1 / 2
水神の琴
しおりを挟む
玻璃を思わせる、澄んだ湖のそばに社がある。
その社には琴が安置されていた。無風の日、湖から水の神が現れて、その社の中で琴を奏でるのだと言う。
音を湖の対岸まで届けるためだ、と言われている。反対側には同じく社があって、そこはずいぶん昔に寂れてしまったのだと言う。水の神様の夫の社だったと伝わる。
だから、神様はかつての夫に自分の音を届けるために、風のない日、音がいっとう良く聞こえて、玻璃のような湖面を音が滑って行ける日に琴を鳴らすのだと言われている。
風のない日。一人の子供が寂れた社の前を通りかかろうとした。その時、中から声がする。
「よう、坊主。ここ、開けてくれよぉ」
ぞっとするほどの低い声だった。地の底から響くような。それでいて、どこか猫撫で声と言うのか、こちらの機嫌を取るような声だ。少年は気味悪がったが、好奇心が勝って、社に近づく。
「ここ、開けてくれよぉ。かみさんに閉じ込められちまってよぉ。おれ、もう反省したからよぉ、かみさんに謝りてぇんだ。今日は風がねぇからよぉ。おれは風のある日にゃ動けねぇ。開けてくれねぇか」
とうちゃんがかあちゃんと喧嘩することを、幾度も見ていた少年は、その言葉を信じたけれど、声から感じられる不気味さが、その手を迷わせた。
社の格子、その隙間から中は伺えない。もし、中にいるのが、人の良さそうなおっちゃんなら手伝っても良い。少年はそう思ったが、中に誰が――否、「何」がいるのかわからない。
「出せよォ」
不意に、声音が剣呑になる。
「ちょいと開けるだけだろうがァ。開けろよこの餓鬼め――」
脅されて、少年が身を竦める。言うことを聞かないと、きっと酷い目に遭わされる。そう思った彼は、扉を開けようとして。
凛と、湖面を走る鉉の音を聞いた。
振り返ると、彼は「音」が走って来るのを見た。玻璃の水面を。まるで平面であるかのように。
その「音」は、少年の頭上を超えて、社の格子が作る隙間に飛び込んだ。ギャッ! と中から声がする。
もう一つ。二つ目の音は、声も連れてやってくる。
「ゆきなさい」
自分に言っている。そう確信した少年は、すぐにその場を走り去った。
寂れた社に棲まうものが、本当に水神の夫なのかはわからない。
ただ、少なくとも、「あれ」は風に弱いらしい。
そうであるから、無風の日、通りかかった人間に社を開けさせようとする「あれ」を、水神は音の刃で持って止めているのだろう。水面を進める玻璃の音を。風のない日でなくては、音も届かないのだろう。水面も打ってしまう。
少年は長じてから、水神に仕える神官となった。琴の手入れをし、少しでも遠くまで音が届くようにと祈りを籠める。
「あれ」は未だに社から出てこられないでいる。
いずれ、出てきてしまうかもしれない。その時を先送りにしながら、神官は風の日に弦を取り替えた。
その社には琴が安置されていた。無風の日、湖から水の神が現れて、その社の中で琴を奏でるのだと言う。
音を湖の対岸まで届けるためだ、と言われている。反対側には同じく社があって、そこはずいぶん昔に寂れてしまったのだと言う。水の神様の夫の社だったと伝わる。
だから、神様はかつての夫に自分の音を届けるために、風のない日、音がいっとう良く聞こえて、玻璃のような湖面を音が滑って行ける日に琴を鳴らすのだと言われている。
風のない日。一人の子供が寂れた社の前を通りかかろうとした。その時、中から声がする。
「よう、坊主。ここ、開けてくれよぉ」
ぞっとするほどの低い声だった。地の底から響くような。それでいて、どこか猫撫で声と言うのか、こちらの機嫌を取るような声だ。少年は気味悪がったが、好奇心が勝って、社に近づく。
「ここ、開けてくれよぉ。かみさんに閉じ込められちまってよぉ。おれ、もう反省したからよぉ、かみさんに謝りてぇんだ。今日は風がねぇからよぉ。おれは風のある日にゃ動けねぇ。開けてくれねぇか」
とうちゃんがかあちゃんと喧嘩することを、幾度も見ていた少年は、その言葉を信じたけれど、声から感じられる不気味さが、その手を迷わせた。
社の格子、その隙間から中は伺えない。もし、中にいるのが、人の良さそうなおっちゃんなら手伝っても良い。少年はそう思ったが、中に誰が――否、「何」がいるのかわからない。
「出せよォ」
不意に、声音が剣呑になる。
「ちょいと開けるだけだろうがァ。開けろよこの餓鬼め――」
脅されて、少年が身を竦める。言うことを聞かないと、きっと酷い目に遭わされる。そう思った彼は、扉を開けようとして。
凛と、湖面を走る鉉の音を聞いた。
振り返ると、彼は「音」が走って来るのを見た。玻璃の水面を。まるで平面であるかのように。
その「音」は、少年の頭上を超えて、社の格子が作る隙間に飛び込んだ。ギャッ! と中から声がする。
