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Vol.01 - 復活
01-001 大晦
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物語は、いつ始まるのだろう。
テキサスで猛威を振るう竜巻の中で起こった、悲しい親子の物語。
そのプロローグが、ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきだったとして。
蝶が羽ばたいたその時に、それが悲劇の始まりなのだと、いったい誰が気付けるだろう。
物語はいつだって、誰も気付かぬうちに始まっている。
そして物語がフィナーレを迎えた時、ようやくあの時が始まりだったのだと確定されるのだ。
だから物語はいつだって、始まった時には終わっていて、終わった時に始まる。
だから、そう。
この物語はすでに終わっていて――
決して主人公にはなれない一人の少年が起こした、一つの小さな行動から始まる。
◇ ◇ ◇
「時間?」
「うん。そろそろ出ないと」
台所から顔を出した母親に、ケイイチはダウンジャケットを羽織りながら答えた。
すらりとした、というよりはひょろ長いと表現したくなる長身に、無難としか言いようのない、刈り揃えられた短髪。その下には覇気のない表情がぼんやりと浮かび、全身から醸すどことなく頼りなさげな空気が、強そうなアーミーグリーンのダウンジャケットとまるで噛み合っていない。
そんなケイイチの目の前、居間のテレビでは、大晦日恒例の歌番組がちょうど後半の盛り上がるセクションに入ったようだ。ド派手なAR演出がテレビの外まで飾り立て、普段は地味な室内が華やいでいる。
いつも通りの年末。なんでもない年越しの夜。
「えー、お兄、年越し一緒じゃないの?」
コタツでぬくぬくとしながら、妹のサリュが不満げに言った。
だがその視線はスクリーン上の大好きなアイドルに釘付けだ。ケイイチの事なんて一顧だにしない。
「ちょっと神社に手伝いにな」
ケイイチは妹の後頭部に向かって答えながら、ダウンジャケットの前を閉め、マフラーを首に巻いた。
ロボットやアンドロイドが当たり前に社会に溶け込むこの時代でも、なぜか神社で買うお札やお守りは、人の手から受け取りたいという人が多い。ケイイチは2年ほど前から、いくつかの神社で覡のボランティアをしていて、この年越しは神社で手伝いをする事にしていた。
「いいじゃん年明けてから行けば」
「……神社までの移動時間と準備の時間、ってわかりますか妹よ」
「お兄が1日くらいいなくたって誰も困らないって」
「そういう意味ね……」
サリュはワガママ気ままに元気に育ったお陰で、時間感覚や責任感だとかいった感覚がどこかズレている。まさか家を出るのを遅らせろ、ではなくて丸1日サボれ、という意味だったとはさすがに思いもよらず、ケイイチは軽く脱力する。
どうせこの妹のことだ。兄を元旦の買い物の荷物持ち要員か何かとしてこき使ってやろうとでも思っていたんだろう。さすがは父母及び兄に甘やかされゆとりある暮らしをしてきたゆとり妹。世界が自分を中心に回っている。
とはいえそんな妹の様子はさすがに見かねたようだ。
「サリュ」
横から父の嗜める声が響いた。
「ぶー」
父の一声に、大変不服そうな謎の音声を発しつつ、分かりやすくむくれるサリュ。
その一方で「さっさと行け」と言わんばかりの圧のある目線を、父はケイイチに送りつけてくる。
といっても別に、父がケイイチと年越しを共に過ごしたくないと思っているとか、ケイイチの事を邪魔に思っているとかそういうわけではない。――いや、普段のサリュの溺愛っぷりを見ていると、多少はケイイチを邪魔に思う気持ちがあっても別に不思議はないのだが、少なくとも今の目線にそういう意味はない。
