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HO2.女教皇の弟(5話)
2.掬いの掌
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東京都多摩某所。
「文部科学省宇宙対策室 東京多摩分室」と言う極めて胡散臭いプレートを表に出しているその一室には、三人の人間がおのおのの作業をしていた。
一人は、ここの主である文部科学省職員の国成哲夫。元々、この分室は彼の一人部署である。唯一の常勤であり、責任者である。
もう一人は神林杏。現在、退職が決まっている会社の有給休暇を消化している身分だが、この分室の非常勤職員として勤務している。
そして最後の一人は、簡易なシスター服、と形容できる服装の女性で、浪越テータと名乗っている女性。見た目は地球人だが、いわゆる「宇宙人」である。
現在地球は、彼女の母星から侵略を受けていた。地球人の頭に「人々を救済する使命」と言う名の洗脳データを送っている。便宜上「天啓」と呼ばれているそれを受けた人々は、「他者の救済」を名目に極端な行動に走るのだと言う。元々、そう言った心理状態に陥ってしまう人々はいるが、「天啓」を受けた人間はどうやら体内に結晶のような物が生成されているらしい。そこから身体が別の有機体に作り替えられてしまい、変形などが起こる。CTなどで結晶が見つかり、摘出できれば御の字だが、そうでなければ、変質した体組織が宿主を破壊し、命にも関わる。
テータはこの「天啓」をもたらした宇宙人の部下なのだが、どうやら上司とかなり折り合いが悪いらしく、地球人に情報を伝えて阻止するためにやってきた。実際、体内で結晶ができると言う情報はテータからもたらされ、多くの地球人を救うことになる。また、彼女の星の人間は地球人よりかなり身体能力も高く、被害者が変形による苦痛で暴れた時に制圧するのも彼女の役目なのだ。
そして、その「天啓」を受けた一人が杏。ただし、彼は他の被害者たちと違って、送り込まれた「天啓」を拒絶した。紆余曲折を経て、哲夫とテータに「天啓」の拒絶を知られた杏は、哲夫の提案でこの分室の非常勤として働くことになったのだった。
何より、杏の「天啓」は「人類を滅ぼせ」と言うなかなか物騒な内容だった。他の被害者たちとはデータの種類が違うらしく、なおかつそれが他の被害者たちに畏怖の感情を抱かせるらしい。ある種、被害者たちを見分けるリトマス紙の様な役割を期待されている。
とはいえ、元々地球の企業に勤めていたので、杏は教えてもらえればデスクワークは人並みにこなせる。地球人の、「外に向かう思考」、要するに常識などは読み取れるらしいテータも、そこら中で飛び交っている常識に則って振る舞っており、かなり頭は良いため教えられた仕事をテキパキこなしているが、
「やっぱり現地の人は慣れるのが早いですね」
と杏の仕事を褒めてくれた。本音なのかご機嫌取りなのかは判別しがたいところだが、杏は素直に褒められていると受け取って喜んでおくことにした。
「テータさんの星はどんなところなんですか?」
「そうですねぇ」
テータは天井を見て思い出すような目つきになった。
「言ってしまえば地球と変わりません。私たちの様な知的生命体……『人間』がいて、他の動植物があって、文明があって、地域ごとにそれが違って。でもそうですね。やはり太陽の出方がちょっと違いますね。私の星は日照時間が短いので」
「そうなんですか」
「はい。ですから、暗がりには強いんですよ。地球は明るいですね。最初は戸惑いました。季節で違うのでしょうけど」
「冬は日が短くなるな。浪越さんの星ほどかはわからないが」
哲夫も話に混ざる。そこで、杏はふと疑問に覚えたことを尋ねる。
「そういえば、浪越テータさんと言うお名前は、地球用の名前なんですか?」
「そうです」
こくり、と頷くテータ。
「国成さんが付けてくれました」
どうやら、テータの本名は、地球語に直すと「θ7354」と言うらしく、哲夫が語呂合わせで「浪越テータ」を編み出したらしい。
「かっこいいですね」
