽木殿は実際に伊織様とお会いになったことは?」
「いや、お見かけしたことは何度かあるが、一介の道場主が御家老様に直接お会いすることなどできるものではござらぬ」
「ああ、それなら明日、藩の道場へおいでなされ。貴殿の御懸念がすべて水泡に帰すとお約束いたそう」
「な、何と┅┅それはどういう意味でござるか?」
「あはは┅┅いや、それは明日のお楽しみでござるよ。明日、我々は申の刻頃から、伊織様と剣の稽古をすることになっております。ぜひ、おいで下され。門弟は二人までなら連れてこられて結構┅┅あまり騒ぎにしたくござらぬのでな┅┅」
「ううむ┅┅よく分からぬが、御家老様直々に剣の稽古を見せて頂けるというのなら、これは千載一遇の機会、何としても見てみたい┅┅よかろう、承知いたした」
副島はにこにこしながら頷くと、話の成り行きをかいつまんでダリルに通訳した。
「伊織様がどんなお方か知れば、俗人の卑小な心配など塵芥のごときものだと理解できるでしょう。さて、ダリルさんは何か聞きたいことがあるとか┅┅」
「うむ┅┅十手以外のナギナタとシリルケンだったか?それらがどんなものか知りたい」
「分かりました┅┅シュリケンですね。手の裏に潜ませた剣という意味です。朽木殿、ダリル殿が薙刀と手裏剣についてどのようなものかお聞きしたいと┅┅」
「左様┅┅薙刀とは、長き刀のこと、つまり槍の穂先に代えて一尺四五寸の刀身を取り付けた武器でござる。唐の頃、彼の地から伝わったと聞いておる。遠くより攻撃が出来るので、主に馬上の武器として使われてきた。しかし、如何せん小回りがきかず、狭い場所では扱いが難しいということで、今まであまり使う者はいなかったのだ┅┅当理流では、刃先も柄も従来より短くして、棒術の技も取り入れることで十分刀や槍と戦える武器になったと自負しておる┅┅次に手裏剣だが┅┅」
朽木は立ち上がって床の間の刀掛けから長刀を持ってきた。そして、鞘から小柄を抜き取ってダリルに見せた。
「これも手裏剣の一つでコヅカと申すものだ┅┅」
朽木はそう言うと、右手の親指、人差し指、中指で小柄を挟み、床の間の方を向いて何気なくさっと肘から先を上下に振った。小柄は軽い音を立てて床柱に突き立った。
「高い場所から弓矢や鉄砲で狙う相手や逃げる相手に使うが、まあ、これは所詮目くらまし程度のもの、これを主武器にするのは忍びの者くらいであろう」
「なるほど、よく分かった┅┅ソエジマ、シノビモノとは何だ?」
「忍びとは、ええっと、隠れて仕事をする者とでも言いますか┅┅」
「ふむ、何となく分かる┅┅暗殺を専門にする傭兵がヨーロッパにもいるからな┅┅」
「ああ、それですよ┅┅ただ、日本の忍びは暗殺より、情報を集めるのが主な仕事です」
副島とダリルは頃合いだと判断し、朽木に礼を言って立ち上がった。
「では、また明日┅┅」
「うむ、承知いたした、では┅┅」
朽木は門の近くまで二人を見送り、頭を下げた。
道場を出た二人は、また川の向こうの賑やかな町中の方へ歩きだした。
「まあ、俗人ではありますが、そう悪い男でもありませんでしたね」
「うむ┅┅ヨーロッパの貧乏騎士によくいるタイプだ。さほど力は無いくせに野望とプライドだけは大きくて、不運はすべて運命や周囲のせいにする┅┅自分に正直という点だけが取り得だな」
「騎士というのは、やはり認可を受けた職業なのですか?」
「ああ、正式にはそうだ。王が認め、書状や勲章、時には剣や自分の娘を与えたりする。ほとんどが貴族だが、中には平民でもめざましい武勲を立てたり、国の窮地を救ったりして騎士に取り立てられる者もいる」
「そうか┅┅やはり侍に似ているんですね。それがしの家は曾祖父の代までは庄屋、まあ村長といったところでしょうか、農民だったんです。でも祖父が藩のお家騒動のとき、今の鍋島本家のために兵糧調達で手柄を立てましてね、武士に取り立てられたのです」
