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針水晶の嫉妬(3/3)
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「魔法使い」こと神波真尋に、松原蒼が弟子入してから、数日が経過した。
(もし、私の心を取り戻すことを手伝うならば、君の望みを叶えよう。それまでは、私が君を悪意からできるだけ守ってあげるよ)
奪われた、真尋の「心」を取り返すために、「人の悪意を感じ取る能力」を持つ蒼に手伝いを求めた魔法使い。蒼はこの能力を忌避して、自分の心を取り除いて欲しかったのだが……この取引を持ち掛けられ、真尋の不思議な魅力もあって了承した。
とは言うものの……真尋から具体的にどう「手伝う」のかは聞いていなかった。連絡先を交換し(現代の魔法使いはスマートフォンを使うようだ)、「お守り」を渡されただけだ。
「あまり強力ではないけどね。君は他人の悪意に怯えすぎだ。少し過敏になっている。それが、少しだけ感じ方を和らげてくれると思うよ」
そう言って、彼はラピスラズリに似た結晶が入った小瓶を渡してくれた。
「これは?」
「『優しすぎた』ことで苦しんでいた人がいてね。その人から切り取った心の一部だよ」
そう聞いて、思わず蒼はその瓶を取り落としそうになった。真尋は僅かに口角を上げ、
「別に人体の一部というわけじゃない。そうだな。守護霊とか、そう言うものだと思っておけ」
確かに……「心の一部」ならそれは魂の様なもので、拡大解釈すると「霊」なのか……?
いや、しかしこの心の持ち主は生きていると思われるので、「生き霊」……?
向こうは蒼のことをまったく知らないのに生き霊……?
よくわからなくなってきた。ひとまず、真尋が渡してくるならまずいものではないだろう、と思って、蒼はそれを鞄のポケットにしまい込んだ。
それから数日間、確かに、あの僅かでも触れれば肌を刺すような、そう言う過剰な「悪意」の感知はなくなった。ただ、相変わらず、駅のホームで若い女性にぶつかる中年男性がわざとかどうかはわかる。
その感受性そのものは保ちつつ、感度は落ちた様だ。
だからと言って、この心を取り除いて欲しいと言う気持ちは変わらなくて。真尋の言うとおり、他人の悪意に怯えすぎて、少し過敏になっているのかもしれない。ここまで生きてきた中で積み重なってきた怯えは、いつしか倦みの壁となって行く先を塞いでいる感覚はなくならなかった。
そんなある日、真尋から連絡があった。
『今週の土曜日、午後に予定はある?』
蒼は今の所、その日の午後に何の約束もしていなかった。最近、この感覚に疲れてからは、極力人に会わないようにしていたのだ。
『特にありません。お手伝いですか?』
『そうなんだ。では土曜日の13時頃にうちに来られそうかな。もっと早く来られるなら、食事を持ってきてうちで食べてくれて構わないよ』
外で食べてくることによって、蒼が人の「悪意」に晒されてしまうことへの配慮……だろうか。
『ありがとうございます。そうさせていただきます』
蒼は少し考えてから、そう返信した。
当日は気分の良い秋晴れだった。大学では文化祭を意識する時期で、部活動やサークルに所属している学生たちの口から、催しについての話が聞かれるようになる。蒼は言うまでもなく、大勢がいるところを避けるために、特に部活動などには所属していなかった。
楽しんでいる同級生たちは本当に楽しそうにしていて、ああ、これが、「世間が求める大学生像」なのだな、と蒼は勝手に納得している。そう言う彼らのことはどうでも良い……と言ったら語弊はある……が、問題はそう言った彼らの影に隠れてしまって不満を溜めている者たちの存在だ。
「あいつ調子乗ってる」
「俺の方がトータルで見たら成績が良いはず」
「先輩から贔屓にされてるからって」
そんな怨嗟の声が聞こえたことは一度や二度ではない。嫉妬される方は、実害が出るまではそんな悪意の存在にすら気付かないことがあるが、それを近くで聞かされる方はたまったものではない。これは大学に上がる前から、中学高校でも見聞きしたことで、懲りた蒼は、大学で部活動などに入るのはやめた。
