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水神の琴
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玻璃を思わせる、澄んだ湖のそばに社がある。
その社には琴が安置されていた。無風の日、湖から水の神が現れて、その社の中で琴を奏でるのだと言う。
音を湖の対岸まで届けるためだ、と言われている。反対側には同じく社があって、そこはずいぶん昔に寂れてしまったのだと言う。水の神様の夫の社だったと伝わる。
だから、神様はかつての夫に自分の音を届けるために、風のない日、音がいっとう良く聞こえて、玻璃のような湖面を音が滑って行ける日に琴を鳴らすのだと言われている。
風のない日。一人の子供が寂れた社の前を通りかかろうとした。その時、中から声がする。
「よう、坊主。ここ、開けてくれよぉ」
ぞっとするほどの低い声だった。地の底から響くような。それでいて、どこか猫撫で声と言うのか、こちらの機嫌を取るような声だ。少年は気味悪がったが、好奇心が勝って、社に近づく。
「ここ、開けてくれよぉ。かみさんに閉じ込められちまってよぉ。おれ、もう反省したからよぉ、かみさんに謝りてぇんだ。今日は風がねぇからよぉ。おれは風のある日にゃ動けねぇ。開けてくれねぇか」
とうちゃんがかあちゃんと喧嘩することを、幾度も見ていた少年は、その言葉を信じたけれど、声から感じられる不気味さが、その手を迷わせた。
社の格子、その隙間から中は伺えない。もし、中にいるのが、人の良さそうなおっちゃんなら手伝っても良い。少年はそう思ったが、中に誰が――否、「何」がいるのかわからない。
「出せよォ」
不意に、声音が剣呑になる。
「ちょいと開けるだけだろうがァ。開けろよこの餓鬼め――」
脅されて、少年が身を竦める。言うことを聞かないと、きっと酷い目に遭わされる。そう思った彼は、扉を開けようとして。
凛と、湖面を走る鉉の音を聞いた。
振り返ると、彼は「音」が走って来るのを見た。玻璃の水面を。まるで平面であるかのように。
その「音」は、少年の頭上を超えて、社の格子が作る隙間に飛び込んだ。ギャッ! と中から声がする。
もう一つ。二つ目の音は、声も連れてやってくる。
「ゆきなさい」
自分に言っている。そう確信した少年は、すぐにその場を走り去った。
寂れた社に棲まうものが、本当に水神の夫なのかはわからない。
ただ、少なくとも、「あれ」は風に弱いらしい。
そうであるから、無風の日、通りかかった人間に社を開けさせようとする「あれ」を、水神は音の刃で持って止めているのだろう。水面を進める玻璃の音を。風のない日でなくては、音も届かないのだろう。水面も打ってしまう。
少年は長じてから、水神に仕える神官となった。琴の手入れをし、少しでも遠くまで音が届くようにと祈りを籠める。
「あれ」は未だに社から出てこられないでいる。
いずれ、出てきてしまうかもしれない。その時を先送りにしながら、神官は風の日に弦を取り替えた。
その社には琴が安置されていた。無風の日、湖から水の神が現れて、その社の中で琴を奏でるのだと言う。
音を湖の対岸まで届けるためだ、と言われている。反対側には同じく社があって、そこはずいぶん昔に寂れてしまったのだと言う。水の神様の夫の社だったと伝わる。
だから、神様はかつての夫に自分の音を届けるために、風のない日、音がいっとう良く聞こえて、玻璃のような湖面を音が滑って行ける日に琴を鳴らすのだと言われている。
風のない日。一人の子供が寂れた社の前を通りかかろうとした。その時、中から声がする。
「よう、坊主。ここ、開けてくれよぉ」
ぞっとするほどの低い声だった。地の底から響くような。それでいて、どこか猫撫で声と言うのか、こちらの機嫌を取るような声だ。少年は気味悪がったが、好奇心が勝って、社に近づく。
「ここ、開けてくれよぉ。かみさんに閉じ込められちまってよぉ。おれ、もう反省したからよぉ、かみさんに謝りてぇんだ。今日は風がねぇからよぉ。おれは風のある日にゃ動けねぇ。開けてくれねぇか」
とうちゃんがかあちゃんと喧嘩することを、幾度も見ていた少年は、その言葉を信じたけれど、声から感じられる不気味さが、その手を迷わせた。
社の格子、その隙間から中は伺えない。もし、中にいるのが、人の良さそうなおっちゃんなら手伝っても良い。少年はそう思ったが、中に誰が――否、「何」がいるのかわからない。
「出せよォ」
不意に、声音が剣呑になる。
「ちょいと開けるだけだろうがァ。開けろよこの餓鬼め――」
脅されて、少年が身を竦める。言うことを聞かないと、きっと酷い目に遭わされる。そう思った彼は、扉を開けようとして。
凛と、湖面を走る鉉の音を聞いた。
振り返ると、彼は「音」が走って来るのを見た。玻璃の水面を。まるで平面であるかのように。
その「音」は、少年の頭上を超えて、社の格子が作る隙間に飛び込んだ。ギャッ! と中から声がする。
もう一つ。二つ目の音は、声も連れてやってくる。
「ゆきなさい」
自分に言っている。そう確信した少年は、すぐにその場を走り去った。
寂れた社に棲まうものが、本当に水神の夫なのかはわからない。
ただ、少なくとも、「あれ」は風に弱いらしい。
そうであるから、無風の日、通りかかった人間に社を開けさせようとする「あれ」を、水神は音の刃で持って止めているのだろう。水面を進める玻璃の音を。風のない日でなくては、音も届かないのだろう。水面も打ってしまう。
少年は長じてから、水神に仕える神官となった。琴の手入れをし、少しでも遠くまで音が届くようにと祈りを籠める。
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