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第8章 環世界にようこそ!
第31話:環世界にようこそ!・1
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暗闇の中、何時間経ったのか。あるいは数秒しか経っていないのか。
時間感覚はとうに失われた。五感も全て死んでいる。何も見えない。何も聞こえない。何も臭わない。何も触れない。何も味わわない。
しかし、こうして何事かを考える自我は生きている。
デカルトが言うようにコギトエルゴスムであるならば、私は依然として存在すると結論できる。時間や知覚など、存在を占める構成要素のごく一部に過ぎないのだ。
実際、それらが完全に停止した中でも確かに実在するのは解放感だ。完全に動けないことは、完全に自由に動けることと感覚の上では裏表なのかもしれない。コンクリートの中に密封されているというよりは、むしろ逆に開けた暗闇を彷徨っているようだ。今の私は漆黒の宇宙空間を揺蕩う宇宙飛行士である。動いていないはずなのに、ゆらゆらと揺れているような気さえする。
暗闇の中にぼんやりとした灯りが見える。
もちろん、「見える」といっても眼球を通じて光学的に見ているわけではない。視覚はもう機能していないからだ。均質な黒い空間内における特定の座標に、媒質ではない何らかの存在を直観しているのだ。
空間を隔てて接触していない存在を捉えるのに普段最もよく使うのは視覚なので、「見える」という動詞でその状態を表現するのが一番しっくりくる。「灯り」という表現も同様で、やはり光学的なアナロジーに過ぎない。
灯りに向かって近付いていく。
これもやはり、「近付く」といっても身体を動かして進むわけではない。自分の身体はもう存在しないからだ。あらゆる知覚が停止する中では、自己身体感覚もそれを免れていなかった。
強いて言えば、カメラの主観的な視点だけがあるのに近い。正確に言えば視覚ですらないので、存在だけの質点というべきか。とにかく、そんな自我を持つ質点が灯りに向かって移動していくのだ。
灯りの周りには十数匹の蛆虫が集まっていた。
というか、発光源が蛆虫なのだ。それぞれの蛆はごく僅かでささやかな光しか発していないが、いくつか固まると、少し距離を置いても視認できる程度の明るさを作る。この空間において発光とは、存在感そのものが現象して知覚のような形態を取ったものであるらしい。
周囲を見渡すと、いや、視覚でやっているわけではないから、見渡すという表現もふさわしくないか。何らかの感覚が及ぶ範囲を漠然と拡張するというか、とにかくそれをすると、周囲の至るところに蛆虫がいるのがわかった。
それぞれはごくわずかな光しか放っていないから気付かなかったが、目の前にある塊以外の場所にも蛆虫がぽつぽつと点在している。
また、少し遠くには、蛆が塊を成して強く光っている場所が他にもう一つあった。今度はそちらを目指して移動してみる。
移動する過程で、孤独に点在している蛆たちの隣を通過する。
すれ違っても挨拶をすることはないが、それらの蛆たちも少しずつ運動していることがわかった。どこかに向かっているのか、ゆっくりと歩みを進めているのだ。
つまり、この空間には色々な蛆の軌跡が交差していることになる。最初は何もない暗闇だと思ったが、第一印象よりも遥かに充実した空間であることがわかってくる。
二つ目の蛆の集まりに辿り着いた。そこから見てもやはり周囲には蛆が点在していて、距離を置いた先にはまた別の蛆の塊を示す光源がある。今度は光源が三つ見えた。
そのうちの一つに向かってまた歩を進める。そこに辿り着くと、感覚を広げて、また別に塊をいくつか見つける。そして適当に決めた次の塊に向かう。その繰り返しだ。他にやることもないので、蛆の塊を追っていくことに専念する。
もう何十個もの蛆の塊を辿ってきただろうか。
一向に終わりが見えない。そもそもこれはテロスを持つ運動ではないような気がする。この空間は無限に広がっていて、蛆虫も無限に存在する。
振り向くと、今まで通ってきた蛆の塊が全て見えた。相当な距離を歩んできたはずだが、一気に見通せる。多分、この空間では距離という定量的な概念自体がナンセンスなのだ。メジャーになる単位系が無いので、視野の範囲は縮尺をどう想像するかに過ぎない。