「ほお、ヒゼンの王は見る目があったのだな┅┅孫の代に君のような優秀な子孫が生まれたんだから」
「また、そのような┅┅いくら誉めても酒は一日銚子三本までです。路銀は計画的に使わないとすぐ無くなってしまいますからね」
「ん?そんなに切羽詰まっているのか?」
「いや、まだありますが、なにしろ全国を回るんですからね┅┅後のことを考えておかないと┅┅」
副島がそう言ってダリルを振り返ると、彼は立ち止まって何やら下腹の辺りをごそごそと探っている。何事かと見ていると、やがて縫い付けた細長い袋のようなものを取り出した。
「ソエジマ、これを君に預ける┅┅路銀の足しになるだろう」
「えっ、いったい何ですか?」
副島はダリルからその袋を受け取った。ずっしりと重く、何か固い物が詰まっていた。
「ん?これは┅┅」
「イスパニアの金貨だ。俺がこれまで体を張って稼いできたやつだ。これだけあれば、ヨーロッパでは三年くらい遊んで暮らせる」
副島は驚きに言葉を失い、慌てて周囲を見回す。
「こんなものをむやみに外で見せないで下さい。これは一応ダリルさんが今まで通り持っていた方がいい」
副島は小さな声でそう言って袋を返すと、思案顔でしばらく地面を見つめていた。
「ちなみに、何枚ぐらいあるのですか?」
「そうだな┅┅たぶん七十枚くらいはあるはずだ」
「ふむ┅┅残念ながらこの国には、外国の通貨を日本の通貨に交換する商売は無いんです。まあ、いずれは出来るかも知れませんが┅┅」
「ああ、そうか┅┅両替商がいないのか┅┅それならしかたがないな」
「はい┅┅ただ、金銀を取り扱う商人はいます。この近くだと、西廻り船が立ち寄る下関には恐らくそうした商人がいるでしょう。小倉を出たら、通り道ですから少し掛け合ってみましょうか」
「うむ、そうしよう」
二人は話をまとめると、橋を渡って賑やかな喧噪の中に消えていった。
「賑やかで、美しい町だな┅┅」
「ええ、ここは博多に次ぐ商人の町ですからね。全国からいろいろな物が集まり、九州の各地へと運ばれていくんです」
二人は商家が立ち並ぶ通りを、店先を眺めながらゆっくりと歩いて行った。
「ん?何か良い匂いがするな┅┅」
ダリルがそう言って立ち止まり、鼻をクンクン鳴らしながら辺りを見回した。副島は思い当たるものを見つけて、ダリルを一件の店先へ誘っていった。
「あはは┅┅この匂いはわざと外に向かって出しているんですよ、食べてみますか?」
副島が連れて入ったのは、うなぎ屋だった。
「うなぎ?いや、見たことも聞いたこともないな」
「んん、実物はあまり見ない方がいいかもしれませんね。でも、味は抜群ですよ。昔から食べていた魚ですが、最近は醤油が一般に広まったおかげで、醤油をかけて焼く食べ方が
うまいと人気でしてね」
店の中は香ばしい匂いが漂い、客も多かった。二人は酒とうなぎ焼きを注文して席に座った。
「ああ、あれがそうか?」
隣の席に運ばれてきた大きな皿の上の物を見て、ダリルは傭兵時代、カンパーニャの野戦で串焼きにして食べた蛇のことを思い出していた。
「見た目は悪いですが、まあ話の種に食べてみて下さい」
副島がそう言っている間に、酒と小鉢に入った香の物が運ばれてきた。二人はキュウリと大根の糠漬けをポリポリやりながら酒を何杯か酌み交わした。
「へい、お待ちどうさま」
やがて、二つの皿にぶつ切りで串焼きにされた黒い炭のようなものが運ばれてきた。ダリルは、まさに蛇の串焼きだと思い、しかめ面で皿を見つめていた。一方、副島はさっそく串を持ってかぶりついた。
「ほふ┅┅ほおお┅┅んん┅┅うまいっ!」
黒い炭の中身は真っ白な肉と細い骨だった。
