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レターグールと拒読の娘
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レターグール。
文字を読まないと生きていけない種族である。それ以外は普通の人間と大差ない。ただ、日に数度、まとまった分量の文章を読まねば生命維持に支障がある。
よって、レターグールの子供たちはかなり高い識字率を誇るが、全ての家庭に食いつなぐだけの本を購う経済力があるかは別の話だ。衣食住に加えて本が必要になる。だから、子供たちは本を多く所有する金持ちの家に奉公へ出されることも多い。
アニタはその内の一人だった。魔術の名家の家へ奉公に出された彼女は、蔵書として本棚に並ぶ魔術書を読むことを許され、食事と同じように本を読んで暮らしていた。
できの悪い人間のメイドが、罰として食事を抜かれるように、レターグールのメイドもまた仕事ができなければ本を取り上げられる。食事と同じで、ちょっと抜いたくらいですぐに死ぬことはないが、身体に負担であることは間違いない。アニタは品行方正……とまではいかなくても、模範的に仕事をこなしていた。
十歳を過ぎた頃にこの家に来たアニタは、数年してから、徐々にお嬢様の身の回りの仕事を任されるようになった。お嬢様のノエリアは、艶のある美しい黒髪に、アメジストの様な深い紫色をした瞳の美少女だった。この家の第一子として、大いに期待されている魔術師でもある。
お嬢様が学業に励んでいる間、アニタは家のことをしているが、一度だけ、お嬢様がパーティで魔術を披露したことがあった。たまたま通りかかったアニタは、その美しさに目を奪われた。
完璧な言葉の配置をした詩歌の様に、あるいは流れるような伏線とその結末の様に。ノエリアが見せた、屋内を鮮やかな光で埋め尽くす魔法の術式は美しく編み上げられている。
(きっと、さぞ美しい詠唱なのだろう)
その魔術書を読んでみたいと思った。
アニタは魔術師ではないので、いくら魔導書を読み込んだところで魔法を使うことはできない。アニタも、別に魔法を使うことには興味がなかった。魔術の理論や術式を説明する文章をひたすら読み耽る。それは生きるのに必要だからでもあるが、美食家がより味わい深い食事を求めるように、レターグールもまたより美しい文章を求めるのだ。
読み続けていたから、と言うのもあるだろうが、魔術書はアニタの好みに合っていた。理論の美しい術の解説は特に良質で、アニタは同じ魔術師の本を読み漁った。栄養価は落ちるが、同じ本を読んでも摂取にはなるので、気に入った魔導書を、小腹を満たすのに再読したりもしている。
貯めた賃金で同じ魔術師の、自分用の魔術書でも買おうか……と思ったが、そもそも魔術書は、魔術師にしか売ってもらえない。だからと言って、奉公先に買ってくれと言うわけにも行かず、アニタはちびちびと、気に入りの魔術書で唇を湿らせるように腹を満たしていた。
魔術師はこの国の中でもかなり重要な位置にいる。だから上流階級であり、政治とも密接に関わっていた。
と言うことで、政争、暗殺、妬み、嫌がらせなんてことは日常茶飯事で、アニタも幾度かトカゲの死体を片付けたりしていた。もっとベテランのメイドは、大胆にも敷地内で行われそうになった儀式の生け贄を片付けたこともあるそうだ。
呪詛合戦なんてものもよくあることで、一族の者が突然謎の病気にかかればそれは呪いだ。使用人はどうやら魔術師から「見えない」らしく(これは本当に見えないわけではない)、よほどの側近であるとか、主人やその配偶者の愛人であるとかでない限りそれに巻き込まれることはほとんどない。
気楽なものだ。奉公先の一家に、愛着さえ持たなければ。
目の前で一家の者が呪いでバタバタと倒れる状況に心を痛めなければ。