ケイイチは幼い頃から、この父に「人の役に立て」と繰り返し言い聞かされ育ってきた。
父にとって、自分の息子が人様のお役に立つのは何よりも重要な事であり、年末年始を一家団欒で過ごす事よりも、息子が初詣の手伝いに出て、人様のお役に立つ、その事のほうが圧倒的に優先度が高い。
だからさっきの目線は「早く行って人様の役に立ってこい」という意味であって、それ以上でもそれ以下でもない――はずだ。
ケイイチはそんな変わらぬ父の様子にどこか安心しつつ、「じゃ、行ってくるわ」と言って玄関に向かった。
母と妹の「いってらっしゃーい」という暢気な声を背に受けながら、靴に足を滑り込ませる。
それを検知した靴が自動でキュッと紐を締め、足にちょうどいい圧がかかる。
ケイイチは扉を開け、猫の額ほどの小さな庭を抜け、道路に出た。
そこで一度振り返り、長く過ごした家を目に焼き付ける。
「……よし」
ケイイチは何かを確認するように小さく呟くと、目的地に向かって歩き始めた。
今日の行き先は少しばかり遠い。普段だったら流しの自律車を捕まえて行く距離だが、今日は少しだけ人恋しい。お金もあまり使いたくないので、路線運行している乗り合いバスを使う事に決め、バスステーションの方に足を向けた。
4分ほど歩いて、目的のステーションが見えてきた。
「ん……?」
そこでケイイチは、老婦人がおかしな場所に腰を下ろしているのを見つけた。
ベンチも何も無い路上に座り込み、民家の塀にもたれかるようにしつつ足をさすっている。
怪我――はほとんどの場合AIがうまく防いでくれるはずだから、何かしらの体の不調だろうか。
「どうされたんですか?」
父親の丹念な教育の賜物で、困っていそうな人を見かけたら声をかけずにいられないケイイチは、考える間もなくそう声をかけていた。
「ちょっと足が痛くてね……」
老婦人はやれやれ、といった様子でそう答える。
なるほど、受け答えもしっかりしているし、大事はなさそうだ。
しかしこの寒空の下で長く居るのはしんどいかもしれない。
「よければお手伝いしましょうか?」
ケイイチは好意でもってそう声をかける。が――
「え……?」
老婦人の表情があからさまな不審に染まった。
ああ――やっぱりそうなりますよね……。
わかってはいた。
ケイイチくらいの年齢以上の若者が、人の手助けをしようとしたら、警戒されるのが当然だ。
ふつう、人は人の手助けをしない。
だって――
「アキエさんですか?」
ケイイチの背後から、穏やかで耳に優しい、しかしどこか癖のある声がかかる。
振り向くとそこには人とは少し違う造形の、人のようなもの――一体のアンドロイドが、医療用自律車を伴って立っていた。
人の体に不調があれば、必ずロボットやアンドロイドが飛んできて面倒を見てくれる。
それがこの時代、この世界だ。
人が人の手助けをする必要なんてない。むしろ、そんな事をしたら嫌がられる。
人はミスもするし、時に状況を悪化させてしまうことだってある。
いつでも必ず完璧に仕事をこなすロボットやアンドロイド達に任せるほうがずっと安心。それが世間の共通認識というものだ。
だから誰も道端で困っている人を助けたりしないし、人に助けられたいと思う人もいない。
そんな中で困っている人に手助けをしようと声をかける人間がいるとすれば、それは供給の少なさゆえに高額になる対人サービスの対価を狙い、後で高額な請求をふっかける前提で人助けをする、ペテン師の類くらいのもの。
だから、老婦人の反応は、先程のようになるのが当然だし、ケイイチのことをそういう種類の人間だとみたその判断は、何一つとして間違ってはいない。
間違ってはいないけど――と、ケイイチは思う。
今日くらいは、気持ちよく手助けさせてほしかった。
