会えない時間の二人(BL習作集)

三枝七星

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可哀想なあなた【新塩】

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 年下の恋人に、思ったよりも溺れてしまっていることを自覚して、新川修治しんかわしゅうじは溜息を吐いた。四十にして惑わずとは論語ろんごの言葉らしいが、冗談じゃない。惑いっぱなしだ。
「課長、大丈夫ですか?」
 部下に問われて弱々しく笑う。
「うん。大丈夫。悩み……と言えばそうだけど、贅沢な悩みだから気にしないで。それで、どうしたの? 何かあった?」
 さり気なく話をすり替えながら、咄嗟に出た一言を噛みしめる。贅沢な悩み。これほど的確にこの煩悶を表す言葉はないだろう。
 恋人の塩原渚しおばらなぎさはもうすぐ三十歳に手が届こうかと言う看護師だ。論語の言葉を借りれば而立じりつ。三十にして立つ。精神的に自立するのが三十らしい。なんだ、論語の時代からそうだったのかと拍子抜けした。
 彼とは、今一緒に同じマンションで暮らしている。恋人同士がすることの、結婚の手前まではやった。いや、現行の制度では、残念ながら男性同士は結婚できないのでその先はない。パートナーシップ制度と結婚は違う。
 お互いに、今までにした怪我の痕とそれにまつわるエピソードを交換し合った。とは言え、新川の腿にはこの前会社のデスクにぶつけた痣が、塩原の腕には勤務先の病院で転びかけて作った擦過創がある。すぐに消えてしまうけど、互いの知らない所でできた怪我についても二人は話した。
「可哀想に。痛かったろう」
 ただ眠るだけの夜。紺色のシーツを掛けたベッドの中で、新川は傷を見せる塩原の腕を取り、その辺りを撫でながら、憂うような表情で言う。
「修治さん、すぐ可哀想って言うよね」
 塩原は面白そうに言った。言われた方は、ややバツの悪い顔で、
「うん。いや、言われたくない人がいるのは知ってるんだけど……」
 これも時と場合によるのだろうとは思っている。
「でも、痛い思いしたのはやっぱり可哀想だよ」
 この愛しい人の身体が傷ついたこと、僅かとは言え痛みを覚えたことに、新川の胸も痛む。
「僕以外の人には言わない方が良いよ。修治さんに可哀想って言われて喜んでるの、僕だけだから」
 案外嫉妬心の強い恋人からの、それは警告にして懇願だった。こんな扱いをするのは自分だけにしてくれ。特別扱いをして。他の誰にもそんなこと言わないで。
「うん」
「可哀想に。僕みたいなおじさんにつかまっちゃって……」
 抱き寄せた。若くて柔らかい身体。どれだけ触れても足りない。温かい。理性を失う。いや、変な意味ではなく……変な意味でなく理性を失うって何だろう。
「可哀想なら大事にして」
 優しく抱き返す腕がまた愛しい。柔らかな感触と、シャンプーのものが混ざる匂いにただ酔い痴れた。

 翌日、出勤すると部下から電話が掛かってきた。体調が悪いので休ませて欲しいとのことだ。胃が痛いらしい。
「ああ、うんわかったよ。お大事に。何日か休むようならまた連絡を頂戴。週末で治ると良いけど……」
 他にも二言三言、言葉を交わしてから電話を切る。彼と共に仕事をする社員を呼んで、
「彼ね、胃が痛いからお休みするって。火急かきゅうの案件があれば僕に」
「わかりました。心配ですね」
「本当に。だいぶ辛そうだったよ」
 新川は首を横に振った。相当苦しいのであろうことが、電話口の声からも聞き取れた。
「可哀想に」
 苦しげな声を思い出す。それと同時に、昨夜の塩原の言葉が思い起こされた。
(僕以外の人には言わない方が良いよ。修治さんに可哀想って言われて喜んでるの、僕だけだから)
 悪戯っぽい声。警告にして懇願。忘れていたわけでも、無視したわけでもない。新川にとって、この「可哀想に」は誰かの痛みが除かれることを祈る言葉だから。
(とは言え、自己満足ではある)
 ひょっとすると、記録するような行いなのかもしれない。誰かを「可哀想」と言うのは。そう言うことがあったと、心に留めるような言葉。だから、場合によっては言われたくない者もあるのだろう。そんな嫌な出来事の中にいる自分より、もっと違う自分を見てくれと。
 それならば、新川に「可哀想」と言われて塩原が喜んでいるのも頷ける。会っていない間に、自分に起こったことを新川の内に留めることになるからだ。そう思うと、新川も何か自分のことを塩原に留めて欲しくなる。
(渚くんに、可哀想って言われること)
 何かあっただろうか。物思いに耽っているところで、課長席の内線が鳴り、受話器を取った。

 その日は塩原が夜勤だったため、新川が帰宅すると家には誰もいなかった。人の気配がしない、暗い部屋。離婚した妻が出て行ってから、塩原が引っ越してくるまではこうだった。慣れている、筈だった。
 けれど、一度でも彼という光が灯った部屋に、その不在はやはり冷え冷えとした空気をもたらしている。離別の様に、永遠にいなくなるわけではもちろんない。そんなことになったら、仕事どころではなくなる気もしている。
(渚くんがいない僕、可哀想だな)
 試しに自分の事を憐れんでから、笑った。こんなお寒いことを記録したって仕方ない。コートと鞄を置いて、スマートフォンを取り出すと、休憩に入ったらしい塩原からメッセージが届いていた。
『帰った時に僕がいなくて、修治さん可哀想』
 それを見て、思わず笑ってしまう。考えることは一緒だ。それを嬉しく思う。同じ空間にいなくても、心はどこかで共にあるような充実感を覚える。なんて可愛い人。
「そうだよ」
 慣れないフリック入力で、たどたどしく返事を送る。返事はすぐに来た。塩原はスマートフォン入力が早い。若さか、器用さか……。
『じゃあ、明日慰めてあげるね』
 慰めてあげる。その一言に心臓が跳ねる。
「期待してる」
 スマートフォンをテーブルに置いて、作り置きの食事を準備する。そんなにたくさん食べなくても良い。風呂に入って、さっさと寝てしまおう。明日の夜を期待して。

 四十にして不惑だなんて、冗談じゃない。惑いっぱなしだ。まだ自立していないような若者に。
 でも、惑っていることを自覚できるだけ良いのかもしれない。惑いを客観視しているからこそ噛みしめられる幸せもある。こんなに幸せな動揺を僕は得ている。
 広いベッドに一人で潜り込む。いない彼を思いながら目を閉じる。この余白は想像の余地。帰って来たばかりの時は寂しく思っていた癖に、塩原からのメッセージ一つでこんなにも気の持ちようが変わるなんて。
(何て可哀想な頭だ)
 自分の現金さをおかしく思いながら、新川は眠りに落ちて行った。
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