そういうことを聞いていたのと、実際アニタの奉公先も呪いを掛けられることがあったから、彼女はここを完全にただの食料庫と見なすことにした。物理的な距離は縮まっても、心の距離は縮めない。
そう、ノエリアお嬢様にも。
あの美しい瞳も、アニタを見る時はまるで無感動だ。奥様の様に、フリだけであっても情けや憐れみを見せようとはしない。
アニタもその方が気楽だった。
「お嬢様、お召し替えのお時間です」
「ありがとうアニタ」
あくまで自分はメイドとして。与えられた仕事をこなし、対価として賃金を、そして書物庫に入る権利を得る。
ノエリアがどんな呪いを受けても、それは関係ない筈だった。
ある日、アニタはノエリアの世話を外された。
「……わたくしの仕事がお気に召しませんでしたか」
「そうではないのだが、しばらくノエリアのことは放っておいて良い。お前には、娘の世話をする前に任せていたことを命じる」
「承知しました、旦那様」
あまりにも急な話だった上に、事情を匂わせることもしない。結婚だろうか。それなら屋敷の中でもう少し噂になっていそうなものだが……。
あまり気にしていなかったが、お嬢様は一歩も部屋から出ていないらしい、と気付いた時、アニタは猛烈な気持ち悪さというのか、違和感を覚えた。
何故? 学校はどうしたというのだ。家庭教師を招いている? そんな話は聞いていない。縁談の話もまるでない。それらしき男が尋ねてくることもない。
何故?
アニタは他の奉公人にもさりげなく聞いてみたが、誰一人としてノエリアが部屋から出て来ない理由を知らなかった。
呪われたのだろうか。あの美貌だ。顔の造作を変えてしまうような、例えば腐らせてしまうような、そんな呪いを掛けられたのだとしたら、確かに部屋から出てこられなくなるのもうなずける。家庭教師ですら呼べないだろう。
可哀想なお嬢様。あんなに優秀な魔術師であるのに。この世では、結局見た目が物を言う。
物理的な距離が縮まっても、心の距離は縮めない。
アニタはそれ以上のことは心にも置かず、報酬である読書のために仕事に精を出していた。
彼女がその秘密を知ってしまったのは、ある晩。文字の方の小腹が空いてしまい、書庫へ忍び込もうとした時のことだった。鍵は預かっている。寝間着の上から羽織ったカーディガンの前を合わせながら、鍵穴に鍵を挿そうとしたその時、中から押し殺した嗚咽が聞こえてくるのに気付いた。
こんな夜中に、誰が?
聞き耳を立てると、それは少女の声のようだった。
ノエリアお嬢様?
そうでなければ、他のメイドだが、アニタ以外のメイドがここに入る方法はそうない。扉の取っ手に手を掛けると、鍵は開いていた。
アニタはそっと扉を開ける。音を立てぬよう。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
声を掛けると、嗚咽は一瞬だけ止んだ。
「……誰?」
やはり、ノエリアだった。
「ノエリアお嬢様ですか? 私です。アニタです」
「アニタ……どうしてここに……いえ、あなたはレターグールだったわね。ここの鍵を持っているのね……」
聞いたこともないような、弱々しい声だった。
「お嬢様、どうされたのですか?」
「なんでもないわ……」
「なんでもないってことはないでしょう……」
自分はつまみ食いに来たのだから、ノエリアにはさっさと部屋に戻ってもらわないと困る。そう思って、アニタは声がする方にずかずかと歩み寄った。彼女を部屋に帰し、自分は小腹を満たす。そのことしか頭になかった。
お嬢様の顔が腐っているかもしれないとか、そういうことはちらりと考えたが、まあ食べる方の食欲は今なくなっても構うまい。
「こんな時間なんですからお部屋に……」
アニタはノエリアの姿に違和感を感じて、口をつぐんだ。何かがおかしい。ノエリアは、あの美しい紫の瞳から、まるで制御を誤ったかのように涙をこぼし、その膝の上に開かれた魔導書を置いていた。
顔はいつもの美少女のままだった。ただ、不安と絶望と焦燥を宿している。
