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第九章 幸せの影に潜む罠
「俺の大事な妻に触れるんじゃねえ、それに誰が行方不明だって?」
しおりを挟む ムハマド・ラディフ王の顔はただひたすらに歪んでいた。
目の前には隻眼の金髪の男がその様子をうかがっている。それが先程まで相手をしていた地球のニュースキャスターならいい。とりあえず強気の発言を繰り返せばそれなりの歓心を引くことができる。だがその相手がゲルパルト大統領カール・シュトルベルクが相手となると話は違った。
「この条件が最低のラインじゃ……これ以上は譲れん」
目の前に出されたのは遼州同盟としての西モスレムの遼北国境ラインまでに厚さ10キロの緩衝地帯をもうけるという案だった。間の兼州河(けんしゅうこう)の中州を巡る今回の軍事衝突。緩衝地帯をもうけるという案は理解できないわけではない。だが彼が煽った世論はそのような妥協を許す状況には無かった。
緩衝地帯ではなく、武装制限地域として駐留軍を駐在し続けること。せめてその程度の妥協をしてもらわなければ王の位すら危うい。ラディフの意識にはその一点ばかりがちらついていた。
「武装制限……ずいぶんと中途半端な」
薄ら笑いを浮かべてるシュトルベルクを見て彼の妹かあの憎らしいムジャンタ・ラスコーこと憎き司法局実働部隊の隊長、嵯峨惟基の妻だったことを思い出す。
『類は友を呼ぶとはこのことじゃわい』
そんな思いがさらに王の顔をゆがめた。シュトルベルグの隣に座ったアラブ連盟から派遣された宗教指導者は、ただシュトルベルグの説明にうなづくばかりでラディフの苦悩など理解しているようには見えない。
「武装を制限することで衝突の被害を最小にとどめるというのも悪くないが……後ろに核の脅しがあれば意味はないですなあ……」
シュトルベルグの隣に座った少し小柄のイスラム法学者はあごひげをなでながらつぶやく。まるで異教徒の肩を持つような言葉遣いにさらにラディフの心は荒れた。
「譲れぬものと譲れないものがある……国家というものにはそう言うものがあるのは貴殿もご存じと思うが?」
絞り出したラディフの言葉にシュトルベルグが浮かべたのは冷笑だった。その様は明らかにあのラスコーとうり二つだった。
「実を取るのが国家運営の基礎。私はそう思っていますが……名に寄りすぎた国は長持ちしない。ゲルパルトの先の独裁政権。胡州の貴族制度。どちらもその運命は敵として軍を率いて戦ったあなたならご存じのはずだ」
皮肉だ。ラディフはシュトルベルグの意図がすぐに読めた。嵯峨は胡州軍の憲兵上がり、シュトルベルグもゲルパルト国防軍の遼南派遣軍の指揮官だったはずだ。二人ともラディフの軍と戦い、そして敗れ去った敗軍の将。そして今はこうしてラディフを苦しめて悦に入っている。
『意趣返し』
そんな言葉が頭をよぎった。
それが思い過ごしかも知れなくても、王として常に強権を握ってきたラディフには我慢ならない状況だった。
「それはキリスト教国の話で……」
「なるほど……それではイスラム教国では通用しない話だと?」
シュトルベルグはそのまま隣に座ったイスラム法学者を眺める。注目され、そして笑みでラディフを包む。
「これは妥協ではなく災厄を避ける義務と考えますが……核の業火に人々が焼かれること。それこそが避けられなければならない最大の問題だと」
その小柄なイスラム法学者の言葉はラディフの予想と寸分違わぬものだった。所詮目の前の老人も他国の人なのだ。そう思いついたときにはラディフの隣の弟アイディードや叔父フセインの表情もシュトルベルグの意図を汲んで自分に妥協を迫るような視線を向けていることに気づいた。
「首長会に……かけてみる必要がありそうだな」
まさに苦渋の一言だった。
首長会を開けば事態を悪化させた彼への突き上げが反主流派の首長から出るのは間違いなかった。この場にいる彼の親類縁者もまたその派閥に押されてラディフ非難を始めることだろう。だが時間が無かった。ほかの選択は無い。
