皇白花には蛆が憑いている

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第5章 人生美味礼讃

第13話:人生美味礼讃・1

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 地上百五十メートル、新宿の中心にある超高層ビル。
 全面ガラス張りの窓から見る地上は遥かに遠い。車も人も米粒のようだ。周りには同じくらいの高さのホテルがいくつか立ち並び、それが浮世離れした天上界に来てしまったような気分を作り出す。

「では、白花様の心臓摘出を祝して乾杯致しましょう」
「はい、かんぱい」

 カチンと爽やかな音が響く。ビールの入ったジョッキではなく、日本酒の入った御猪口だ。これでは乾杯というよりは盃を交わしているような感じがする。
 ここはジュリエットが予約した高級料亭だ。内装は徹底して和風で統一されており、床は畳、仕切りは襖、足は座椅子に座布団。中央で大きなテーブルを挟んで白花とジュリエットは向かい合って座っている。
 二人しかいないのに個室がやたらと広い。余ったスペースには金魚の入った水槽やら小さなししおどしやら行灯やらが配置され、日本で地価が最も高い敷地を盛大に無駄遣いしていた。

「ここっていくらするのかな」
「いつもカード払いなので気にしたことはありません。時価で御座います」

 ジュリエットは水色の洋風ドレスに身を包んでいた。装飾は控えめだが、それが却って彼女自身の気品を際立たせる。大きな石が埋め込まれたネックレスがアクセントとなり、社交界から出てきた上品な淑女のような雰囲気を作っていた。
 白花もいつもの適当な量販店の服ではなく、ジュリエットと同じようなドレスを着ていた。出かける際にジュリエットに着せられたのだ。ジュリエットの意匠が青を基調にしているのに対して、白花は名前通りの白だ。
 白花の胸元にも透明な鉱石がかけられている。多分何カラットとかグレードいくつとかいう世界で取引されている、とにかく白花には手の届かない世界のグッズだということはわかる。
 正直なところ、この格好には身体がスースーして落ち着かない以外の感想がない。

「ひょっとして、ジュリエットってお金持ち?」
「一般的に言って、ハイリスクハイリターンな専門職である殺し屋の平均年収はかなり高額で御座います。白花様は今わの際に御食事を希望されましたので、食にこだわる方かと思って少し張り切ってしまいました」
「無い無い、いつもゴミ食べてるし。咄嗟に何か言わなきゃと思ったらたまたま思い付いただけ。こだわりとかそういう高次元のやつじゃなくて、三大欲求レベルの生理的な本能だよ。ジュリエットがグルメなのは見た目通りって感じだけど、メイドがお店を使うのってどうなんだろう。いや、そもそもメイド服を着てない状態のメイドってメイド?」
「気持ちとしては常にメイドで御座います」

 ジュリエットはエルメスの鞄からヘッドドレスをアレンジした髪飾りを取り出すと、自分の頭に付けてみせた。
 貴族のような品位ある雰囲気が今度はまるでお忍びで遊びに来ているようなお茶目な印象に切り替わる。このジュリエットという女性、何をしても美人のバリエーションの最上級にしかならない。