せめて、今日くらいは――
(はぁ……)
チラチラと不審げな目線をケイイチに向けつつ、アンドロイドに介抱され、医療用自律車に乗せられて去って行く老婦人を見送りながら、ケイイチは小さなため息をついた。
分かりきっていた事ではあるけど、やはり少し寂しい。
今日くらいは何かの気まぐれで、違う結果になってほしかった。
だって、今日、この後、僕は――
ケイイチは肩を落としてもう一つ小さなため息をつくと、ちょうどやってきた乗り合いバスに乗り込み、一番後ろの席に腰を下ろした。
他の乗客は二人ほどいたが、数分と経たないうちに二人とも降りてしまい、すぐにケイイチは一人きりになった。
せっかく人恋しくてバスにしたのにな。
でも、これも予想していた事だ。むしろ最初に二人乗っていてくれた事のほうが奇跡に近い。
だって、このバスは都心西エリア、ビジネス街のど真ん中を目指して進んでいるのだ。
家族に手伝いに行くと告げた神社は真逆の方向だし、こんな大晦日の深い時間に、そんな場所に向かおうとする人などいるはずがない。
――そう。
ケイイチは家族に嘘をついていた。
神社に手伝いに行くというのは嘘だ。
ちょっとしたイベントの時ならともかく、神社にとって最大の書き入れ時である初詣の時期に、ケイイチのような能無しをスタッフに加えるような神社はない。
仮にあったとしても、今日は手伝いには行かなかっただろう。
なぜならケイイチにはこの大晦日の夜に、家族に嘘をついてでも行きたい場所があり、やりたい事があったからだ。
30分ほどして、路線バスは目的地――ビジネス街の中心にあるターミナルに到着した。
ケイイチはバスを降り、まるで人の気配のないビルの谷間に踏み出す。
大晦日のビジネス街は恐ろしく暗く、そして静かだ。
エネルギー消費が徹底的に最適化されたこの世の中、人がいない場所に明かりはない。
ケイイチの来訪を察知して灯った僅かな街灯の薄明かりの中、ビルの谷間に響く自分の足音と街を管理するロボット達の立てる微かな音だけを聞きながら、ARのナビを頼りに歩を進める。
しばらく歩いて、ケイイチは目的地であるビルの前にたどり着いた。
「これか」
それは、今にも朽ちてしまいそうな、20階ほどの高さのビルだった。
ボロボロではあるが、今もちゃんと使われてはいるようだ。入り口はしっかりしたセキュリティで封鎖されている。
といっても別にビルの中に用事があるわけではないのでそこは素通りし、ケイイチは隣接するビルとの間の細い道を抜け、ビルの裏側に回る。
さすがにここまでくると街灯の光も届かない。ケイイチはポケットから小さな懐中電灯を取り出し、スイッチを入れる。
すると電灯の光の中に、ネットで下調べした時に見た通りのものが現れた。
ビルの外に張り出した外階段。
セキュリティが緩く、外から入り込めて、屋上まで上がる事が可能な階段。
この階段こそ、この大晦日に、わざわざこんなところにまで来た理由だ。
「……よし」
ケイイチは軽く周囲を見回し、あらためて人の気配が無いことを確認すると、手すり部分を乗り越え階段に侵入した。そして大きな音を立てないよう気をつけつつ、一歩一歩錆び付いた階段を上り始める。
普段から多少は鍛えているケイイチではあるが、20階分の階段ともなると、さすがにちょっとどころじゃない運動だ。
途中で何度か心が折れそうになりつつ、息も絶え絶え、なんとか屋上にたどり着き、ケイイチはもう限界、とばかりに屋上でごろりと大の字に寝っ転がった。
仰向けになり見上げた空には雲一つなく、満天の星空が広がっている。
その真ん中に、欠けた月が綺麗に輝いている。
視界右上にAR表示された時間は、23時24分。
いい時間だ。
これなら、年内で間に合うだろう。
呼吸がもう少し落ち着いたら、始めよう。
何をって?
