皇白花には蛆が憑いている

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第7章 私は悪魔の羽根を踏まない

第29話:私は悪魔の羽根を踏まない・6

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 右半身と左半身が分断されたとき、その人には何が見えるのだろうか?
 
 人間における視覚システムの動作は以下の通りである。
 眼球から入ってくる光が視細胞を刺激する。それが視神経を通じて脳に電気信号を送る。それは視覚を司る脳内の視床に届く。
 視覚情報は左右の眼球から独立に二パターンが視床に送り込まれる。それらを脳内で統合することで一つの主観的な視覚表象が得られる。

 白花には空が見えていた。
 雨で滲んだ雲だらけの雨天が見えていた。視界の周縁には教会の屋根や大樹も見えた。
 電気信号は通常通り伝達されて視覚的な像が作られているわけだ、などという思考もきちんと脳を走っているようだ、などというメタ思考もきちんと脳を走っているようだ、などというメタメタ思考もきちんと脳を走っているようだ。
 この際、真っ二つになっても未だ視覚や思考が生きていることについてはひとまず保留しよう。

 問題は左右どちらがこの私なのかということだ。
 左右真っ二つに割られた身体のうち、右半身を「右白花」、左半身を「左白花」と呼んでみる。
 このとき、今まさにこれを考えている私は右白花なのか、それとも左白花なのか。そして仮に私が右白花だった場合、左白花は左白花で全然違うことを考えていたりするのだろうか。

 よく見れば(自分の視覚像を「見る」という表現が適切かどうかはわからないが)、視界が微妙にボヤけている。寝起きのときや水中に潜ったときのように微妙に焦点が合っていない。つまり二つの視覚像が上手く統合されていない。
 これは大問題だ。統合されていないのが問題なのではない。
 未だ統合されざる二つの像が同時に存在することが問題なのだ。なにせ、右目から右脳に来た情報と、左目から左脳に来た情報を一つに統合する経路は物理的に分断されてもう存在しないはずなのだから。私が右白花と左白花のどちらであるにせよ、右目と左目の情報を一度に取得していることは有り得ない。

 この観察結果を踏まえると、「私は右白花か左白花か」という最初の疑問はそもそも前提が成立していないことになる。左右の視覚を同時に得ることに成功している以上、私は依然として一つの白花という統合を成していると言わざるを得ない。
 視覚以外にも意識を向けると、それは一層はっきりした。右手が濡れた草に触れている感覚も、左手が小さな石に触れている感覚も同時に知覚できる。これもやはり私が左白花や右白花どちらかならば有り得ないことだ。
 強いて違和感があることを挙げると僅かに身体が大きくなったように感じることだが、少し考えてその理由が分かった。
 左右に分断された肉体は左半身と右半身の間に隙間がある。その分だけ、一体だったときより全体としては広い面積を占めることになるのだろう。

「こいつ、治癒能力持ちだとは聞いてたけど……」

 サミーは目の前の死体を見て頭を抱えた。いや、これは死体なのか?

 今さっき、白花の肉体を左右真っ二つに分断した。
 中心から血が吹き上がり、あらゆる臓器が支えを失って零れた。頭蓋から零れる脳漿も、未だ消化されきっていない胃の中身も、緩んだ注連縄のような大腸も見た。最後にビクンと痙攣して白花だったものは白花ではなくなった。

 軽く手を合わせて背を向けたとき、サミーは背後からタタタタという小さな音を聞いた。
 雨音に似ているが、それよりも硬質な、明らかに固体同士がぶつかる音だ。小さなビー玉を地面に落とした音がいくつも重なって鳴っているような。

 振り向くと、白花の肉体の断面から大量の蛆が吹き出していた。
 もはや虫が湧くというスピードではない。壊れた水道のように内臓の隙間から噴出していた。血に塗れた赤い蛆虫が空中で交差する。飛び出した何匹もの蛆が宙を舞い、ぶつかりあって地面に落下する音が聞こえていたのだ。
 蛆虫は分断された白花の身体の間に充満していく。雨に流され、重力で転がりながら、数の暴力で白花の傷跡にまとわりつく。白花が白い蛆に囲まれる様子は、棺の中で故人が白い花に囲まれるそれに似ていた。

