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あまいまどろみ【新塩】

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なぎさくん……」
 新川修治しんかわしゅうじが、ダブルベッドの隣でまだ起きているらしい恋人の名前を呼ぶと、塩原しおばら渚は含み笑いを漏らした。新川の声が甘えているのがおかしかったのだろう。あるいは嬉しいのか。首だけ振り返って、笑い顔の目が布団の中から覗いている。新川は愛おしくなって彼の細い身体に腕を伸ばして抱き寄せようとした。塩原も身体を寄せる。腕に触れたその時、
「痛っ」
 塩原が呻いた。思わず手を離す。そんなに強く力を入れた? 爪が伸びていた?
「ご、ごめん」
 慌てて詫びると、塩原も同じようにあたふたとしながら、
「いや、大丈夫。昼ぶつけたのが痣になってたみたいで……」
 またか。新川は思わず目を細めた。塩原の職業は看護師だ。全ての看護師がそうだとは思わないが、塩原は多忙なあまり歩きながらスタッフステーションや病室、その他病院設備のあちことに身体をぶつけることがよくある。何事もなければ良い方で、痣になることも多い。
「見せて」
「ん!」
 新川が優しく囁くと、塩原はまるで子供が親に見せるように腕を突き出した。確かに、少し青黒くなっている。
「可哀想に……」
 溜息を吐いた。この言葉は新川の癖──時と場合によっては頭に「悪」が付く──だが、塩原はそれを恋人から言われると喜ぶ。指先を揃えて、そっと撫でた。
「痛い?」
「今は痛くないよ。そんなことより……」
 こちらに向き直り、塩原は猫のように身体をすり寄せてきた。寝食を共にする人間に懐いた猫のように。その背中に腕を回し、抱きしめる。スウェットが包む身体を感じながら密着した。額に口付けると、恋人はくすぐったそうに笑う。彼はこちらを見上げ、首を伸ばして新川の下唇へ吸うようにキスした。
「修治さん、好き」
「僕も……」
 恋人とのふれあいと口付け。それは甘いような陶酔をもたらした。うっとりして、更に彼を抱き込む。酒も入っていないのに、酔っ払ったような気分だ。何て愛しい、僕の恋人。
「渚くん……」
 甘い声で囁いた。スウェットの下に手を差し入れたい衝動を抑え、首筋に顔を埋める。着古したスウェットから、洗剤に混じって柔らかい匂いがする。
「ふふ」
 彼が小さく笑う。新川は明日休みだが、塩原は出勤だ。これ以上構っていないで寝かせてあげないといけない。けれど、どうにも離れがたくて新川は額を彼に預けたまま。
「修治さん……」
「うん……」
 もう離してくれとでも言うだろうか。共寝の相手に「離れる」も何もないのだが、たった数十センチ離れるのが妙に寂しくて。
「離さないで……」
 その言葉に一瞬だけぞわりとして、すぐに多幸感があふれた。塩原の声には眠気があった。このまま所定の位置に戻るよりも、新川に抱かれたまま眠る方を選んだ彼が愛しくて愛しくて。
「うん」
 だから、眠りを妨げないように声だけで返事を。
「離さない……愛してるよ」
 寝息が応える。「僕も」と言っていることを信じて、新川は微笑んだ。

 翌朝、起きると塩原はいなかった。出勤したのだろう。ベッドの上に座り込んで、新川は深い溜息を吐いた。寝る前の幸せを噛みしめる。そうやって浮かれながら、彼はベッドから降りて朝食の準備を始めた。


「おはようございます」
 塩原がスタッフステーションに出勤すると、夜勤の看護師が電子カルテに記入をしながら挨拶を返した。
「おはようございますー。塩原さん、なんか機嫌良いですね?」
「え? そうかなぁ? 普通ですよ?」
 普段から振る舞いは割とお気楽な部類に入ると思うが。相手はにやにやしている。恐らく、同居の恋人と良いことがあった……と思っているのだろう。実際にその通りだ。新川に痣を労られて、抱きしめられて、そのまま良い気分になって寝てしまった。生殺しだったら悪かったな……と思いつつ、それ以上何もしてこないだろうと新川の善意を信じて眠った。彼は信じたとおりの人だったし、おかげですっきりとした気分で起きることができた。
 だから、塩原はにこっと笑顔を作って見せた。相手は「きゃー」と言わんばかりの表情を作る。それ以上追及はしなかった。患者も来る可能性があるスタッフステーションで、個人のプライベートについて追及するのはハラスメントに当たる。

 この同僚は新川のことを知る数少ない一人だ。仕事の上でもよくお互いに相談し合っていたので、新川との関係について悩んだ時、周りに知られるのを覚悟の上で相談した。彼女は親身になって話を聞いてくれた。そして誰にも喋っていない。
「喋ったらアウティングじゃん。駄目だよ」
 何かの折に、彼女が秘密を保っていることに言及すると、同僚は真面目な顔でそう応じた。この人のことは信用しよう。そう決めた瞬間だった。
 他に新川のことを知っているのは看護部長と病棟師長くらいの物か。やはり二人とも、医療従事者として秘密厳守の原則をしっかりと守ってくれている。ああ、やっぱり出世する人はそう言うところもしっかりしてるんだ、と妙に納得した。そして、秘密をバラされることを前提にしている自分に内心で苦笑した。

 大事にされていることを実感する。同僚からも、上司からも……恋人からも。
「よーし、今日もお仕事頑張るぞ」
 大袈裟に両手を振り上げながら、休憩室に鞄を置いた。ついでに、冷蔵庫に弁当箱も。
 彼が作ってくれた、おかずを詰めた弁当箱。今日のおかずは確か豚と茄子の味噌炒め。既に今週何度か食べているが、とても美味しかった。昼が待ち遠しい。
「おーい、看護師さん。すまんけどちょっと良い?」
「はーい、どうしました?」
 外で、患者の声がする。先ほどの同僚がそれに応じている。塩原は休憩室から出て行った。よく自分が腕をぶつけて痣を作るカウンターを挟んで、看護師と患者が話している。今日の検査について聞きたいらしい。看護師は電子カルテを開いて、その患者の予定を呼び出していた。もしかしたら自分が検査を案内するかもしれないので、塩原も後ろに控えて一緒に確認する。看護助手が連れて行ってくれることが多いが、看護師がまったくやらないわけではない。
「あ、塩川さん」
 患者がこちらを見て顔を綻ばせた。
「塩原です」
「ありゃ、また間違えちゃったか。ははは、すまんね」
「しょうがないですねぇ」
 新川の名前を一文字貰ったような気がして、嫌な気はしない呼び間違えだ。塩原はくすくすと笑いながら、患者と一緒に検査の概要を聞いた。

 たくさんの人に愛されて、自分は生きている。
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