そんなわけで、蒼は土曜日の午後は空いていた。数少ない友人も、時間が空いていれば予定を詰め込むようなタイプでもない。類は友を呼ぶとでも言うのか、お互いに積極的に予定を持ち掛けるタイプでもなく、彼らと出かけたのは数えるほどだった。
それでもお互いに「友達」と言っている事は不思議でもあり、また当然のことでもある。
当日、蒼は真尋の家を訪れた。今度はたどり着けなくなっていたらどうしよう……と、少しばかり緊張感を持っての訪問だったが、難なく訪れることができて安堵する。
「よく来てくれたね」
あの、何の色も付いていないような、真水のような声で出迎えられる。なけなしの愛想なのか、口角が僅かに上がっていた。本来、あまり感情の起伏が激しい人ではないのだろう。
先日と同じソファの部屋に通され、同じソファに座り、違う色の液体が入ったカップを出された。顔に近づけると、爽やかな香りがする。今日はミントティーの様だった。
コンビニで購入したおにぎりを食べている間、真尋はどこかに引っ込んでいた。午後の「予定」に備えて、何か支度をしているのだろう。
蒼が食事を終えて、ゴミをビニール袋に詰め込んで空気を抜いていると、真尋が戻ってきた。持っていたのは、片腕で抱えられるくらいの大きさの瓶。瓶。鞄の中に入れた、ラピスラズリが光るそれ。もしかして、この瓶は……。
「今日の客人から心を取り出すよ。見て行きたまえ」
案の定、真尋はそんな「予定」を告げた。
心を取り出す。自分もそう望んで、そのために来た筈だったのに、そう言えば、どんな手順で、どんな環境でそれが行なわれるのかは考えたことがなかった。
それを、目の当たりにするのか。コンビニの袋を握りしめる。くしゃり、と、柔らかいものが縮こまる音がした。
数10分後、その「客人」はやって来た。Tシャツの上にシャツジャケットを羽織り、チノパンを穿いた、どこにでもいる30代の男性だ。
「助手です」
蒼のことを不思議そうに見る彼に対して、真尋はそれだけ説明した。蒼も軽く会釈する。真尋を「手伝う」のだから、助手と言っても間違いではない……筈だ。
一見人当たりの良さそうな男性であったが……蒼は彼の内面に、悪意の欠片が埋まっているのを感じ取った。この人は、一体何に対して「悪意」を持っているって言うんだろう?
「では、改めてお尋ねしますが……本当によろしいのですね?」
「はい」
彼はこくりと肯いた。
「お願いします。悔いなどはありません」
真尋は瓶を彼に差し出した。また、あの不思議そうな顔をして受け取る客人。
「それを胸の前で抱えて。あの人のことを考えて」
「それは……」
悲しそうに、客人は微笑んだ。
「ずいぶんな方法です」
「それは申し訳ない」
真尋は淡々と応じた。思ってもないことを、と誹るには柔らかく、じゃあ他の手段を、と懇願するには容赦のない声音。
本当に困った時に、彼の元へたどり着ける。その意味を、蒼は噛みしめた。
本当に困った時。それは、取れる手段が極端に限られていると言うこと。
この魔法使いをもってしてもきっとその選択肢はそれほど広がらず、その隘路に客人を押し出すには、こんな態度が必要なのだろう。冷たい綿で大切にくるむような選択を迫る態度が。
客人は言われたとおりに瓶を抱きしめた。考えているらしい「あの人」とは、彼に取ってはどんな人なのだろう。蒼はじっと相手を見つめた。秋の午後は、夏より日差しが丸くなる。
やがて、その右目から、一筋の涙が音もなく零れ落ちるのを、蒼は見た。柔らかな陽の光が、涙の中にある何かまで届いた様な、そんな輝き方をする。
「もう良いですよ」
涙が顎の下まで滑り落ちるのを見届けた真尋が、その様に指示を出すと、客人は愛しい人を抱くような手つきで持っていた瓶を身体から離した。
その中には、針の様なインクルージョンが入る結晶ができあがっている。
いつの間に……蒼は絶句して真尋を見た。魔法使いは客人から目を離さない。
「お預かりしましょう」
