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十九 桓邸-回顧(二)
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透の刺繍には、いつも同じ紋様が朱色で刺してある。
魔除けの紋だ。
いま、蓮花の目の前で牡丹の刺繍をしている透の手元の布の隅にも、同じ模様が刺してある。
蓮花の部屋にあった書物の表紙に描かれた模様を見て気に入り、自分の刺繍に取り入れたらしい。
透はこれが魔除けであることを知らなかったが、手拭いに刺してある紋様を蓮花が芹那の父である方士に見せたところ効果がありそうだと言ったので、蓮花はその手拭いを方士に渡した。
蓮花が方士に会ったのは、それが最後だった。
芹那の父は、潦国の各地を回って精魅や幽鬼を祓う方士だった。結婚してしばらくは束慧で暮らしていたが、妻を亡くした後は一人娘の芹那を連れて仕事に出向くようになった。けれど芹那が大きくなるにつれて子連れでは仕事が難しくなったため、妻の生家に娘を預けるようになった。
しかし、芹那は母親の生家では冷遇されていた。芹那の父は娘の生活費を十分に渡していたが、芹那は素性の怪しい方士を父に持つ娘として持て余されていた。
そんな芹那を拾ったのは、まだ五つの蓮花だった。
桓邸の門前で転んで泣いていた芹那を見つけ、屋敷に招き入れたのだ。
芹那が世話になっていた母の生家と桓邸はかなり離れており、当時六つだった芹那が歩いて辿り着ける距離ではないはずだった。芹那もどこをどう歩いて桓邸までやってきたかは覚えていないというが、猫を追いかけているうちに貴族の屋敷が建ち並ぶ界隈に迷い込んだらしい。
「あなた、なんてなまえ? わたしといっしょにあそびましょうよ。おともだちになってちょうだいな。わたしのおうちにずっといてくれない?」
言葉巧みに芹那を屋敷に引き込んだ蓮花は、両親に芹那を遊び相手として住まわせることを承諾させた。
芹那が亡き妻の生家から消えたことを知った芹那の父が、城下の方々を探し歩いて桓邸にようやく辿り着いたのは、芹那が蓮花と出会ってから十日後のことだった。
自分が暮らしていた地区名を知らなかった芹那は、桓邸の大人たちにみなしごだと勘違いされていたが、実は迷子だったことを芹那の父が現れて初めて明らかになった。
芹那の父は、娘が蓮花に気に入られていることを知ると、このまま遊び相手として桓邸に置いて欲しいと蓮花の両親に頭を下げた。もうすこし成長したら蓮花の侍女として働かせてくれたらありがたい、とも言った。桓邸で令嬢の侍女を務めていた娘となればそれだけで箔が付く。給金を貯めておけば持参金に足りるだけの額になるはずだし、嫁ぎ先には困らない。もし娘にふさわしい嫁ぎ先が見つからなければ、ずっと桓家で侍女として雇って欲しい、とのことだった。
「きんなはおとうさんのようにほうしにならないの?」
蓮花は、自分の遊び相手である芹那の父が方士であると知ると、途端に方士という仕事に興味を持ち始めた。
同時に、芹那は桓邸で蓮花と一緒に勉強をしたり行儀作法を学んだりして、いずれは侍女になるのだと聞いたとき、なぜ芹那は父親の仕事を継がないのだろうと疑問を感じた。
蓮花は自分の兄たちが、父のような官僚になろうと勉学に励んでいることを知っている。蓮花自身は官僚になるかどうかは決めていなかったが、芹那は一人娘のようだから父親の仕事を継ぐのではないかと漠然と考えていた。
「芹那は方士にはなりません。お嬢様の侍女として、長くおそばに置いてやってください」
方士としての仕事がない日は桓邸に立ち寄って蓮花と芹那に怪談をしてくれたり、地方の昔話をしてくれたりしながら、芹那の父はいつもそう答えていた。
彼は、自分の娘を方士にするつもりは一切なかった。
