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月長石の写真立て
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月長石の写真立ては、枠に月長石をはめ込んだ物である。そうであるから、少し重い。
この写真立てに写真を入れると、不思議なことに、その写真の風景が月夜のそれになる。例えば、昼の公園で彼女を写した写真も、このフレームに入れてしまうと、月明かりに照らされる彼女の姿を見ることができるのだ。
あるいは……彼が今後、夜中に忍び込むつもりの、彼女が住まう邸宅。その夜の景色を見ることも。
どこが陰になるのか、とこに灯りが点くのか、どこにいると見つかりやすいのか。そういうことを知ることもできる。
駆け落ちと将来を約束した彼女を、屋敷から連れ出すための下見を、写真とこの写真立てだけで済ませることもできる。彼女の家族や使用人に顔を知られることも、うろついて不審に思われることも避けたい。
月長石の写真立てに、ランプの光が照り返す。うっすらと優しい月明かりの色。昼にしか会えない彼女は、この写真立てに入れた時の様に見えるのだろうか。それとも、月下に連れ出した彼女はもっと違って見えるのだろうか。
写真立てを伏せる。自分の目も伏せて、ベッドに横たわった。
決行の日は、満月の晩であった。まばゆく地上を照らす月。けれど、運の良いことにこの日の空には雲も掛かっている。明るすぎると言うことはない。彼は彼女と待ち合わせた裏庭で落ち合うと、ひっそりと敷地を脱出しようと歩を進めた。前日までは、呑気に「月の光に照らされた彼女」の姿に期待をしていたものだが、今は周囲に目を配ることに必死でそれでどころではない。
叢雲は良い具合に月を隠して、庭は暗い。これなら見つからずに抜け出せそうだ。
しかし、離れが見える辺りを通り過ぎようとしたその時、雲が晴れて、月がさっと現れた。彼女が、小さくて短い悲鳴を上げる。その視線を追うと、そこには……老婦人が、しゃんと背筋を伸ばして立っていた。月の光に照らされて、その肌も蒼白く見せる老人が。
「おばあさま……!」
彼女は押し殺した声を上げる。彼は歯噛みした。やはり、ここがネックになったか、と。
月長石の写真立てに入れる写真で、一枚だけ用意できないものがあった。それが、この離れから見える辺りの写真だ。この離れには、彼女の祖母が、この家の大奥様が暮らしている。大旦那様が亡くなって、家督が長男に譲られた折に、「朽ちるだけの老木は引っ込みましょう」と言ってここに移ったのだ。最近は身体の具合も悪いようだが、頑としてここを動かない。まるで、この離れを守るかのように……。
こうやって見つかって、全てが台無しになってしまうなら、やはりなんとしてでもここの写真を手に入れておくべきだったのだ。しかし、後悔しても遅い。この厳格で保守的な家の主から、どんな罰を受けることか。自分はともかく、彼女が辛い目に遭うのは耐えられない。
「やっぱり、ここを通ると思いましたよ」
大奥様は静かに言った。彼は彼女を庇うようにして立つ。
「俺が無理にと言ったのです。彼女はどうか」
「いいえ、私は止めに来たのではありません。可愛い孫にさよならを言いに来ました」
「えっ?」
彼は耳を疑った。大奥様は止めに来たのではない?
「私もここで捕まったから」
その一言で十分だった。
「そういえば、おばあさまは嫁入りするはずが逆におじいさまを婿入りさせたと……」
彼女が背後で小さく呟く。その息子が嫁を取るのは、今の社会の常識では不自然ではない。そして、彼女も予定されているのは「婿取り」なのだ。
誰が牛耳っているのかは知らないが、家に閉じ込めておこうと言う魂胆なのだろう。
「でも、そんなことしたってその気になったら止められないものよ。だから、ここを見張れるのは私だけで良いと思った。さあ行きなさい」
つまり、離れにこだわったのは、あの日の自分を邪魔した家への、ささやかな復讐だったのだろう。
「おばあさま、ありがとうございます」
彼女は声に涙を滲ませた。彼は、言葉が見つからず、深々と頭を下げて謝意を示した。
二人は手をしっかりと繋ぎ直して、その場を走り去る。気になって一瞬だけ振り返ったが、もう大奥様はそこにいなかった。
それから少しして、全くの偶然だが、離れが見えるあの庭の写真が手に入った。当日欲しかったのは、離れ「から」見える庭の写真であったが、もう済んだことだ。あの時、大奥様と共に彼の視界に入った離れは、その愛情と気配り、そして苦い昔話の思い出として既に心に染みついている。彼は出来心でそれを月長石の写真立てに入れてみる。そして悲鳴を上げた。
あの夜、大奥様が立っていた辺り、そこに、蒼白い幽鬼が立っているのだ。とても大奥様の見間違いとは思えない。
「どうしたの?」
悲鳴を聞きつけた彼女がやってきた。彼は慌てて写真立てを伏せて首を横に振る。
「いや、何でもない。なんか写真に大きな虫が写った気がして」
「あら、あなたが虫に驚くなんて珍しい」
くすくすと笑いながら、彼女は引っ込んだ。
泡を食った彼は伝手を辿って大奥様の消息を調べた。