「既に申し上げた通り、わたくしがメイドであるというのは、職業ではなくキャラクターにおいてで御座います。雇用契約から生じる制約などではなく、何でもそつなくこなせて完璧であるというポテンシャルがその本質なので御座います。また、表面的にそれを担保するのは整った容姿と美しい肢体ですから、結局のところ、わたくしがメイドであるためには、わたくしがわたくしであるだけで十分なので御座います」
「薄々思ってたけど、ジュリエットってナルシシズム……というよりはルッキズムが強いよね。外見至上主義者だよね」
「それに何か問題があるでしょうか。インタポレーション以降、人間の価値を必要以上に複雑に考える風潮が蔓延りすぎております。人間の価値は見た目じゃないだのスキルじゃないだのと仰る方は多いですが、それでは人間の価値は一体何なのかと問うたとき、明確な答えが返ってくることはありません。人間の価値を否定形でしか語らないことで、問いそのものを神秘化して誤魔化すのが彼らの常套手段なので御座います。しかし、わたくしに言わせれば、人間の価値なんて文字通り見ればわかるものでしかありません。容姿こそ、先天的かつ無根拠であるが故に究極の価値を担保するので御座います。容姿など偶然決まるサイコロの目に過ぎないと仰る方もおられますが、逆にいったいどうして誰でも努力すれば得られるような能力に至上の価値を与えることなどできましょうか?」
「うーん、その理屈だと、時代と場所によって容姿の判断基準は違うことがネックにならないかな。現代日本では通用しても、江戸時代やアフリカでは通じない価値が究極って言うのはちょっと無理があるような気もするけど」
「判定者はわたくしであり、わたくしは今ここにしかおりませんので問題ありません。すなわち、ルッキズムに先行し、わたくしの存在が常に既に特異点であるというある種の独我論を採用致します。これによって、わたくしの主観的な世界においては究極の価値を担保できます。わたくしは間主観的な合意には全く興味がありません。自分の世界を自分の満足できるもので満たすのがわたくしの人生哲学で御座います。実際、こうして美しい方と食事を共にする機会が人生での得難い楽しみの一つです」

 ジュリエットが机に手を付き、こちらに身を乗り出してきた。更に手を伸ばし、白花の顎に長くて白い指が触れる。そのまま強い腕力でぐいと引き寄せられる。
 顔が近い。長い睫毛、潤った唇は至近距離で見ても美しかった。
 これってたぶん口説かれてるんだなと白花が理解した瞬間、甘い雰囲気を破壊する大声が個室に響き渡った。

「見つけたのですよーっ!」

 声と同時に襖がバーンと開け放たれ、遊希が現れる。
 料亭だというのに、相変わらず金属バットを背負ったスポーティーな格好だ。腰に手を当てた仁王立ちでジュリエットを睨み付ける。
 その後ろには、遊希よりも少しだけ背が高い女の子が立っていた。髪は腰に届くほど長く、ところどころ跳ねている。ゆるゆるとした水色の柔らかそうなスウェットの上下を着ており、靴の代わりにスリッパを履いていた。
 パジャマのまま出歩いているように見えるのは、彼女の眠たそうな表情によるところも大きい。半分閉じた目を右手で擦っており、左手は遊希と繋いでいる。微妙にふらついており、そのたびに手を引っ張られて体勢を立て直す。きっとこうして引っ張られてここまで来たのだろう。
 活動的な遊希とは対照的に、幽霊のように存在感がない少女だ。彼女こそが遊希と一緒に白花を守りに来た「紫」だとしたら、確かに布団の中にいても気付かないかもしれない。
 ジュリエットは白花の顎から手を放し、ゆっくりと姿勢を元に戻した。

「彼女たちもいずれはわたくしや白花様に劣らない美人に育つことでしょう。今はまだまだ幼いですが、夜を彩る小さな淑女としてこの席に同席する資格が御座います」
「何を気持ち悪いことを言っているのですか!」

 遊希が更に叫ぶ。
 その後ろから料亭の仲居が追い付いてきて、困った顔で遊希とジュリエットと白花を交互に見る。ジュリエットは仲居に向けて微笑むと、頭を下げて謝罪した。

「申し訳ありません。わたくしの可愛い妹たちが寂しさのあまり家から追いかけてきてしまったようです。大変恐縮ですが、追加で子供用の食事を二つ作って頂けるでしょうか。料金は適当に上乗せしておいて下さいませ」

 それだけで仲居はあっさりと引き下がっていった。去り際に襖が閉められ、再び個室の空間は閉鎖される。

「だーれが妹ですか! 白花お姉さんは返してもらうのですよ。まだ殺していないところを見ると、あなたは身柄が欲しいクチですか。どうせ返す気は無いでしょうから、今から殺して奪います。先ほどは後れを取りましたが今度はそうはいかないのです」