「……何をしているのですか」
魔導書は読んで泣くようなものではない。その本はアニタも読んだことはあるが、そんな恐ろしいことは書いていない。
「アニタ、お願い、誰にも言わないで」
「何をですか」
「私が……ここで泣いていたことを」
「わかりましたよ。だからさっさとお部屋にお戻りください。旦那様に見つかったら大目玉ですよ」
「うん……」
ぐすん、とすすり上げて、ノエリアは立ち上がった。
ノエリアがアニタの袖を掴んで離さないので、仕方なく部屋まで付き添った。寝台まで連れて行って、視界に入った書き物机にまたいつもと違う「何か」を感じる。
手紙の類いが、封も開けられずに積み上げられている。本の類いは一切が姿を消していた。
「お嬢様」
「何かしら……」
「叔父上から頂いて大事になさっていた歴史書はどうされたんですか?」
「……ひっ……」
アニタは単純に、視界に入った異常について尋ねただけだったが、ノエリアは何故か息をのんだ。聞かない方が良かったのか。そうだ。メイドの分際で深入りするべきではない。
「いえ、私如きがお尋ねすることでもございませんね。失礼しました。それでは、おやす──」
「……めないの……」
「は?」
「読めないの、文字が」
「そんな馬鹿な」
「読めなくなったの……! 拒読の呪いよ……! あなただって、魔術師同士が呪いを掛け合っていることは知っているでしょう……!?」
ノエリアは押し殺した、けれど強い口調でアニタに詰め寄った。
「存じては、おりますが……」
「拒読」の呪い。それが意味するところは……。
「まさか、お嬢様、あなた文字が……」
「そうよ。私は今文字を見ても、何がなんだか全然わからないのよ……! この私が……! 何も読めない、何もわからない! 手紙も、魔導書も、看板の文字ですら読めないのよ!」
ノエリアはアニタに全く触れていないのに、アニタは平手打ちを受けた様な衝撃を味わっていた。頭がぐらぐらする。
文字が読めなくなる。それは、レターグールにとっては想像を絶する恐怖だ。死んでしまう。
文字的な飢餓に陥った同胞たちがどうなるか、アニタは伝聞で聞いていた。まず、記憶がどんどんなくなっていく。次に、理性的な振る舞いができなくなる。最後には、支離滅裂なことを言いながら、寝転がって暴れて死んでいく。
だから、レターグールは決して文字を絶やしてはいけないのだ。人間はもちろんそうではないとしても、「そうなった」時のことを想像すると、アニタの身体は震える。
「このままでは、お父様の期待するような魔術師になれない。呪いを解かなくては」
ああ、人間が心配するのは「生きていける」前提のことでうらやましい。アニタはどこか遠くでぼんやりと思った。
「解けるんですか?」
魔導書は読んでいるが、同じ症状が出る呪いであっても、術式が微妙に違っていると、解除の術も上手く訊かないことがあるそうだ。
「……今、調べているところよ。でも、全然魔術のお稽古ができなくて、私、私……」
魔術の研鑽が停滞すること、そしていつ再開できるかもわからない状態が、ノエリアには非常にプレッシャーになっているようだった。それはそうだろう。将来を嘱望されている跡取り娘。その彼女が、今その手から魔術を失いそうになっているのだから。
「今までの魔術は覚えているのですね?」
「ええ、だから、おさらいをずっと続けているのだけれど……こんなの耐えられない。新しいことを覚えないと」
「書庫で泣いていたのは……」
「もしかしたら解けているんじゃないかって」
でも読めなくて、それで絶望して泣いていたのだそうだ。
「どうしよう私……何も読めない……」
深い悲しみと絶望が、嗚咽になって声に混じる。アニタの心の琴線に、その感情が触れた時、頭の中に一つの案が浮かんできた。
「ねえ、お嬢様。だったら、私があなたの目になってあげますよ」
「え……?」
「私が代わりに魔導書を読んであげます。こうやって話はできるんだから、あなた口で言われたことはわかるんですよね?」