いかにもうまそうに再びかぶりつく副島を見て、ダリルも覚悟を決め一口かじってみた。
醤油の香ばしい香りとぱりっとした皮の食感、そして甘くふっくらした肉のうまみが口の中に広がった。それは、蛇の串焼きとは似て非なる物だった。
「┅┅うまいな┅┅うん、これはうまい」
ダリルは独り言をつぶやくと、その後は夢中になってかぶりつき始めた。口の中がうなぎの油でいっぱいになると、酒を何杯か流し込み、またかぶりつく。やがて、皿の上はきれいに骨までしゃぶられたうなぎの残骸と二本の串だけになった。
「ふう┅┅さすがに一匹食うと腹一杯になりますね」
「俺はまだいけるぞ┅┅カラスミが最高の酒の肴だと思っていたが、これはその上をいくな┅┅」
「あはは┅┅喜んでもらえて良かったです。日本の各地にはまだいろいろな名物がありますよ。楽しみにしていて下さい」
二人は満足して店を出ると、紫川に掛かる橋を渡って問屋や長屋が建ち並ぶ通りに入った。伊織に聞いた道場の場所はこの辺りだった。
「ああ、あれでしょう┅┅ずいぶんと大きな道場ですね」
道場は辻になった通りの一角に立派な漆喰の壁で囲まれ、屋根付きの門がその隆盛ぶりを示していた。門に掲げられた看板には、当理流刀法・十手術朽木道場とあった。細川氏がこの地を治めていた頃に藩の道場として開かれ、現在まで続いているという話だった。
二人が門を入ると、石畳の通路の先から気合いのこもった幾つもの声が聞こえてきた。非番の若い藩士たちが稽古に励んでいるのだろう。庭先の井戸の側には汗を拭く何人かの門弟たちの姿があった。彼らは歩いてくる副島とダリルの姿を見ると、道着を整えながら近づいてきた。
「御免、失礼ですがどちらの方で、どのような御用向きで参られたのですか?」
若い門弟の一人が頭を下げてから問いかけた。
「それがしは肥前藩士副島計馬、こちらはオランダ商館から来られたダリル殿でござる。御家老宮本伊織様からご紹介頂き、後学のため当道場の稽古を見学させて頂きたく参りました」
「ご、御家老様の┅┅失礼いたしました、どうぞこちらへ」
若い門弟たちは伊織の名前を聞いて慌てながら、二人を道場へ案内した。道場の上がり口まで来たとき、中から紺の道着姿の総髪の武士が出てきて、階段の上にひざまづいた。
「ようこそ当道場へおいで下さいました。師範をしております朽木元無斎と申します。御家老宮本様のご紹介とうかがいましたが┅┅」
朽木はいかにも慇懃な様子で二人を出迎えたが、副島はむっとした顔で彼をにらみつけていた。というのも、普通なら二人を道場に上げてから改めて挨拶をするのだが、朽木は二人が階段の下にいる状態で、上から挨拶をしたからである。これは、暗に自分が格上であると知らせると同時に、伊織という名前に対する反発の意味が込められていると、副島は感じた。
「いかにも┅┅こちらのダリル殿は、オランダ商館の依頼で剣術修行のため全国を回られる途中でござる。我ら先日は町外れにある新影流中江道場を尋ねましたが、まことに心技体そろった見事な稽古をされており感服いたした次第┅┅これなら、もう一つの当道場も、さぞや素晴らしい稽古をされておるに違いないと期待してうかがいました、が┅┅」
「が?┅┅何でござる?」
「ああ、いや┅┅何でもござらぬ┅┅さて、どうやら稽古の邪魔になるようですな、ダリル殿引き上げましょう」
副島はわざわざ日本語でそう言うと、ダリルに帰ろうと合図して背を向けた。
「しばし、待たれよ」
朽木は明らかに怒りをにじませた表情で階段を降りてきた。
「どうやら当道場を愚弄しに参られたようですな?」
「いやいや、とんでもない。できれば、稽古を見せて頂き、一手御指南を頂けたらと思っておりました」
副島がにこやかな顔でそう答えると、朽木はひくひくとこめかみを震わせながらも、何とか冷静な口調で言った。
