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プロローグ 魔法少女とポートレゐト
第1話:魔法少女とポートレゐト
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身分違いの恋というのは定番中の定番ではあるが、それにしたってかなり稀なケースを引いたな、と思った。
「あなたが好きです。私と付き合いませんか?」
大人びた幼い声は頭の上から降ってきて、頭頂からこめかみを伝ってようやく耳に入ってきた。
背骨を深く曲げたまま硬直する。いま視界に映っているのは自分の細い足先だけ。
ついさっき、爪先が硬い粒を踏む不快感を訴えた。だからその辺の瓦礫に腰を下ろし、ローファーを脱いで視線を落としたところだったのだ。
いったん小石の除去作業を中断して首をゆっくり持ち上げる。
聞き覚えのある声だとは思ったが、予想通りの相手が目の前に立っていて無数の疑問符が頭上にポップする。その中でもまず最初に処理すべきはこのクエスチョンだろうか。
「それの宛先って私で合ってる? 誰かへの伝言とかじゃない?」
「あなたです。あなたにお付き合いを申し出ています」
赤い髪の女の子がはっきりと念を押した。
そうなんだ、という相槌を口の中で転がすと、そうなんですよ、とは言われなかったが、首が小さく動いてそんなようなジェスチャーをした。
少女は頬を染めるでも蒼ざめるでもなく、ただ薄い唇を軽く結んで見下ろしていた。たぶんこちらも同じような表情で見上げていたと思う。
マーブルに混ざった緊張感と気まずさが夏の夕焼けを上書きしていく。つかぬことをお伺いしますが、と前置きしてから喋り出したときのような、そして何言ってんだこいつ、と内心思いながら聞いているときのような、生温く滞留する空気を共有する。
とりあえず手に持ったローファーを裏返して軽く振った。小指の爪ほどの小石が転げ出て、破断した金属プレートの間に消えていく。古い懸念が一つ消え去ったことを確認し、靴を履き直した足を揃えて正す。
スカートを履いたお尻を擦りながら身体ごと少女に向き直った。
「こうして二人だけで話すのは初めてだっけ」
「そうですね。軽薄な人間だと思われたくないので言っておきますが、これは私の人生で初めての告白です」
「別に君がプレイガールだとは思ってないけど……でもちょっとませてるとは思ってる」
「私は愛と情熱のマジカルレッドですよ。十年も生きれば愛を語る資格くらいはあるでしょう」
「口上の愛ってもっとざっくりしたやつでしょ。隣人愛とか人類愛みたいな。恋愛の愛って感じしないけど」
「難しいことはわかりません、愛の種類とか、小学生なので。でも愛さえあれば何でもできると信じています」
小学五年生の魔法少女、愛と情熱のマジカルレッドは小さな唇をほんの薄皮ぶんだけ尖らせて頭を左右に揺らした。腰まで伸びた真っ赤な髪が揺れるのに合わせて、赤い光の粒が橙色の空気に散った。
これが私に告白してきた相手かあ、とうっすら感嘆し、座ったままで改めて頭から爪先まで視線を流す。
遠くから見慣れてはいたが、間近で見てもやはりどこまでも魔法少女だった。
頭の右側にずらして被った小さなアクセサリハット、逆サイドには星型の大きな飾りがアンバランスにツインテールを彩る。胸元に大きなリボン、フリルワンピースの赤く透けないスカート。質の良さそうな布地にはところどころ白いアクセントが入っていて、可愛さ十に対してお洒落を二くらい添えていた。
衣装とは不釣り合いに立ち姿がしゃんと大人びていることに気付く。頭の上から糸でつられたように体幹が安定している。個性的な衣装と相まって、ショーウィンドウに立っているようだ。
幼い見た目と大人びた振る舞いが同居するのは顔の造形も同じだ。