家族に嘘をついて、こんな人気の無いビジネス街に来て。
高いビルの屋上に上がって。
やる事なんて、決まっている。
この屋上から飛び降りて――
――死ぬ。
テキサスで猛威を振るう竜巻の中で起こった、悲しい親子の物語。
そのプロローグが、ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきだったとして。
蝶が羽ばたいたその時に、それが悲劇の始まりなのだと、いったい誰が気付けるだろう。
物語はいつだって、誰も気付かぬうちに始まっている。
そして物語がフィナーレを迎えた時、ようやくあの時が始まりだったのだと確定されるのだ。
だから物語はいつだって、始まった時には終わっていて、終わった時に始まる。
だから、そう。
この物語はすでに終わっていて――
決して主人公にはなれない一人の少年が起こした、一つの小さな行動から始まる。
◇ ◇ ◇
「時間?」
「うん。そろそろ出ないと」
台所から顔を出した母親に、ケイイチはダウンジャケットを羽織りながら答えた。
すらりとした、というよりはひょろ長いと表現したくなる長身に、無難としか言いようのない、刈り揃えられた短髪。その下には覇気のない表情がぼんやりと浮かび、全身から醸すどことなく頼りなさげな空気が、強そうなアーミーグリーンのダウンジャケットとまるで噛み合っていない。
そんなケイイチの目の前、居間のテレビでは、大晦日恒例の歌番組がちょうど後半の盛り上がるセクションに入ったようだ。ド派手なAR演出がテレビの外まで飾り立て、普段は地味な室内が華やいでいる。
いつも通りの年末。なんでもない年越しの夜。
「えー、お兄、年越し一緒じゃないの?」
コタツでぬくぬくとしながら、妹のサリュが不満げに言った。
だがその視線はスクリーン上の大好きなアイドルに釘付けだ。ケイイチの事なんて一顧だにしない。
「ちょっと神社に手伝いにな」
ケイイチは妹の後頭部に向かって答えながら、ダウンジャケットの前を閉め、マフラーを首に巻いた。
ロボットやアンドロイドが当たり前に社会に溶け込むこの時代でも、なぜか神社で買うお札やお守りは、人の手から受け取りたいという人が多い。ケイイチは2年ほど前から、いくつかの神社で覡のボランティアをしていて、この年越しは神社で手伝いをする事にしていた。
「いいじゃん年明けてから行けば」
「……神社までの移動時間と準備の時間、ってわかりますか妹よ」
「お兄が1日くらいいなくたって誰も困らないって」
「そういう意味ね……」
サリュはワガママ気ままに元気に育ったお陰で、時間感覚や責任感だとかいった感覚がどこかズレている。まさか家を出るのを遅らせろ、ではなくて丸1日サボれ、という意味だったとはさすがに思いもよらず、ケイイチは軽く脱力する。
どうせこの妹のことだ。兄を元旦の買い物の荷物持ち要員か何かとしてこき使ってやろうとでも思っていたんだろう。さすがは父母及び兄に甘やかされゆとりある暮らしをしてきたゆとり妹。世界が自分を中心に回っている。
とはいえそんな妹の様子はさすがに見かねたようだ。
「サリュ」
横から父の嗜める声が響いた。
「ぶー」
父の一声に、大変不服そうな謎の音声を発しつつ、分かりやすくむくれるサリュ。
その一方で「さっさと行け」と言わんばかりの圧のある目線を、父はケイイチに送りつけてくる。
といっても別に、父がケイイチと年越しを共に過ごしたくないと思っているとか、ケイイチの事を邪魔に思っているとかそういうわけではない。――いや、普段のサリュの溺愛っぷりを見ていると、多少はケイイチを邪魔に思う気持ちがあっても別に不思議はないのだが、少なくとも今の目線にそういう意味はない。
ケイイチは幼い頃から、この父に「人の役に立て」と繰り返し言い聞かされ育ってきた。