方士という仕事は収入こそ悪くないが、常に仕事があるわけではなかったし、精魅や幽鬼が相手なので危険な目に会うことが多かった。それに、芹那の父は束慧にいくつかある方士の集団のどこにも所属しておらず、いわば流れ者扱いだった。同業者の間では腕が立つ方士として評判だったが、彼は相棒である同年代の男とふたりだけで仕事をしており、大きな組織とは距離を置いていた。
そんな彼が桓宰相の屋敷に出入りしていることは束慧の貴族たちの耳に入ったらしく、彼に仕事を依頼してくる貴族がちらほらと現れ始めた。
「俺のところに貴族の依頼がくるようになったのは、お嬢様が芹那を拾ってくださったからですよ」
捕まえたばかりの竹籠に入れた小さな精魅を蓮花と芹那に見せながら、彼は嬉しそうに言った。
「そういえば、きんなのおとうさんはなんてなまえなの?」
竹籠の中で歯茎を剥き出しにして威嚇している精魅の名前を聞いた後、思い出したように蓮花は尋ねた。
いつも「きんなのおとうさん」と呼んでいるが、彼にも名前があるはずだということに気づいたのだ。
「名前ですか? うーん。実は本名はお嬢様には教えられません。方士というのは精魅や幽鬼を相手にしているので、こういった魑魅魍魎に名を知られると、相手から罠にかけられやすくなってしまうんです。なので、本当の名前は隠しておくんです」
「じゃあ、きんなのおとうさんのおともだちは、きんなのおとうさんをなんてよぶの? きんなのおとうさんってよんでるの?」
「仲間からは、通称で呼ばれています」
「つうしょう?」
「渾名みたいなものです」
「ふうん。なんてよばれてるの?」
そのときの蓮花は、とにかく彼の名前を知りたくて仕方なく、どこまでもしつこく尋ね続けた。
「甯々です」
彼は、そばにあった紙と筆を手に取ると、硯に残っていた墨を筆先に付けて紙の上にさらさらと『甯々』と書いた。
「これが、あだな?」
「そうです」
「じゃあ、わたしもこれからきんなのおとうさんのこと、ねいねいってよんでいい?」
「もちろんです」
彼は満面の笑みで答えた。
蓮花と芹那は、その日から彼のことを通称の『甯々』で呼ぶようになった。
その後、蓮花は芹那も自分の父の本当の名を知らないのだと告げられた。
魔除けの紋だ。
いま、蓮花の目の前で牡丹の刺繍をしている透の手元の布の隅にも、同じ模様が刺してある。
蓮花の部屋にあった書物の表紙に描かれた模様を見て気に入り、自分の刺繍に取り入れたらしい。
透はこれが魔除けであることを知らなかったが、手拭いに刺してある紋様を蓮花が芹那の父である方士に見せたところ効果がありそうだと言ったので、蓮花はその手拭いを方士に渡した。
蓮花が方士に会ったのは、それが最後だった。
芹那の父は、潦国の各地を回って精魅や幽鬼を祓う方士だった。結婚してしばらくは束慧で暮らしていたが、妻を亡くした後は一人娘の芹那を連れて仕事に出向くようになった。けれど芹那が大きくなるにつれて子連れでは仕事が難しくなったため、妻の生家に娘を預けるようになった。
しかし、芹那は母親の生家では冷遇されていた。芹那の父は娘の生活費を十分に渡していたが、芹那は素性の怪しい方士を父に持つ娘として持て余されていた。
そんな芹那を拾ったのは、まだ五つの蓮花だった。
桓邸の門前で転んで泣いていた芹那を見つけ、屋敷に招き入れたのだ。
芹那が世話になっていた母の生家と桓邸はかなり離れており、当時六つだった芹那が歩いて辿り着ける距離ではないはずだった。芹那もどこをどう歩いて桓邸までやってきたかは覚えていないというが、猫を追いかけているうちに貴族の屋敷が建ち並ぶ界隈に迷い込んだらしい。
「あなた、なんてなまえ? わたしといっしょにあそびましょうよ。おともだちになってちょうだいな。わたしのおうちにずっといてくれない?」
言葉巧みに芹那を屋敷に引き込んだ蓮花は、両親に芹那を遊び相手として住まわせることを承諾させた。
芹那が亡き妻の生家から消えたことを知った芹那の父が、城下の方々を探し歩いて桓邸にようやく辿り着いたのは、芹那が蓮花と出会ってから十日後のことだった。