「いいでしょう、それがしが直々にお相手いたす。道場へ参られよ」
副島は小さな声でダリルに通訳すると、拳を握ってにやりと笑った。
「やりましたね┅┅うまく食いついてくれました」
「┅┅君は恐ろしく頭の切れる策士だな┅┅一番敵にしたくないタイプだ」
「褒め言葉だとありがたく受け取っておきましょう。いや、さっきからのあの朽木という男の態度がどうも気にくわなくて┅┅伊織様をないがしろにする心根が見え隠れするんですよ┅┅」
二人は小さな声でそんなやりとりをしながら、道場に上がっていった。ざっと見ても二百畳を越える広い道場には、二十人余りの門弟たちが思い思いの武器を手に、型稽古に励んでいた。
「あの珍しい武器は何だ?」
上座のかたわらに座って稽古を見始めたとたん、ダリルが副島に質問した。
「あれは十手という武器です。悪人を取り締まる奉行所の役人が主に使っています。あれはけっこう厄介ですよ。相応の使い手なら、あれで刀を折ることができます」
数人の門弟が、刃引きの刀を持った相手と十手を使った捕縛の技を稽古していた。
「なるほど┅┅あの根元の部分で剣を挟み、てこの原理で抑え込むのか┅┅」
ダリルが納得して頷いた直後、太鼓の音が響き渡った。門弟たちが稽古をやめて、さっと両側の壁際に移動する。
「本日は珍しい客人がおいでなので、皆に紹介いたす。肥前藩士の副島殿と、オランダ商館から来られたダリル殿だ。お二方は剣術修行の途中でここにお立ち寄りになった。それと、御家老宮本様のお知り合いでもある。これからお二方に剣術の御指南をいただくゆえ、皆しっかりと見て学ぶように、よいな?」
はっと言う声が一斉に道場内に響き渡った。
「さて、副島殿、刀、十手、棒、槍、どれでお相手いたそうか?」
朽木はいかにも自慢げな顔でそう尋ねた。副島はダリルにそれを通訳して伝える。
「俺は、あの十手とかいう奴と戦ってみたい」
「分かりました」
副島は頷くと、朽木に言った。
「ダリル殿は十手でお願いしたいと┅┅それがしは何でも構いません。朽木殿の得意な獲物でお願いいたす」
「ほお、随分と自信がおありのようですな。ちなみに何流を学ばれたのか?」
副島は立ち上がって、木刀が掛けてある所へ歩いて行った。そして、一本の木刀を手にすると朽木を振り返った。
「小野忠常様に一刀流を学んでござる┅┅」
それを聞いて門弟たちがどよめき、朽木も内心の驚きを隠せず、目を見開いた。まだ、九州では一刀流を学んだ者がほとんどいなかったからだ。しかし、その名声はこの地にも届いていた。
朽木は唇を引き締めながら、門弟にたんぽ槍を持ってくるように命じた。木の槍の先に布を巻き付けたものだ。
「いざ、参られいっ」
「では、参る」
朽木と副島は道場の中央で相対した。槍を頭の上で何回か回した後、朽木は腰を落として左半身に構えた。それに対して副島は右下段に構え、突きに対する防御を優先とした。
「さあっ┅┅さあ、さあさあ、てやっ、とおっ」
朽木は摺り足で間合いを詰めてくると、軽く突きを放ち、副島が下から払い上げるとそのまま槍を振りかぶって、副島の頭上に振り下ろしてきた。副島は切り返しでそれを受けると、素早く手首を返して上から抑え込む。そのとたん、朽木は槍を横に払って副島の足を狙ってきた。かろうじて後ろに飛んでそれをかわした副島は、姿勢を低くして右下段に構え直す。
(なるほど┅┅薙刀と棒術を合わせたようなやり方だな┅┅それならば┅┅)
副島は正眼に構え直し、じりじりと間合いを詰めていった。普通に戦ったのでは、どうしても間合いが遠い槍の攻撃をかわしてから、相手のふところに飛び込まなくてはならない。しかし、この相手は普通に突きで決めるのではなく、打ち下ろしか足払い、あるいは切り返しから石突きを腹に打ち込む技で決めようとするに違いない。