丸い目と低い鼻は子供に特有の愛らしさを振りまいていて、もっと甘えた声で我が儘を言えばきっと誰もが絆されるだろう。しかしブレないトーンで発せられる声は、まるで何かの事務員のように淡々と応対を求めていた。
「一応確認しとくけど、私が誰か勘違いしてたりもしない? この服で君と会うのは初めてだし、今は仮面も付けてないし」
座ったまま、指先でプリーツスカートの折り目を摘まんで持ち上げてみせた。
こちらはそのあたりの公立高校の制服だ。何の面白みもない藍色のセーラー服、足元は真っ白いソックスと黒く磨かれたローファー。襟にラインが走っているのが申し訳程度の装飾と言えないこともない。
華やかな魔法少女のコスチュームに対抗できるポイントが一つでもあるとすれば、新学期に向けて上から下までクリーニングされたばかりなのでとても清潔なことくらいか。
「顔を見ればわかりますよ、ドールマスターさん」
「さっきまではそんなニックネームだったけど。もうただの女子高生だから」
「でもそう呼ぶしかないでしょう。この名前しか知らないんですから」
「そうかも。ドールマスターのコスチュームだってさっき燃やしちゃったし、もうこんなんしか残ってないけど」
浅い胸ポケットから金色のマスカレードマスクを引っ張り出す。
やたら肌触りがよく細長いシルク製。ドールマスターとして人前に出るときは必ず付けていたものだ。
マスクの紐に指先を引っ掛けてくるくる回すと、魔法少女の目がぐっと吸いつけられた。子供らしい好奇の煌めきを初めて見て、トンボみたいで可愛いなと頬が緩む。
「欲しかったらあげる。もう使わないし」
「では頂きます」
指先を軽く曲げると回転を乗せたマスクは魔法少女に向けて飛び立った。小さな手がマスクを宙でしっかりキャッチして、そのまま衣装の裾にしまい込んだ。
「それ使い道ある?」
「大事にしまっておきます、付けることはないと思いますけど。私だって明日からはただの小学生ですから」
「そうだね」
空になった両手を左右で絡めて天にぐっと伸ばす。
つい一時間前までは、顔の上半分を覆うマスカレードマスクを付け、黒いドレスのコスチュームを纏い、魔の神の機を操って魔法少女と戦っていた。組織の幹部として。
「今更何したところで……」
思い切り腰を反らせ、橙色に染まった世界をぐるりと見渡した。
遥か遠くにぼんやり霞む町が見えた。上空には虹色のオーロラがうっすら浮いている。
しかしここ、山間の荒れ地には瓦礫の山が散らばるばかりだ。数時間前まで壁や天井を形作っていた黒い金属も、その中を通っていた大量の電気配線も、町を監視して指令を出していたモニターやボタンの残骸も、もう使途を失って処分を待つ粗大ゴミでしかなかった。
要するに、さっきまでここに聳え立っていた組織の基地は壊滅したのだ。
「もう全部終わったあとだから」
魔法少女がいるからには、この町には悪の組織もいた。
「腐敗した世界をリセットする」という大層な目標を掲げ、魔の兵器を操って町の破壊活動に勤しんできた。そのたびに町を守る魔法少女三人組と交戦を繰り広げたが、敗走以外の戦果だったことは一度もない。
そしてさっき最後の戦いが終わった。幹部が操る魔の神の機は完膚なきまでに叩きのめされ、基地は平たい荒野へと崩壊した。完敗だ。
正直なところ、こうなる気はしていた。何せあっちは子供でこっちは大人なのだ。あっちが正義サイドでこっちが悪サイドということは皆わかっていたし、悪の組織にしたって小学生を傷付けてまで目的を達成するほど悪人でもなかった。
組織の構成員たちはお疲れしたと声を合わせ、その辺に散らばっていた食糧を拾い集めて軽く乾杯し、それも三十分くらいで済むとあっさり山を下りていった。たぶん今は町で二次会とかをやっていると思う。
しかし紅一点のドールマスターは男連中にプライベートまで巻き込まれるのは気乗りしなかった。他の皆がいなくなってから物陰で制服に着替え、スクールバックを背負ってさあ帰るかという矢先、何故か戻ってきていた魔法少女の一人に告白されたのが今だ。
「君は年上好きっていうか、高校生が好きなの」
「よくわかりませんが。もしかしたらそうなのかもしれません」
「私のどこが好きか聞いていい?」
「それは……いや、そういうのは後回しにしませんか? 時間がありません。もう日が沈みます」
「門限厳しいんだ。明日の放課後とかにまた会ってもいいけど」
「いや、今日じゃないとダメです。今日で終わりなので」
「何の?」
「魔法の終わりです。魔法の妖精はもう帰っていきました。この変身が最後の魔法少女なんです。魔法の世界での出会いは、魔法の世界が終わる前にケリを付けるべきだと思います」
「なるほど。言われてみれば、魔法が解けちゃったあとに延長戦っていうのはちょっと違うかも」
「そうです。だから結論を出してください、太陽が沈み切ってしまう前に」
今日は八月三十一日。夏休み最終日だ。
二人が魔法少女と幹部になったのは七月二十一日、夏休み初日。
全ては一ヶ月少しの出来事だった。夏休みの間に、この町には魔法少女と悪の組織が現れ、最後の戦いまでが終わった。小学生や高校生が気兼ねなく毎日戦っていられたのは学校が休みだったからだ。
夏休みとは一つの異空間だ。日々の決まり切ったルーチンから解放され、夢見たイベントに何でも参加できる。
だから魔法少女にも悪の幹部にもなれるのだ、というのはちょっと飛躍しすぎている気もするけれど、でも当事者としてはそれが一番しっくり来る。きっと小学生の初恋も同じなのだろう。
「ちなみに、もし断られたら君は絶対に諦めないタイプ? それともすっぱり諦めるタイプ?」
「わかりません。人を好きになったのは初めてなので」
「正直で偉いね」
雑に頭を撫でようと腕を伸ばした手が魔法のステッキでぴしゃりとはたかれた。けっこう痛い。
「そういうのは付き合ってからにしてください」
「ごめん」
瓦礫から立ち上がって、爽やかな敗北の空気を吸いながら考える。
声を掛けられたときは冗談かと思ったが、本気であることはよくわかった。それで結局、目の前の小学生と付き合うか否か。
少なくともこの子供を嫌いではないのは間違いない。こうして喋っていても割と楽しいし、賢い受け答えも好みな方、感性も近い。魔法少女のことだって嫌いではなかった、実はむしろ個人的には憧れている。
ただ、何せ小学生だ。友達ならともかく、付き合うとなると年の差がどうにもならない。小児性愛の趣味はもちろんない。
君が今の私と同じくらいの年齢になった頃、例えば七年後くらいにまだ好きだったら。そのときお互いにフリーだったら付き合うのはどう、そんな言葉が喉元まで出かかって抑え込む。
もしこれが普通の出会いだったら。魔法少女も悪の組織も関係ない出会いだったら、そうやって先送りにするのが一番いい返答なのだろう。
だけど、これはこの特別な夏にしか生まれなかった恋だ。先送りにするくらいならこの夏限りで終わらせるべきだと思った。
雲を見上げて色々考えた気もするが、数秒しか経っていなかったと思う。空の色はほとんど変わっていなかったから。
「やめとこう。やっぱりこれは魔法の外に持ち越すものじゃない、君と私は魔法の夏でしか出会わない関係なんだと思う。高校生と小学生ってなかなか付き合わないし」
そうですか、という音が聞こえた気がした。喉を震わせる声ではなく、唇で空気を押し出す音が。その途端、一気にお腹が熱くなる。
自分はとてつもなく酷いことを言ったのではないか。夏の熱気の向こうから猛ダッシュで走ってきた罪悪感が胸に大きな打撲痕を作り、いやこれでいいはずだ、と嘯く理性が素早くギブスを巻いた。