自分が暮らしていた地区名を知らなかった芹那は、桓邸の大人たちにみなしごだと勘違いされていたが、実は迷子だったことを芹那の父が現れて初めて明らかになった。
芹那の父は、娘が蓮花に気に入られていることを知ると、このまま遊び相手として桓邸に置いて欲しいと蓮花の両親に頭を下げた。もうすこし成長したら蓮花の侍女として働かせてくれたらありがたい、とも言った。桓邸で令嬢の侍女を務めていた娘となればそれだけで箔が付く。給金を貯めておけば持参金に足りるだけの額になるはずだし、嫁ぎ先には困らない。もし娘にふさわしい嫁ぎ先が見つからなければ、ずっと桓家で侍女として雇って欲しい、とのことだった。
「きんなはおとうさんのようにほうしにならないの?」
蓮花は、自分の遊び相手である芹那の父が方士であると知ると、途端に方士という仕事に興味を持ち始めた。
同時に、芹那は桓邸で蓮花と一緒に勉強をしたり行儀作法を学んだりして、いずれは侍女になるのだと聞いたとき、なぜ芹那は父親の仕事を継がないのだろうと疑問を感じた。
蓮花は自分の兄たちが、父のような官僚になろうと勉学に励んでいることを知っている。蓮花自身は官僚になるかどうかは決めていなかったが、芹那は一人娘のようだから父親の仕事を継ぐのではないかと漠然と考えていた。
「芹那は方士にはなりません。お嬢様の侍女として、長くおそばに置いてやってください」
方士としての仕事がない日は桓邸に立ち寄って蓮花と芹那に怪談をしてくれたり、地方の昔話をしてくれたりしながら、芹那の父はいつもそう答えていた。
彼は、自分の娘を方士にするつもりは一切なかった。
方士という仕事は収入こそ悪くないが、常に仕事があるわけではなかったし、精魅や幽鬼が相手なので危険な目に会うことが多かった。それに、芹那の父は束慧にいくつかある方士の集団のどこにも所属しておらず、いわば流れ者扱いだった。同業者の間では腕が立つ方士として評判だったが、彼は相棒である同年代の男とふたりだけで仕事をしており、大きな組織とは距離を置いていた。
そんな彼が桓宰相の屋敷に出入りしていることは束慧の貴族たちの耳に入ったらしく、彼に仕事を依頼してくる貴族がちらほらと現れ始めた。
「俺のところに貴族の依頼がくるようになったのは、お嬢様が芹那を拾ってくださったからですよ」
捕まえたばかりの竹籠に入れた小さな精魅を蓮花と芹那に見せながら、彼は嬉しそうに言った。
「そういえば、きんなのおとうさんはなんてなまえなの?」
竹籠の中で歯茎を剥き出しにして威嚇している精魅の名前を聞いた後、思い出したように蓮花は尋ねた。
いつも「きんなのおとうさん」と呼んでいるが、彼にも名前があるはずだということに気づいたのだ。
「名前ですか? うーん。実は本名はお嬢様には教えられません。方士というのは精魅や幽鬼を相手にしているので、こういった魑魅魍魎に名を知られると、相手から罠にかけられやすくなってしまうんです。なので、本当の名前は隠しておくんです」
「じゃあ、きんなのおとうさんのおともだちは、きんなのおとうさんをなんてよぶの? きんなのおとうさんってよんでるの?」
「仲間からは、通称で呼ばれています」
「つうしょう?」
「渾名みたいなものです」
「ふうん。なんてよばれてるの?」
そのときの蓮花は、とにかく彼の名前を知りたくて仕方なく、どこまでもしつこく尋ね続けた。
「甯々です」
彼は、そばにあった紙と筆を手に取ると、硯に残っていた墨を筆先に付けて紙の上にさらさらと『甯々』と書いた。
「これが、あだな?」
「そうです」
「じゃあ、わたしもこれからきんなのおとうさんのこと、ねいねいってよんでいい?」
「もちろんです」
彼は満面の笑みで答えた。
蓮花と芹那は、その日から彼のことを通称の『甯々』で呼ぶようになった。
その後、蓮花は芹那も自分の父の本当の名を知らないのだと告げられた。
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