相手の呼吸を感じながら、副島は技を繰り出す間合いを測る。
「さあっ┅┅さあ、さあ、さあっ」
朽木が再び間合いを詰めてきた。副島の後の先の技しか考えていない緩慢な足の運びだった。
その瞬間、誰もが意表を突かれ、声も出せなかった。勝負は一瞬で、あっけなく決まった。まさか副島が先の先で飛び込んでくるとは思っていなかった朽木は、慌てて槍を突き出した。しかし、飛び込む早さはそのままに右に飛んだ副島は、振り向いて槍を振りかぶろうとする朽木の左胴に突きを入れていたのである。
朽木はよろよろと後ろに歩いて、がくりと膝を折った。肋骨は折れていなかったが、一瞬息が出来ないほどの衝撃が全身を走った。
「ま、参った┅┅」
副島は頭を下げると、朽木の側に歩み寄った。
「少々力を入れ過ぎました。相すみませぬ」
「いや、これしき何でもござらぬ┅┅それにしても、あのような捨て身の技┅┅いや、負けたから言うのではないが、いささか邪道ではござらぬか?」
「あはは┅┅なるほど、そうかもしれません。だが、これが一刀流なのでござるよ。何もむやみに命を捨てに行くのではござらぬ。相手の考え、動きの速さ、呼吸などを踏まえて、決して避けられぬ一本道に相手を誘い込む。相手がそれ以上の技量を持っていればこちらの負け、ただそれだけでござる」
朽木はううんと唸って、ようやく立ち上がった。
「┅┅なるほど、避けられぬ一本道か┅┅いや勉強になりもうした、かたじけない」
「いやいや、こちらこそ良い修行をさせて頂きました。薙刀と棒術の技を組み入れた槍術と見ましたが┅┅」
「左様、当流派は刀技はもちろん、槍、薙刀、十手、手裏剣などあらゆる武器を修練することを教えとしております。違う武器を知ることで技に広がりが生まれる。槍術に薙刀と棒術の技を取り入れたのは拙者の工夫でござる」
「なるほど、勉強になりました┅┅さて、ダリル殿の相手でござるが┅┅」
副島の言葉に、朽木はまだ痛む左の脇腹を押さえながら苦笑して言った。
「今の拙者では相手はつとまらぬゆえ、弟子にお相手させまする。平塚、十手でお相手いたせ」
「は、はっ」
指名された若者は緊張した面持ちで壁に掛けてある十手を取りに立ち上がった。一方、ダリルはすでに屈伸運動をしながら、楽しげな顔で副島を見ていた。
「見事だった┅┅槍相手に突っ込んでいく馬鹿を初めて見たぞ」
「馬鹿とはひどいなあ┅┅あはは┅┅」
「┅┅そういう馬鹿じゃないと、運命を変えることはできないんだ┅┅」
副島は表情を引き締めてダリルを見つめた。
「では、今度はそれがしが見せてもらう番ですね」
ダリルはにやりと微笑むと、木刀を手に中央へ出て行った。
副島と朽木の試合の興奮がようやく静まり、道場内は静寂と張り詰めた緊張感に包まれた。
「いざっ」
門弟が頭を軽く下げ、かけ声を掛けて構えると、ダリルもちょこんと頭を下げて、いつものように腰を落とし、片手で木刀をゆっくり回し始める。
十手は相手の打ち出した刀を受けて抑え込むのが本来の使い方だ。だから、めったにこちらから先手で打ち出すことはない。ダリルもそれは分かっているので、するすると間合いを詰めていった。
「ヒョオオ┅┅」
独特のかけ声とともに、ダリルは突きと切りの連続技を繰り出し始めた。ところが、それを見ていた副島は、唖然として思わず声を上げそうになった。というのは、ダリルの突きも切りも全く気が入っておらず、まるで素人のような動きだったからだ。
案の定、いくら若輩とはいえ朽木に指名された門弟である、ダリルの突きや切りを受け流していたが、何回目かの突きを捕らえ、気合いの声とともに木刀を抑え込んだのである。
(へへ┅┅やっと捕まえたか。じゃあ、こいつを抜き取って┅┅っ!)
