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彼のお弁当【新塩】
しおりを挟む 新川修治は塩原渚と出会うまでは、概ね外食か買った総菜、配達で食事を済ませていた。と言うか、忙しくて料理をしている暇があまりなかった。やるとしても気分転換の場合がほとんどで、その時も過ぎ去った時間と大量の洗い物を前に後悔する程度だ。以前の妻も同じくらい忙しかったので(能力はあったけれど)、ほとんど料理をしていない。
離婚してからは尚更で、その風向きが変わったのは、年下の恋人と同居することになってからだった。塩原渚はもうすぐ三十歳に手が届く看護師で、節約のために弁当を作って職場に持って行っていたらしい。新川が思うよりも給料が安いようだった。
そのことを知ったのは、塩原が冷蔵庫の使い方について相談してきた時だった。弁当を作りたいから、冷蔵庫のスペースを作り置きしたおかずの保存に使わせて欲しいと。新川がほぼ外食にしていることは、付き合う前の雑談で知っていた。そう言えば、その時も塩原はちょっぴり羨ましそうにしていたような……。
「構わないけど……」
新川は外食もままならないらしい恋人が不憫になった。そして言った。
「食費がかさむなら……ちょっと出そうか?」
それを聞いた途端、塩原の顔に愕然とした色が見えて、新川は自分の言葉選びが失敗だったことを悟った。
「いや……いくら僕の収入が修治さんを下回るからと言ってそこまでされるとプライドと言う物がね……? すでに色々出してもらってはいるけども……?」
恋人の声が僅かに震えているのに気付いて、彼は細い身体をひしと抱きしめる。
「すまなかった。暴言だった。ただ、僕は渚くんに美味しい物を食べて欲しいと思っていることはわかってくれ。愛してるんだ」
「わかったわかった」
家の維持費には、それぞれが手取りから一定の割合を出す事になっている。なので、塩原が完全に新川の脛を囓っているとか、養われているとか、そう言うことはない。
「あ、そうだ。じゃあさ」
塩原はそこで取り繕う様に言った。気を遣わせていることが申し訳なくて、新川は捨てられそうな小犬の目で彼を見上げる。
「修治さん、僕にお弁当作ってよ。まずは料理覚えてさ……」
塩原からすれば、その場を取り繕うための何気ない一言だったのだろうが、惚れた弱みだとか恋は人を変えるとはよく言ったもので、新川は恋人の負担を減らしたい一心でその日から料理を始めた。初心者向けのレシピ本を買い、休みの日に調理。
「塩少々ってどれくらいだい?」
「親指と人差し指でつまんだくらい」
「ひとつまみは?」
「それは中指も参戦して三本でつまんだくらい」
「どっちもひとつまみじゃない?」
料理用語がまったくと言って良いほどわからず、塩原を呼びつけてはレシピ本の解説を頼んだ。
「そぎ切りって何?」
「それは僕もわかんない……どっかに書いてないかな?」
二人で顔を突き合わせてレシピをめくる。そんなことを繰り返している内に、新川の料理の腕は徐々に上がって行った。案外、改善点を見つけて次に生かすのは向いているかもしれない。上達が見えて楽しいと、新川の方も料理にのめり込んでいった。
商社で課長、マンションを購入できるほどの経済力があり、身なりも良い。自分で料理をしなくても困らなかった。そんな新川が、四苦八苦しながら料理を覚えるのが自分の為、と言う事実に、塩原は密かに快感を覚えている。いや、新川の社会的な立場もそうだが、やはり好きな人が自分の為に四苦八苦していると言うのは、申し訳ない反面、それだけ思ってくれている……と思えて気分が良くなるものなのだ。
「なんだい、にやにやして」
汁椀を運びながら、新川が微笑み掛けた。通販で買ったエプロンが似合っている。
「料理してる修治さんかっこいいなって」
「え、本当? やだなぁ、お世辞言わなくなって作ってあげるよ」
そう言いつつも、新川の方も満更ではない顔をしている。
「ほんとだって! あ、オクラだ。美味しそう!」
塩原は汁椀の中身を覗いて歓声を上げた。