「ありがとうございます。私も気に入っています」
満面の笑みで頷くテータ。
「ちょっと照れるな。思いつきだったのに」
哲夫はやや居心地が悪そうだった。どうやら、テータにとりあえず仮の名を与える目的を果たせれば良かったらしく、付けた名前の評価までは求めていなかったようだ。
彼とテータは、杏が入職するまでは二人で多摩地域の「天啓」事件を解決していたらしく、バディの風格が漂っていた。杏がいることが場違いにすら感じるが……求められているのだから、いて悪いことはないだろう。
「さて、仕事の話をしよう」
哲夫が真面目な顔になって言うので、杏とテータは顔を見合わせた。
「今度はどんな方でしょう」
「男子大学生だ。警察に被害を訴えているのは、彼の姉さんの元旦那」
「元。離婚しているんですか?」
杏が尋ねると、哲夫は頷いた。
「ついこの前。まあこの元旦那というのがなかなか曲者みたいだな」
「と、仰いますと?」
テータが微笑んだ。杏もその言葉が気になる。今までの報告書をいくつか読ませてもらったが、被害者側は通りすがりというか目を付けられただけの一般人という感じで、「曲者」と呼べる人はいなかったように思える。とはいえ、「なくて七癖」とも言うので、実際に色々話したら何かしら癖はあるのかもしれないが。
とは言え、哲夫が「曲者」と形容するその人物は一体何者なのだろうか。
「同じ分野で研究・仕事している奥さんに家事を全部押しつけて、奥さんに三行半突きつけられたら実家の家族に会わせろと連絡しまくってくる」
「うわあ。連絡しかしてこないって言うのがまたいやらしいですね」
杏は唸った。実際に訪問してしまうと警察沙汰になると思っているのだろう。電話も頻回が過ぎれば何かしらあるだろうが、多少なら警察は動かない。実際に杏がそう言う目に遭って通報したわけではないが、そんな簡単に警察は介入できないはずだ。それは公権力が暴走しないための枷ではあるのだが、今困っている人は歯がゆい思いをしていることだろう。
「俺もそう思う」
哲夫も嫌そうな顔で頷いた。
「で、その大学生くんだが、姉さんの元旦那の家の周りをうろうろしているらしい」
「そんな酷い男でいるのが可哀想ってことなのかなぁ」
「その、元旦那さんと大学生さんは接触しているんですか?」
「それがしていないらしいんだよな。ちなみに大学生くんは江藤和也くん、元旦那の方は山中英俊さんと言う」
それは奇妙だ、と杏は思った。今までの「天啓」を受けた被害者たちは、「救済」の対象となる人間たちに働きかける。「救ってあげましょう」と。しかし、その江藤和也と言う大学生は、山中英俊には何も声を掛けていないのか。
「もしかすると、和也くんが救いたいのはお姉さんの方かもしれませんね」
テータが顎に手を当てて考えながら言った。
「そう考えた方がしっくりくるか。確かに、明らかに『救い』が必要なのはお姉さんの耀子さんの方だからな」
「それ、まずくないですか?」
杏は、心の中の、恐怖を感じる部分が冷えていくのを感じた。この「冷える」感覚は、自分が恐怖を感じているときに生じる。
「『天啓』を受けた人は、暴力的な行動も厭わないんでしょう? その和也くん、山中さんを排除するために、その、暴力に頼る可能性は?」
殺そうとしているんじゃないですか、とは怖くて言えなかった。
「そう考えるのが筋でしょうねぇ」
杏が思いつく程度のことは、テータと哲夫にはとっくに想定されていたらしい。やや気恥ずかしい気分になったが、二人は真剣な顔をしている。
「しかし、どうしてこっちに回ってきたんでしょうか?」
テータが疑問を口にする。
「だって、山中さんと和也くんが接触していないなら、山中さんは『救済』のワードなんて聞いていない筈ですよね? それなのにどうして?」
「念のため、スクリーニングとして行動変容の案件はこちらに回ってくるようになってるんだ。こっちには浪越さんと言うオブザーバーがいるから、こういう微妙な案件も回ってくる。今後は神林さんがリトマス紙になるからもっと回ってくるぞ」
「あらそれはごめんなさいね?」
「えーっと、すみません」