なんとなく、今まで辿ってきたロードマップのようなものがふんわりと頭に浮かぶ。蛆のいた場所を繋ぎ合わせるとなんとメッセージが浮かび上がってきた! ……などということもなく、それらはランダムに配置されているようにしか思えなかったが、とにかく地図のイメージを用いた空間把握が出来ることがわかって少し安堵する。
ひときわ明るい蛆の塊を見つけ、そこに腰を落ち着けてみた。蛆の近くで歩みを止めて停留するのだ。自分の周りを囲むように蛆たちがいて、何も喋ったりはしないが、とりあえず蠢いている。
しばらくそこにいると、蛆たちはずっとそこに留まっているわけでもないことがわかった。もぞもぞとどこかへ旅立っていく蛆虫もいれば、新たに別の場所から合流してくる蛆虫もいる。その一方、ずっとここに留まって何もしない蛆虫もいる。蛆も十人十色、いや、十蛆十色で千差万別の動き方をしているらしい。
この空間には目的がない。
ただただ、自分も蛆も気まぐれに動き回っているだけだ。ブラウン運動している微粒子の視点とでもいうべきか。
それでも、それぞれがランダムウォークしている中でも旅路を共にする蛆が現れたりする。蛆同士がコミュニケーションしているわけではないのに、綺麗な直角ですれ違ったり、ジグザグに交差しながら進んだり、色々な関係のパターンが生じるのが面白い。三匹以上が関与するパターンも含めれば、この空間は無限の活動パターンを内包していて限りなく豊潤だ。空疎な暗闇など、とんでもない勘違いだった。
それに気付くと、途端にこの空間が楽しくて居心地の良いものに思えてくる。暇なときにゴムを伸ばして遊んでいるような、目的のない戯れが心地よい。蛆たちと一緒に、蛆しかいない場所でまったりごろごろ過ごしてみるのも悪くない。
自分もそろそろどこかへ行こうか。
長く滞在した蛆の塊を旅立ち、また別の場所へ向かって歩き出す。目的地はマクドナルドやTSUTAYAではなく、やはり他の蛆の塊だ。この空間には蛆虫しかない。蛆虫だけが動き回り、量的な変動だけが起こるのだ。質的には何も変わらない。
いや、正確に言えば、蛆だけというわけでもないか。ここには明らかに自分の視点があるから、蛆と自分だけの世界ということになる。
とはいえ、自分が蛆に対して何か特別なことができるわけではない。だらだらする蛆たちに喝を入れたり、整列させて走らせたりなんてことはしないし、できない。できることは、蛆と一緒に無目的に彷徨うことだけだ。
いや、それは自分も蛆と同じということではないか?
よく考えれば、自分の目に映る蛆の挙動は、自分が今までしてきた挙動そのものだ。
自分は今まで目的もなくふらふら歩き回り、たまに塊を見つけると身を寄せ、また次の場所を目指したりしていた。それはまさに目にしてきた蛆の行動パターンではなかったか。蛆も目的もなくふらふら歩き回り、たまに塊を見つけると身を寄せ、また次の場所を目指したりしていた。
つまり自分も蛆なのだ。
それに気付いたとき、初めて自分の身体を取り戻した。白く丸っこい足の無い円柱状のボディ。這って進む蛆虫の身体。グレゴールの朝が来た。
蛆虫の身体にショックを受けたりはしない。蛆虫しかいない世界で自分だけが特別扱いという方が違和感があるというか、文字通り虫の良い話だ。蛆だろうが何だろうがやることは変わらないし、ここの居心地が良いことは変わらない。
そもそも人間だった頃の人生も目的なくフラフラしていただけだったし、やっていることは大して変わっていない。むしろそんな人生にピッタリの、純粋に目的なき目的を追求する空間が現れたのかもしれない。自分にはこういう生き方が向いている。これでいいのだ。
自分が蛆であることに一度気付くと、もはやどの蛆にもなれた。乗り移るとか転移するとかいう意味ではない。
もっと本質的な意味で、どの蛆も同じなのだ。さっき気付いたように、全ての蛆は全く同じ外見で全く同じように動いていて全く見分けが付かない。他の蛆だって自分のように色々考えているのかもしれないが、結果的には同じ動きをするのだから同じことだ。
だから、全ての蛆が自分であり、自分は全ての蛆でもある。自分を含めて全ての蛆は可換である。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、聞こえますか……」
突然、こだまする声が聞こえた。
「聞こえる」といっても、聴覚で聞いているわけではない。ある座標を確実に占める存在者の観測が視覚の担当であるように、広範囲の領域を漠然と占める存在者の観測は聴覚の担当なのだ。