それから、作り置きを冷凍庫に保存し、帰って来たらそれを食べる、と言うサイクルができるようになった。残業した日などはやはり食べて帰った方が早い時もあるが、早めに上がれた日はそのまま帰宅して、冷凍した食事を解凍する。買って帰ったものを冷蔵保存するくらいしか使い道がなかった冷蔵庫が、調理前の食材で埋まるようになった。当然、外食や総菜の購入が減ったので、食費も少々浮くようになる。
(将来のこと考えて、貯金を増やした方が良いのかもしれないな……)
新川はクレジットカードの請求書を見ながらぼんやりとそんなことを考えた。請求額が明らかに減った。明細に載る利用店舗も、飲食店と惣菜屋が減って、スーパーが増えている。
将来のこと。塩原との今後。日本では同性の法律婚は認められていない。塩原がどう言うつもりかはわからない。けれど、新川はこのまま塩原と将来も共にできれば良いと思っている。もし、自分たちが生きている間に法律婚が可能になれば。
(再婚……)
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。ここで暮らすか、一戸建てを買うか。老後の事もある。金はいくらあっても足りない。それを新川はよく知っていた。一般的に高収入の部類に入る彼も、金が足りない、金額が高いと思う機会はある。貯金は多い方が良い。
「買い物いっぱいしたの?」
不意に声が掛かった。風呂上がりの塩原だ。スウェットに着替えて、濡れた髪の毛をタオルで拭いている。
「いや、今後の買い物についてちょっと考えてたのさ」
新川は微笑んで首を横に振ると、明細を畳んだ。
「そう言えば、次のお弁当のおかずは何が良いか決めたかい?」
「えっとねー……」
塩原は髪の毛を拭きながらレシピ本を開く。普段は医療現場できびきび動いているであろう彼が、二人の時はこんな風に自分に甘えた姿を見せる。それが、新川の方が感じている見返りだった。同僚も患者も誰も知るまい。僕だけが知ってる渚くんの可愛い姿。
「これ食べてみたいな。鶏胸肉だから高タンパク低カロリーだし、調理も簡単そうだよ。修治さんも良いんじゃない?」
二人の共通の習慣、筋トレにも有益と言う事だろう。自分の事も考えて選んでくれるのが、ただ嬉しく、ただ愛おしく。新川は無邪気に述べるその頬に口付ける。
「どうしたの?」
「渚くんのほっぺたが美味しそうだなって思っただけ」
「何それ」
塩原はそれを聞くと、くすくすと笑って新川の唇を奪い取った。
離婚してからは尚更で、その風向きが変わったのは、年下の恋人と同居することになってからだった。塩原渚はもうすぐ三十歳に手が届く看護師で、節約のために弁当を作って職場に持って行っていたらしい。新川が思うよりも給料が安いようだった。
そのことを知ったのは、塩原が冷蔵庫の使い方について相談してきた時だった。弁当を作りたいから、冷蔵庫のスペースを作り置きしたおかずの保存に使わせて欲しいと。新川がほぼ外食にしていることは、付き合う前の雑談で知っていた。そう言えば、その時も塩原はちょっぴり羨ましそうにしていたような……。
「構わないけど……」
新川は外食もままならないらしい恋人が不憫になった。そして言った。
「食費がかさむなら……ちょっと出そうか?」
それを聞いた途端、塩原の顔に愕然とした色が見えて、新川は自分の言葉選びが失敗だったことを悟った。
「いや……いくら僕の収入が修治さんを下回るからと言ってそこまでされるとプライドと言う物がね……? すでに色々出してもらってはいるけども……?」
恋人の声が僅かに震えているのに気付いて、彼は細い身体をひしと抱きしめる。
「すまなかった。暴言だった。ただ、僕は渚くんに美味しい物を食べて欲しいと思っていることはわかってくれ。愛してるんだ」
「わかったわかった」
家の維持費には、それぞれが手取りから一定の割合を出す事になっている。なので、塩原が完全に新川の脛を囓っているとか、養われているとか、そう言うことはない。
「あ、そうだ。じゃあさ」
塩原はそこで取り繕う様に言った。気を遣わせていることが申し訳なくて、新川は捨てられそうな小犬の目で彼を見上げる。
「修治さん、僕にお弁当作ってよ。まずは料理覚えてさ……」
塩原からすれば、その場を取り繕うための何気ない一言だったのだろうが、惚れた弱みだとか恋は人を変えるとはよく言ったもので、新川は恋人の負担を減らしたい一心でその日から料理を始めた。初心者向けのレシピ本を買い、休みの日に調理。