いたたまれなくなって目を伏せたとき、あちらも一緒にそうしているのか、それともあの落ち着いた目でじっと見下ろしているのか。
「日が沈むまでは撤回しても構いません。追いかけてきて、私の肩を掴んでくれればまだセーフですから」
魔法少女が踵を返す爪先だけが見えた。一歩ずつ遠ざかっていくブーツを目が追いかける。
「元気でね、魔法少女」
聞こえないように呟いて足を崩した。だらりと座ったまま、魔法少女の背中が木々に隠れてしまうまで見送った。
魔法少女が振り返ることは最後までなかった。今もまだ期待しながら歩いているのか、がっかりして肩を落としているのか。飄々とした顔で歩き去っているのか、涙の一つでも流しているのか。
願わくば、あまり引き摺らないでほしいと思う。振った相手とはいえ、とても可愛くてきっと頭の良い子供だから、どんな形であれ幸せに生きてほしいものだと心から思った。
広げた手のひらを思い切り前に伸ばし、指先が見えなくなるまで暗くなるのを待ってから、腕を振った勢いで立ち上がった。
照明の無い森の中でまだ僅かに電気が通った瓦礫があちらこちらで力なく点滅している。海沿いの夜景に少しだけ似ていたが、それを眺めて楽しむカップルは残念ながら不成立だ。
どこかで吼えるようなカラスの鳴き声が短く響いて、確かに魔法の世界が終わる音がした。
「一つオチが付いたってことにしとこう。綺麗に終わった、良い夏だった」
しかし結論から言えば、これは勘違いだった。それも致命的な。
ドールマスターだって、まだ恋を知らない高校生の少女だった。年の差恋愛についてきちんと考えたことはなかったし、本当はそんなに割り切れる性格でもなかった。迂闊な返答のツケを何年かけて支払うことになるのか、今はまだ知る由もない。
結局、魔法の夏は終わっていなかった。オチなんて付いていないし、誰も清算できていないまま。
皆が等しく引き摺って、皆が等しく拗らせた。悪の幹部ドールマスターも、魔法少女マジカルレッドも、他の魔法少女たちも。
全てをやり直すチャンスがあるとすれば、魔法の夏がもう一度来るのを待つしかないのだろう。
「あなたが好きです。私と付き合いませんか?」
大人びた幼い声は頭の上から降ってきて、頭頂からこめかみを伝ってようやく耳に入ってきた。
背骨を深く曲げたまま硬直する。いま視界に映っているのは自分の細い足先だけ。
ついさっき、爪先が硬い粒を踏む不快感を訴えた。だからその辺の瓦礫に腰を下ろし、ローファーを脱いで視線を落としたところだったのだ。
いったん小石の除去作業を中断して首をゆっくり持ち上げる。
聞き覚えのある声だとは思ったが、予想通りの相手が目の前に立っていて無数の疑問符が頭上にポップする。その中でもまず最初に処理すべきはこのクエスチョンだろうか。
「それの宛先って私で合ってる? 誰かへの伝言とかじゃない?」
「あなたです。あなたにお付き合いを申し出ています」
赤い髪の女の子がはっきりと念を押した。
そうなんだ、という相槌を口の中で転がすと、そうなんですよ、とは言われなかったが、首が小さく動いてそんなようなジェスチャーをした。
少女は頬を染めるでも蒼ざめるでもなく、ただ薄い唇を軽く結んで見下ろしていた。たぶんこちらも同じような表情で見上げていたと思う。
マーブルに混ざった緊張感と気まずさが夏の夕焼けを上書きしていく。つかぬことをお伺いしますが、と前置きしてから喋り出したときのような、そして何言ってんだこいつ、と内心思いながら聞いているときのような、生温く滞留する空気を共有する。
とりあえず手に持ったローファーを裏返して軽く振った。小指の爪ほどの小石が転げ出て、破断した金属プレートの間に消えていく。古い懸念が一つ消え去ったことを確認し、靴を履き直した足を揃えて正す。
