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HO5.黄金林檎を投げ込んで(6話)

5.パリスの器

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 それから数日後。哲夫が指定の場所にやってくると、待ち合わせ場所にはフェミニンな装いをした北畑成美が現れた。

「ずいぶんと雰囲気が変わりましたね」
「そうですか? この前は初めてだったからちょっとかっちり目で、今日はもう好きな格好で良いかなって」

 少し甘えたような態度と声音だ。上目遣いで見られると、なるほど悪い気はしない。

(なんか、こう、いるだけで周りを巻き込む様な明るい)

 けれど、哲夫の心を掴むような、そういう明るさのようなものは感じられない。
 この前、テータから好みのタイプを聞かれて、応じてから、思い出してずっと意識の底に沈んでくれない気持ちが、哲夫を成美の誘惑から守ってくれる気がする。

(てっちゃん)

 明るい声が、記憶の底から鼓膜を打つような。

「行きましょうか。経費で落とす都合で、あまり高い店には入れないのですが」
「大丈夫です。国成さんとだったらどこでもきっと楽しいですから」
「褒めても何も出ませんよ」

 最近、ずっとこんなことを言っている気がする。
 褒めても何も出ない。
 でも褒めて欲しくはある。
 当たり前のことを当たり前にこなして、そうすると「じゃあこれも」と負担を上乗せされるのが社会人。
 当たり前のことだ。
 弱音など吐いてはいけない。
 褒められて出せるのは弱音だけだ。
 だから褒められても何も出せない。

 チェーンの喫茶店に入る向かい合った席に座って、それぞれが飲み物を注文した。哲夫はコーヒー、成美はアイスティーだ。

 分室ではテータが紅茶ばかり淹れるので、コーヒーを飲む回数は減った。朝食の時に飲むくらいで、後は分室で飲む。紅茶はカフェイン量が多いと聞いたので、それからカフェインを含む飲み物は控えている。

 なんとなく、おしゃれかなと思って買っただけのティーバッグだった。それを、協力者を求めて地球をさまよい、哲夫しかいない多摩分室を逆さになって窓から覗き込んでいた宇宙人に供した。それだけの話だ。

 けれど、その宇宙人は、θ7354は、浪越テータはたいそう喜んだ。何が嬉しかったのかはわからない。自分を受け入れてお茶を出した地球人の存在は、慣れない土地に来た宇宙人にとってはありがたかったのだろう。そんなつもりではなかったけれど、そう思ったのだろうと想像すること自体は難しくない。

 それから、テータはやたらと紅茶を振る舞いたがった。

「あの時、国成さんが紅茶を出してくれたのが、本当に嬉しかったんです」

 今でも嬉しそうに語るテータ。
 いつか彼女とも離れてしまう日がくる。

 それを考えると、紅茶は彼女が淹れてくれる分だけで良いか、と言う気もしてしまう。夏になってからは、水出しアイスティーを作って律儀に毎朝それぞれの机に置いてくれるのだ。

「早速本題に入るのですが」

 店員が去ると、哲夫は真面目な顔で成美に切り出した。彼女も、神妙な顔で座っている。スマートフォンを操作しながら、

「この人なんです」

 メッセージアプリのトーク画面を表示させる。

「拝見しても?」
「はい。あ、あの、ちょっと、ディープなやりとりもしてるからあんまり遡ったりは……」
「わかってますよ」

 ざっとトーク内容を見たところ、どうやら相手は環境汚染に対して心を痛めているようだった。「このままでは回り回って人類が破滅してしまうから」「ひいては人類を助けることになる」と。そういう、なんとも当たり前の事を言っているだけだった。これは『天啓』ではないだろう。

「この彼は、その後どういう行動に?」
「ん、私はこの後、予定を合わせるのが上手く行かなくなっちゃって、自然消滅しちゃって……だからその後どうしているかは知らないんですけど……もしかしたら、今SNSで話題になってるみたいなことしてるのかなぁ。美術館の絵にペンキ掛けるとか」

 この言い回しでは、そこまで過激なことはしないだろう。そもそも、このトークでの話の発端も、カップラーメンの残り汁をどうするか、と言うところから始まった話題だったようだし。彼は今も地道に、個人でできる環境保全に勤しんでいることだろう。