「よろしく、お願いします」
客人はたどたどしい手つきで瓶を真尋に寄越す。
「いかがですか、ご気分は」
「ええ……何だか霞が掛かったようですね。成功、したのでしょうか?」
「恐らくは」
真尋は瓶の中身を検分するように見つめる。片腕で抱えられる程度の大きさをした瓶だった。その中で、一回り小さいくらいの、原石のような結晶が鎮座して、それも日差しを受けてきらきら光っている。まるで彼の涙を固めたようだった。
「またお困りなら、お目に掛かります」
魔法使いが告げた別れの言葉はそれだった。
「あの方は、一体……?」
客人がこの家を辞し、屋内の漏れ聞こえる声も届かなくなるほど遠ざかった頃を見計らって、蒼は魔法使いに尋ねた。真尋はしばらくルチルクォーツに似た結晶を眺めていたが、
「既婚者を好きになってしまったんだよ」
「ああ……」
「既婚者を愛してしまうことの後ろめたさと、止めようもない好意と、配偶者への嫉妬。そう言うもので押しつぶされそうになっていてね」
それで、困り果てて、疲れ果てて、ここに辿り着いたのだと言う。
「百歩譲って、恋心を我慢するだけならどうにかなったのだろうけどね。嫉妬だけは無理だったそうだ。このままでは、相手の配偶者に何をしでかしてしまうかわからないと。彼が一番恐れ、抑えられなかったのはそれだったんだ」
「それで……」
蒼が呟くと、真尋はこちらを振り返った。
「『悪意』は感じたかい?」
「はい。あんなに優しそうな人の、どこに何の悪意が、と不思議でしたが……」
優しいからこそ、人を愛せるからこそ、心の泥濘から生まれてしまった悪意。本当なら、そこから芽生える花もあっただろうに。
「種を運ぶ奴も色々だからね」
真尋は長い睫毛を伏せた。
「このまま彼の心に安寧があれば良いね」
「どう言うことですか?」
「取り除いてもね、心ってまた育ってしまうんだ」
魔法使いは淡々と、そんな風に、応じた。
「恐らく、私の『心』を盗んだ者は、まだ内に『悪意』を抱えている筈だ。その後、私の心が育つのを、待っているのかも知れない。また取り出すと思っているなら、近づいてくる可能性がある」
真尋の目には深刻な影が落ちている。
「あれから5年だ。魔法使いの生活について、あまり多くのことは空かされていないが、痺れを切らして行動に出る可能性は常にある。だから、君には私に対して悪意を持つ者がいたら教えて欲しい」
「わかり、ました」
こくり、と肯く。
ラピスラズリのお守りと、陽が入り込んで光った客人の涙。そして、蒼を真っ直ぐ見る真尋の瞳。
それら煌めきが、蒼の心を奮い立たせている。
いつかこの苦しみを忘れることを願って。
松原蒼は魔法使いの助手になった。
(もし、私の心を取り戻すことを手伝うならば、君の望みを叶えよう。それまでは、私が君を悪意からできるだけ守ってあげるよ)
奪われた、真尋の「心」を取り返すために、「人の悪意を感じ取る能力」を持つ蒼に手伝いを求めた魔法使い。蒼はこの能力を忌避して、自分の心を取り除いて欲しかったのだが……この取引を持ち掛けられ、真尋の不思議な魅力もあって了承した。
とは言うものの……真尋から具体的にどう「手伝う」のかは聞いていなかった。連絡先を交換し(現代の魔法使いはスマートフォンを使うようだ)、「お守り」を渡されただけだ。
「あまり強力ではないけどね。君は他人の悪意に怯えすぎだ。少し過敏になっている。それが、少しだけ感じ方を和らげてくれると思うよ」
そう言って、彼はラピスラズリに似た結晶が入った小瓶を渡してくれた。
「これは?」
「『優しすぎた』ことで苦しんでいた人がいてね。その人から切り取った心の一部だよ」
そう聞いて、思わず蒼はその瓶を取り落としそうになった。真尋は僅かに口角を上げ、
「別に人体の一部というわけじゃない。そうだな。守護霊とか、そう言うものだと思っておけ」
確かに……「心の一部」ならそれは魂の様なもので、拡大解釈すると「霊」なのか……?
いや、しかしこの心の持ち主は生きていると思われるので、「生き霊」……?
向こうは蒼のことをまったく知らないのに生き霊……?