よって、拡散する存在感を声として知覚したと言うのが正しい。そもそもこの世界には音を伝えるような媒質もない。ここは場や界が存在する物理空間ではない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、聞こえますか……」
聞こえてはいるが、返答できない。蛆には発声器官がないからだ。
いや、それを言うなら聴覚器官も無いはずだが、声は受動的に構成される知覚だからこそ、現象ありきでアナロジカルに運用できるのだ。能動的に働きかける運動ではそうもいかず、声を出すことはできそうにない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、どこですか……」
遠方から異質な光源が飛来した。
その光源は「暗い」としか言いようがない。「暗く光る」という、光学的には不可能な状態の光源だ。黒い背景と混ざってわかりにくいが、それでも確かにそういうタイプの存在感がある。
それは蚊だった。暗く光る蚊がブーンブーンという音の代わりに、ひたすら呼びかける声を発しているのだ。今までは二次元平面だった蛆の世界に蚊が飛び回ることでZ軸が導入される。空間と存在者が拡張されていく。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、どこですか、どこですか……」
どこと言われても、私は蛆虫であり、蛆虫が私なのだ。
いると言えばそこら中にいるし、いないと言えばどこにもいない。そもそもどうすれば見つけたことになるのかがよくわからない。
一匹の蚊はそこらを飛び回って必死に蛆を探し回る。その様子を見ていると、平坦な波面のようだった気持ちにさざ波が立った。歯がゆいというか、不憫というか。
別に私はこの世界から助け出してくれとは思っていない。
ただ、妹の声がする蚊は私を探していて、それが果たされないというのは見ていて凄く忍びないのだ。探している人と声を交わせないのはとても不安なことだから。
「ここにいるよ、黒華」
その声が本当に出せたのかどうかはわからない。自分では何も聞こえなかったが、とにかくそう言ってみたつもりだ。
その途端、蚊がこちらに一直線に飛んでくる。どうやら声はきちんと届いたらしい。
「お姉ちゃん、見っけ!」
時間感覚はとうに失われた。五感も全て死んでいる。何も見えない。何も聞こえない。何も臭わない。何も触れない。何も味わわない。
しかし、こうして何事かを考える自我は生きている。
デカルトが言うようにコギトエルゴスムであるならば、私は依然として存在すると結論できる。時間や知覚など、存在を占める構成要素のごく一部に過ぎないのだ。
実際、それらが完全に停止した中でも確かに実在するのは解放感だ。完全に動けないことは、完全に自由に動けることと感覚の上では裏表なのかもしれない。コンクリートの中に密封されているというよりは、むしろ逆に開けた暗闇を彷徨っているようだ。今の私は漆黒の宇宙空間を揺蕩う宇宙飛行士である。動いていないはずなのに、ゆらゆらと揺れているような気さえする。
暗闇の中にぼんやりとした灯りが見える。
もちろん、「見える」といっても眼球を通じて光学的に見ているわけではない。視覚はもう機能していないからだ。均質な黒い空間内における特定の座標に、媒質ではない何らかの存在を直観しているのだ。
空間を隔てて接触していない存在を捉えるのに普段最もよく使うのは視覚なので、「見える」という動詞でその状態を表現するのが一番しっくりくる。「灯り」という表現も同様で、やはり光学的なアナロジーに過ぎない。
灯りに向かって近付いていく。
これもやはり、「近付く」といっても身体を動かして進むわけではない。自分の身体はもう存在しないからだ。あらゆる知覚が停止する中では、自己身体感覚もそれを免れていなかった。
強いて言えば、カメラの主観的な視点だけがあるのに近い。正確に言えば視覚ですらないので、存在だけの質点というべきか。とにかく、そんな自我を持つ質点が灯りに向かって移動していくのだ。
灯りの周りには十数匹の蛆虫が集まっていた。
というか、発光源が蛆虫なのだ。それぞれの蛆はごく僅かでささやかな光しか発していないが、いくつか固まると、少し距離を置いても視認できる程度の明るさを作る。この空間において発光とは、存在感そのものが現象して知覚のような形態を取ったものであるらしい。