テータが面白そうに謝罪の言葉を口にするので、杏も真似して謝った。
「いや、解決に近付くならそれはそれで構わないんだ。二人に働かせることになるけど」
哲夫は肩を竦める。
「それで、当然その元夫の方は江藤家にやめさせるように言ったらしいんだが、『和也がそんなことするわけない。言いがかりはやめろ』と取り合ってもらえなかったらしい。これについて、俺は山中に同情しないな」
「僕もです」
「因果応報というやつでしょうかね」
とは言う物の、山中が江藤家に頻回に連絡を入れるのを問題視するのであれば、和也が山中につきまとうのも同じように扱わねば不公平と言う物だ。社会は、感情的に納得いかない公平もある。多くの人間が同時に生活するので、あっちに肩入れしたりこっちに肩入れしたりと言うことは、公僕には許されないのだ。
「と言うことで、まずは本当に『天啓』を受けているか確認するために、神林さんに面通しをして貰おうと思う。構わないかな?」
「はい、大丈夫です」
杏は頷いた。
人類を滅ぼす「天啓」。それを受けた自分に、和也はどんな反応を見せるのか。興味深いようで、怖くもある。杏は自分でも気付かない内に、拳を握りしめていた。
和也が山中の周囲を嗅ぎ回るようになってから、しばらくが経った。彼は、まだ引っ越す気はないようだ。まさか、本当に姉と復縁できると思っているのだろうか。なんて図々しいんだ。
和也がうっかり彼に見つかった時、姉からのメッセンジャーだと思ったのか、山中はとても嬉しそうにこちらに近寄ってきた。
「耀子はなんだって?」
「姉ちゃんは関係ない」
それだけ言って逃げるように帰ってきた。
どうにか、山中のとんでもない悪行のようなものを押さえて、姉への接触を辞めさせられないか、と考えたが、姉の元配偶者は、極めて模範的な人間だった。家事の負担を妻に掛けた挙げ句、妊娠出産まで上乗せしようとした男が模範的なのかと考えたが、インターネットを見るとどうやらそう考えている人間も多いらしい。なんてことだろう。
こんな思いをさせられている人が姉以外にもたくさんいるのか。そう思うと暗澹たる気持ちになった。やはり、この世界には救済が必要なのだ。
だから、なんとか山中を排除できないかと生活パターンを調べようとして時間のあるときに周囲を嗅ぎ回っているのだが、尾行が下手なのかすぐに見つかってしまう。
「和也、あんた、英俊さんの家の方とか行ってないよね?」
あるとき、母にそう聞かれた。大変怒っている様だった。和也が困惑していると、それを否定と受け取ったのか、母はまた憤然として、
「やっぱり。もう……こんないちゃもん付けてきて……」
ぶつぶつ言いながら自室へ戻って行った。どうやら、山中は和也が自分の周りをうろついていることを母に伝えてきたらしい。自分だってうちにずっと連絡してくるくせに、他人のそれに難色を示すなんて。やっぱりわからせないといけない。和也は使命感に燃えた。
ずっと山中の監視をしているわけにもいかない。和也は大学生なのだ。学費を出して貰っているのに、授業をサボるわけにもいかない。それでは母が「救われ」ない。
救済、救済、救済。
和也の頭の中はその二文字に満たされた。救済。どん底から掬い上げ、自分の掌の上で安らいでもらうような、そんなイメージが湧いてくる。小さくなった姉が穏やかな顔で、自分の両掌で安らいでいる。そんなイメージを持つと、活力が満ちてくるような気持ちになった。
「──で、お姉ちゃん疲れてるらしいからちょっと今日手伝ってくるんだ」
「へー。由奈のお姉ちゃんも大変だね」
ふと、耳に付いた、教室内の会話。振り返ると、同じ学科の女子たちが話し込んでいる。
「沢辺さんってお姉さんいたんだね?」
思わず口を挟むと、沢辺由奈と友人たちはこちらを見てきょとんとした顔をする。
「あ、ごめん。うちも姉ちゃんがいて具合悪いから、大変って聞こえて他人事に思えなくて。大丈夫なの?」
「あー、うん。何か、旦那さんと上手く行ってないらしいんだよね。家事の分担とか……」
「沢辺さんちも?」
救済、救済、救済。
掬え、掬え、掬え。
救え、救え、救え。
「うちは離婚しちゃってさ。俺もその話聞いて良い?」