もう一つ。二つ目の音は、声も連れてやってくる。
「ゆきなさい」
自分に言っている。そう確信した少年は、すぐにその場を走り去った。
寂れた社に棲まうものが、本当に水神の夫なのかはわからない。
ただ、少なくとも、「あれ」は風に弱いらしい。
そうであるから、無風の日、通りかかった人間に社を開けさせようとする「あれ」を、水神は音の刃で持って止めているのだろう。水面を進める玻璃の音を。風のない日でなくては、音も届かないのだろう。水面も打ってしまう。
少年は長じてから、水神に仕える神官となった。琴の手入れをし、少しでも遠くまで音が届くようにと祈りを籠める。
「あれ」は未だに社から出てこられないでいる。
いずれ、出てきてしまうかもしれない。その時を先送りにしながら、神官は風の日に弦を取り替えた。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
荷車尼僧の回顧録
石田空
大衆娯楽
戦国時代。
密偵と疑われて牢屋に閉じ込められた尼僧を気の毒に思った百合姫。
座敷牢に食事を持っていったら、尼僧に体を入れ替えられた挙句、尼僧になってしまった百合姫は処刑されてしまう。
しかし。
尼僧になった百合姫は何故か生きていた。
生きていることがばれたらまた処刑されてしまうかもしれないと逃げるしかなかった百合姫は、尼寺に辿り着き、僧に泣きつく。
「あなたはおそらく、八百比丘尼に体を奪われてしまったのでしょう。不死の体を持っていては、いずれ心も人からかけ離れていきます。人に戻るには人魚を探しなさい」
僧の連れてきてくれた人形職人に義体をつくってもらい、日頃は人形の姿で人らしく生き、有事の際には八百比丘尼の体で人助けをする。
旅の道連れを伴い、彼女は戦国時代を生きていく。
和風ファンタジー。
カクヨム、エブリスタにて先行掲載中です。
魔法少女になれたなら【完結済み】
M・A・J・O
ファンタジー
【第5回カクヨムWeb小説コンテスト、中間選考突破!】
【第2回ファミ通文庫大賞、中間選考突破!】
【第9回ネット小説大賞、一次選考突破!】
とある普通の女子小学生――“椎名結衣”はある日一冊の本と出会う。
そこから少女の生活は一変する。
なんとその本は魔法のステッキで?
魔法のステッキにより、強引に魔法少女にされてしまった結衣。
異能力の戦いに戸惑いながらも、何とか着実に勝利を重ねて行く。
これは人間の願いの物語。
愉快痛快なステッキに振り回される憐れな少女の“願い”やいかに――
謎に包まれた魔法少女劇が今――始まる。
・表紙絵はTwitterのフォロワー様より。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
孤独な王子の世話を焼いていたら、いつの間にか溺愛されていました
Karamimi
恋愛
人魚の血を引くエディソン伯爵家の娘、ステファニーは、海の動物と話しが出来たり、海の中でも呼吸する事が出来る。
そんなステファニーは、昔おばあ様からよく聞かされた人魚と伯爵の恋の話が大好きで
“自分にもいつか心から愛する人に出会える、それまではこの領地で暮らそう”
そう決め、伯爵領でのんびりと暮らしていた。
そんなある日、王都にいるはずのお父様が1人の少年を連れてやって来た。話を聞くと、彼はこの国の第一王子で、元王妃様と国王の子供との事。
第一王子を疎ましく思っている現王妃によって命を狙わている為、王都から離れた伯爵領でしばらく面倒を見る事になった。
ちょこちょこ毒を吐く王子に対し、顔を真っ赤にして怒りながらも、お節介を焼くステファニー。王子と一緒に過ごすうちに、いつしかステファニーの中に恋心が芽生え始めた。
そんな中王都の海では、次々と異変が起こり始めていて…
ファンタジーに近い恋愛ものです(*'▽')
豪華地下室チートで異世界救済!〜僕の地下室がみんなの憩いの場になるまで〜
自来也
ファンタジー
カクヨム、なろうで150万PV達成!
理想の家の完成を目前に異世界に転移してしまったごく普通のサラリーマンの翔(しょう)。転移先で手にしたスキルは、なんと「地下室作成」!? 戦闘スキルでも、魔法の才能でもないただの「地下室作り」
これが翔の望んだ力だった。
スキルが成長するにつれて移動可能、豪華な浴室、ナイトプール、釣り堀、ゴーカート、ゲーセンなどなどあらゆる物の配置が可能に!?
ある時は瀕死の冒険者を助け、ある時は獣人を招待し、翔の理想の地下室はいつのまにか隠れた憩いの場になっていく。
※この作品は小説家になろう、カクヨムにも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる