いまは亡き公国の謳

紫藤市

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終章

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 プラハで暮らすようになってから五年近くが経つが、庭に関心を持つことはこれまでほとんどなかった。
 リュネヴィル城に住んでいた頃は、ステファーヌとふたりで自分たちの庭を暇さえあれば手入れしていたものだ。ほとんどは庭師が世話をしてくれていたのだが、ほんの少し薔薇の枝のせんていをしただけで、立派な庭師になったつもりでいたのだから笑ってしまう。
 いまの屋敷にも老齢の庭師がいるが、彼はすでに植えられている草木の手入れをするだけだ。しかも、この庭には薔薇の一本も植えられていない。どういうわけか、前の住人が薔薇を好まなかったらしい。
 さくさくと雪を踏み固めて歩きながら、ジェルメーヌは様々な色の薔薇の花が咲き乱れる庭を夢想した。
 白い息を吐きながら走る馬が、野菜を積んだ荷馬車を引いている。朝市に向かう農家の荷馬車だろう。
 あちらこちらの教会で鐘が鳴り、町中に響き渡る。
 カレル橋を渡ると、ヴルタヴァ川は今日もどうどうと水音を轟かせながら流れている。水飛沫と一緒に、湯気が立っているのが見える。
 川には漁をしている小舟が浮かんでいる。この寒空の下、薄着で網を手繰り寄せる漁師の姿がある。
 ステファーヌの墓がある教会は、昨日と変わらず静かだった。
 屋根には雪が積もり、小径も雪かきがされないままになっている。
 人の靴跡があるところが道に違いない、と判断して、ジェルメーヌとミネットは進んだ。
 教会の裏に所狭しと並ぶ墓石たちは雪に埋もれており、どこに誰が眠っているのかわかりづらい状態だ。
 なのに、ステファーヌの墓だけは、きちんと雪が退けられていた。
「誰か、いらしたようですね」
 周囲に落ちている雪に目を遣り、ミネットが首を傾げる。
 墓石の前には、赤い実を付けたひいらぎの枝が供えられていた。
 昨日は、夜になっても雪が降り続いていた。なのに、ステファーヌの墓が雪に埋もれていないということは、今朝になって誰かがここへ来たということだ。
「司祭かしら」
「まさか。朝早くからお墓の雪かきをしてくれるほど、誠実な方には見えませんでしたわ」
 昨日会った司祭の強欲ぶりを思い出したのか、ミネットが顔を顰める。
 確かに、この教会の司祭は博愛精神よりも拝金主義に見えた。
 フランソワが毎年多額の献金をしているにしては、教会内は古びており、修復もされていない。寄進した金がどこに消えているのかは、司祭の太った体格から一目瞭然だった。
 あれでは雪かきもできまい。
「どう見ても、ステファーヌの墓だと知って、雪かきをしているわよね」
 周囲の墓は厚い雪をかぶったままだ。
「ステファーヌの墓がここにあることを知っているのは、フランソワとわたしたちと――」
「……まさか」
 ふたりは顔を見合わせ、黙り込んだ。
「ステファーヌ、誰が来たの?」
 薔薇の花を供えながらジェルメーヌは墓石に話し掛けるが、もちろん返答はない。
「足跡は、教会の裏木戸へと続いているわね」
 新雪が積もった墓地に、他の足跡はない。
「この足跡を追ってみましょうか」
 ミネットの提案に、ジェルメーヌは大きく頷く。
 早朝ということもあり、まだ他の靴跡がついていない。
 いまならこの靴跡の人物に辿り着けるだろう。
 靴跡の靴は大きく、歩幅も大きい。多分、男だ。しかも、長身の。
「またくるわね、ステファーヌ」
 墓石に手を振ると、ジェルメーヌとミネットは白い息を吐きながら靴跡を頼りに歩き始めた。
 古びた裏木戸は教会を囲む木の柵を抜けるためにある。教会の裏には小径があり、小さな家々が軒を連ねる住宅街となっていた。
 軒下にはつららが無数に連なっており、朝日を浴びて溶け出した雫が地面にぽつぽつと音を立てて落ちている。
 靴跡だけを頼りに歩いていた二人は、小径を抜けたところで大通りに出た。
 辻馬車の馬がカポカポと蹄の音を立てながら歩いている。
 黒い外套を羽織った長身の男が、靴跡の先に立っていた。濃灰色の帽子を被っているためよくわからないが、髪は黒いようだ。
 彼は、辻馬車の御者になにか話し掛けている。
(あぁ、間違いない――)
 振り向き、ミネットの顔に視線を向けると、彼女も大きく目を見開き男を凝視している。
(まったく、プラハまで辿り着くまでに、なんで五年もかかっているんだか)
 呆れ返りつつも苦笑いを浮かべたジェルメーヌは、息を吸い込んだ。
 雪で冷やされた空気が肺を満たし、心地よい。
「クロイゼル――」
 腹の底から声を絞り出し、ジェルメーヌは男の背中に向かって大声で呼び掛ける。
 ゆっくりと振り返る男の顔を確認し、ミネットと二人で大きく手を振った。


 了
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みんなの感想(1件)

2019.06.27 ユーザー名の登録がありません

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紫藤市
2019.08.04 紫藤市

ふぃるさん、感想ありがとうございます!
この作品を気に入っていただけてとても嬉しいです。
西洋史の超有名人たちが登場するものの、彼らが活躍するすこし前の時代を舞台にしていますが、欧州の国々の利権争いの裏でこんなことがあったかもしれないという物語として書きました。
史実の中に歴史に名を残していない人々の存在を想像するという作業が面白いので好きです。
最後まで楽しんでいただければ嬉しいです。

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