いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第十二章 逃亡

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 翌日、『ギーレン少尉』について調べてくると言い残してクロイゼルが出掛けたため、ジェルメーヌは屋敷で読書にふけっていた。
 護衛のクロイゼルが同行しなければ、ミネットが外出を許してくれないのだ。
 ここは敵陣ですから、が侍女の口癖となっていた。
 ブラモント伯爵邸は狭いながらも緑豊かな庭がある屋敷だ。
 応接間から中庭へと続く窓を開け放ち、緑の葉音を聞いていると、初夏の暑さも忘れられる。
 数日中にプラハへ向かう、とジェルメーヌがミネットに告げると、侍女は物凄い勢いで荷造りを始めた。どうやら彼女はベルリン暮らしが気に入らなかったらしい。夏のプラハ訪問も去年までは沈痛な面持ちで旅支度をしていたものだが、今日に限っては嬉しそうだ。
(確かに、この町は少々息苦しい)
 ベルリンは優美さに欠ける都だ。
 前の国王の時代には、王宮も都も華やかで賑わいがあったと聞くが、現国王に代わってからはめっきり変わったらしい。浪費を嫌い、借金を忌み、無駄を憎む王は、国民にも倹約を求めた。
 華美な建物は規制され、庭園では薔薇のような花々よりも野菜の栽培が奨励された。
 王の唯一の長所は、優秀な軍人であれば身分を問わず昇進させることだろう。男子に限りはしたが、軍隊に入隊した者はいずれも訓練の中で教育を受けることができる。国内の教育水準を上げる効果は出ているようだ。
 また、新教徒たちにも寛容だという話だ。
 とはいえ、この王を理解できる者は少ない。
 報酬を減額された家臣の中には、他国に移った者も少なくないという。
(プロイセン修道院、と言ったところだな)
 リュネヴィルでの華麗な宮廷生活に慣れているジェルメーヌは、ベルリンが堅苦しく感じられた。
 シュリュッセルを探し出し、プロイセン王妃に復讐を果たすという目的がなければ、ベルリンには滞在しなかったに違いない。
(どうも私は、自分の中でステファーヌの仇を討つという意気込みが以前よりも弱くなってきているような気がしてならない。悲しみが癒えたわけではないのに……時間が経ったからなのか、世間が見えてきたからなのか)
 復讐を断念するつもりはないが、プロイセン王妃に一矢報いたいという焦る気持ちはなくなっている。
 五年前、プラハからリュネヴィルに戻った直後は、いさめる父に反抗してばかりだったというのに、奇妙なものだ。
(ま、じわじわと王妃を追い詰めていくのも悪くない。いては事を仕損じると言うし、王太子と顔見知りになれただけでも及第点としよう)
 王太子に急接近し過ぎては、プロイセン王の不審を買うかもしれない。
 事は慎重に、と本のページを捲りながら自分に言い聞かせていたときだった。
 おくつろぎ中申し訳ございません、と初老の家令が応接間に現れた。ご主人様にお客様です、と淡々とした口調で来客を告げる。
「誰?」
 ベルリンまで自分を訪ねてくるような知人はいない。
「名乗られませんでしたが、若い男性です」
「通せ」
 略装ではあるが、客を迎えられる服装ではあるため、ジェルメーヌは家令に命じた。
 なんとなく、想像がついたのだ。
「突然訪ねてきてしまい、申し訳ありません」
 恐縮しながら応接室に入ってきたのは、フリードリヒだった。
 ある程度は予想していたものの、まさかこんなに早く現れるとは意外だった。
 しかも、彼の顔には昨日よりも痣が増えており、クラバットを結んだ首にも真新しい痣がある。明らかに、昨日から今日にかけてできたものだ。
「若様、ここに来てはいけません」
 フリードリヒの酷い容貌に眉を顰めたジェルメーヌは、厳しい口調で叱った。
「この傷は、昨日私が劇場にお連れしたことが原因でしょう? なら、陛下はあなたが私と付き合うことを快く思われていないはずだ。あなたが私を訪ねたことを陛下がお知りになれば、あなたはさらに陛下からせっかんされることになります」
 よく見れば、フリードリヒの額には切り傷のようなものまである。
「えぇ、すぐに帰ります。ここに来たことを父が知れば、あなたにまで害は及ぶでしょうから」
 項垂れたフリードリヒは、ジェルメーヌの視線から逃れるように顔を背けた。
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