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第4章 心臓摘出はメイドの務めです
第12話:心臓摘出はメイドの務めです・3
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目覚めて最初に目に入ったのは大量のレースだった。
薄いピンクや黄色のレースで彩られ、四脚と天蓋が付いた豪奢なプリンセスベッドの上に白花は横たわっている。ふわふわの枕に柔らかいマットレス、ラベンダーの爽やかな香り。
ここは天国か。
いや、周りを見渡すと、やはり灰色の壁に囲まれて水が滴る空間だ。ここも下水道内の別のどこかであることに間違いない。
身体にはもう拘束具も足錠も付いていないが、術後の患者らしく検診衣のような緩い服を着ている。とりあえずベッドの上で伸びをすると、後方から執刀医の声がした。
「おはようございます、白花様。誠に勝手ながら、普段わたくしが仮眠を取るのに使っているベッドで眠って頂いておりました」
ジュリエットはロッキングチェアに腰かけている。手には小さな洋書、サイドテーブルにはティーカップ。前後にフラフラ揺れ、相変わらずメイドらしからぬ寛ぎ方をしている。彼女も大手術をこなして疲れているのかもしれない。
「私、何日か寝てたりしたかな。地下だから全然わからないけど」
「いえ、手術が終わってから四時間しか経っておりません。同日の午後六時頃で御座います。まずは体調をお確かめ下さいませ。恐らく何の問題もないはずです」
言われた通り、ベッドの上で上半身を捻ったり腕を伸ばしたりしてみる。痛みやつっかえはなく、むしろスムーズに身体が動く。ジュリエットに渡された手鏡で顔を見るが、特にコメントのしようがないほど見慣れた顔が映る。
襟元を少しはだけて胸も映してみる。傷一つない真っ白い肌、切開した痕は全く残っていなかった。数時間前に開胸したとはとても思えない。指で触ってみるが、凹凸すらないつるりとしたものだ。
ベッドから降りて靴を履いて歩き回ってみると少し体が軽いような気がする。いや、実際に心臓の重さ分だけ軽くなっているのかもしれない。
「もう切開痕が治ってるのってジュリエットのブラウとしてのスキルとか?」
「いえ、わたくしはロットですから、エキセントリックなスキルなど特に何も持っておりません。白花様の蛆虫が手術で生じた損傷を全て修復したので御座います。逆にお聞きしますが、白花様は何か覚えておられませんか?」
「そもそも手術中に私の意識はあったのかな。それすら覚えてないんだけど」
「あったはずです。これはあえて言わなかったのですが、普通は無麻酔で開胸などすれば、意識システム上の防衛機構が作動して直ちに昏倒します。よって、意識を保ち続けられるよう、気付けとして炭酸アンモニウムを使用して可能な限り気絶を防いでおりました」
「拷問じゃん」
「確かに拷問用に常備している薬品ですし、心苦しくはありましたが、黒華様のヒントに従って生存本能を活かすためには止むを得ない処置で御座います。しかし、その副次効果として、手術中に身体に起きた事柄についての記憶が期待できるのも事実です。白花様は心臓の摘出を生き残る極めて稀なブラウですので、貴重な生存事例として是非参考にさせて頂きたいのです。何か覚えていることがあれば、何でも構いませんので何卒お願い致します」
「そう言われてもね。言葉にできるようなことを覚えてる余裕なんてなかったよ」
とにかくめちゃめちゃ痛かったのは覚えている。
何か絶叫して痛みを和らげようとしていたこと、暴れようにも拘束具が肌に食い込んで身体中痛くなるばかりだったこと、しかしそれが胸の痛みから僅かに意識を逸らしてくれたことは何となく覚えている。
ただ、そもそも痛みというのは後から具体的に思い出せる類の感覚ではない。痛覚はリアルタイムな知覚なのだ。