「え、ええ……それはもちろんよ」
「私みたいなメイドに呪いを打ち明けたなんて知られた日には、旦那様から大目玉です。だからね、たまにこうやって夜中に書庫でお目に掛かりましょう。そしたら、新しい本を私が読み聞かせてあげますから」
「ほんとうに……?」
信じられないものでも見るかの様に、ノエリアはアニタを見た。
「誰もそんなこと言わなかった……」
なんて頭の固い連中だろう! アニタは内心で呆れてしまった。主たちは、呪いは解くつもりでいたのだろう。そう時間が掛からないと踏んでいて、それでノエリアには復習でひとまずよしとしていた、と考えるのが妥当か。
あるいは……本当に「文字が読めなくなった」ノエリアを誰かの目に触れさせることを嫌がったのか。
百聞は一見に如かず。本当にその様を見たら、きっとその人は「知って」しまうから。ノエリアが拒読の呪いに堕ちたことを。
「ありがとうアニタ……お願いね……私、嫌なの。こんなところで足踏みするなんて……! 嫌よ! 呪いに負けたなんて、絶対に!」
アニタの提案を受けて、ノエリアの瞳は再び、固く結晶した紫水晶の強さを宿していた。
「ええ、そうでしょうとも」
その程度の危機感しかないのは本当にうらやましいです、お嬢様。
けれど、仕方ない。きっと、自分にはわからない人間の苦労もあるのだろう。
アニタはノエリアと約束の方法を決めて、その部屋を辞去したのだった。
これで、アニタは新作の魔導書を読める。ノエリアは新しい理論を学べる。お互いにとってまずい話ではあるまい。
しかし、彼女は知らなかった。
他人へ、簡単に呪いを掛けてしまう魔術師たちの人間性を。そして、ノエリアに手を貸すことによって、自分もその争いの渦中に身を投じてしまうことを。
このとき、アニタは事実上ノエリアの「側近」になってしまったのだから。
文字を読まないと生きていけない種族である。それ以外は普通の人間と大差ない。ただ、日に数度、まとまった分量の文章を読まねば生命維持に支障がある。
よって、レターグールの子供たちはかなり高い識字率を誇るが、全ての家庭に食いつなぐだけの本を購う経済力があるかは別の話だ。衣食住に加えて本が必要になる。だから、子供たちは本を多く所有する金持ちの家に奉公へ出されることも多い。
アニタはその内の一人だった。魔術の名家の家へ奉公に出された彼女は、蔵書として本棚に並ぶ魔術書を読むことを許され、食事と同じように本を読んで暮らしていた。
できの悪い人間のメイドが、罰として食事を抜かれるように、レターグールのメイドもまた仕事ができなければ本を取り上げられる。食事と同じで、ちょっと抜いたくらいですぐに死ぬことはないが、身体に負担であることは間違いない。アニタは品行方正……とまではいかなくても、模範的に仕事をこなしていた。
十歳を過ぎた頃にこの家に来たアニタは、数年してから、徐々にお嬢様の身の回りの仕事を任されるようになった。お嬢様のノエリアは、艶のある美しい黒髪に、アメジストの様な深い紫色をした瞳の美少女だった。この家の第一子として、大いに期待されている魔術師でもある。
お嬢様が学業に励んでいる間、アニタは家のことをしているが、一度だけ、お嬢様がパーティで魔術を披露したことがあった。たまたま通りかかったアニタは、その美しさに目を奪われた。
完璧な言葉の配置をした詩歌の様に、あるいは流れるような伏線とその結末の様に。ノエリアが見せた、屋内を鮮やかな光で埋め尽くす魔法の術式は美しく編み上げられている。
(きっと、さぞ美しい詠唱なのだろう)
その魔術書を読んでみたいと思った。
アニタは魔術師ではないので、いくら魔導書を読み込んだところで魔法を使うことはできない。アニタも、別に魔法を使うことには興味がなかった。魔術の理論や術式を説明する文章をひたすら読み耽る。それは生きるのに必要だからでもあるが、美食家がより味わい深い食事を求めるように、レターグールもまたより美しい文章を求めるのだ。
