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第7章 私は悪魔の羽根を踏まない
第30話:私は悪魔の羽根を踏まない・7
しおりを挟む 久しぶりの大掛かりな手術だった。
額にじっとりと汗が滲むのを感じながら和彦は、腹部に詰め込んだガーゼを慎重に取り除き、足元に置いたバケツに落としていく。昨日開腹したときは、血が溢れ出てどうしようもない状態だったが、どうやら出血は落ち着いたようだ。もっとも、そうでなければ、患者はとっくに命を落としている。
「先生、どうですか?」
和彦同様、手術衣を着込み、帽子も被った男が尋ねてくる。何かを手伝うために簡易の手術室に留まっているわけではなく、あくまで監視のために手術に立ち合っているのだ。つまりそれほど、ベッドの上で半死半生の状態となっている男は、大事な存在だということだ。
だったら、美容外科医に預けるようなまねをせず、設備の整った病院に行くほうが、命が助かる可能性は遥かに高いはずだが、彼らにその選択肢はない。組や、己の立場を守るためには、命を危険に晒すほうがマシだと判断するのだ。
腹部で内出血を引き起こした傷が一番ひどいが、それ以外にも、全身に打撲を負っており、明らかに硬い棒状のもので滅多打ちにされたとわかる。つまり、暴行を受けたのだ。この傷を見れば、真っ当な医者は間違いなく警察に通報し、そこから厄介な事態に至るのは、容易に推測できる。
「先生っ」
返事をしない和彦に焦れたように、もう一度呼ばれる。昨日、患者の腹を開け、治療をするどころか、黙々と大量のガーゼを詰め込み始めた和彦に、やはり男はこうして呼びかけてきた。
いかにも若く、美容外科医という肩書きを持つ和彦の腕を明らかに信用していないのだ。笑えることに、和彦自身、全幅の信頼を寄せられるほどの腕が自分にあるとは、毛頭思っていない。
「――……出血はなんとか止まった。昨日、手術をしなかったのは、体温が下がりすぎて危険だったからだ。その状態で止血処置をすると、かえって容態が急変することがある。だから、腹にガーゼを詰め込んで、一時的に止血した。今は状態が落ち着いているから、こうして手術ができる」
体内の状態は今説明したように単純なものではないが、この組員が、他の組員に説明をするときに伝えやすいよう、かなり噛み砕いた言い方をする。そうすることで和彦も、これからの手術の手順を頭の中でわかりやすく組み立てる。
看護師代わりの人間は傍らについているが、結局は和彦が何もかもを一人で進めなければならないのだ。やるべきことを明確にしておく必要がある。
「とりあえず今日は、傷ついた組織を摘出する。それからきちんと止血処置をして、臓器の修復をして……。輸血はもっと準備しておいてくれ。それと――」
顔を上げた和彦は、周囲を見回す。どこかに時計はないかと探したのだが、室内は半透明のシートで覆われているため、何も見えない。それに、もともと何もない部屋に、手術施設を急ごしらえしたようなものだ。時計などあるはずもなかった。
仕方なく組員に尋ねると、苛立ったような表情を向けられる。この状況で時間など気にするなと言いたげだ。仕方なく、バイタルサインモニタの隅に小さく表示された時間を、目を凝らして自分で確認する。すでにもう午後九時だった。
実は昨日、クリニックを閉めてすぐ、待ちかねていたように長嶺組の車に乗せられ、総和会の人間に引き渡されたのだ。そして、この部屋に連れてこられた。そのまま患者に付き添っている状態で、今朝はここから直接クリニックに出勤した。
明日も朝から予約が入っており、クリニック経営者としてはいろいろと気を回さなければならない。
患者の血圧が少し下がってきているが、かまわず和彦は手を動かし、切除した組織をトレーにのせていく。血には慣れていた様子の組員だが、さすがに生々しい肉片を見て衝撃を受けたのか、顔が青ざめていく。
これで、余計な質問をぶつけてこなくなるだろうと、和彦はマスクの下で短く息を吐き出す。長い夜は始まったばかりだと思うと、到底気など抜けなかった。
血まみれの手術衣のまま部屋を出た和彦は、ぎょっとする男たちの視線に遠慮する余裕もなく、身を投げ出すようにしてソファに腰掛ける。
「佐伯先生、仮眠用の部屋を用意していますが……」
待機していた男の一人が、控えめに声をかけてくる。和彦は力なく首を横に振った。
「さすがに少しは自分の部屋で休みたいから、帰りの車を呼んでくれないか」
ひとまず、今日すべき処置は終えたが、感染症の恐れもあるため安心はできないのだ。仕事の合間にクリニックを抜け出して、様子を見にくる必要がある。和彦の負担を軽くするため、他の医者も手配しているとは言っていたが、それがいつになるかはわからない。
