いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第七章 プロイセンの陰

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 聖ローレンツ教会からジェルメーヌの姿が消えたことに関しては、クラオン侯爵やジャックマン男爵らの胃を締め上げ、ピュッチュナー男爵の体重を激減させ、コランタンを鬱病寸前まで追い込んでいた。
 教会前で誘拐されかけ、通りがかりの親切な騎士に助けられたとジェルメーヌが説明した時には、一様にげんな顔をされたが、ひとまず彼女が無事に司祭館に戻ってきたことを喜んでくれた。
「結局、フランソワ様を誘拐しようとしたのはトロッケン男爵ではなかったということでしょうか」
 旅の間中、趣味の素描を禁止されたコランタンは、汚名返上の機会を探しているのか、ジェルメーヌに貼り付いて離れないようになった。
 精神的打撃が大きかった侯爵らは寝込み、ジェルメーヌも誘拐されかけたことで気が滅入ってしまい、不眠気味になってしまった。
 結局、ニュルンベルクには五日間滞在を延長したが、初日以外は外出することなく、静養に当てられた。表向きは、長旅の疲れが溜まり、体調を崩したということになっている。
 司祭らの手前、ジェルメーヌは部屋に籠もっているしかなく、気晴らしにコランタンとチェスに興じていた。喋りながら駒を睨んでいるコランタンはあまり集中できていないらしく、やたらと弱い。
 ジェルメーヌも勝ってばかりではあまり楽しくはないが、他にしたいことがあるわけでもない。仕方なく、だらだらと喋りながらチェス盤と向かい合っていた。
「トロッケン男爵が誘拐の首謀者なら、ならず者を雇ってわたしをさらう必要はないはずだ。一言、ステファーヌに会わせると言いさえすれば、わたしがおとなしくついていくことくらい、わかるだろう?」
 トロッケン男爵なら、母の名を出しただけで城から簡単に連れ出せたジェルメーヌを、ステファーヌの名でおびせることくらい簡単だと知っている。
 それに、わざわざクロイゼルを使って救出させ、弱っているステファーヌに会わせるという演出も不要だ。
 クロイゼルに助けられたことは適当にぼやかし、ステファーヌに会ったことは完全に黙っていることを決めたため、ジェルメーヌは誘拐犯に関してかなりあやふやな説明しかすることができなかった。
 そのため、クラオン侯爵らは、ジェルメーヌがまた誘拐犯に狙われるのでは、と警戒を解いていない。部屋の入り口には侍従がひとりは必ず見張りとして交代で立っている始末だ。
 おかげでジェルメーヌは、部屋から出るどころか、窓から外を眺めることさえ禁止されてしまっていた。息苦しいことこの上ない。
「しかし、トロッケン男爵らは、あなたのことをフランソワ公子だと思い込んでいるんですよ?」
「あぁ、そういえばそうだったな。ただ、男爵らも自分たちの計画がこちらにばれていることは知っているだろうから、フランソワに声を掛ければのこのことついてくると考えるかもしれない」
「うーん、そうですねぇ。あの方なら」
 天井の装飾を睨みながらコランタンは言葉を詰まらせた。
「……案外ついていくかもしれませんねぇ」
 紅茶をカップに注ぎながら、コランタンが苦笑を漏らす。
「なんというか、あの方は好奇心のおもむくままに行動するところがありますからねぇ」
「軽率だし、興味本位で首を突っ込むことが得意だからな」
「そんな風に言ってしまうと、身も蓋もないですけどね」
 ただ、コランタンのフランソワに関する評価は、ジェルメーヌとほぼ似たようなものではあるらしい。
 湯気の立つカップに砂糖をさじで山盛り投入しながら、ジェルメーヌはため息を吐いた。
「敵が男爵だけであれば、楽だっただろうに」
「伯父上が言っていたプロイセンのことを気にされていらっしゃるんですか? あれはかなり不確かな情報のようですけど」
 とうみつをたっぷりかけたケーキを皿に盛りながら、コランタンが首を傾げる。
「僕は、フランソワ様があまりにも綺麗だから狙われたんだと思っています。この町は商人や職人が多くて経済も比較的安定している分、治安は良い方ですけど、だからといって犯罪がないわけではないですからね。ひとさらいってのは基本的にどこにでもいるものですよ。東方では奴隷としての人気も高いようですしね」
 まるで世間を知り尽くしているような顔でコランタンは告げる。
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