スカートを履いたお尻を擦りながら身体ごと少女に向き直った。
「こうして二人だけで話すのは初めてだっけ」
「そうですね。軽薄な人間だと思われたくないので言っておきますが、これは私の人生で初めての告白です」
「別に君がプレイガールだとは思ってないけど……でもちょっとませてるとは思ってる」
「私は愛と情熱のマジカルレッドですよ。十年も生きれば愛を語る資格くらいはあるでしょう」
「口上の愛ってもっとざっくりしたやつでしょ。隣人愛とか人類愛みたいな。恋愛の愛って感じしないけど」
「難しいことはわかりません、愛の種類とか、小学生なので。でも愛さえあれば何でもできると信じています」
小学五年生の魔法少女、愛と情熱のマジカルレッドは小さな唇をほんの薄皮ぶんだけ尖らせて頭を左右に揺らした。腰まで伸びた真っ赤な髪が揺れるのに合わせて、赤い光の粒が橙色の空気に散った。
これが私に告白してきた相手かあ、とうっすら感嘆し、座ったままで改めて頭から爪先まで視線を流す。
遠くから見慣れてはいたが、間近で見てもやはりどこまでも魔法少女だった。
頭の右側にずらして被った小さなアクセサリハット、逆サイドには星型の大きな飾りがアンバランスにツインテールを彩る。胸元に大きなリボン、フリルワンピースの赤く透けないスカート。質の良さそうな布地にはところどころ白いアクセントが入っていて、可愛さ十に対してお洒落を二くらい添えていた。
衣装とは不釣り合いに立ち姿がしゃんと大人びていることに気付く。頭の上から糸でつられたように体幹が安定している。個性的な衣装と相まって、ショーウィンドウに立っているようだ。
幼い見た目と大人びた振る舞いが同居するのは顔の造形も同じだ。
丸い目と低い鼻は子供に特有の愛らしさを振りまいていて、もっと甘えた声で我が儘を言えばきっと誰もが絆されるだろう。しかしブレないトーンで発せられる声は、まるで何かの事務員のように淡々と応対を求めていた。
「一応確認しとくけど、私が誰か勘違いしてたりもしない? この服で君と会うのは初めてだし、今は仮面も付けてないし」
座ったまま、指先でプリーツスカートの折り目を摘まんで持ち上げてみせた。
こちらはそのあたりの公立高校の制服だ。何の面白みもない藍色のセーラー服、足元は真っ白いソックスと黒く磨かれたローファー。襟にラインが走っているのが申し訳程度の装飾と言えないこともない。
華やかな魔法少女のコスチュームに対抗できるポイントが一つでもあるとすれば、新学期に向けて上から下までクリーニングされたばかりなのでとても清潔なことくらいか。
「顔を見ればわかりますよ、ドールマスターさん」
「さっきまではそんなニックネームだったけど。もうただの女子高生だから」
「でもそう呼ぶしかないでしょう。この名前しか知らないんですから」
「そうかも。ドールマスターのコスチュームだってさっき燃やしちゃったし、もうこんなんしか残ってないけど」
浅い胸ポケットから金色のマスカレードマスクを引っ張り出す。
やたら肌触りがよく細長いシルク製。ドールマスターとして人前に出るときは必ず付けていたものだ。
マスクの紐に指先を引っ掛けてくるくる回すと、魔法少女の目がぐっと吸いつけられた。子供らしい好奇の煌めきを初めて見て、トンボみたいで可愛いなと頬が緩む。
「欲しかったらあげる。もう使わないし」
「では頂きます」
指先を軽く曲げると回転を乗せたマスクは魔法少女に向けて飛び立った。小さな手がマスクを宙でしっかりキャッチして、そのまま衣装の裾にしまい込んだ。
「それ使い道ある?」
「大事にしまっておきます、付けることはないと思いますけど。私だって明日からはただの小学生ですから」
「そうだね」
空になった両手を左右で絡めて天にぐっと伸ばす。