「なるほど……持ち帰って検討します。この画面の写真を撮らせてもらっても構いませんか?」
「はい。お役に立てれば嬉しいです」

 哲夫はトークが表示されている画面を写真に撮った。

「事務所に持ち帰って検討します」
「浪越さんとですか?」
「もう一人いますが、そうですね、浪越にも意見を聞くことになると思います」
「浪越さん、この前の『杏くん』って人に未練ありそうじゃなかったですか?」

 いきなり「核心」を突いてくる。哲夫は目を瞬かせて、成美を見た。自分はきっと傷ついた顔をしているだろうが、それはテータのことではない。古傷がうずくだけ。

「……自分にも少しの未練がないわけではありませんから。彼女が彼に未練を持っていたとしても、文句を言う資格はありませんよ」

 底抜けに明るい笑顔。明るく自分を呼ぶ声。

(まだ好きなんだもんなぁ)

「私だったら……国成さんみたいな人がいるのに元彼になびいたりしないけど」

 開いた傷の痛みに目を伏せる哲夫の表情を、都合良く受け取った成美は更に踏み込んでくる。顔を上げて相手を見ると、彼女はそこで一旦引き下がる気になったらしく、

「あ、ごめんなさい、この前会っただけなのに、わかったような口利いて」
「いえ、構いませんよ。そうだ、北畑さん」
「はい、何でしょうか?」
「ギリシャ神話の、黄金林檎の話はご存知ですか?」
「え、知りません。物知りなんですね」
「俺は映画が好きで。そこから元ネタに当たったりするんですが……ギリシャ神話は色んなところでモチーフになっています。その内の一つがこの黄金林檎のエピソードで」
「そう、なんですか?」

 話の行き先が見えないらしい。

「祝い事に呼ばれなかった不和の女神エリスが、パーティ会場に黄金の林檎を投げ込むんです」
「眠り姫みたい」
「そうですね。自分も似ていると思います。その林檎にはこう書いてあった。『最も美しい女性へ』」
「へえ……」

 自分がそのたとえ話の中に入れられていることを察したのか、成美はやや警戒の表情を見せ始めた。

「その審判を羊飼いパリスに託された。彼の元には三人の女神がそれぞれ見返りを持ってやってくる。権力、勝利、そして美女です」
「パリスはどれを選んだんですか?」
「美女ですよ」
「男の人ってそうなんだ」

 成美は面白そうに笑う。すぐにその笑みは鳴りを潜める。

「……それって、浪越さんが美女ってことですか?」
「いいえ。俺がこの話を持ち出したのは、俺にパリスは荷が重いなと思ったから」

 選ぶ権利などない。
 省内で出会った恋人の、仕事の都合に傷つく自分に。
 選ぶ権利なんてない。

(てっちゃん、ごめんね)

 いつも明るかった声に少し影が差してしまった時、勝手に更に傷ついた。そんな声をさせてしまった。そんな顔をさせてしまった。

 悪いのは俺なんだ。
 お前じゃない。
 海外出向するその人を、成田に見送りにも行けなかった。もう別れたから良いんだと。そう言い聞かせて。
 本当は、影差す顔を見たくないだけだったのに。

「そして、あなたに女神役も荷が重いと思いますよ」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味ですよ。こんなことはおよしなさい。恋人のいる男に燃えるなんて。黄金林檎の諍いに巻き込まれてしまうから」

 パリスが選んだアフロディテ。女神が与えた美女が、その後トロイア戦争を引き起こした。彼女は既婚者だったから。

「なんて、説教くさい話はここら辺にして、あなたには別でお伺いしたいことがあります。満岡飛鳥さんのことです」
「飛鳥の?」
「あなた、満岡さんからなんて建前で呼び出されたんですか?」




 数日後、多摩分室にて。

 経過を報告したい、と言って、哲夫は満岡飛鳥を多摩分室に呼び出していた。杏はまた給湯室に隠れている。合図があったら、登場する手筈になっていた。なんだか舞台装置のようだ。

