いまは亡き公国の謳

紫藤市

文字の大きさ
上 下
16 / 70
第三章 公子教育

しおりを挟む
 次に目を覚ました瞬間、ほんの数秒しか意識を失っていない気がしたが、すでに窓の外は明るくなっていた。
 部屋中のカーテンは開けられ、寝台の天蓋の幕も上げられている。
 昨日の射撃の練習で重い猟銃を持っていたせいか、両腕や肩が痛い。
 疲労が溜まっているのか、頭もぼんやりとしており、全身が怠かった。
「おはよう、ステファーヌ」
 ゆっくりと身体を起こしたジェルメーヌは、まぶたを擦りながら、すぐ隣で寝ているはずのステファーヌに声を掛けた。
 いつもならばミネットが部屋中のカーテンを開けると同時にふたりを起こすのだが、今日はどういうわけかミネットに起こされた記憶がない。しかも、窓から差し込む陽射しの角度から、どうやらかなり寝坊をしたようだ。
 普段なら夜明けと同時に叩き起こされ、朝食を終えるとすぐに授業が始まるというのに、珍しいこともあるものだ。
 プラハ行きが決定した以上、授業はさらに過密になるはずなのに、どういうことなのか。
 視線を自分の隣に向けたジェルメーヌは、いつも必ずあるはずのステファーヌの姿がないことに、首を傾げた。
「ステファーヌ?」
 洗面所だろうか、と考えながら、ジェルメーヌは寝台から下りると室内履きに足を通した。ステファーヌが自分より先に起きることは少ないが、まったくないわけではない。
「ステファーヌ、そこにいるの?」
 洗面所の扉を軽く叩き呼び掛けるが、返事はなかった。
「ステファーヌ、開けるわよ」
 声を掛けて、しばらく待ってから、ジェルメーヌは扉の取っ手を回してみた。
 鍵が掛けられていない扉はいとも容易く開いたが、室内に人影はなかった。
 辺りを見回してみるが、人の気配はしない。
「ステファーヌ? どこ? ミネット? ミネット!」
 寝室の椅子の背もたれに掛けてあった上着を羽織り、声を張り上げる。
 すぐ隣の小間使い用の部屋にいるはずのミネットだが、いくら呼んでも返事がない。
 よくよく見ると、揃いの上着の一枚が見当たらなかった。
 靴も一足消えている。
 ステファーヌは着替えを済ませ、部屋から出て行ったらしい。
「ミネット!」
 苛立った声を上げてステファーヌは侍女を呼ぶが、いつもはすぐに現れるミネットがまったく姿を見せない。
 それどころか、廊下に出てみても、他の使用人の姿もない。
「……誰も、いないの?」
 ジェルメーヌは次々と部屋の扉を開け放っては中を覗くが、使用人の姿も教師たちの姿も見当たらなかった。
「まさか、わたしを残して出て行ったというの?」
 にわかには信じ難いことではあるが、そうとしか考えようがなかった。
 使用人たちが集う厨房へ足を向けてみたが、かまどの火が消えた厨房は人気も無く、寒々としている。
 屋敷中を歩き回ったジェルメーヌは、最後に男爵が書斎として使っていた部屋に向かったが、中は家具を残してもぬけの空となっていた。
「ステファーヌ、わたしを置いていくなんて……ひどいじゃないの」
 混乱する頭を抱えながら、ジェルメーヌは書斎の長椅子に座り込んだ。
 ステファーヌは男爵と取り引きをしたのだろう。ジェルメーヌが無事にリュネヴィル城に戻れるよう、この屋敷に残していったに違いない。
 男爵としては、公子の代わりになれないジェルメーヌは必要ないと判断したのだろう。彼がジェルメーヌともどもステファーヌを誘拐したのは、ふたりを引き離して城から攫うことが難しかったからだ。
 この屋敷に軟禁している以上、ステファーヌとジェルメーヌを引き離すことは可能だ。これまでそれをしなかったのは、ステファーヌを意のままに操るためにジェルメーヌを人質として確保しておきたいという思惑もあったはずだ。
「わたしもプラハまで行くつもりだったのに」
 誰もいない部屋で呆然としながら愚痴ってみても、答えてくれる人はいない。
 ステファーヌが自分を密かに残していくことを計画していたことも衝撃だが、隣で寝ていたステファーヌが起きたことに自分が気付かなかったことにも驚いていた。
 昨夜飲んだカモミール茶になにか睡眠薬のようなものが混ざっていたのかもしれない。
 ステファーヌなら、ミネットに命じてジェルメーヌのカップにだけ睡眠薬入りの茶を出すことも可能だ。
 椅子から立ち上がる気力も沸かなくなったジェルメーヌは、そのまましばらくぼんやりと座り込んでいた。