救え。
「何か力になれるかもしれないし」
それがお前の「使命」なのだから。
「文部科学省宇宙対策室 東京多摩分室」と言う極めて胡散臭いプレートを表に出しているその一室には、三人の人間がおのおのの作業をしていた。
一人は、ここの主である文部科学省職員の国成哲夫。元々、この分室は彼の一人部署である。唯一の常勤であり、責任者である。
もう一人は神林杏。現在、退職が決まっている会社の有給休暇を消化している身分だが、この分室の非常勤職員として勤務している。
そして最後の一人は、簡易なシスター服、と形容できる服装の女性で、浪越テータと名乗っている女性。見た目は地球人だが、いわゆる「宇宙人」である。
現在地球は、彼女の母星から侵略を受けていた。地球人の頭に「人々を救済する使命」と言う名の洗脳データを送っている。便宜上「天啓」と呼ばれているそれを受けた人々は、「他者の救済」を名目に極端な行動に走るのだと言う。元々、そう言った心理状態に陥ってしまう人々はいるが、「天啓」を受けた人間はどうやら体内に結晶のような物が生成されているらしい。そこから身体が別の有機体に作り替えられてしまい、変形などが起こる。CTなどで結晶が見つかり、摘出できれば御の字だが、そうでなければ、変質した体組織が宿主を破壊し、命にも関わる。
テータはこの「天啓」をもたらした宇宙人の部下なのだが、どうやら上司とかなり折り合いが悪いらしく、地球人に情報を伝えて阻止するためにやってきた。実際、体内で結晶ができると言う情報はテータからもたらされ、多くの地球人を救うことになる。また、彼女の星の人間は地球人よりかなり身体能力も高く、被害者が変形による苦痛で暴れた時に制圧するのも彼女の役目なのだ。
そして、その「天啓」を受けた一人が杏。ただし、彼は他の被害者たちと違って、送り込まれた「天啓」を拒絶した。紆余曲折を経て、哲夫とテータに「天啓」の拒絶を知られた杏は、哲夫の提案でこの分室の非常勤として働くことになったのだった。
何より、杏の「天啓」は「人類を滅ぼせ」と言うなかなか物騒な内容だった。他の被害者たちとはデータの種類が違うらしく、なおかつそれが他の被害者たちに畏怖の感情を抱かせるらしい。ある種、被害者たちを見分けるリトマス紙の様な役割を期待されている。
とはいえ、元々地球の企業に勤めていたので、杏は教えてもらえればデスクワークは人並みにこなせる。地球人の、「外に向かう思考」、要するに常識などは読み取れるらしいテータも、そこら中で飛び交っている常識に則って振る舞っており、かなり頭は良いため教えられた仕事をテキパキこなしているが、
「やっぱり現地の人は慣れるのが早いですね」
と杏の仕事を褒めてくれた。本音なのかご機嫌取りなのかは判別しがたいところだが、杏は素直に褒められていると受け取って喜んでおくことにした。
「テータさんの星はどんなところなんですか?」
「そうですねぇ」
テータは天井を見て思い出すような目つきになった。
「言ってしまえば地球と変わりません。私たちの様な知的生命体……『人間』がいて、他の動植物があって、文明があって、地域ごとにそれが違って。でもそうですね。やはり太陽の出方がちょっと違いますね。私の星は日照時間が短いので」
「そうなんですか」
「はい。ですから、暗がりには強いんですよ。地球は明るいですね。最初は戸惑いました。季節で違うのでしょうけど」
「冬は日が短くなるな。浪越さんの星ほどかはわからないが」
哲夫も話に混ざる。そこで、杏はふと疑問に覚えたことを尋ねる。
「そういえば、浪越テータさんと言うお名前は、地球用の名前なんですか?」
「そうです」
こくり、と頷くテータ。
「国成さんが付けてくれました」
どうやら、テータの本名は、地球語に直すと「θ7354」と言うらしく、哲夫が語呂合わせで「浪越テータ」を編み出したらしい。
「かっこいいですね」
「ありがとうございます。私も気に入っています」
満面の笑みで頷くテータ。
「ちょっと照れるな。思いつきだったのに」
哲夫はやや居心地が悪そうだった。どうやら、テータにとりあえず仮の名を与える目的を果たせれば良かったらしく、付けた名前の評価までは求めていなかったようだ。
