いまは亡き公国の謳

紫藤市

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終章

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 一七三五年十二月。
 プラハは雪に包まれていた。
 町中が白銀に包まれ、一年中とどろきながら流れているヴルタヴァ川の河面にも氷が張っている。
 カレル橋の上の聖ヤン・ネポムツキー像の頭上や肩にも雪が積もっていた。
 朝からしんしんと降り続いている雪は、止む気配がない。
 頭から外套のフードを被ったジェルメーヌは、寒さに震えながら旧市街地へとカレル橋の上を歩いていた。
「まったく、こんな季節にウィーンからわざわざ来るなんてどうかしてるわ」
 隣を歩く異母弟フランソワに視線を向け、ジェルメーヌは白い息を吐きながら愚痴をこぼす。
「僕も来年には結婚するから、自由に旅ができるうちに来ておきたかったんだ」
 肩に降り積もる雪を払いながら、フランソワは微笑む。
 かつてはジェルメーヌとよく似ていると評判だったフランソワも、成長するに従い男らしい顔付きになり、いまでは似ているところを探す方が難しくなった。
 一方のジェルメーヌといえば、相変わらず冴え冴えとした美貌を保っている。
 化粧はしていないが、寒さで赤く染まった頬と紅を刷いたような唇が、その美しさを際立たせていた。
 ジェルメーヌの背後には、侍女のミネットが黙ってついてきている。
「そういえば、ようやく結婚が決まったのだったわね。おめでとう」
 フランソワは三ヶ月後、オーストリア大公女マリア・テレジアと婚礼を上げることが決まった。
 半年前、手紙で知らされた際に祝辞は送ったが、実際にこうして顔を合わせたのは三年ぶりだ。
 ロレーヌ公となった後も一年のほとんどをウィーンで過ごしているフランソワは、プラハで暮らしているジェルメーヌと顔を会わす機会がほとんどない。
「ありがとう。僕が無事に結婚できるのも、ジェルメーヌのおかげだよ」
「礼を言われるようなことはしていないわ」
 微笑みながら、ジェルメーヌはさくさくと雪を踏む。
 異母兄レオポールの死により、フランソワに嫡男としての重責が巡ってきてから十二年の歳月が過ぎていた。
「それに、わたしだってあなたに面倒をかけたもの」
「プロイセンのこと? あれは別に面倒というほどのことではなかったよ」
 思い出話に花を咲かすような素振りで、フランソワはうそぶく。
 五年前、ジェルメーヌがベルリンから逃げた際、真っ先に向かったのはウィーンだった。プラハではプロイセン王の追っ手を振り切れない可能性があったからだ。
 ジェルメーヌがウィーンに到着した数日後、フリードリヒがイングランドへの亡命を図って失敗したという話がウィーンへもたらされた。
 プロイセン王はフリードリヒがプロイセン王国転覆を企む帝国内の諸侯にそそのかされた、という陰謀説を有力視し、王太子と親しかった諸侯や貴族を徹底的に調べた。調査対象者としてブラモント伯爵の名も上がっていたが、ウィーンではブラモント伯爵の名を使っていなかったジェルメーヌは、なんとか追及を逃れることに成功した。
 現在は、バルベルという母の姓も名乗ってはおらず、ロレーヌ公家との繋がりは隠している。
「ところで、どこへ向かっているの?」
 雪が降り続く中、フランソワに誘われるまま外出したジェルメーヌだが、行き先は告げられていなかった。
 三日前、突然「プラハを訪ねます」とフランソワから手紙が届き、雪で街道が通行止めになっていなければ良いけれど、と心配している間に雪を掻き分けるようにしてフランソワはやってきた。
 到着するなり、行きたい場所があると言いだし、ジェルメーヌを連れ出したのだ。
「教会」
 簡潔に答えたフランソワは、雪で埋もれた石畳の道を歩く。
「毎年、多額の寄進をするって約束させられている教会がこの近くにあるんだけど、僕も結婚したら自由に金を使えなくなるだろうから、来年からはジェルメーヌに任せようかと思って」
「寄進って、なんで?」
「まぁ、来たらわかるよ」
 さくさくと雪を踏みながら、フランソワははぐらかす。
 旧市街のはずれにある小さな教会に、フランソワは手書きの地図で場所を確認しながら進んだ。
 そこは市民が日常的に祈りを捧げる教会だった。
 石造りの建物は小さく、質素だ。
 門扉を開けて教会の横の小径へ進んだフランソワは、裏にある墓地へとジェルメーヌを連れて行った。
「ここに眠る人のために、毎年この教会に寄進をするって約束した男がいるんだ。そいつは金を持っていなかったから、僕に金を出すよう要求してきたんだ」
 墓石に積もった雪を払いのけながら、フランソワは淡々と説明する。
「僕は、自分の雇い主に金を無心しろって言ったんだけど、雇い主にはどうしても隠しておかなければいけないことだからって言っていてね」
「――なに、これ……」
 墓石に刻まれた名前に、ジェルメーヌは目を疑った。
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