 たったひとり残されて、これからどうすれば良いのかわからなかった。
 この屋敷がどこにあるのかもわからず、どうすればリュネヴィル城に戻れるのかもわからない。
 生まれてから今日まで、ひとりになったことがなかったジェルメーヌは、自分以外の誰もいないという状況に戸惑っていた。
 しばらくはそのまま呆然としていたジェルメーヌだったが、やがて屋敷の玄関の方角から馬のひづめの音が聞こえてきた。
 最初は空耳かとも思ったが、どうやら人の話し声らしき音もする。
 重い身体をるようにして椅子から立ち上がると、廊下に出て、玄関へと向かった。
 窓が少なく薄暗い玄関は、吹き抜けの大階段がある以外は、装飾がまったくない。
 じゅうたんも敷かれていない木の床の上を、靴音を立てながらジェルメーヌが歩いていると、外から玄関の扉が開けられた。
「そこにいるのは、誰だ?」
 最初に屋敷に踏み込んできた軍服姿の男がジェルメーヌに尋ねる。
「わたくしは、ジェルメーヌ・バルベル・ド・ロレーヌです」
 男たちが身を包む軍服がリュネヴィル城でよく見かけるものだったため、ジェルメーヌはできるだけ威厳を込めて名乗った。実際には、庶子であるジェルメーヌがロレーヌを名乗ることはできないのだが、必要に応じてジェルメーヌはロレーヌを名乗ることを父親から許されていた。
 公女らしからぬ格好をした娘の姿に、最初、男たちは訝しげな表情を浮かべた。
「ジェルメーヌ公女様、ですか?」
 ひとりの青年が軍服姿の男たちを掻き分けて現れると、ジェルメーヌの前で跪く。
「そうです。久しぶりですね、コランタン」
 見覚えのある青年の顔に、ジェルメーヌは軽いため息を吐いた。
 コランタン・ドミは、ピュッチュナー男爵の甥でレオポールの従僕を務めていた男だ。ジェルメーヌとも面識はあったが、こうやってまともに話をするのは始めてだった。
「ご無事だったのですね。あんいたしました」
 緊張した表情を緩ませ、コランタンは胸を撫で下ろす。
 同時に、軍服姿の男たちが各部屋を検めるため走り出した。
「ステファーヌ様はご一緒だったのではないのですか?」
「わたくしが今朝目を覚ましたときには、ステファーヌの姿はありませんでした。ステファーヌだけではなく、他の者の姿もありません。それよりも、よくここがわかりましたね」
 ジェルメーヌは険しい顔を浮かべたままコランタンに尋ねた。
 どうもコランタンの態度から、ジェルメーヌがこの屋敷に捕らえられていることを情報として掴んでいたふしがある。
「城に、この屋敷のことを密告する手紙が届いたのです。ここにジェルメーヌ様が捕らえられている、と。それで、公爵様は私に兵士をお貸しくださり、捜索してくるようにと命じられたのです」
「……そうでしたか」
 密告の手紙をかかせたのはステファーヌだろう。
 ひとりで屋敷に取り残されたジェルメーヌを迎えに行かせるため、誰かに手紙を届けさせたに違いない。
「ステファーヌは、すべて準備を整えた上で、わたくしを残して行ってしまったのですね」
 ちんうつな表情を浮かべたジェルメーヌがぽつりと呟くと、コランタンは目を伏せた。
「とにかく、城に戻りましょう、公女様。貴女様だけでもご無事であったことを公爵様に報告しなければ」
「……そうね」
 肩を落としていたジェルメーヌはコランタンの提案にゆっくりと頷く。
「帰りましょう」
 ステファーヌがいない城館は到底自分の帰る場所だとは思えなかった。
 それでも、迎えに来てくれたコランタンを追い返して、ひとりここに残るわけにもいかない。ステファーヌを連れた男爵たちがプラハへ向かった以上、ここでぐずぐずしていても仕方ないのだ。
 ステファーヌの気配を辿ることを諦め、ジェルメーヌは唇を強く噛み締めた。
 視界が涙で曇る。
 嗚咽を抑えようと両手で口元を押さえた瞬間、ジェルメーヌは全身から力が抜けるのを感じ、崩れるようにして床に座り込んだ。
「公女様!」
 コランタンが慌てて駆け寄ったが、ジェルメーヌはそれを片手で制した。
「――大丈夫」
「ちっとも大丈夫ではないですよ!」
「本当に大丈夫。ただすこし……くたびれただけ。だから、城に戻るのはちょっとだけ待って頂戴。ちょっとだけ」
 頬を伝い零れ落ちる雫が床を濡らす。
 ジェルメーヌは両手で自分の身体を強く抱きしめた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