つい一時間前までは、顔の上半分を覆うマスカレードマスクを付け、黒いドレスのコスチュームを纏い、魔の神の機を操って魔法少女と戦っていた。組織の幹部として。
「今更何したところで……」
思い切り腰を反らせ、橙色に染まった世界をぐるりと見渡した。
遥か遠くにぼんやり霞む町が見えた。上空には虹色のオーロラがうっすら浮いている。
しかしここ、山間の荒れ地には瓦礫の山が散らばるばかりだ。数時間前まで壁や天井を形作っていた黒い金属も、その中を通っていた大量の電気配線も、町を監視して指令を出していたモニターやボタンの残骸も、もう使途を失って処分を待つ粗大ゴミでしかなかった。
要するに、さっきまでここに聳え立っていた組織の基地は壊滅したのだ。
「もう全部終わったあとだから」
魔法少女がいるからには、この町には悪の組織もいた。
「腐敗した世界をリセットする」という大層な目標を掲げ、魔の兵器を操って町の破壊活動に勤しんできた。そのたびに町を守る魔法少女三人組と交戦を繰り広げたが、敗走以外の戦果だったことは一度もない。
そしてさっき最後の戦いが終わった。幹部が操る魔の神の機は完膚なきまでに叩きのめされ、基地は平たい荒野へと崩壊した。完敗だ。
正直なところ、こうなる気はしていた。何せあっちは子供でこっちは大人なのだ。あっちが正義サイドでこっちが悪サイドということは皆わかっていたし、悪の組織にしたって小学生を傷付けてまで目的を達成するほど悪人でもなかった。
組織の構成員たちはお疲れしたと声を合わせ、その辺に散らばっていた食糧を拾い集めて軽く乾杯し、それも三十分くらいで済むとあっさり山を下りていった。たぶん今は町で二次会とかをやっていると思う。
しかし紅一点のドールマスターは男連中にプライベートまで巻き込まれるのは気乗りしなかった。他の皆がいなくなってから物陰で制服に着替え、スクールバックを背負ってさあ帰るかという矢先、何故か戻ってきていた魔法少女の一人に告白されたのが今だ。
「君は年上好きっていうか、高校生が好きなの」
「よくわかりませんが。もしかしたらそうなのかもしれません」
「私のどこが好きか聞いていい?」
「それは……いや、そういうのは後回しにしませんか? 時間がありません。もう日が沈みます」
「門限厳しいんだ。明日の放課後とかにまた会ってもいいけど」
「いや、今日じゃないとダメです。今日で終わりなので」
「何の?」
「魔法の終わりです。魔法の妖精はもう帰っていきました。この変身が最後の魔法少女なんです。魔法の世界での出会いは、魔法の世界が終わる前にケリを付けるべきだと思います」
「なるほど。言われてみれば、魔法が解けちゃったあとに延長戦っていうのはちょっと違うかも」
「そうです。だから結論を出してください、太陽が沈み切ってしまう前に」
今日は八月三十一日。夏休み最終日だ。
二人が魔法少女と幹部になったのは七月二十一日、夏休み初日。
全ては一ヶ月少しの出来事だった。夏休みの間に、この町には魔法少女と悪の組織が現れ、最後の戦いまでが終わった。小学生や高校生が気兼ねなく毎日戦っていられたのは学校が休みだったからだ。
夏休みとは一つの異空間だ。日々の決まり切ったルーチンから解放され、夢見たイベントに何でも参加できる。
だから魔法少女にも悪の幹部にもなれるのだ、というのはちょっと飛躍しすぎている気もするけれど、でも当事者としてはそれが一番しっくり来る。きっと小学生の初恋も同じなのだろう。
「ちなみに、もし断られたら君は絶対に諦めないタイプ? それともすっぱり諦めるタイプ?」
「わかりません。人を好きになったのは初めてなので」
「正直で偉いね」
雑に頭を撫でようと腕を伸ばした手が魔法のステッキでぴしゃりとはたかれた。けっこう痛い。
「そういうのは付き合ってからにしてください」
「ごめん」
瓦礫から立ち上がって、爽やかな敗北の空気を吸いながら考える。