ダリルがにやりとほくそ笑んで次の動きに移ろうとした瞬間、門弟が足を振り上げて、気合いの声とともにダリルの木刀を踏みつけた。あっという間も無く、ダリルの手から木刀は離れ、門弟は十手を彼にぐいと突きつけた。
(へえ、こいつは参ったな┅┅なるほど、こういう手段があったのか┅┅)
ダリルは茫然として床を見つめた後、にっこり微笑みながら両手を上げた
「ダリルさん、何をやってるんですか┅┅それじゃあ本当の馬鹿じゃないですか┅┅」
副島は額に手を当てながら、思わず日本語でつぶやいた。
あまりにもあっけない勝負に、誰もがきょとんとしていた。勝った門弟も、本当に良いのかといった表情でダリルを見ている。当の本人だけが、やや恥ずかしそうに後頭部を何度も押さえながらも、満足げな顔で副島の側に戻ってきた。
「十手という奴はなかなか面白いな」
「ええ、生半可に剣術をかじった者では太刀打ちできませんよ。でも、ダリルさんのはあからさま過ぎです。何を考えておられたのですか?」
「ああ、あの十手の押さえ込みを逃れる手段を思いついたのでな、試してみようとしたんだが、その前にやられてしまった┅┅」
二人がオランダ語でやりとりしているところへ、朽木が近づいてきた。
「お疲れでござった┅┅この後ご予定が無ければ、奧で粗茶でも飲んでゆかれませぬか?」
「はあ、特に予定はござらぬが┅┅」
副島はそう答えると、ダリルの意向を尋ねた。
「そうだな┅┅俺は十手以外の武器についても聞いてみたいが┅┅君は彼のイオリサマへの敵意について訊かなくてもいいのか?」
「┅┅ええ、おおよその察しはつきますが、そうですね、じゃあそうしますか」
道場と回廊でつながった朽木の住居は、一介の町道場主が住むにはあまりにも立派な造りで、広い庭や馬小屋も備えた大名の別荘といっても通用するものだった。
「聞いたところでは、こちらは細川公がおられた頃の藩の道場だったとか┅┅今でも肥後藩とはご交流がござるのか?」
座敷の前で広い庭を見渡しながら、副島はそれとなく探りを入れた。それに対して朽木はむっとした顔ですぐには返事をせず、障子戸を開いて二人を招き入れた。
「肥後藩とは何もござらぬ┅┅」
朽木はいつも自分が座っている上座の座布団と肘つきを移動させ、部屋の両側で対面するように、自分の前方に二つの座布団を並べた。そしてお互いが座った後、ぶっきらぼうな声で先ほどの副島の問いに答えた。
「┅┅細川公がこの地を去られる折には、すでに御指南役は新影流の氏井弥四郎殿と宮本武蔵殿に決まっておった。当道場はこの地に捨て置かれたのだ」
(やはりそうか┅┅武蔵殿が突然肥後に行くと決まり、指南役同然だった朽木はそのせいで見捨てられたと思ったのだな┅┅まあ、実際そうではあるが┅┅)
「しかし、普通なら藩の道場も閉鎖するところでしょう。そのままになされたのは、細川公が朽木殿にこの地で後続の育成に励んでもらいたいというお心だったのでは?」
副島の言葉に、朽木は下を向いて胸の内を整理している様子だった。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
そこへ、まだ前髪を上げて間もないくらいの門弟の少年が盆を抱えて入ってきた。
「どうぞ」
「おお、かたじけない。そなた、まだ若いが修行は辛くないか?」
「はい、お師匠や先輩方に大変良くして頂いておりますゆえ、何も辛くはありません」