やり直し王女テューラ・ア・ダンマークの生存戦略

シャチ
歴史・時代
ダンマーク王国の王女テューラ・ア・ダンマークは3歳の時に前世を思いだす。 王族だったために平民出身の最愛の人と結婚もできす、2回の世界大戦では大国の都合によって悲惨な運命をたどった。 せっかく人生をやり直せるなら最愛の人と結婚もしたいし、王族として国民を不幸にしないために活動したい。 小国ダンマークの独立を保つために何をし何ができるのか? 前世の未来知識を駆使した王女テューラのやり直しの人生が始まる。 ※デンマークとしていないのはわざとです。 誤字ではありません。 王族の方のカタカナ表記は現在でも「ダンマーク」となっておりますのでそちらにあえて合わせてあります

異・雨月

筑前助広
歴史・時代
幕末。泰平の世を築いた江戸幕府の屋台骨が揺らぎだした頃、怡土藩中老の三男として生まれた谷原睦之介は、誰にも言えぬ恋に身を焦がしながら鬱屈した日々を過ごしていた。未来のない恋。先の見えた将来。何も変わらず、このまま世の中は当たり前のように続くと思っていたのだが――。 <本作は、小説家になろう・カクヨムに連載したものを、加筆修正し掲載しています> ※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名とは一切関係ありません。 ※この物語は、「巷説江戸演義」と題した筑前筑後オリジナル作品企画の作品群です。舞台は江戸時代ですが、オリジナル解釈の江戸時代ですので、史実とは違う部分も多数ございますので、どうぞご注意ください。また、作中には実際の地名が登場しますが、実在のものとは違いますので、併せてご注意ください。

国王のチャンピオン

桐崎惹句
歴史・時代
一六八九年、名誉革命と呼ばれる政変で英国王に即位したウィリアム三世とメアリ二世。 その戴冠式後の大祝宴で、事件は起こった。 史上初、国王の即位に対する異議申立。 若き国王の守護闘士サー・チャールズ・ダイモークは、時代に翻弄される誇りを貫き通すことができるのか? ※「カクヨム」様、「小説家になろう」様、「アルファポリス」様、重複投稿となります。 全17話予定 ※18話になりました。 第1話 ダイモーク卿 第2話 マーミオンの血脈 5月2日公開予定 第3話 即位大祝宴の夜 5月3日公開予定 第4話 ジョン・チャーチルと国王 5月4日公開予定 第5話 シュロウズブリ伯爵 5月5日公開予定 第6話 老人と娘 5月6日公開予定 第7話 ティターニア 5月7日公開予定 第8話 レディ・スノーデン 5月8日公開予定 第9話 森の水辺 5月9日公開予定 第10話 彼女の理由 5月10日公開予定 第11話 夏は来たりぬ 5月11日公開予定 第12話 それぞれの誇り(上) 5月12日公開予定 第13話 それぞれの誇り(下) 5月13日公開予定 第14話 ふたたび即位大祝宴の夜 5月14日公開予定 第15話 戦場の剣と守護の剣 5月15日公開予定 第16話 決闘の朝 5月16日公開予定 第17話 旅路の果て 5月17日公開予定 第18話 エピローグ ~ そして今 5月18日公開予定

柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治

月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。 なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。 そんな長屋の差配の孫娘お七。 なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。 徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、 「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。 ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。 ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。

御懐妊

戸沢一平
歴史・時代
 戦国時代の末期、出羽の国における白鳥氏と最上氏によるこの地方の覇権をめぐる物語である。  白鳥十郎長久は、最上義光の娘布姫を正室に迎えており最上氏とは表面上は良好な関係であったが、最上氏に先んじて出羽国の領主となるべく虎視淡々と準備を進めていた。そして、天下の情勢は織田信長に勢いがあると見るや、名馬白雲雀を献上して、信長に出羽国領主と認めてもらおうとする。  信長からは更に鷹を献上するよう要望されたことから、出羽一の鷹と評判の逸物を手に入れようとするが持ち主は白鳥氏に恨みを持つ者だった。鷹は譲れないという。  そんな中、布姫が懐妊する。めでたい事ではあるが、生まれてくる子は最上義光の孫でもあり、白鳥にとっては相応の対応が必要となった。

花なき鳥

紫乃森統子
歴史・時代
相添はん 雲のあはひの 彼方(をち)にても── 安政六年、小姓仕えのために城へ上がった大谷武次は、家督を継いで間もない若き主君の帰国に催された春の園遊会で、余興に弓を射ることになる。 武次の放った矢が的にある鳥を縫い留めてしまったことから、謹慎処分を言い渡されてしまうが──

黄金の檻の高貴な囚人

せりもも
歴史・時代
短編集。ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを囲む人々の、群像劇。 ナポレオンと、敗戦国オーストリアの皇女マリー・ルイーゼの間に生まれた、少年。彼は、父ナポレオンが没落すると、母の実家であるハプスブルク宮廷に引き取られた。やがて、母とも引き離され、一人、ウィーンに幽閉される。 仇敵ナポレオンの息子(だが彼は、オーストリア皇帝の孫だった)に戸惑う、周囲の人々。父への敵意から、懸命に自我を守ろうとする、幼いフランツ。しかしオーストリアには、敵ばかりではなかった……。 ナポレオンの絶頂期から、ウィーン3月革命までを描く。 ※カクヨムさんで完結している「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」のスピンオフ短編集です https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129 ※星海社さんの座談会(2023.冬)で取り上げて頂いた作品は、こちらではありません。本編に含まれるミステリのひとつを抽出してまとめたもので、公開はしていません https://sai-zen-sen.jp/works/extras/sfa037/01/01.html ※断りのない画像は、全て、wikiからのパブリック・ドメイン作品です

処理中です...