そして、痛み以外の記憶は全く残っていなかった。何を考えていたのか忘れてしまったと言うよりは、何も考えていなかった、考える余裕がなかったと思う。
脳味噌が色々なアイデアや知覚を収納する容器のようなものだとすれば、それは痛みだけで容量オーバーになってしまい、他の何かを入れる余裕など全くなかった。
「では資料として撮影した術中の動画を一緒に見ながら振り返りましょう。それなりに異常な現象が起きておりましたので、何か思い出すきっかけになるかもしれません。更に、施術者として今回行った手術について簡単に説明させて頂きます」
ジュリエットがサイドテーブルのリモコンを操作すると、壁際にあるモニターに電源が付いた。拘束された白花のはだけた薄い胸部が映る。さっきの部屋のどこかにカメラが備え付けてあったのだろうか。
「スナッフフィルムってこういう風に作られてるのかな」
「このまま適切な場所に流せばかなりの高値が付くことは間違いありません。もっとも、これはわたくしの個人的な研究資料ですからパッケージにすることはありませんが」
今から目の前にある自分の身体が執刀されると思うと、ドッと手汗がにじみ出る。
今から自分が切られるわけではないのだから不合理な感覚だと頭ではわかるのだが、とにかく異様な緊張感がある。過去の白花さんを別人として心配しているのか、それとも今まさに自分の胸にメスが付き付けられているように誤認しているのか。
「なお、音声は聞くに堪えないので削ってあります。また、あれだけの固定器具を用いても激しく暴れて画面が揺れましたので、ブレ補正をかけてあります。では始めましょう」
ジュリエットが再生ボタンを押した。早速メスが胸を縦にスーッと裂き、鮮やかな鮮血が噴き出してくる。
しかし、それに混じって溢れ出してくるのは蛆虫だ。赤い血と白い蛆が混じり合って共に傷口からドクドクと排出される。もはや血で満たされた蛆の袋を切開しているようだ。
「うわうわ! 何この、これ、寄生されてるの?」
「わたくしとしては白花様が驚かれていることが意外です。今まで怪我をした際に傷口から蛆虫が湧いたことは無かったのですか?」
「そもそもそんなに大きい怪我をしないよ、インドア派だから。ちょっと紙で指を切ったときとかに治療に蛆虫を使うことはあるけど、それだって別に身体の内側から湧いてくるわけじゃないし」
湧き続ける蛆虫を見ているとまるで腐乱死体でも処置しているようだが、周囲の皮膚や肉は健康的で鮮やかな色をしているのがミスマッチだ。
切開した部位に吸引器があてがわれ、血液と蛆虫をまとめて吸い取っていく。
「わたくしの体感としましては、肉の内部に元々蛆が寄生していたというよりは、損傷に反応して湧いてきていたように感じます。昨日、管理局でヴァルタル様を治療した際と同様に、傷付いた身体の内部に蛆が巣食って湧き出す現象のバリエーションと考えます」
「そういえば、黒華がヴァルタルさんに刺されたときも身体から蚊が吹き出してたっけ」
切開した皮膚が放射状に引っ張られて固定され、白い胸骨が露出する。
次に画面に登場したのは小型の電動鋸だった。電源が入ると刃が高速で回転する。音声こそ無いものの、ドルドルドルという巨大な音を響き渡らせているのは間違いないだろう。
巨大な刃は胸の真ん中に容赦なく垂直に突き立てられ、胸骨を左右に砕き割っていく。
「これ蛆よりエグくない?」
「胸骨正中切開で御座います。心臓は厚い胸骨に守られていますので、摘出するにはそれを割るしかないのです。脇腹あたりから始めて肋骨に入り込むように攻めるルートもありますが、どちらにしても普通は死にますので、今回はより簡単で確実な方を選択させて頂きました」
胸骨が左右に割れた状態で固定され、その中身が露わになる。