周囲を見渡すと、いや、視覚でやっているわけではないから、見渡すという表現もふさわしくないか。何らかの感覚が及ぶ範囲を漠然と拡張するというか、とにかくそれをすると、周囲の至るところに蛆虫がいるのがわかった。
それぞれはごくわずかな光しか放っていないから気付かなかったが、目の前にある塊以外の場所にも蛆虫がぽつぽつと点在している。
また、少し遠くには、蛆が塊を成して強く光っている場所が他にもう一つあった。今度はそちらを目指して移動してみる。
移動する過程で、孤独に点在している蛆たちの隣を通過する。
すれ違っても挨拶をすることはないが、それらの蛆たちも少しずつ運動していることがわかった。どこかに向かっているのか、ゆっくりと歩みを進めているのだ。
つまり、この空間には色々な蛆の軌跡が交差していることになる。最初は何もない暗闇だと思ったが、第一印象よりも遥かに充実した空間であることがわかってくる。
二つ目の蛆の集まりに辿り着いた。そこから見てもやはり周囲には蛆が点在していて、距離を置いた先にはまた別の蛆の塊を示す光源がある。今度は光源が三つ見えた。
そのうちの一つに向かってまた歩を進める。そこに辿り着くと、感覚を広げて、また別に塊をいくつか見つける。そして適当に決めた次の塊に向かう。その繰り返しだ。他にやることもないので、蛆の塊を追っていくことに専念する。
もう何十個もの蛆の塊を辿ってきただろうか。
一向に終わりが見えない。そもそもこれはテロスを持つ運動ではないような気がする。この空間は無限に広がっていて、蛆虫も無限に存在する。
振り向くと、今まで通ってきた蛆の塊が全て見えた。相当な距離を歩んできたはずだが、一気に見通せる。多分、この空間では距離という定量的な概念自体がナンセンスなのだ。メジャーになる単位系が無いので、視野の範囲は縮尺をどう想像するかに過ぎない。
なんとなく、今まで辿ってきたロードマップのようなものがふんわりと頭に浮かぶ。蛆のいた場所を繋ぎ合わせるとなんとメッセージが浮かび上がってきた! ……などということもなく、それらはランダムに配置されているようにしか思えなかったが、とにかく地図のイメージを用いた空間把握が出来ることがわかって少し安堵する。
ひときわ明るい蛆の塊を見つけ、そこに腰を落ち着けてみた。蛆の近くで歩みを止めて停留するのだ。自分の周りを囲むように蛆たちがいて、何も喋ったりはしないが、とりあえず蠢いている。
しばらくそこにいると、蛆たちはずっとそこに留まっているわけでもないことがわかった。もぞもぞとどこかへ旅立っていく蛆虫もいれば、新たに別の場所から合流してくる蛆虫もいる。その一方、ずっとここに留まって何もしない蛆虫もいる。蛆も十人十色、いや、十蛆十色で千差万別の動き方をしているらしい。
この空間には目的がない。
ただただ、自分も蛆も気まぐれに動き回っているだけだ。ブラウン運動している微粒子の視点とでもいうべきか。
それでも、それぞれがランダムウォークしている中でも旅路を共にする蛆が現れたりする。蛆同士がコミュニケーションしているわけではないのに、綺麗な直角ですれ違ったり、ジグザグに交差しながら進んだり、色々な関係のパターンが生じるのが面白い。三匹以上が関与するパターンも含めれば、この空間は無限の活動パターンを内包していて限りなく豊潤だ。空疎な暗闇など、とんでもない勘違いだった。
それに気付くと、途端にこの空間が楽しくて居心地の良いものに思えてくる。暇なときにゴムを伸ばして遊んでいるような、目的のない戯れが心地よい。蛆たちと一緒に、蛆しかいない場所でまったりごろごろ過ごしてみるのも悪くない。
自分もそろそろどこかへ行こうか。
長く滞在した蛆の塊を旅立ち、また別の場所へ向かって歩き出す。目的地はマクドナルドやTSUTAYAではなく、やはり他の蛆の塊だ。この空間には蛆虫しかない。蛆虫だけが動き回り、量的な変動だけが起こるのだ。質的には何も変わらない。
いや、正確に言えば、蛆だけというわけでもないか。ここには明らかに自分の視点があるから、蛆と自分だけの世界ということになる。
とはいえ、自分が蛆に対して何か特別なことができるわけではない。だらだらする蛆たちに喝を入れたり、整列させて走らせたりなんてことはしないし、できない。できることは、蛆と一緒に無目的に彷徨うことだけだ。
いや、それは自分も蛆と同じということではないか?