「そうか、これからもしっかり励みたまえ」
「はい、ありがとうござりまする」
少年はうれしげに頭を下げて出て行った。
「良き若者が育っておりますね。これも日頃からの朽木殿の薫陶のたまものでしょう」
朽木は丁寧に手をついて頭を下げた。
「お褒めに預かり、かたじけのうござる┅┅先ほどの貴公の言葉、実は細川藩の御家老有吉頼母様からも同様のお言葉を頂いてござる。それゆえ、拙者も今日まで精一杯そのお心に応えようと力を尽くして参ったのだ。ところがここにきて、小笠原公は藩の道場を造り、そこで武蔵流の指南を始められた。これは筆頭家老宮本伊織様にご配慮なされたことに違いござらぬ┅┅この道場もいずれは┅┅」
「ああ、なるほど┅┅それが伊織様への、ひいては我々への敵愾心の理由でござったか┅┅」
副島はダリルへの通訳を終えた後、小さく頷きながらそう言った。
「朽木殿は実際に伊織様とお会いになったことは?」
「いや、お見かけしたことは何度かあるが、一介の道場主が御家老様に直接お会いすることなどできるものではござらぬ」
「ああ、それなら明日、藩の道場へおいでなされ。貴殿の御懸念がすべて水泡に帰すとお約束いたそう」
「な、何と┅┅それはどういう意味でござるか?」
「あはは┅┅いや、それは明日のお楽しみでござるよ。明日、我々は申の刻頃から、伊織様と剣の稽古をすることになっております。ぜひ、おいで下され。門弟は二人までなら連れてこられて結構┅┅あまり騒ぎにしたくござらぬのでな┅┅」
「ううむ┅┅よく分からぬが、御家老様直々に剣の稽古を見せて頂けるというのなら、これは千載一遇の機会、何としても見てみたい┅┅よかろう、承知いたした」
副島はにこにこしながら頷くと、話の成り行きをかいつまんでダリルに通訳した。
「伊織様がどんなお方か知れば、俗人の卑小な心配など塵芥のごときものだと理解できるでしょう。さて、ダリルさんは何か聞きたいことがあるとか┅┅」
「うむ┅┅十手以外のナギナタとシリルケンだったか?それらがどんなものか知りたい」
「分かりました┅┅シュリケンですね。手の裏に潜ませた剣という意味です。朽木殿、ダリル殿が薙刀と手裏剣についてどのようなものかお聞きしたいと┅┅」
「左様┅┅薙刀とは、長き刀のこと、つまり槍の穂先に代えて一尺四五寸の刀身を取り付けた武器でござる。唐の頃、彼の地から伝わったと聞いておる。遠くより攻撃が出来るので、主に馬上の武器として使われてきた。しかし、如何せん小回りがきかず、狭い場所では扱いが難しいということで、今まであまり使う者はいなかったのだ┅┅当理流では、刃先も柄も従来より短くして、棒術の技も取り入れることで十分刀や槍と戦える武器になったと自負しておる┅┅次に手裏剣だが┅┅」
朽木は立ち上がって床の間の刀掛けから長刀を持ってきた。そして、鞘から小柄を抜き取ってダリルに見せた。
「これも手裏剣の一つでコヅカと申すものだ┅┅」
朽木はそう言うと、右手の親指、人差し指、中指で小柄を挟み、床の間の方を向いて何気なくさっと肘から先を上下に振った。小柄は軽い音を立てて床柱に突き立った。
「高い場所から弓矢や鉄砲で狙う相手や逃げる相手に使うが、まあ、これは所詮目くらまし程度のもの、これを主武器にするのは忍びの者くらいであろう」
「なるほど、よく分かった┅┅ソエジマ、シノビモノとは何だ?」