よくわからなくなってきた。ひとまず、真尋が渡してくるならまずいものではないだろう、と思って、蒼はそれを鞄のポケットにしまい込んだ。
それから数日間、確かに、あの僅かでも触れれば肌を刺すような、そう言う過剰な「悪意」の感知はなくなった。ただ、相変わらず、駅のホームで若い女性にぶつかる中年男性がわざとかどうかはわかる。
その感受性そのものは保ちつつ、感度は落ちた様だ。
だからと言って、この心を取り除いて欲しいと言う気持ちは変わらなくて。真尋の言うとおり、他人の悪意に怯えすぎて、少し過敏になっているのかもしれない。ここまで生きてきた中で積み重なってきた怯えは、いつしか倦みの壁となって行く先を塞いでいる感覚はなくならなかった。
そんなある日、真尋から連絡があった。
『今週の土曜日、午後に予定はある?』
蒼は今の所、その日の午後に何の約束もしていなかった。最近、この感覚に疲れてからは、極力人に会わないようにしていたのだ。
『特にありません。お手伝いですか?』
『そうなんだ。では土曜日の13時頃にうちに来られそうかな。もっと早く来られるなら、食事を持ってきてうちで食べてくれて構わないよ』
外で食べてくることによって、蒼が人の「悪意」に晒されてしまうことへの配慮……だろうか。
『ありがとうございます。そうさせていただきます』
蒼は少し考えてから、そう返信した。
当日は気分の良い秋晴れだった。大学では文化祭を意識する時期で、部活動やサークルに所属している学生たちの口から、催しについての話が聞かれるようになる。蒼は言うまでもなく、大勢がいるところを避けるために、特に部活動などには所属していなかった。
楽しんでいる同級生たちは本当に楽しそうにしていて、ああ、これが、「世間が求める大学生像」なのだな、と蒼は勝手に納得している。そう言う彼らのことはどうでも良い……と言ったら語弊はある……が、問題はそう言った彼らの影に隠れてしまって不満を溜めている者たちの存在だ。
「あいつ調子乗ってる」
「俺の方がトータルで見たら成績が良いはず」
「先輩から贔屓にされてるからって」
そんな怨嗟の声が聞こえたことは一度や二度ではない。嫉妬される方は、実害が出るまではそんな悪意の存在にすら気付かないことがあるが、それを近くで聞かされる方はたまったものではない。これは大学に上がる前から、中学高校でも見聞きしたことで、懲りた蒼は、大学で部活動などに入るのはやめた。
そんなわけで、蒼は土曜日の午後は空いていた。数少ない友人も、時間が空いていれば予定を詰め込むようなタイプでもない。類は友を呼ぶとでも言うのか、お互いに積極的に予定を持ち掛けるタイプでもなく、彼らと出かけたのは数えるほどだった。
それでもお互いに「友達」と言っている事は不思議でもあり、また当然のことでもある。
当日、蒼は真尋の家を訪れた。今度はたどり着けなくなっていたらどうしよう……と、少しばかり緊張感を持っての訪問だったが、難なく訪れることができて安堵する。
「よく来てくれたね」
あの、何の色も付いていないような、真水のような声で出迎えられる。なけなしの愛想なのか、口角が僅かに上がっていた。本来、あまり感情の起伏が激しい人ではないのだろう。
先日と同じソファの部屋に通され、同じソファに座り、違う色の液体が入ったカップを出された。顔に近づけると、爽やかな香りがする。今日はミントティーの様だった。
コンビニで購入したおにぎりを食べている間、真尋はどこかに引っ込んでいた。午後の「予定」に備えて、何か支度をしているのだろう。
蒼が食事を終えて、ゴミをビニール袋に詰め込んで空気を抜いていると、真尋が戻ってきた。持っていたのは、片腕で抱えられるくらいの大きさの瓶。瓶。鞄の中に入れた、ラピスラズリが光るそれ。もしかして、この瓶は……。
「今日の客人から心を取り出すよ。見て行きたまえ」
案の定、真尋はそんな「予定」を告げた。
心を取り出す。自分もそう望んで、そのために来た筈だったのに、そう言えば、どんな手順で、どんな環境でそれが行なわれるのかは考えたことがなかった。
それを、目の当たりにするのか。コンビニの袋を握りしめる。くしゃり、と、柔らかいものが縮こまる音がした。
数10分後、その「客人」はやって来た。Tシャツの上にシャツジャケットを羽織り、チノパンを穿いた、どこにでもいる30代の男性だ。
「助手です」
蒼のことを不思議そうに見る彼に対して、真尋はそれだけ説明した。蒼も軽く会釈する。真尋を「手伝う」のだから、助手と言っても間違いではない……筈だ。
一見人当たりの良さそうな男性であったが……蒼は彼の内面に、悪意の欠片が埋まっているのを感じ取った。この人は、一体何に対して「悪意」を持っているって言うんだろう?