父にとって、自分の息子が人様のお役に立つのは何よりも重要な事であり、年末年始を一家団欒で過ごす事よりも、息子が初詣の手伝いに出て、人様のお役に立つ、その事のほうが圧倒的に優先度が高い。
だからさっきの目線は「早く行って人様の役に立ってこい」という意味であって、それ以上でもそれ以下でもない――はずだ。
ケイイチはそんな変わらぬ父の様子にどこか安心しつつ、「じゃ、行ってくるわ」と言って玄関に向かった。
母と妹の「いってらっしゃーい」という暢気な声を背に受けながら、靴に足を滑り込ませる。
それを検知した靴が自動でキュッと紐を締め、足にちょうどいい圧がかかる。
ケイイチは扉を開け、猫の額ほどの小さな庭を抜け、道路に出た。
そこで一度振り返り、長く過ごした家を目に焼き付ける。
「……よし」
ケイイチは何かを確認するように小さく呟くと、目的地に向かって歩き始めた。
今日の行き先は少しばかり遠い。普段だったら流しの自律車を捕まえて行く距離だが、今日は少しだけ人恋しい。お金もあまり使いたくないので、路線運行している乗り合いバスを使う事に決め、バスステーションの方に足を向けた。
4分ほど歩いて、目的のステーションが見えてきた。
「ん……?」
そこでケイイチは、老婦人がおかしな場所に腰を下ろしているのを見つけた。
ベンチも何も無い路上に座り込み、民家の塀にもたれかるようにしつつ足をさすっている。
怪我――はほとんどの場合AIがうまく防いでくれるはずだから、何かしらの体の不調だろうか。
「どうされたんですか?」
父親の丹念な教育の賜物で、困っていそうな人を見かけたら声をかけずにいられないケイイチは、考える間もなくそう声をかけていた。
「ちょっと足が痛くてね……」
老婦人はやれやれ、といった様子でそう答える。
なるほど、受け答えもしっかりしているし、大事はなさそうだ。
しかしこの寒空の下で長く居るのはしんどいかもしれない。
「よければお手伝いしましょうか?」
ケイイチは好意でもってそう声をかける。が――
「え……?」
老婦人の表情があからさまな不審に染まった。
ああ――やっぱりそうなりますよね……。
わかってはいた。
ケイイチくらいの年齢以上の若者が、人の手助けをしようとしたら、警戒されるのが当然だ。
ふつう、人は人の手助けをしない。
だって――
「アキエさんですか?」
ケイイチの背後から、穏やかで耳に優しい、しかしどこか癖のある声がかかる。
振り向くとそこには人とは少し違う造形の、人のようなもの――一体のアンドロイドが、医療用自律車を伴って立っていた。
人の体に不調があれば、必ずロボットやアンドロイドが飛んできて面倒を見てくれる。
それがこの時代、この世界だ。
人が人の手助けをする必要なんてない。むしろ、そんな事をしたら嫌がられる。
人はミスもするし、時に状況を悪化させてしまうことだってある。
いつでも必ず完璧に仕事をこなすロボットやアンドロイド達に任せるほうがずっと安心。それが世間の共通認識というものだ。
だから誰も道端で困っている人を助けたりしないし、人に助けられたいと思う人もいない。
そんな中で困っている人に手助けをしようと声をかける人間がいるとすれば、それは供給の少なさゆえに高額になる対人サービスの対価を狙い、後で高額な請求をふっかける前提で人助けをする、ペテン師の類くらいのもの。
だから、老婦人の反応は、先程のようになるのが当然だし、ケイイチのことをそういう種類の人間だとみたその判断は、何一つとして間違ってはいない。
間違ってはいないけど――と、ケイイチは思う。
今日くらいは、気持ちよく手助けさせてほしかった。
せめて、今日くらいは――
(はぁ……)
チラチラと不審げな目線をケイイチに向けつつ、アンドロイドに介抱され、医療用自律車に乗せられて去って行く老婦人を見送りながら、ケイイチは小さなため息をついた。
