いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第三章 公子教育

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「十日ほどはかかるだろう」
 ふたりの背後で話に耳を傾けていたクロイゼルが、口を挟んできた。
「十日!」
 ジェルメールが悲鳴に近い声を上げると、ステファーヌも目を大きく見開く。
「男爵。旅慣れていないこのふたりをプラハまで連れて行くとなると、大仕事だぞ」
「旅慣れていないのはフランソワ公子も同じだ」
 ふたりの反応を面白そうに眺めながら、男爵は素っ気ない口調で答えた。
「しかもあちらはロレーヌ公子として、各国の領主に挨拶回りをしながらの旅となるだろうから、我々の方が先にプラハに到着できるのは間違いない。すでにはずは整っている」
 男爵はクロイゼルから双子に視線を移すと、作り笑いを浮かべて告げた。
「どうやら、この屋敷のことがロレーヌ公に勘づかれそうなので、一両日中にプラハへ出立します。旅の間も公子教育はおこないますので、そのおつもりで。クロイゼル、君にももちろん同行してもらう」
「冗談だろう?」
 苦々しい表情を浮かべたクロイゼルは、険しい目つきで男爵を睨む。
「私に、このお姫様たちの旅のお供をしろというのか?」
 明らかにふたりに敬意を払っていない態度だが、ジェルメーヌとステファーヌは別段気にはしていなかった。
 公女として育ったふたりは男装しているにもかかわらず、クロイゼルからは『お姫様たち』と呼ばれていた。武術をまったく習ったことがないふたりは、片方がれっきとした男とはいえ、クロイゼルから見ればどちらも『公女様』でしかないらしい。
「護衛も兼ねて、ついてきてもらう。それに、プラハまで一緒に来なければ、君は『フランソワ公子』の従者になる機会はなくなるぞ」
「――わかった」
 渋々といった様子で、クロイゼルは了承した。
 旅の予定だけ告げると、忙しそうに男爵は屋敷から出ていった。
「君は『公子』の従者になりたいのか?」
 中断してしまった射撃の練習を再開しようとするクロイゼルに、なにげなくジェルメールは尋ねた。
 さきほどの男爵の口振りから、男爵は公子のすり替えを成功させるためにも、公子の近習を自分の息が掛かった者で固めたい様子だ。そのうちのひとりがクロイゼルのようだが、彼としてはプラハまでおもむくのは本意ではなさそうだ。
「……なれるものなら」
 すこしためった後で、クロイゼルは低い声で答えた。
「私の父は、五年前のトルコ戦争に歩兵として出征して戦死した。兵士として戦功を上げて成り上がる夢を抱いていたらしい。歩兵ごときがそう簡単に手柄を立てられるはずがないって母は止めたが、聞く耳を持たなかったんだ。男爵はそのときの父の上官だった。父の死後、男爵は私を屋敷で召し抱えてくれた。汚い仕事も嫌がらずに引き受けてきたものだから、信頼もされるようになった。しかし、このまま男爵の使いっ走りで一生を終えるつもりはない。だから、今回の公子すり替えを手伝う代わりに、私を新しい公子の従者にしろと要求したんだ。さもなければ、ロレーヌ公に男爵らの計画をばらすと脅した」
「お父様に男爵の計画を密告すれば、ほうが貰えただろうに」
「金はもらえただろうが、それでおしまいだ。平民の私が宮廷に取り立ててもらえるようにはならない。私は、父よりも確実な手段で、成り上がりたいんだ」
「確実……ねぇ」
 ステファーヌが顔を顰めて首を傾げる。
「この計画が成功する保証なんてどこにもないし、もし途中で失敗したら、男爵は君を首謀者に仕立て上げて、姿をくらますかもしれないじゃないか。実際、いまこの場でわたしたちと一緒にいるのは君だから、もしここにお父様の手先が現れたら、逮捕されるのは君だよ」
「そのときは、お姫様方が私は男爵の手下でも一番の下っ端でしかないと証言してくれることに期待している」
 クロイゼルが投げ遣りな口調で言い捨てると、ジェルメーヌとステファーヌは顔を見合わせた。
「どうする?」
「どうしようか」
 実のところ、ジェルメーヌもステファーヌもこの屋敷の人間の中で、クロイゼルを一番気に入っていた。他の教師たちのように鞭を振り回さず、ジェルメーヌが猟銃の重さに文句を垂れても、ステファーヌが三十分かかっても馬の背の鞍に乗れなかったときも、「これだからお姫様方は」と呆れながら丁寧に教えてくれるのだ。
「リュネヴィル城で働けるように、お父様に頼んであげるくらいはできるよ」
「従者にしてあげられる約束はできないけど」
 もし公女誘拐の実行犯として逮捕されれば、形ばかりの裁判でざんしゅに処されるのは目に見えている。
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