しかし、白花には心臓などほとんど見えなかった。湧き出し続ける蛆と血液によってやたら視界が悪いのだ。吸引器が懸命にそれらを除去しているとはいえ、人体構造に詳しくない白花には、ざっくり赤い身体の中身が映っていることくらいしかわからない。
そんな中、モニターの中のジュリエットの手は手際良く動いていた。鉗子や先端の尖った金属製の器具を次々に取り付けていく。大胆な切開の工程を終えて比較的細かい作業に入ってきているようだ。
そろそろ心臓を切り出すのかと思いきや、画面には再び電動鋸が現れてもう一度胸骨に突き立てられた。
「これ何してるの? 追い打ち?」
「心臓を処置している間に皮膚と胸骨の修復が進んできたため、念のためにもう一度割りました。蛆虫の高速治癒能力によるもので御座います。蛆虫が体内からいくらでも湧いてきて、吸引器で除去し切れなかったものが勝手に切開した部分を治して傷を閉じようとしてしまうのです」
「普通はありがたいはずなんだけど、確かに手術中は邪魔かもね」
「ただ、それに助けられたこともあります。心臓付近にはいくつもの血管が繋がっているため、それら全ての血流を一時的に止めた上で血管を切断し摘出する予定だったのですが、途中から止血作業は不要であることがわかりました。細かい血管程度であれば切除した時点で蛆が湧いて傷跡を塞いでくれるので、いちいち止血する必要が無いのです」
画面の中ではメスが指揮棒のように滑らかに舞う。言葉通り、様々な血管を遠慮なく次々に切断しているようだ。
さっきから薄々思っていたが、恐らくジュリエットは外科手術医としても上から数えた方が早い部類に入るのではないだろうか。淀みない手つきはベテランの医者と言っても全く疑われまい。
他人を救命する医者と他人を殺害する殺し屋は真逆ではあるが、人命の専門家という点では同じ土俵の上にいると言えなくもない。また、厳密なプロトコルとやらを正しく運用するためには人体に関する医学的な知識も要求されるのだろう。
メイド、殺し屋、医者という一見するとバラバラの職種の共通項が見えてきた。ジュリエット自身が自称するように、要するに彼女は青天井のハイスペックなのだ。
「これが心臓?」
「左様で御座います」
遂にやっと切り出された肉片が持ち上げられて画面に大写しになった。しかし、白花の心臓は思ったより地味だった。
ドクドク脈打つエンジンというよりはピクピク震える小動物のようだ。生物の教科書で見たようなポンプ型にも見えない。何かよくわからない赤い肉の塊、焼き肉屋で出てきて何の肉だかよくわからないまま焼いて食べるホルモンのようだった。
とりあえず無事に摘出が成功したので開胸を維持していた器具が取り外される。続いて縫合のための鉄線や糸や針が画面に映るが、それらが使われることはなかった。
「切開した痕は全く縫合しておりません。もちろんわたくしは生死に関わらず縫い合わせる予定だったのですが、それよりも遥かに早く再生が始まったからです。五分ほど放置しただけで、現在のように全く傷の無い状態にまで回復していました。よって、ここからしばらくは蛆虫以外には動きが無い映像になります。わたくしは少し席を外しますので、何か気付くことがないか観察してみて下さいませ」
ジュリエットが椅子を立って出ていった。
とはいっても、ここは下水道管の中だ。扉の付いた個室ではないから、ただ単に歩いて遠くに行くだけだ。ジュリエットが立ち去った先からは、何か電話で話している声が反響する。
またしてもジュリエットの監視が外れたことに気付き、一応ここから逃げることを考える。
しかし、ジュリエットがそれを想定していないほど迂闊とも思えない。それに、彼女の言葉が正しければ、もう殺し屋としての仕事は終わっているはずだ。これ以上白花を拘束する理由はない。
白花自身も不明点が多い蛆虫について解明することには興味がある。逃走は一旦脇に置いて、ジュリエットに言われた通り画面を注視して新事実発見を試みる。