読み続けていたから、と言うのもあるだろうが、魔術書はアニタの好みに合っていた。理論の美しい術の解説は特に良質で、アニタは同じ魔術師の本を読み漁った。栄養価は落ちるが、同じ本を読んでも摂取にはなるので、気に入った魔導書を、小腹を満たすのに再読したりもしている。
貯めた賃金で同じ魔術師の、自分用の魔術書でも買おうか……と思ったが、そもそも魔術書は、魔術師にしか売ってもらえない。だからと言って、奉公先に買ってくれと言うわけにも行かず、アニタはちびちびと、気に入りの魔術書で唇を湿らせるように腹を満たしていた。
魔術師はこの国の中でもかなり重要な位置にいる。だから上流階級であり、政治とも密接に関わっていた。
と言うことで、政争、暗殺、妬み、嫌がらせなんてことは日常茶飯事で、アニタも幾度かトカゲの死体を片付けたりしていた。もっとベテランのメイドは、大胆にも敷地内で行われそうになった儀式の生け贄を片付けたこともあるそうだ。
呪詛合戦なんてものもよくあることで、一族の者が突然謎の病気にかかればそれは呪いだ。使用人はどうやら魔術師から「見えない」らしく(これは本当に見えないわけではない)、よほどの側近であるとか、主人やその配偶者の愛人であるとかでない限りそれに巻き込まれることはほとんどない。
気楽なものだ。奉公先の一家に、愛着さえ持たなければ。
目の前で一家の者が呪いでバタバタと倒れる状況に心を痛めなければ。
そういうことを聞いていたのと、実際アニタの奉公先も呪いを掛けられることがあったから、彼女はここを完全にただの食料庫と見なすことにした。物理的な距離は縮まっても、心の距離は縮めない。
そう、ノエリアお嬢様にも。
あの美しい瞳も、アニタを見る時はまるで無感動だ。奥様の様に、フリだけであっても情けや憐れみを見せようとはしない。
アニタもその方が気楽だった。
「お嬢様、お召し替えのお時間です」
「ありがとうアニタ」
あくまで自分はメイドとして。与えられた仕事をこなし、対価として賃金を、そして書物庫に入る権利を得る。
ノエリアがどんな呪いを受けても、それは関係ない筈だった。
ある日、アニタはノエリアの世話を外された。
「……わたくしの仕事がお気に召しませんでしたか」
「そうではないのだが、しばらくノエリアのことは放っておいて良い。お前には、娘の世話をする前に任せていたことを命じる」
「承知しました、旦那様」
あまりにも急な話だった上に、事情を匂わせることもしない。結婚だろうか。それなら屋敷の中でもう少し噂になっていそうなものだが……。
あまり気にしていなかったが、お嬢様は一歩も部屋から出ていないらしい、と気付いた時、アニタは猛烈な気持ち悪さというのか、違和感を覚えた。
何故? 学校はどうしたというのだ。家庭教師を招いている? そんな話は聞いていない。縁談の話もまるでない。それらしき男が尋ねてくることもない。
何故?
アニタは他の奉公人にもさりげなく聞いてみたが、誰一人としてノエリアが部屋から出て来ない理由を知らなかった。
呪われたのだろうか。あの美貌だ。顔の造作を変えてしまうような、例えば腐らせてしまうような、そんな呪いを掛けられたのだとしたら、確かに部屋から出てこられなくなるのもうなずける。家庭教師ですら呼べないだろう。
可哀想なお嬢様。あんなに優秀な魔術師であるのに。この世では、結局見た目が物を言う。
物理的な距離が縮まっても、心の距離は縮めない。
アニタはそれ以上のことは心にも置かず、報酬である読書のために仕事に精を出していた。
彼女がその秘密を知ってしまったのは、ある晩。文字の方の小腹が空いてしまい、書庫へ忍び込もうとした時のことだった。鍵は預かっている。寝間着の上から羽織ったカーディガンの前を合わせながら、鍵穴に鍵を挿そうとしたその時、中から押し殺した嗚咽が聞こえてくるのに気付いた。
こんな夜中に、誰が?