「ところで……遼北の説得はどうなのかね」
気分を換えようとラディフは目の前で笑みを浮かべる大統領に声をかけてみた。
「あちらは素直に非武装の線で呑んだそうですよ……市民の自暴自棄な暴言がネットの切断で止まっている今なら大胆な妥協が出来る……そう踏んだんだと思いますが」
シュトルベルグの言葉をラディフはとても鵜呑みには出来なかった。あちらに向かった使者はラスコーの義理の兄である西園寺義基だ。こいつも喰えない奴なのは十分知っていた。
「一党独裁体制はうらやましいものだな……我々は簡単には妥協できない」
「絶対王政の方が自由がきくように見えますがいかがでしょうか?」
ああ言えばこう言う。またもラディフは出鼻をくじかれた。どうにも腹の中が煮えくりかえる感情が顔に出ているのが分かってくると気分が悪くなる。隣のアイディードは腹違いでどうにも気に入らない弟だがそれでもこれほどまでにラディフを腹立たせたことなど無い。
「ワシの王政はそれほど絶対的なものでは無いと思うのじゃが……のう」
左右を見て同意を求めてみる。そこにはあからさまに浮ついた笑みが並んでいる。
『どいつも……馬鹿にしおって』
叫びたい衝動に駆られるのを必死で耐えるラディフ。
「破滅は避けられそうなんですから……そんなに顔をこわばらせる必要は無いんじゃないですか?」
シュトルベルグのとどめの一言だった。ラディフは怒りに駆られて立ち上がっていた。
不敵に激情に駆られた王をあざ笑うシュトルベルグ。驚いたようにあんぐりと口を開け、ターバンに手を当てるイスラム法学者。
「少しばかり外の空気を吸ってきたいと思うのじゃが……」
「どうぞ。ただ急いでいただきたいものですな……状況は一刻を争う」
皮肉を言い始めたらおそらくとどまることを知らないだろうシュトルベルグの口から放たれた言葉に思わずラディフは怒りの表情をあらわにしながらそのままテーブルに背を向けて会議場を後にするしかなかった。
目の前には隻眼の金髪の男がその様子をうかがっている。それが先程まで相手をしていた地球のニュースキャスターならいい。とりあえず強気の発言を繰り返せばそれなりの歓心を引くことができる。だがその相手がゲルパルト大統領カール・シュトルベルクが相手となると話は違った。
「この条件が最低のラインじゃ……これ以上は譲れん」
目の前に出されたのは遼州同盟としての西モスレムの遼北国境ラインまでに厚さ10キロの緩衝地帯をもうけるという案だった。間の兼州河(けんしゅうこう)の中州を巡る今回の軍事衝突。緩衝地帯をもうけるという案は理解できないわけではない。だが彼が煽った世論はそのような妥協を許す状況には無かった。
緩衝地帯ではなく、武装制限地域として駐留軍を駐在し続けること。せめてその程度の妥協をしてもらわなければ王の位すら危うい。ラディフの意識にはその一点ばかりがちらついていた。
「武装制限……ずいぶんと中途半端な」
薄ら笑いを浮かべてるシュトルベルクを見て彼の妹かあの憎らしいムジャンタ・ラスコーこと憎き司法局実働部隊の隊長、嵯峨惟基の妻だったことを思い出す。
『類は友を呼ぶとはこのことじゃわい』
そんな思いがさらに王の顔をゆがめた。シュトルベルグの隣に座ったアラブ連盟から派遣された宗教指導者は、ただシュトルベルグの説明にうなづくばかりでラディフの苦悩など理解しているようには見えない。
「武装を制限することで衝突の被害を最小にとどめるというのも悪くないが……後ろに核の脅しがあれば意味はないですなあ……」
シュトルベルグの隣に座った少し小柄のイスラム法学者はあごひげをなでながらつぶやく。まるで異教徒の肩を持つような言葉遣いにさらにラディフの心は荒れた。
「譲れぬものと譲れないものがある……国家というものにはそう言うものがあるのは貴殿もご存じと思うが?」