しかし、特に気付くことはなかった。
ヴァルタルにしたように他人を治療するときと全く同じだ。蛆虫は生化学的なメカニズムによって治療行為を行っているようにはとても見えない。何の力みもなくただただ這い回るだけで逆再生するように傷を端から治癒させていく。
あまりにも回復が早すぎる、全体的にタイムスパンがおかしい。逆に言えば、これは自然治癒を数千倍速で回した映像だと言われれば多少は納得できないこともない。
最後にジュリエットが胸に残った血液と蛆虫を拭き取ると、その下からは全く無傷の胸が現れる。出来損ないのスナッフフィルムはそれで終わった。
そこでちょうどジュリエットが戻ってくる。木製の古めかしいトランクを二つ手に持っている。
「いかがだったでしょうか」
「いや、全然だね。蛆虫はいつもと同じ感じで、私の身体だからって何か特別にサービスをしてくれてるようには見えなかったな」
「わたくしも同意見で御座います。管理局での治療行為と同様の現象が白花様自身の損傷に際しても起こったと思われます。今更ながら、改めて常人と異なる点を確認するのであれば、蛆が湧くことと高速治癒能力の二つで間違いありませんが」
「こうして動画で見ると凄いけど、概ね既出の現象ってことだよね。ていうか、こんなに鮮明な記録映像があるならそれで十分じゃない? 私が手術中のことを思い出す必要ってあるのかな」
「客観と主観の違いで御座います。ことブラウに関しては、客観的に見て起きている現象が似通っていたとしても、主観的に考えていることの違いが決定的に重要なのではないかとわたくしは考えております」
「そう言われると、医学というよりはスピリチュアルな感じがしてくるけど」
「そうかもしれません。しかし、ブラウの不合理なまでの多様性を見ていると、これは根本的に主観的なレベルからしか語れない現象なのではないかという直観があるのです。それが既存の認知科学や精神医学の知見と連携できるかどうかは、現状では不明ですが」
「医学って言うなら、私の医学的な状態は今どうなってるのかな。さっき私の身体から心臓が摘出されたけど、今はもう蛆の治癒能力で完全に再生してるってこと?」
白花は自分の胸を軽く叩いてみた。しかし、特に何が起こるわけでもない。
心臓が無くなった空洞に音が反響することもなければ、叩いた部分が陥没することもない。あまり大きくない胸がまあまあ柔らかいのと、その奥の胸骨は普通に硬いというだけだ。
「わかりません。外科的な手術に必要な道具は一式所持しておりますが、レントゲンのようなモニター系の機器はほとんど持っていないのです。高価で大型なため移動しにくいのもありますし、基本的には相手が死んでも構わないため、術中や術後の状態はあまり気にしないからです。わたくしも現在の身体の状態には非常に興味がありますが、今やるべきことはまだ他にあります」
「ああ、プロトコルに従って心臓を何やらしないといけないんだよね」
「いえ、それは既に済んでおります。わたくしがしなければならないことは白花様とのデートで御座います」
「それは私が知らない医学用語かな」
「いいえ。和製英語において、親しい二人が食事などを共にすることを意味します」
ジュリエットが手に持っているトランクを開けた。
その中にはレースのドレスが畳まれて入っている。ハイヒール、アクセサリ、ネックレスもだ。服飾品一式のセットである。どれも簡素ながらも品があり、古びたケースの格式も相まって中世の貴族が持ち歩くアイテムのようだ。
「白花様が生き残った場合、わたくしが高いごはんを御馳走するという約束があったはずです。今ちょうど夕食に手頃な時間で御座います。京王プラザホテルの料亭を予約しましたので、今から着替えて参りましょう」