「忍びとは、ええっと、隠れて仕事をする者とでも言いますか┅┅」
「ふむ、何となく分かる┅┅暗殺を専門にする傭兵がヨーロッパにもいるからな┅┅」
「ああ、それですよ┅┅ただ、日本の忍びは暗殺より、情報を集めるのが主な仕事です」
副島とダリルは頃合いだと判断し、朽木に礼を言って立ち上がった。
「では、また明日┅┅」
「うむ、承知いたした、では┅┅」
朽木は門の近くまで二人を見送り、頭を下げた。
道場を出た二人は、また川の向こうの賑やかな町中の方へ歩きだした。
「まあ、俗人ではありますが、そう悪い男でもありませんでしたね」
「うむ┅┅ヨーロッパの貧乏騎士によくいるタイプだ。さほど力は無いくせに野望とプライドだけは大きくて、不運はすべて運命や周囲のせいにする┅┅自分に正直という点だけが取り得だな」
「騎士というのは、やはり認可を受けた職業なのですか?」
「ああ、正式にはそうだ。王が認め、書状や勲章、時には剣や自分の娘を与えたりする。ほとんどが貴族だが、中には平民でもめざましい武勲を立てたり、国の窮地を救ったりして騎士に取り立てられる者もいる」
「そうか┅┅やはり侍に似ているんですね。それがしの家は曾祖父の代までは庄屋、まあ村長といったところでしょうか、農民だったんです。でも祖父が藩のお家騒動のとき、今の鍋島本家のために兵糧調達で手柄を立てましてね、武士に取り立てられたのです」
「ほお、ヒゼンの王は見る目があったのだな┅┅孫の代に君のような優秀な子孫が生まれたんだから」
「また、そのような┅┅いくら誉めても酒は一日銚子三本までです。路銀は計画的に使わないとすぐ無くなってしまいますからね」
「ん?そんなに切羽詰まっているのか?」
「いや、まだありますが、なにしろ全国を回るんですからね┅┅後のことを考えておかないと┅┅」
副島がそう言ってダリルを振り返ると、彼は立ち止まって何やら下腹の辺りをごそごそと探っている。何事かと見ていると、やがて縫い付けた細長い袋のようなものを取り出した。
「ソエジマ、これを君に預ける┅┅路銀の足しになるだろう」
「えっ、いったい何ですか?」
副島はダリルからその袋を受け取った。ずっしりと重く、何か固い物が詰まっていた。
「ん?これは┅┅」
「イスパニアの金貨だ。俺がこれまで体を張って稼いできたやつだ。これだけあれば、ヨーロッパでは三年くらい遊んで暮らせる」
副島は驚きに言葉を失い、慌てて周囲を見回す。
「こんなものをむやみに外で見せないで下さい。これは一応ダリルさんが今まで通り持っていた方がいい」
副島は小さな声でそう言って袋を返すと、思案顔でしばらく地面を見つめていた。
「ちなみに、何枚ぐらいあるのですか?」
「そうだな┅┅たぶん七十枚くらいはあるはずだ」
「ふむ┅┅残念ながらこの国には、外国の通貨を日本の通貨に交換する商売は無いんです。まあ、いずれは出来るかも知れませんが┅┅」
「ああ、そうか┅┅両替商がいないのか┅┅それならしかたがないな」
「はい┅┅ただ、金銀を取り扱う商人はいます。この近くだと、西廻り船が立ち寄る下関には恐らくそうした商人がいるでしょう。小倉を出たら、通り道ですから少し掛け合ってみましょうか」
「うむ、そうしよう」
二人は話をまとめると、橋を渡って賑やかな喧噪の中に消えていった。
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