 遊希の周りにたちまち蜘蛛の巣が張られていく。そして背中に担いだ金属バットに手を伸ばす。
 白花はまた咄嗟に蛆虫を投げて止めようとするが、このドレスには蛆が湧くようなポケットや隙間が無いことに気付く。蛆を求めてドレスの袖口に手を突っ込むと、幸いにもそれだけで遊希は動きを止めてくれた。
 口をヘの字にし、心底嫌そうな顔で白花を見下ろす。

「何ですか? ストックホルム症候群ですか?」
「違……いや、違わないかもしれないけど、もう状況が変わってるんだよ。私が殺される必要は無くて、あとは黒華と取引するだけっていうか」
「わたくしが説明致しましょう。殺害依頼、すなわちプロトコル八番の遂行は既に完了しております。こちらが証拠品となる白花様の心臓で御座います」

 ジュリエットは大きめの瓶を鞄から取り出して机の上に置いた。
 やや黄ばんだ液体が満たされている中に赤い肉塊が浮かんでいる。さっき動画で見たときに比べると洗浄されており、白花でも見れば確かに心臓とわかる歪な球形をしているのがわかった。
 しかし、全体的に白いまだら模様が浮いている。顔を近づけると、案の定、それは表面に取りついて蠢いている蛆なのだった。

「これってホルマリン漬けみたいな?」
「いえ、違います。ホルムアルデヒド溶液は細胞を殺して固定するものです。今回の心臓は可能な限り新鮮な状態で維持するため、なるべく人体内部に近い状態で劣化しないように保っています。生理食塩水をベースにした、焼き鳥屋の保存調味液のようなものとでも言いましょうか。そのために蛆虫も少しずつ湧いてきてしまい、完全には除去できておりません。こういうわけですので、遊希様も紫様も、ひとまず御着席くださいませ」

 遊希と紫は素直に従った。昼にジュリエットが説明した通り、アンダーグラウンドでは殺害依頼はプロトコルが絶対ということなのだろう。二人とも白花の側に座るので三対一の構図になる。
 しかし、紫は座るや否や目を閉じて白花の膝をめがけてコロンと転がった。膝の上にふわふわの髪の毛が乗る。その頭は異様に軽く、羽毛布団でも乗せているようだった。紫はその状態で手足を丸めて寝息を立て始めてしまう。
 そんな紫の様子を気にすることもなく、ジュリエットは遊希に向けて説明する。

「わたくしは黒華様が提供する代替命が欲しいだけです。既に取引に必要な心臓を摘出している以上、もう白花様に危害を加える理由はありません。黒華様との取引が終わり次第、身柄も解放致します。それまでは楽しく時間を潰そうというだけですよ。もっとも、黒華様からの連絡がまだないため、それがいつになるのかはまだわかりません。とはいえ、あなたたちの邪魔をする理由は何一つないどころか、無事に取引を終わらせることがお互いの利益になるのは明らかです。どちらかというと協力関係と言ってもよいくらいだと思われますが」
「それは暗に取引が安全に終了まで協力しろと言っているのですか?」
「理解が早くて助かります。というのは……」

 そこでジュリエットは前菜に手を伸ばした。食前酒と同時に配膳された、柿釜に入ったちょっとした漬物だ。
 ジュリエットが漬物をポリポリと食べている間、個室には穏やかな沈黙が流れる。ジュリエットが重要な説明を途中で切っている以上、発言権は依然として彼女の側にあり、他の誰も口を開けないからだ。
 十秒ほど待つうちに遊希の前傾姿勢だった重心が無意識に後ろに下がっていき、これはイニシアチブを渡さずに席をクールダウンさせる会話術だということに白花はようやく気付いた。
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