分かりきっていた事ではあるけど、やはり少し寂しい。
今日くらいは何かの気まぐれで、違う結果になってほしかった。
だって、今日、この後、僕は――
ケイイチは肩を落としてもう一つ小さなため息をつくと、ちょうどやってきた乗り合いバスに乗り込み、一番後ろの席に腰を下ろした。
他の乗客は二人ほどいたが、数分と経たないうちに二人とも降りてしまい、すぐにケイイチは一人きりになった。
せっかく人恋しくてバスにしたのにな。
でも、これも予想していた事だ。むしろ最初に二人乗っていてくれた事のほうが奇跡に近い。
だって、このバスは都心西エリア、ビジネス街のど真ん中を目指して進んでいるのだ。
家族に手伝いに行くと告げた神社は真逆の方向だし、こんな大晦日の深い時間に、そんな場所に向かおうとする人などいるはずがない。
――そう。
ケイイチは家族に嘘をついていた。
神社に手伝いに行くというのは嘘だ。
ちょっとしたイベントの時ならともかく、神社にとって最大の書き入れ時である初詣の時期に、ケイイチのような能無しをスタッフに加えるような神社はない。
仮にあったとしても、今日は手伝いには行かなかっただろう。
なぜならケイイチにはこの大晦日の夜に、家族に嘘をついてでも行きたい場所があり、やりたい事があったからだ。
30分ほどして、路線バスは目的地――ビジネス街の中心にあるターミナルに到着した。
ケイイチはバスを降り、まるで人の気配のないビルの谷間に踏み出す。
大晦日のビジネス街は恐ろしく暗く、そして静かだ。
エネルギー消費が徹底的に最適化されたこの世の中、人がいない場所に明かりはない。
ケイイチの来訪を察知して灯った僅かな街灯の薄明かりの中、ビルの谷間に響く自分の足音と街を管理するロボット達の立てる微かな音だけを聞きながら、ARのナビを頼りに歩を進める。
しばらく歩いて、ケイイチは目的地であるビルの前にたどり着いた。
「これか」
それは、今にも朽ちてしまいそうな、20階ほどの高さのビルだった。
ボロボロではあるが、今もちゃんと使われてはいるようだ。入り口はしっかりしたセキュリティで封鎖されている。
といっても別にビルの中に用事があるわけではないのでそこは素通りし、ケイイチは隣接するビルとの間の細い道を抜け、ビルの裏側に回る。
さすがにここまでくると街灯の光も届かない。ケイイチはポケットから小さな懐中電灯を取り出し、スイッチを入れる。
すると電灯の光の中に、ネットで下調べした時に見た通りのものが現れた。
ビルの外に張り出した外階段。
セキュリティが緩く、外から入り込めて、屋上まで上がる事が可能な階段。
この階段こそ、この大晦日に、わざわざこんなところにまで来た理由だ。
「……よし」
ケイイチは軽く周囲を見回し、あらためて人の気配が無いことを確認すると、手すり部分を乗り越え階段に侵入した。そして大きな音を立てないよう気をつけつつ、一歩一歩錆び付いた階段を上り始める。
普段から多少は鍛えているケイイチではあるが、20階分の階段ともなると、さすがにちょっとどころじゃない運動だ。
途中で何度か心が折れそうになりつつ、息も絶え絶え、なんとか屋上にたどり着き、ケイイチはもう限界、とばかりに屋上でごろりと大の字に寝っ転がった。
仰向けになり見上げた空には雲一つなく、満天の星空が広がっている。
その真ん中に、欠けた月が綺麗に輝いている。
視界右上にAR表示された時間は、23時24分。
いい時間だ。
これなら、年内で間に合うだろう。
呼吸がもう少し落ち着いたら、始めよう。
何をって?
家族に嘘をついて、こんな人気の無いビジネス街に来て。
高いビルの屋上に上がって。
やる事なんて、決まっている。
この屋上から飛び降りて――
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