「古代ギリシャでは、都合良く登場して物語を解決していく存在をデウス・エクス・マキナって言うんだけど、今回の神林さんはそんな感じだな」

 哲夫はそんなことを言っていた。

「国成さん、宇宙関連だから理系ですよね? 文化系詳しくないですか?」
「別に理系が映画見ちゃいけないわけでもないだろ」

 それはそうである。


 過日、北畑成美を呼び出した時にした黄金林檎の話を、哲夫は杏たちにも聞かせた。

「なるほど。北畑さんを名指しした黄金の林檎を、満岡さんがこの分室に投げ込んだ、と言うわけですね」

 テータは納得したように頷いた。

「まあ、細かい所は全然違うんだが、ちょっと似てて面白いなって」
「そうですね」

 正直よくわかっていないので、後で調べようと思った杏であった。

 そして、その時はやってきた。チャイムの音。応じるテータ。名乗る飛鳥。この前と同じだ。杏が給湯室に隠れているところも含めて。

「こんにちは。よろしくお願いします」
「お呼び立てして申し訳ありません」
「いえ。それで、何かわかりましたか? 成美は大丈夫なんでしょうか?」
「そのことなんですけどね」

 哲夫は先日、成美と会った時のことを話した。その間に、テータがアイスティーをグラスに注いで四人分を運ぶ。見かけない四人目のためのグラスに、飛鳥は何か感じただろうか。

「むしろ、本当にこちらに情報提供をしようとする、善意の情報提供者に思えました。『人を救う』と言うこだわりは感じられません」
「そうですか……」
「まあ、最近やたらと付き合う人をとっかえひっかえしてるの、本人にも自覚があったみたいですね。本人も、他人の彼氏にしか興味がない状態には正直自分でも嫌気が差しているらしいです」

 そういう不安や焦燥が、付き合いを上手くいかなくさせていたのではないか、と言うのが北畑成美の自己分析だった。


「直せそうですか?」

 あの日、喫茶店で、成美から打ち明けられた哲夫はそう尋ねた。
「多分無理ですね。今だってこのまま国成さん口説きたいですから」
「それは無理ですね」
「また連絡しても良いですか?」
「ご遠慮ください」
「そうですよね」

 と、互いに苦い顔をしながら別れたのだった。
 表情を作らなくなった成美はずいぶんと疲れているように見えた、と後で哲夫は杏とテータに語る。


「それで、あなたになんて言って呼び出されたのかって聞いたんですよ。そうしたら、彼女面白いことを言っていました」

 杏は緊張した。ここからが本番だ。

「『私を救うと思って来て欲しい』。そう言われたと。トーク画面も見せて貰いました。北畑さんは、あなたがそんな風に言うなんて珍しい。いつも、自分があなたを助けることなんて期待してないのに、と言っていましたよ」
「……自覚はあったんですね」
「そうみたいです」

 飛鳥の、押し殺した嫌みを、哲夫はさらりと流した。

「満岡飛鳥さん。あなた、どうして『救済』がキーワードだって知ってたんですか?」
「インターネットの掲示板を見たからです」
「とてもそういう所にアクセスするような方には見えませんが」
「人を見た目で判断しない方が良いんじゃないですか? 男の人って皆そう。だから成美みたいなのに引っかかる。あなたも、成美の方が良いなって思ったんでしょ? 私なんかより」
「自分はどちらも女性としては見ません」

 哲夫はやや強い口調で返す。

「『天啓』を受けたのはあなたの方ですね、満岡飛鳥さん。北畑成美さんの人生に、不和の黄金林檎を投げ込んだのはあなただ」
「私が? 私が『救済』の『天啓』を受けたとして、誰を助けようとしましたか? 成美じゃないのはわかりきってるでしょ? それとも、彼女を懲らしめて周りの女子たちを救うって? ずいぶんと回りくどいと思いますけど」
「そうですね。そういう意味ではあなたは『救済者』らしくはありません」

 話を引き取ったのはテータだった。

「私たちもこういうケースは初めてでした。今までの人は、皆他人を救おうとしていたから。でも、あなたは違いますね」


「あなたが『救済』しようとしているのは『ご自分』なのではないでしょうか」
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