絞り出したラディフの言葉にシュトルベルグが浮かべたのは冷笑だった。その様は明らかにあのラスコーとうり二つだった。
「実を取るのが国家運営の基礎。私はそう思っていますが……名に寄りすぎた国は長持ちしない。ゲルパルトの先の独裁政権。胡州の貴族制度。どちらもその運命は敵として軍を率いて戦ったあなたならご存じのはずだ」
皮肉だ。ラディフはシュトルベルグの意図がすぐに読めた。嵯峨は胡州軍の憲兵上がり、シュトルベルグもゲルパルト国防軍の遼南派遣軍の指揮官だったはずだ。二人ともラディフの軍と戦い、そして敗れ去った敗軍の将。そして今はこうしてラディフを苦しめて悦に入っている。
『意趣返し』
そんな言葉が頭をよぎった。
それが思い過ごしかも知れなくても、王として常に強権を握ってきたラディフには我慢ならない状況だった。
「それはキリスト教国の話で……」
「なるほど……それではイスラム教国では通用しない話だと?」
シュトルベルグはそのまま隣に座ったイスラム法学者を眺める。注目され、そして笑みでラディフを包む。
「これは妥協ではなく災厄を避ける義務と考えますが……核の業火に人々が焼かれること。それこそが避けられなければならない最大の問題だと」
その小柄なイスラム法学者の言葉はラディフの予想と寸分違わぬものだった。所詮目の前の老人も他国の人なのだ。そう思いついたときにはラディフの隣の弟アイディードや叔父フセインの表情もシュトルベルグの意図を汲んで自分に妥協を迫るような視線を向けていることに気づいた。
「首長会に……かけてみる必要がありそうだな」
まさに苦渋の一言だった。
首長会を開けば事態を悪化させた彼への突き上げが反主流派の首長から出るのは間違いなかった。この場にいる彼の親類縁者もまたその派閥に押されてラディフ非難を始めることだろう。だが時間が無かった。ほかの選択は無い。
「ところで……遼北の説得はどうなのかね」
気分を換えようとラディフは目の前で笑みを浮かべる大統領に声をかけてみた。
「あちらは素直に非武装の線で呑んだそうですよ……市民の自暴自棄な暴言がネットの切断で止まっている今なら大胆な妥協が出来る……そう踏んだんだと思いますが」
シュトルベルグの言葉をラディフはとても鵜呑みには出来なかった。あちらに向かった使者はラスコーの義理の兄である西園寺義基だ。こいつも喰えない奴なのは十分知っていた。
「一党独裁体制はうらやましいものだな……我々は簡単には妥協できない」
「絶対王政の方が自由がきくように見えますがいかがでしょうか?」
ああ言えばこう言う。またもラディフは出鼻をくじかれた。どうにも腹の中が煮えくりかえる感情が顔に出ているのが分かってくると気分が悪くなる。隣のアイディードは腹違いでどうにも気に入らない弟だがそれでもこれほどまでにラディフを腹立たせたことなど無い。
「ワシの王政はそれほど絶対的なものでは無いと思うのじゃが……のう」
左右を見て同意を求めてみる。そこにはあからさまに浮ついた笑みが並んでいる。
『どいつも……馬鹿にしおって』
叫びたい衝動に駆られるのを必死で耐えるラディフ。
「破滅は避けられそうなんですから……そんなに顔をこわばらせる必要は無いんじゃないですか?」
シュトルベルグのとどめの一言だった。ラディフは怒りに駆られて立ち上がっていた。
不敵に激情に駆られた王をあざ笑うシュトルベルグ。驚いたようにあんぐりと口を開け、ターバンに手を当てるイスラム法学者。
「少しばかり外の空気を吸ってきたいと思うのじゃが……」
「どうぞ。ただ急いでいただきたいものですな……状況は一刻を争う」
皮肉を言い始めたらおそらくとどまることを知らないだろうシュトルベルグの口から放たれた言葉に思わずラディフは怒りの表情をあらわにしながらそのままテーブルに背を向けて会議場を後にするしかなかった。
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