いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第五章 誘拐

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 リュネヴィルを出て数日間は、旅も単調ながら平穏に続いた。
 ロレーヌ公国の国境を越えると、ブラモントを通り、ストラスブールへと向かった。
 神聖ローマ帝国内の選帝侯領や独立司教領などを通り、ときには領主の歓待も受けた。
 そのたびにジェルメーヌはロレーヌ公子にさわしいふるまいで対応し、領主やその家族たちを感激させた。
 五日も経つと、さすがにジェルメーヌも旅に疲れてきた。
 旅そのものよりも、公子としての社交にくたびれていた。
 日頃からステファーヌとふたり、リュネヴィル城に籠もってひっそりと暮らしてきたのだ。大勢の人に囲まれ、愛想笑いといんぎんな態度で人と語らうといったことをほとんどしたことがない。
 男装には慣れてきたし、男として振る舞うこともそう難しくはない。
 神聖ローマ帝国内でも王侯貴族の間ではフランス宮廷文化が流行っているため、優雅な所作が好まれる。
 フランソワ公子の振る舞いが少々たおやか過ぎても、王侯貴族たちはフランソワ公子が実は女性であることに気付かない。
 夏であっても王侯貴族の服装は庶民のように簡素ではないことも幸いした。
 念のため、胸部は布を巻いて押さえてはいるが、ブラウスの上に胴着を羽織り、その上に長袖の上着を羽織っているため、15歳の少年にしては華奢な体格も上手く隠すことができた。
 喋る際に低めの声を出せば、成長期らしい高さの声になる。
 長くゆるやかな癖のある蜂蜜色の髪は絹のリボンでひとつに結び、貴族の子弟らしい礼儀作法を守れば、誰からも疑われることはない。
 若干問題があるとすれば、上品で美しく如才ないフランソワ公子は、滞在先の城や館の未婚の令嬢から過大な歓迎を受けてしまうことだ。
 王侯貴族たちはロレーヌ公子がオーストリア大公女の婿候補であることは知っていたが、自分の娘の婿に相応しいかどうかも品定めしていた。ロレーヌ公子が確実に大公女の婿になれるという保証はなく、また、場合によっては自分の娘をロレーヌ公妃にしようという計算も働いていた。
 歓待はされているが、値踏みもされていることを知りつつ、愛想良く振る舞うのはひどく神経をり減らすものだとジェルメールはこの数日間で学んだ。
「コランタン、バーデン辺境伯の妹君と舞踏会で三曲も踊ったことをちゃんと書いておいてよ。しかもワルツばかり三曲も!」
 馬車の中で旅の日誌を書いているコランタンにジェルメーヌは指示した。
 未婚で二十五歳のバーデン辺境伯の妹は、十歳も年下のフランソワ公子に執心していた。まだ六歳の大公女よりも自分の方が魅力的だと熱烈に言い寄ってきていたが、ジェルメーヌは作り笑いを浮かべてそれらをすべて丁重にあしらった。
「彼女ときたら、香水とふんの臭いがきつすぎて、一緒に踊っているだけで気分が悪くなったんだから。ダンスは下手だし、ドレスの趣味も悪いし、あのルビーの首飾りと耳飾りも古くさくて駄目。あれでよくしゅくじょを自称できるものだと感心するな」
 車中までも衣類に付いた彼女の臭いが辺りに漂っているように思えて、ジェルメーヌは気が滅入った。バーデン辺境伯の身内と親しい人物だけが集まった、ささやかなばんさんかいと舞踏会だったが、ジェルメーヌにとっては苦行に近いものだった。
 プラハに到着するまでの間、また到着後もフランソワと入れ替わるまでの間、ジェルメーヌはこの試練に耐え続けなければならない。
 いつになったらトロッケン男爵はステファーヌを連れて現れるのか。いまや遅しと待ちわびている状態だ。
「フランソワ様はご婦人方に対して少々しんらつですね」
 日誌を書いていたコランタンは笑いを噛み殺しながら言った。
「失礼ながら、私は、バーデン辺境伯のひげの奇抜さにいささか品格を疑いましたが」
「あの髭は特徴があって面白いじゃないか。毎日の手入れが大変そうだが、伯爵の努力が感じられる」
 バーデン辺境伯の口髭は長く左右に伸びていた。毛先は耳たぶに届きそうな勢いで、彼の髭の剛毛ぶりがうかがえる。さぞかし毎朝手入れに余念が無いことだろう。
「夫人のドレスも流行遅れだが、彼女はあまり流行にこだわらない方なのだろう。あのかつらはなかなかざんしんで楽しかったし、妹君のことさえなければ、なかなか有意義な滞在だったとは思う」
「あのご令嬢はフランソワ様のお好みではなかったということですか」
「まったく!」
 本物のフランソワの好みがどのようなものかは知らないが、あまりにも厚化粧が過ぎて素顔が想像もできないような状態になっているのはよくないとジェルメーヌは考えた。もしかしたら女性慣れしていないフランソワであれば、伯爵の妹の間違った魅力に悪酔いするかもしれない。
「彼女は狩人だと日誌にはしっかりと書いておくこと」
「この日誌、後々まで残しておけないものになりそうですね。密偵にでも読まれたら、国際問題ですよ」
「君の悪筆なら解読が難しいから大丈夫だろうけど、心配なら、用が済むと同時に燃やしてしまいなさい」
 実際、ジェルメーヌが読んでもなんと書いてあるのか判別できないほど、コランタンの文字は汚かった。それでも書いた本人は読めるのだから、秘密の日誌としての役割は充分果たしている。
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