声を掛けられたときは冗談かと思ったが、本気であることはよくわかった。それで結局、目の前の小学生と付き合うか否か。
少なくともこの子供を嫌いではないのは間違いない。こうして喋っていても割と楽しいし、賢い受け答えも好みな方、感性も近い。魔法少女のことだって嫌いではなかった、実はむしろ個人的には憧れている。
ただ、何せ小学生だ。友達ならともかく、付き合うとなると年の差がどうにもならない。小児性愛の趣味はもちろんない。
君が今の私と同じくらいの年齢になった頃、例えば七年後くらいにまだ好きだったら。そのときお互いにフリーだったら付き合うのはどう、そんな言葉が喉元まで出かかって抑え込む。
もしこれが普通の出会いだったら。魔法少女も悪の組織も関係ない出会いだったら、そうやって先送りにするのが一番いい返答なのだろう。
だけど、これはこの特別な夏にしか生まれなかった恋だ。先送りにするくらいならこの夏限りで終わらせるべきだと思った。
雲を見上げて色々考えた気もするが、数秒しか経っていなかったと思う。空の色はほとんど変わっていなかったから。
「やめとこう。やっぱりこれは魔法の外に持ち越すものじゃない、君と私は魔法の夏でしか出会わない関係なんだと思う。高校生と小学生ってなかなか付き合わないし」
そうですか、という音が聞こえた気がした。喉を震わせる声ではなく、唇で空気を押し出す音が。その途端、一気にお腹が熱くなる。
自分はとてつもなく酷いことを言ったのではないか。夏の熱気の向こうから猛ダッシュで走ってきた罪悪感が胸に大きな打撲痕を作り、いやこれでいいはずだ、と嘯く理性が素早くギブスを巻いた。
いたたまれなくなって目を伏せたとき、あちらも一緒にそうしているのか、それともあの落ち着いた目でじっと見下ろしているのか。
「日が沈むまでは撤回しても構いません。追いかけてきて、私の肩を掴んでくれればまだセーフですから」
魔法少女が踵を返す爪先だけが見えた。一歩ずつ遠ざかっていくブーツを目が追いかける。
「元気でね、魔法少女」
聞こえないように呟いて足を崩した。だらりと座ったまま、魔法少女の背中が木々に隠れてしまうまで見送った。
魔法少女が振り返ることは最後までなかった。今もまだ期待しながら歩いているのか、がっかりして肩を落としているのか。飄々とした顔で歩き去っているのか、涙の一つでも流しているのか。
願わくば、あまり引き摺らないでほしいと思う。振った相手とはいえ、とても可愛くてきっと頭の良い子供だから、どんな形であれ幸せに生きてほしいものだと心から思った。
広げた手のひらを思い切り前に伸ばし、指先が見えなくなるまで暗くなるのを待ってから、腕を振った勢いで立ち上がった。
照明の無い森の中でまだ僅かに電気が通った瓦礫があちらこちらで力なく点滅している。海沿いの夜景に少しだけ似ていたが、それを眺めて楽しむカップルは残念ながら不成立だ。
どこかで吼えるようなカラスの鳴き声が短く響いて、確かに魔法の世界が終わる音がした。
「一つオチが付いたってことにしとこう。綺麗に終わった、良い夏だった」
しかし結論から言えば、これは勘違いだった。それも致命的な。
ドールマスターだって、まだ恋を知らない高校生の少女だった。年の差恋愛についてきちんと考えたことはなかったし、本当はそんなに割り切れる性格でもなかった。迂闊な返答のツケを何年かけて支払うことになるのか、今はまだ知る由もない。
結局、魔法の夏は終わっていなかった。オチなんて付いていないし、誰も清算できていないまま。
皆が等しく引き摺って、皆が等しく拗らせた。悪の幹部ドールマスターも、魔法少女マジカルレッドも、他の魔法少女たちも。
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