「では、改めてお尋ねしますが……本当によろしいのですね?」
「はい」
彼はこくりと肯いた。
「お願いします。悔いなどはありません」
真尋は瓶を彼に差し出した。また、あの不思議そうな顔をして受け取る客人。
「それを胸の前で抱えて。あの人のことを考えて」
「それは……」
悲しそうに、客人は微笑んだ。
「ずいぶんな方法です」
「それは申し訳ない」
真尋は淡々と応じた。思ってもないことを、と誹るには柔らかく、じゃあ他の手段を、と懇願するには容赦のない声音。
本当に困った時に、彼の元へたどり着ける。その意味を、蒼は噛みしめた。
本当に困った時。それは、取れる手段が極端に限られていると言うこと。
この魔法使いをもってしてもきっとその選択肢はそれほど広がらず、その隘路に客人を押し出すには、こんな態度が必要なのだろう。冷たい綿で大切にくるむような選択を迫る態度が。
客人は言われたとおりに瓶を抱きしめた。考えているらしい「あの人」とは、彼に取ってはどんな人なのだろう。蒼はじっと相手を見つめた。秋の午後は、夏より日差しが丸くなる。
やがて、その右目から、一筋の涙が音もなく零れ落ちるのを、蒼は見た。柔らかな陽の光が、涙の中にある何かまで届いた様な、そんな輝き方をする。
「もう良いですよ」
涙が顎の下まで滑り落ちるのを見届けた真尋が、その様に指示を出すと、客人は愛しい人を抱くような手つきで持っていた瓶を身体から離した。
その中には、針の様なインクルージョンが入る結晶ができあがっている。
いつの間に……蒼は絶句して真尋を見た。魔法使いは客人から目を離さない。
「お預かりしましょう」
「よろしく、お願いします」
客人はたどたどしい手つきで瓶を真尋に寄越す。
「いかがですか、ご気分は」
「ええ……何だか霞が掛かったようですね。成功、したのでしょうか?」
「恐らくは」
真尋は瓶の中身を検分するように見つめる。片腕で抱えられる程度の大きさをした瓶だった。その中で、一回り小さいくらいの、原石のような結晶が鎮座して、それも日差しを受けてきらきら光っている。まるで彼の涙を固めたようだった。
「またお困りなら、お目に掛かります」
魔法使いが告げた別れの言葉はそれだった。
「あの方は、一体……?」
客人がこの家を辞し、屋内の漏れ聞こえる声も届かなくなるほど遠ざかった頃を見計らって、蒼は魔法使いに尋ねた。真尋はしばらくルチルクォーツに似た結晶を眺めていたが、
「既婚者を好きになってしまったんだよ」
「ああ……」
「既婚者を愛してしまうことの後ろめたさと、止めようもない好意と、配偶者への嫉妬。そう言うもので押しつぶされそうになっていてね」
それで、困り果てて、疲れ果てて、ここに辿り着いたのだと言う。
「百歩譲って、恋心を我慢するだけならどうにかなったのだろうけどね。嫉妬だけは無理だったそうだ。このままでは、相手の配偶者に何をしでかしてしまうかわからないと。彼が一番恐れ、抑えられなかったのはそれだったんだ」
「それで……」
蒼が呟くと、真尋はこちらを振り返った。
「『悪意』は感じたかい?」
「はい。あんなに優しそうな人の、どこに何の悪意が、と不思議でしたが……」
優しいからこそ、人を愛せるからこそ、心の泥濘から生まれてしまった悪意。本当なら、そこから芽生える花もあっただろうに。
「種を運ぶ奴も色々だからね」
真尋は長い睫毛を伏せた。
「このまま彼の心に安寧があれば良いね」
「どう言うことですか?」
「取り除いてもね、心ってまた育ってしまうんだ」
魔法使いは淡々と、そんな風に、応じた。
「恐らく、私の『心』を盗んだ者は、まだ内に『悪意』を抱えている筈だ。その後、私の心が育つのを、待っているのかも知れない。また取り出すと思っているなら、近づいてくる可能性がある」
真尋の目には深刻な影が落ちている。
「あれから5年だ。魔法使いの生活について、あまり多くのことは空かされていないが、痺れを切らして行動に出る可能性は常にある。だから、君には私に対して悪意を持つ者がいたら教えて欲しい」
「わかり、ました」
こくり、と肯く。
ラピスラズリのお守りと、陽が入り込んで光った客人の涙。そして、蒼を真っ直ぐ見る真尋の瞳。
それら煌めきが、蒼の心を奮い立たせている。
いつかこの苦しみを忘れることを願って。
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