彼とテータは、杏が入職するまでは二人で多摩地域の「天啓」事件を解決していたらしく、バディの風格が漂っていた。杏がいることが場違いにすら感じるが……求められているのだから、いて悪いことはないだろう。
「さて、仕事の話をしよう」
哲夫が真面目な顔になって言うので、杏とテータは顔を見合わせた。
「今度はどんな方でしょう」
「男子大学生だ。警察に被害を訴えているのは、彼の姉さんの元旦那」
「元。離婚しているんですか?」
杏が尋ねると、哲夫は頷いた。
「ついこの前。まあこの元旦那というのがなかなか曲者みたいだな」
「と、仰いますと?」
テータが微笑んだ。杏もその言葉が気になる。今までの報告書をいくつか読ませてもらったが、被害者側は通りすがりというか目を付けられただけの一般人という感じで、「曲者」と呼べる人はいなかったように思える。とはいえ、「なくて七癖」とも言うので、実際に色々話したら何かしら癖はあるのかもしれないが。
とは言え、哲夫が「曲者」と形容するその人物は一体何者なのだろうか。
「同じ分野で研究・仕事している奥さんに家事を全部押しつけて、奥さんに三行半突きつけられたら実家の家族に会わせろと連絡しまくってくる」
「うわあ。連絡しかしてこないって言うのがまたいやらしいですね」
杏は唸った。実際に訪問してしまうと警察沙汰になると思っているのだろう。電話も頻回が過ぎれば何かしらあるだろうが、多少なら警察は動かない。実際に杏がそう言う目に遭って通報したわけではないが、そんな簡単に警察は介入できないはずだ。それは公権力が暴走しないための枷ではあるのだが、今困っている人は歯がゆい思いをしていることだろう。
「俺もそう思う」
哲夫も嫌そうな顔で頷いた。
「で、その大学生くんだが、姉さんの元旦那の家の周りをうろうろしているらしい」
「そんな酷い男でいるのが可哀想ってことなのかなぁ」
「その、元旦那さんと大学生さんは接触しているんですか?」
「それがしていないらしいんだよな。ちなみに大学生くんは江藤和也くん、元旦那の方は山中英俊さんと言う」
それは奇妙だ、と杏は思った。今までの「天啓」を受けた被害者たちは、「救済」の対象となる人間たちに働きかける。「救ってあげましょう」と。しかし、その江藤和也と言う大学生は、山中英俊には何も声を掛けていないのか。
「もしかすると、和也くんが救いたいのはお姉さんの方かもしれませんね」
テータが顎に手を当てて考えながら言った。
「そう考えた方がしっくりくるか。確かに、明らかに『救い』が必要なのはお姉さんの耀子さんの方だからな」
「それ、まずくないですか?」
杏は、心の中の、恐怖を感じる部分が冷えていくのを感じた。この「冷える」感覚は、自分が恐怖を感じているときに生じる。
「『天啓』を受けた人は、暴力的な行動も厭わないんでしょう? その和也くん、山中さんを排除するために、その、暴力に頼る可能性は?」
殺そうとしているんじゃないですか、とは怖くて言えなかった。
「そう考えるのが筋でしょうねぇ」
杏が思いつく程度のことは、テータと哲夫にはとっくに想定されていたらしい。やや気恥ずかしい気分になったが、二人は真剣な顔をしている。
「しかし、どうしてこっちに回ってきたんでしょうか?」
テータが疑問を口にする。
「だって、山中さんと和也くんが接触していないなら、山中さんは『救済』のワードなんて聞いていない筈ですよね? それなのにどうして?」
「念のため、スクリーニングとして行動変容の案件はこちらに回ってくるようになってるんだ。こっちには浪越さんと言うオブザーバーがいるから、こういう微妙な案件も回ってくる。今後は神林さんがリトマス紙になるからもっと回ってくるぞ」
「あらそれはごめんなさいね?」
「えーっと、すみません」
テータが面白そうに謝罪の言葉を口にするので、杏も真似して謝った。
「いや、解決に近付くならそれはそれで構わないんだ。二人に働かせることになるけど」
哲夫は肩を竦める。