よく考えれば、自分の目に映る蛆の挙動は、自分が今までしてきた挙動そのものだ。
自分は今まで目的もなくふらふら歩き回り、たまに塊を見つけると身を寄せ、また次の場所を目指したりしていた。それはまさに目にしてきた蛆の行動パターンではなかったか。蛆も目的もなくふらふら歩き回り、たまに塊を見つけると身を寄せ、また次の場所を目指したりしていた。
つまり自分も蛆なのだ。
それに気付いたとき、初めて自分の身体を取り戻した。白く丸っこい足の無い円柱状のボディ。這って進む蛆虫の身体。グレゴールの朝が来た。
蛆虫の身体にショックを受けたりはしない。蛆虫しかいない世界で自分だけが特別扱いという方が違和感があるというか、文字通り虫の良い話だ。蛆だろうが何だろうがやることは変わらないし、ここの居心地が良いことは変わらない。
そもそも人間だった頃の人生も目的なくフラフラしていただけだったし、やっていることは大して変わっていない。むしろそんな人生にピッタリの、純粋に目的なき目的を追求する空間が現れたのかもしれない。自分にはこういう生き方が向いている。これでいいのだ。
自分が蛆であることに一度気付くと、もはやどの蛆にもなれた。乗り移るとか転移するとかいう意味ではない。
もっと本質的な意味で、どの蛆も同じなのだ。さっき気付いたように、全ての蛆は全く同じ外見で全く同じように動いていて全く見分けが付かない。他の蛆だって自分のように色々考えているのかもしれないが、結果的には同じ動きをするのだから同じことだ。
だから、全ての蛆が自分であり、自分は全ての蛆でもある。自分を含めて全ての蛆は可換である。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、聞こえますか……」
突然、こだまする声が聞こえた。
「聞こえる」といっても、聴覚で聞いているわけではない。ある座標を確実に占める存在者の観測が視覚の担当であるように、広範囲の領域を漠然と占める存在者の観測は聴覚の担当なのだ。
よって、拡散する存在感を声として知覚したと言うのが正しい。そもそもこの世界には音を伝えるような媒質もない。ここは場や界が存在する物理空間ではない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、聞こえますか……」
聞こえてはいるが、返答できない。蛆には発声器官がないからだ。
いや、それを言うなら聴覚器官も無いはずだが、声は受動的に構成される知覚だからこそ、現象ありきでアナロジカルに運用できるのだ。能動的に働きかける運動ではそうもいかず、声を出すことはできそうにない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、どこですか……」
遠方から異質な光源が飛来した。
その光源は「暗い」としか言いようがない。「暗く光る」という、光学的には不可能な状態の光源だ。黒い背景と混ざってわかりにくいが、それでも確かにそういうタイプの存在感がある。
それは蚊だった。暗く光る蚊がブーンブーンという音の代わりに、ひたすら呼びかける声を発しているのだ。今までは二次元平面だった蛆の世界に蚊が飛び回ることでZ軸が導入される。空間と存在者が拡張されていく。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、どこですか、どこですか……」
どこと言われても、私は蛆虫であり、蛆虫が私なのだ。
いると言えばそこら中にいるし、いないと言えばどこにもいない。そもそもどうすれば見つけたことになるのかがよくわからない。
一匹の蚊はそこらを飛び回って必死に蛆を探し回る。その様子を見ていると、平坦な波面のようだった気持ちにさざ波が立った。歯がゆいというか、不憫というか。
別に私はこの世界から助け出してくれとは思っていない。
ただ、妹の声がする蚊は私を探していて、それが果たされないというのは見ていて凄く忍びないのだ。探している人と声を交わせないのはとても不安なことだから。
「ここにいるよ、黒華」
その声が本当に出せたのかどうかはわからない。自分では何も聞こえなかったが、とにかくそう言ってみたつもりだ。
その途端、蚊がこちらに一直線に飛んでくる。どうやら声はきちんと届いたらしい。
「お姉ちゃん、見っけ!」
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