聞き耳を立てると、それは少女の声のようだった。
ノエリアお嬢様?
そうでなければ、他のメイドだが、アニタ以外のメイドがここに入る方法はそうない。扉の取っ手に手を掛けると、鍵は開いていた。
アニタはそっと扉を開ける。音を立てぬよう。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
声を掛けると、嗚咽は一瞬だけ止んだ。
「……誰?」
やはり、ノエリアだった。
「ノエリアお嬢様ですか? 私です。アニタです」
「アニタ……どうしてここに……いえ、あなたはレターグールだったわね。ここの鍵を持っているのね……」
聞いたこともないような、弱々しい声だった。
「お嬢様、どうされたのですか?」
「なんでもないわ……」
「なんでもないってことはないでしょう……」
自分はつまみ食いに来たのだから、ノエリアにはさっさと部屋に戻ってもらわないと困る。そう思って、アニタは声がする方にずかずかと歩み寄った。彼女を部屋に帰し、自分は小腹を満たす。そのことしか頭になかった。
お嬢様の顔が腐っているかもしれないとか、そういうことはちらりと考えたが、まあ食べる方の食欲は今なくなっても構うまい。
「こんな時間なんですからお部屋に……」
アニタはノエリアの姿に違和感を感じて、口をつぐんだ。何かがおかしい。ノエリアは、あの美しい紫の瞳から、まるで制御を誤ったかのように涙をこぼし、その膝の上に開かれた魔導書を置いていた。
顔はいつもの美少女のままだった。ただ、不安と絶望と焦燥を宿している。
「……何をしているのですか」
魔導書は読んで泣くようなものではない。その本はアニタも読んだことはあるが、そんな恐ろしいことは書いていない。
「アニタ、お願い、誰にも言わないで」
「何をですか」
「私が……ここで泣いていたことを」
「わかりましたよ。だからさっさとお部屋にお戻りください。旦那様に見つかったら大目玉ですよ」
「うん……」
ぐすん、とすすり上げて、ノエリアは立ち上がった。
ノエリアがアニタの袖を掴んで離さないので、仕方なく部屋まで付き添った。寝台まで連れて行って、視界に入った書き物机にまたいつもと違う「何か」を感じる。
手紙の類いが、封も開けられずに積み上げられている。本の類いは一切が姿を消していた。
「お嬢様」
「何かしら……」
「叔父上から頂いて大事になさっていた歴史書はどうされたんですか?」
「……ひっ……」
アニタは単純に、視界に入った異常について尋ねただけだったが、ノエリアは何故か息をのんだ。聞かない方が良かったのか。そうだ。メイドの分際で深入りするべきではない。
「いえ、私如きがお尋ねすることでもございませんね。失礼しました。それでは、おやす──」
「……めないの……」
「は?」
「読めないの、文字が」
「そんな馬鹿な」
「読めなくなったの……! 拒読の呪いよ……! あなただって、魔術師同士が呪いを掛け合っていることは知っているでしょう……!?」
ノエリアは押し殺した、けれど強い口調でアニタに詰め寄った。
「存じては、おりますが……」
「拒読」の呪い。それが意味するところは……。
「まさか、お嬢様、あなた文字が……」
「そうよ。私は今文字を見ても、何がなんだか全然わからないのよ……! この私が……! 何も読めない、何もわからない! 手紙も、魔導書も、看板の文字ですら読めないのよ!」
ノエリアはアニタに全く触れていないのに、アニタは平手打ちを受けた様な衝撃を味わっていた。頭がぐらぐらする。
文字が読めなくなる。それは、レターグールにとっては想像を絶する恐怖だ。死んでしまう。
文字的な飢餓に陥った同胞たちがどうなるか、アニタは伝聞で聞いていた。まず、記憶がどんどんなくなっていく。次に、理性的な振る舞いができなくなる。最後には、支離滅裂なことを言いながら、寝転がって暴れて死んでいく。