「それで、当然その元夫の方は江藤家にやめさせるように言ったらしいんだが、『和也がそんなことするわけない。言いがかりはやめろ』と取り合ってもらえなかったらしい。これについて、俺は山中に同情しないな」
「僕もです」
「因果応報というやつでしょうかね」
とは言う物の、山中が江藤家に頻回に連絡を入れるのを問題視するのであれば、和也が山中につきまとうのも同じように扱わねば不公平と言う物だ。社会は、感情的に納得いかない公平もある。多くの人間が同時に生活するので、あっちに肩入れしたりこっちに肩入れしたりと言うことは、公僕には許されないのだ。
「と言うことで、まずは本当に『天啓』を受けているか確認するために、神林さんに面通しをして貰おうと思う。構わないかな?」
「はい、大丈夫です」
杏は頷いた。
人類を滅ぼす「天啓」。それを受けた自分に、和也はどんな反応を見せるのか。興味深いようで、怖くもある。杏は自分でも気付かない内に、拳を握りしめていた。
和也が山中の周囲を嗅ぎ回るようになってから、しばらくが経った。彼は、まだ引っ越す気はないようだ。まさか、本当に姉と復縁できると思っているのだろうか。なんて図々しいんだ。
和也がうっかり彼に見つかった時、姉からのメッセンジャーだと思ったのか、山中はとても嬉しそうにこちらに近寄ってきた。
「耀子はなんだって?」
「姉ちゃんは関係ない」
それだけ言って逃げるように帰ってきた。
どうにか、山中のとんでもない悪行のようなものを押さえて、姉への接触を辞めさせられないか、と考えたが、姉の元配偶者は、極めて模範的な人間だった。家事の負担を妻に掛けた挙げ句、妊娠出産まで上乗せしようとした男が模範的なのかと考えたが、インターネットを見るとどうやらそう考えている人間も多いらしい。なんてことだろう。
こんな思いをさせられている人が姉以外にもたくさんいるのか。そう思うと暗澹たる気持ちになった。やはり、この世界には救済が必要なのだ。
だから、なんとか山中を排除できないかと生活パターンを調べようとして時間のあるときに周囲を嗅ぎ回っているのだが、尾行が下手なのかすぐに見つかってしまう。
「和也、あんた、英俊さんの家の方とか行ってないよね?」
あるとき、母にそう聞かれた。大変怒っている様だった。和也が困惑していると、それを否定と受け取ったのか、母はまた憤然として、
「やっぱり。もう……こんないちゃもん付けてきて……」
ぶつぶつ言いながら自室へ戻って行った。どうやら、山中は和也が自分の周りをうろついていることを母に伝えてきたらしい。自分だってうちにずっと連絡してくるくせに、他人のそれに難色を示すなんて。やっぱりわからせないといけない。和也は使命感に燃えた。
ずっと山中の監視をしているわけにもいかない。和也は大学生なのだ。学費を出して貰っているのに、授業をサボるわけにもいかない。それでは母が「救われ」ない。
救済、救済、救済。
和也の頭の中はその二文字に満たされた。救済。どん底から掬い上げ、自分の掌の上で安らいでもらうような、そんなイメージが湧いてくる。小さくなった姉が穏やかな顔で、自分の両掌で安らいでいる。そんなイメージを持つと、活力が満ちてくるような気持ちになった。
「──で、お姉ちゃん疲れてるらしいからちょっと今日手伝ってくるんだ」
「へー。由奈のお姉ちゃんも大変だね」
ふと、耳に付いた、教室内の会話。振り返ると、同じ学科の女子たちが話し込んでいる。
「沢辺さんってお姉さんいたんだね?」
思わず口を挟むと、沢辺由奈と友人たちはこちらを見てきょとんとした顔をする。
「あ、ごめん。うちも姉ちゃんがいて具合悪いから、大変って聞こえて他人事に思えなくて。大丈夫なの?」
「あー、うん。何か、旦那さんと上手く行ってないらしいんだよね。家事の分担とか……」
「沢辺さんちも?」
救済、救済、救済。
掬え、掬え、掬え。
救え、救え、救え。
「うちは離婚しちゃってさ。俺もその話聞いて良い?」
救え。
「何か力になれるかもしれないし」
それがお前の「使命」なのだから。
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