大奥様は、駆け落ちの翌朝に、離れて冷たくなって発見されたと言う。
死亡推定時刻は、駆け落ち当日の日没頃であった。
この写真立てに写真を入れると、不思議なことに、その写真の風景が月夜のそれになる。例えば、昼の公園で彼女を写した写真も、このフレームに入れてしまうと、月明かりに照らされる彼女の姿を見ることができるのだ。
あるいは……彼が今後、夜中に忍び込むつもりの、彼女が住まう邸宅。その夜の景色を見ることも。
どこが陰になるのか、とこに灯りが点くのか、どこにいると見つかりやすいのか。そういうことを知ることもできる。
駆け落ちと将来を約束した彼女を、屋敷から連れ出すための下見を、写真とこの写真立てだけで済ませることもできる。彼女の家族や使用人に顔を知られることも、うろついて不審に思われることも避けたい。
月長石の写真立てに、ランプの光が照り返す。うっすらと優しい月明かりの色。昼にしか会えない彼女は、この写真立てに入れた時の様に見えるのだろうか。それとも、月下に連れ出した彼女はもっと違って見えるのだろうか。
写真立てを伏せる。自分の目も伏せて、ベッドに横たわった。
決行の日は、満月の晩であった。まばゆく地上を照らす月。けれど、運の良いことにこの日の空には雲も掛かっている。明るすぎると言うことはない。彼は彼女と待ち合わせた裏庭で落ち合うと、ひっそりと敷地を脱出しようと歩を進めた。前日までは、呑気に「月の光に照らされた彼女」の姿に期待をしていたものだが、今は周囲に目を配ることに必死でそれでどころではない。
叢雲は良い具合に月を隠して、庭は暗い。これなら見つからずに抜け出せそうだ。
しかし、離れが見える辺りを通り過ぎようとしたその時、雲が晴れて、月がさっと現れた。彼女が、小さくて短い悲鳴を上げる。その視線を追うと、そこには……老婦人が、しゃんと背筋を伸ばして立っていた。月の光に照らされて、その肌も蒼白く見せる老人が。
「おばあさま……!」
彼女は押し殺した声を上げる。彼は歯噛みした。やはり、ここがネックになったか、と。
月長石の写真立てに入れる写真で、一枚だけ用意できないものがあった。それが、この離れから見える辺りの写真だ。この離れには、彼女の祖母が、この家の大奥様が暮らしている。大旦那様が亡くなって、家督が長男に譲られた折に、「朽ちるだけの老木は引っ込みましょう」と言ってここに移ったのだ。最近は身体の具合も悪いようだが、頑としてここを動かない。まるで、この離れを守るかのように……。
こうやって見つかって、全てが台無しになってしまうなら、やはりなんとしてでもここの写真を手に入れておくべきだったのだ。しかし、後悔しても遅い。この厳格で保守的な家の主から、どんな罰を受けることか。自分はともかく、彼女が辛い目に遭うのは耐えられない。
「やっぱり、ここを通ると思いましたよ」
大奥様は静かに言った。彼は彼女を庇うようにして立つ。
「俺が無理にと言ったのです。彼女はどうか」
「いいえ、私は止めに来たのではありません。可愛い孫にさよならを言いに来ました」
「えっ?」
彼は耳を疑った。大奥様は止めに来たのではない?
「私もここで捕まったから」
その一言で十分だった。
「そういえば、おばあさまは嫁入りするはずが逆におじいさまを婿入りさせたと……」
彼女が背後で小さく呟く。その息子が嫁を取るのは、今の社会の常識では不自然ではない。そして、彼女も予定されているのは「婿取り」なのだ。
誰が牛耳っているのかは知らないが、家に閉じ込めておこうと言う魂胆なのだろう。
「でも、そんなことしたってその気になったら止められないものよ。だから、ここを見張れるのは私だけで良いと思った。さあ行きなさい」
つまり、離れにこだわったのは、あの日の自分を邪魔した家への、ささやかな復讐だったのだろう。
「おばあさま、ありがとうございます」
彼女は声に涙を滲ませた。彼は、言葉が見つからず、深々と頭を下げて謝意を示した。
二人は手をしっかりと繋ぎ直して、その場を走り去る。気になって一瞬だけ振り返ったが、もう大奥様はそこにいなかった。
それから少しして、全くの偶然だが、離れが見えるあの庭の写真が手に入った。当日欲しかったのは、離れ「から」見える庭の写真であったが、もう済んだことだ。あの時、大奥様と共に彼の視界に入った離れは、その愛情と気配り、そして苦い昔話の思い出として既に心に染みついている。彼は出来心でそれを月長石の写真立てに入れてみる。そして悲鳴を上げた。
あの夜、大奥様が立っていた辺り、そこに、蒼白い幽鬼が立っているのだ。とても大奥様の見間違いとは思えない。
「どうしたの?」
悲鳴を聞きつけた彼女がやってきた。彼は慌てて写真立てを伏せて首を横に振る。
「いや、何でもない。なんか写真に大きな虫が写った気がして」
「あら、あなたが虫に驚くなんて珍しい」
くすくすと笑いながら、彼女は引っ込んだ。
泡を食った彼は伝手を辿って大奥様の消息を調べた。
大奥様は、駆け落ちの翌朝に、離れて冷たくなって発見されたと言う。
死亡推定時刻は、駆け落ち当日の日没頃であった。
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