額にじっとりと汗が滲むのを感じながら和彦は、腹部に詰め込んだガーゼを慎重に取り除き、足元に置いたバケツに落としていく。昨日開腹したときは、血が溢れ出てどうしようもない状態だったが、どうやら出血は落ち着いたようだ。もっとも、そうでなければ、患者はとっくに命を落としている。
「先生、どうですか?」
和彦同様、手術衣を着込み、帽子も被った男が尋ねてくる。何かを手伝うために簡易の手術室に留まっているわけではなく、あくまで監視のために手術に立ち合っているのだ。つまりそれほど、ベッドの上で半死半生の状態となっている男は、大事な存在だということだ。
だったら、美容外科医に預けるようなまねをせず、設備の整った病院に行くほうが、命が助かる可能性は遥かに高いはずだが、彼らにその選択肢はない。組や、己の立場を守るためには、命を危険に晒すほうがマシだと判断するのだ。
腹部で内出血を引き起こした傷が一番ひどいが、それ以外にも、全身に打撲を負っており、明らかに硬い棒状のもので滅多打ちにされたとわかる。つまり、暴行を受けたのだ。この傷を見れば、真っ当な医者は間違いなく警察に通報し、そこから厄介な事態に至るのは、容易に推測できる。
「先生っ」
返事をしない和彦に焦れたように、もう一度呼ばれる。昨日、患者の腹を開け、治療をするどころか、黙々と大量のガーゼを詰め込み始めた和彦に、やはり男はこうして呼びかけてきた。
いかにも若く、美容外科医という肩書きを持つ和彦の腕を明らかに信用していないのだ。笑えることに、和彦自身、全幅の信頼を寄せられるほどの腕が自分にあるとは、毛頭思っていない。
「――……出血はなんとか止まった。昨日、手術をしなかったのは、体温が下がりすぎて危険だったからだ。その状態で止血処置をすると、かえって容態が急変することがある。だから、腹にガーゼを詰め込んで、一時的に止血した。今は状態が落ち着いているから、こうして手術ができる」
体内の状態は今説明したように単純なものではないが、この組員が、他の組員に説明をするときに伝えやすいよう、かなり噛み砕いた言い方をする。そうすることで和彦も、これからの手術の手順を頭の中でわかりやすく組み立てる。
看護師代わりの人間は傍らについているが、結局は和彦が何もかもを一人で進めなければならないのだ。やるべきことを明確にしておく必要がある。
「とりあえず今日は、傷ついた組織を摘出する。それからきちんと止血処置をして、臓器の修復をして……。輸血はもっと準備しておいてくれ。それと――」
顔を上げた和彦は、周囲を見回す。どこかに時計はないかと探したのだが、室内は半透明のシートで覆われているため、何も見えない。それに、もともと何もない部屋に、手術施設を急ごしらえしたようなものだ。時計などあるはずもなかった。
仕方なく組員に尋ねると、苛立ったような表情を向けられる。この状況で時間など気にするなと言いたげだ。仕方なく、バイタルサインモニタの隅に小さく表示された時間を、目を凝らして自分で確認する。すでにもう午後九時だった。
実は昨日、クリニックを閉めてすぐ、待ちかねていたように長嶺組の車に乗せられ、総和会の人間に引き渡されたのだ。そして、この部屋に連れてこられた。そのまま患者に付き添っている状態で、今朝はここから直接クリニックに出勤した。
明日も朝から予約が入っており、クリニック経営者としてはいろいろと気を回さなければならない。
患者の血圧が少し下がってきているが、かまわず和彦は手を動かし、切除した組織をトレーにのせていく。血には慣れていた様子の組員だが、さすがに生々しい肉片を見て衝撃を受けたのか、顔が青ざめていく。
これで、余計な質問をぶつけてこなくなるだろうと、和彦はマスクの下で短く息を吐き出す。長い夜は始まったばかりだと思うと、到底気など抜けなかった。
血まみれの手術衣のまま部屋を出た和彦は、ぎょっとする男たちの視線に遠慮する余裕もなく、身を投げ出すようにしてソファに腰掛ける。
「佐伯先生、仮眠用の部屋を用意していますが……」
待機していた男の一人が、控えめに声をかけてくる。和彦は力なく首を横に振った。
「さすがに少しは自分の部屋で休みたいから、帰りの車を呼んでくれないか」
ひとまず、今日すべき処置は終えたが、感染症の恐れもあるため安心はできないのだ。仕事の合間にクリニックを抜け出して、様子を見にくる必要がある。和彦の負担を軽くするため、他の医者も手配しているとは言っていたが、それがいつになるかはわからない。
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