「塩少々ってどれくらいだい?」
「親指と人差し指でつまんだくらい」
「ひとつまみは?」
「それは中指も参戦して三本でつまんだくらい」
「どっちもひとつまみじゃない?」
料理用語がまったくと言って良いほどわからず、塩原を呼びつけてはレシピ本の解説を頼んだ。
「そぎ切りって何?」
「それは僕もわかんない……どっかに書いてないかな?」
二人で顔を突き合わせてレシピをめくる。そんなことを繰り返している内に、新川の料理の腕は徐々に上がって行った。案外、改善点を見つけて次に生かすのは向いているかもしれない。上達が見えて楽しいと、新川の方も料理にのめり込んでいった。
商社で課長、マンションを購入できるほどの経済力があり、身なりも良い。自分で料理をしなくても困らなかった。そんな新川が、四苦八苦しながら料理を覚えるのが自分の為、と言う事実に、塩原は密かに快感を覚えている。いや、新川の社会的な立場もそうだが、やはり好きな人が自分の為に四苦八苦していると言うのは、申し訳ない反面、それだけ思ってくれている……と思えて気分が良くなるものなのだ。
「なんだい、にやにやして」
汁椀を運びながら、新川が微笑み掛けた。通販で買ったエプロンが似合っている。
「料理してる修治さんかっこいいなって」
「え、本当? やだなぁ、お世辞言わなくなって作ってあげるよ」
そう言いつつも、新川の方も満更ではない顔をしている。
「ほんとだって! あ、オクラだ。美味しそう!」
塩原は汁椀の中身を覗いて歓声を上げた。
それから、作り置きを冷凍庫に保存し、帰って来たらそれを食べる、と言うサイクルができるようになった。残業した日などはやはり食べて帰った方が早い時もあるが、早めに上がれた日はそのまま帰宅して、冷凍した食事を解凍する。買って帰ったものを冷蔵保存するくらいしか使い道がなかった冷蔵庫が、調理前の食材で埋まるようになった。当然、外食や総菜の購入が減ったので、食費も少々浮くようになる。
(将来のこと考えて、貯金を増やした方が良いのかもしれないな……)
新川はクレジットカードの請求書を見ながらぼんやりとそんなことを考えた。請求額が明らかに減った。明細に載る利用店舗も、飲食店と惣菜屋が減って、スーパーが増えている。
将来のこと。塩原との今後。日本では同性の法律婚は認められていない。塩原がどう言うつもりかはわからない。けれど、新川はこのまま塩原と将来も共にできれば良いと思っている。もし、自分たちが生きている間に法律婚が可能になれば。
(再婚……)
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。ここで暮らすか、一戸建てを買うか。老後の事もある。金はいくらあっても足りない。それを新川はよく知っていた。一般的に高収入の部類に入る彼も、金が足りない、金額が高いと思う機会はある。貯金は多い方が良い。
「買い物いっぱいしたの?」
不意に声が掛かった。風呂上がりの塩原だ。スウェットに着替えて、濡れた髪の毛をタオルで拭いている。
「いや、今後の買い物についてちょっと考えてたのさ」
新川は微笑んで首を横に振ると、明細を畳んだ。
「そう言えば、次のお弁当のおかずは何が良いか決めたかい?」
「えっとねー……」
塩原は髪の毛を拭きながらレシピ本を開く。普段は医療現場できびきび動いているであろう彼が、二人の時はこんな風に自分に甘えた姿を見せる。それが、新川の方が感じている見返りだった。同僚も患者も誰も知るまい。僕だけが知ってる渚くんの可愛い姿。
「これ食べてみたいな。鶏胸肉だから高タンパク低カロリーだし、調理も簡単そうだよ。修治さんも良いんじゃない?」
二人の共通の習慣、筋トレにも有益と言う事だろう。自分の事も考えて選んでくれるのが、ただ嬉しく、ただ愛おしく。新川は無邪気に述べるその頬に口付ける。
「どうしたの?」
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「何それ」
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