だから、レターグールは決して文字を絶やしてはいけないのだ。人間はもちろんそうではないとしても、「そうなった」時のことを想像すると、アニタの身体は震える。
「このままでは、お父様の期待するような魔術師になれない。呪いを解かなくては」
ああ、人間が心配するのは「生きていける」前提のことでうらやましい。アニタはどこか遠くでぼんやりと思った。
「解けるんですか?」
魔導書は読んでいるが、同じ症状が出る呪いであっても、術式が微妙に違っていると、解除の術も上手く訊かないことがあるそうだ。
「……今、調べているところよ。でも、全然魔術のお稽古ができなくて、私、私……」
魔術の研鑽が停滞すること、そしていつ再開できるかもわからない状態が、ノエリアには非常にプレッシャーになっているようだった。それはそうだろう。将来を嘱望されている跡取り娘。その彼女が、今その手から魔術を失いそうになっているのだから。
「今までの魔術は覚えているのですね?」
「ええ、だから、おさらいをずっと続けているのだけれど……こんなの耐えられない。新しいことを覚えないと」
「書庫で泣いていたのは……」
「もしかしたら解けているんじゃないかって」
でも読めなくて、それで絶望して泣いていたのだそうだ。
「どうしよう私……何も読めない……」
深い悲しみと絶望が、嗚咽になって声に混じる。アニタの心の琴線に、その感情が触れた時、頭の中に一つの案が浮かんできた。
「ねえ、お嬢様。だったら、私があなたの目になってあげますよ」
「え……?」
「私が代わりに魔導書を読んであげます。こうやって話はできるんだから、あなた口で言われたことはわかるんですよね?」
「え、ええ……それはもちろんよ」
「私みたいなメイドに呪いを打ち明けたなんて知られた日には、旦那様から大目玉です。だからね、たまにこうやって夜中に書庫でお目に掛かりましょう。そしたら、新しい本を私が読み聞かせてあげますから」
「ほんとうに……?」
信じられないものでも見るかの様に、ノエリアはアニタを見た。
「誰もそんなこと言わなかった……」
なんて頭の固い連中だろう! アニタは内心で呆れてしまった。主たちは、呪いは解くつもりでいたのだろう。そう時間が掛からないと踏んでいて、それでノエリアには復習でひとまずよしとしていた、と考えるのが妥当か。
あるいは……本当に「文字が読めなくなった」ノエリアを誰かの目に触れさせることを嫌がったのか。
百聞は一見に如かず。本当にその様を見たら、きっとその人は「知って」しまうから。ノエリアが拒読の呪いに堕ちたことを。
「ありがとうアニタ……お願いね……私、嫌なの。こんなところで足踏みするなんて……! 嫌よ! 呪いに負けたなんて、絶対に!」
アニタの提案を受けて、ノエリアの瞳は再び、固く結晶した紫水晶の強さを宿していた。
「ええ、そうでしょうとも」
その程度の危機感しかないのは本当にうらやましいです、お嬢様。
けれど、仕方ない。きっと、自分にはわからない人間の苦労もあるのだろう。
アニタはノエリアと約束の方法を決めて、その部屋を辞去したのだった。
これで、アニタは新作の魔導書を読める。ノエリアは新しい理論を学べる。お互いにとってまずい話ではあるまい。
しかし、彼女は知らなかった。
他人へ、簡単に呪いを掛けてしまう魔術師たちの人間性を。そして、ノエリアに手を貸すことによって、自分もその争いの渦中に身を投じてしまうことを。
このとき、アニタは事実上ノエリアの「側近」になってしまったのだから。
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