いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第九章 『三羽の駝鳥』

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 日没を迎え、西の空も真っ暗になった頃、クロイゼルが戻ってきた。
 人目を避けて死体をヴルタヴァ川に捨てるのに手間取ったのだ、と彼は遅くなった理由を説明した。
「戻ってきたところ悪いのだが、死体がもうひとつできた」
 クロイゼルの帰りを待っている間、疲労で酷い頭痛に襲われ初めていたジェルメーヌは、不機嫌もあらわにピュッチュナー男爵の死体を指す。
「甥のコランタンが暗殺の実行犯かもしれないという事実に打ちのめされ、毒入りのワインを飲んで自殺を図った」
「これもヴルタヴァ川に捨てるのか?」
「まさか。死体を次々と川に捨てていては、プラハ市民から抗議されるだろう? この死体は馬車に乗せてくれるだけでいい。泊まっている邸宅に持って帰るんだ。あとの始末は、侯爵が考えるだろう」
 ピュッチュナー男爵の死後の面倒まではみたくなった。
 彼がどのような葬られ方をしようと、興味はない。
「君に礼をしなければならないな。生憎持ち合わせはないのだが、わたしと一緒に来てくれれば、言い値を払おう」
「金は不要だ」
 低い声でクロイゼルはジェルメーヌの言葉を遮った。
「私は公女殿に雇われているわけではない。頼まれて手伝っただけだ」
「その手伝いの礼をしたいだけだ」
「不要だ」
 ぶっきらぼうにクロイゼルは繰り返した。
「私はあるじとして従うべき人物を失った。ただそれだけだ」
「君の主はトロッケン男爵だろう?」
「男爵はただの雇い主だ。公子殿は私の主君になるはずだった方だ」
「――なるほど」
 トロッケン男爵のおもわくとは別に、クロイゼルはステファーヌを主君として認めかけていたようだ。
 クロイゼルはピュッチュナー男爵の死体も寝台のしきで包むと、忠実にはたの前でジェルメーヌたちを待ち構えていた馬車の中に運び込んだ。
「ついでといってはなんだか、君もわたしと一緒に来てくれないか? 護衛がいない状態で邸宅へ戻るのは不安なんだ」
 ステファーヌの従僕はクロイゼルが持っていた金を渡し、トロッケン男爵の元へ報告に行くよう命じたが、ミネットはジェルメーヌが連れて行くことにした。
 とはいえ、女ふたりと御者ひとりではこころもとい。
 クロイゼルがトロッケン男爵のところへ戻らないのであれば、彼を連れて帰っても良いような気がした。
 なにより、ステファーヌを殺したコランタンが見つかるまでは、常に周囲を警戒する必要がある。
「――わかった」
 一瞬だけ考えるそぶりを見せたが、すぐにクロイゼルは馬車に乗り込んだ。

     *

 邸宅に戻ると、大騒ぎになった。
 クラオン侯爵はかんしゃくを起こし、ちょうざいさいはひたすら神に祈りを捧げ、近侍たちは泣き出す始末だ。
 彼らにとって唯一の救いは、死んだのがフランソワではなくステファーヌということだった。ジェルメーヌの手前、口には出さないが、『貴い犠牲云々』と聴罪司祭が幾度か呟いた。
 ピュッチュナー男爵の死は、侯爵の正気を取り戻させる一因にはなった。
 どうやらコランタンが実行犯であるらしいという事実に、侯爵はピュッチュナー男爵ほど取り乱しはしなかった。
 密かにコランタンを探させましょう、とジェルメーヌに告げると、侯爵は部下に指示を出すため、書斎に姿を消した。
 クロイゼルを護衛として雇いたいというジェルメーヌの希望は、すぐに聞き届けられた。ミネットを侍女としてそばに置くことも認められた。
 ステファーヌの死に打撃を受けているであろうジェルメーヌの我が儘を、できる限り聞いてやろうという侯爵のはいりょであることは明らかだった。
 ミネットとクロイゼルを連れて部屋に戻ると、ジェルメーヌは長椅子に座り込む。
 部屋中のあらゆる燭台の蝋燭に炎を灯し、室内を煌々と照らしているが、それでも周囲が暗く感じられた。
 本来であれば、今頃この部屋でこうしてため息をついているのは、ステファーヌのはずだった。フランソワ公子になりすまし、緊張しながらも、椅子に座って飲み物でも口にしている頃だったのだ。
(そういえば……あの紙切れは結局なんだったんだろう?)
 上着のポケットに手を入れ、ジェルメーヌは入れっぱなしになっていた紙切れを取り出した。
 皺だらけの紙を伸ばし、書かれた文字を見つめる。
『モステッカー通り 三羽のちょう
 あの花売り娘は、ステファーヌの伝言を運んできたわけではなかったのだ。
 ではなぜ、彼女はこの紙切れを渡してきたのか。
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