 分割された身体の断面に、左右の肉体を架橋する蛆の橋が見えた。蛆の頭が蛆の尻を噛み、噛まれた蛆がまた別の蛆の尻を噛む。繋がる蛆が一本の線となって、左半身の断面と右半身の断面を結ぶ糸となる。
 白い糸はみるみるうちに何本も形成され、網に変わって身体の間にかかった。神経か筋肉か血管かに見えないこともないが、小さな蛆の集合体に過ぎないはずだ。
 更には白い網までもがいくつも重なって一本の綱を編み始めたとき、白花の身体が僅かに動いた。形成された蛆の綱によって、濡れた地面の上で肉塊二つが引き寄せられる。ほんの少しずつズルズルと。
 間違いない。蛆虫が白花の肉体を再生させようとしている。

「しぶといってもんじゃないわね」

 サミーはもう一度、二つの肉体の間に鎌を振るった。蛆が密集して形成されている白い何かを切断する。更に念を入れて腰のあたりでも横方向に身体をぶった切った。ついでに首も落とす。四肢も落とす。
 白花は十個のパーツに切り刻まれた。右頭、左頭、右手、左手、右足、左足、右上胴体、左上胴体、右下胴体、左下胴体。

 しかし、どの肉片の断面からもただちに大量の蛆が飛び出してきた。むしろ切れば切るほど蛆を吹き出す表面積が広がり、蛆は増産される一方だ。もうサミーの足首の高さにまで蛆が積み重なっている。
 蛆の増殖に伴って、それらが肉体を繋ごうとする再生スピードもどんどん上がっていく。たった今切り離したはずの肉体が、透明な手が継ぎ合わせようとしているかのように、ずるずると寄せ集められていく。

「これ、何なの?」

 確かにサミーは悪魔のブラウだが、それは悪魔的な思考回路を持つことを全く意味しない。不必要に死体を弄んで死者を冒涜することは彼女の倫理観でも避けるべき行為だったが、今目の前にある肉塊は明らかに死体ではない。
 未知の存在に相対する本能的な恐怖に突き動かされ、サミーは何度も何度も鎌を振るう。

 しかし、膝を切っても胸を切っても指先を切っても蛆、蛆、蛆。
 もはや白花の身体の体積の何倍もの蛆が湧きだし、周囲の地面までも覆いつつあった。蛆虫のベッドの上で白花の肉体が再生するのを止められない。身体を何個に割いても、ただちに蛆のネットワークが地面を這って全てを勝手に繋げてしまうのだ。

「あんた、どうやったら死ぬの!?」

 サミーは白花の顔面の右半分をもう一度切り離し、サッカーボールキックで蹴り飛ばした。
 蛆が身体を癒着させようとするならば、切り刻んだパーツを遠くに離せば再生を防げると思ったからだ。頭半分は思い切り宙を舞い、数十メートル離れた草むらに落下する。
 しかし、今度は白花の左顔面の断面部がボコボコと盛り上がった。蛆が急激に湧き出してきたのだ。蛆は断面に取りつき重なって地層を成していく。そして瞼のような形、鼻のような形、口のような形を作る。
 蛆虫の塊が、ちょうど今失われた顔面右半分を真似て同じものを形作ろうとしていた。接着が無理とわかれば、隣接した部位から湧き出した蛆が固まって失われた部分を代替するのだ。

 どこで試しても同じだ。
 右足を切り取って屋根の上にブン投げる。膝断面から蛆が盛り上がって固まる。左手を切り取って壁に叩き付ける。手首断面から蛆が盛り上がって固まる。
 蛆虫は医者であると同時に素材でもあった。そしてそれが無尽蔵に湧き出してくる以上、どうやっても再生が止まらない。
 もはや祈るような気持ちでサミーはめちゃくちゃに鎌を振り回す。可能な限り小さく小さく、サイコロのように肉体を切り刻む。
 しかし、一センチ角に切った肉片の内部からですら、蛆虫が何リットルでも湧き出してくる。質量も体積も関係がないのだ。蛆虫の洪水があらゆる手段で肉体を作り直す。まるで玩具修理者の悪夢。

「人間じゃない……」

 思わず口から零れた。
 この白花というやつのことを人間の個体だと思っていたが、そこから間違いだったのだ。こいつは生物としてのルールから全く違う。
 そもそも個体を表すindividualとはdivideの否定形、つまり、分割できないのが個体の定義だ。しかし、白花はどこまでも分割できて、いくつに割っても生き続けて再生を目指す。よって、白花は個体ではない。

 群体なのだ。こいつは人間個体である前に蛆の群れだ。
 最初から一つの生命ですらないのかもしれない。虫の集合体がそれらしい総意を持って蠢いているだけだ。

 生を嘲笑して死を冒涜する蛆の群れ、私なんかよりこいつの方がよほど悪魔じゃないか!
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