薄いピンクや黄色のレースで彩られ、四脚と天蓋が付いた豪奢なプリンセスベッドの上に白花は横たわっている。ふわふわの枕に柔らかいマットレス、ラベンダーの爽やかな香り。
ここは天国か。
いや、周りを見渡すと、やはり灰色の壁に囲まれて水が滴る空間だ。ここも下水道内の別のどこかであることに間違いない。
身体にはもう拘束具も足錠も付いていないが、術後の患者らしく検診衣のような緩い服を着ている。とりあえずベッドの上で伸びをすると、後方から執刀医の声がした。
「おはようございます、白花様。誠に勝手ながら、普段わたくしが仮眠を取るのに使っているベッドで眠って頂いておりました」
ジュリエットはロッキングチェアに腰かけている。手には小さな洋書、サイドテーブルにはティーカップ。前後にフラフラ揺れ、相変わらずメイドらしからぬ寛ぎ方をしている。彼女も大手術をこなして疲れているのかもしれない。
「私、何日か寝てたりしたかな。地下だから全然わからないけど」
「いえ、手術が終わってから四時間しか経っておりません。同日の午後六時頃で御座います。まずは体調をお確かめ下さいませ。恐らく何の問題もないはずです」
言われた通り、ベッドの上で上半身を捻ったり腕を伸ばしたりしてみる。痛みやつっかえはなく、むしろスムーズに身体が動く。ジュリエットに渡された手鏡で顔を見るが、特にコメントのしようがないほど見慣れた顔が映る。
襟元を少しはだけて胸も映してみる。傷一つない真っ白い肌、切開した痕は全く残っていなかった。数時間前に開胸したとはとても思えない。指で触ってみるが、凹凸すらないつるりとしたものだ。
ベッドから降りて靴を履いて歩き回ってみると少し体が軽いような気がする。いや、実際に心臓の重さ分だけ軽くなっているのかもしれない。
「もう切開痕が治ってるのってジュリエットのブラウとしてのスキルとか?」
「いえ、わたくしはロットですから、エキセントリックなスキルなど特に何も持っておりません。白花様の蛆虫が手術で生じた損傷を全て修復したので御座います。逆にお聞きしますが、白花様は何か覚えておられませんか?」
「そもそも手術中に私の意識はあったのかな。それすら覚えてないんだけど」
「あったはずです。これはあえて言わなかったのですが、普通は無麻酔で開胸などすれば、意識システム上の防衛機構が作動して直ちに昏倒します。よって、意識を保ち続けられるよう、気付けとして炭酸アンモニウムを使用して可能な限り気絶を防いでおりました」
「拷問じゃん」
「確かに拷問用に常備している薬品ですし、心苦しくはありましたが、黒華様のヒントに従って生存本能を活かすためには止むを得ない処置で御座います。しかし、その副次効果として、手術中に身体に起きた事柄についての記憶が期待できるのも事実です。白花様は心臓の摘出を生き残る極めて稀なブラウですので、貴重な生存事例として是非参考にさせて頂きたいのです。何か覚えていることがあれば、何でも構いませんので何卒お願い致します」
「そう言われてもね。言葉にできるようなことを覚えてる余裕なんてなかったよ」
とにかくめちゃめちゃ痛かったのは覚えている。
何か絶叫して痛みを和らげようとしていたこと、暴れようにも拘束具が肌に食い込んで身体中痛くなるばかりだったこと、しかしそれが胸の痛みから僅かに意識を逸らしてくれたことは何となく覚えている。
ただ、そもそも痛みというのは後から具体的に思い出せる類の感覚ではない。痛覚はリアルタイムな知覚なのだ。
そして、痛み以外の記憶は全く残っていなかった。何を考えていたのか忘れてしまったと言うよりは、何も考えていなかった、考える余裕がなかったと思う。
脳味噌が色々なアイデアや知覚を収納する容器のようなものだとすれば、それは痛みだけで容量オーバーになってしまい、他の何かを入れる余裕など全くなかった。
「では資料として撮影した術中の動画を一緒に見ながら振り返りましょう。それなりに異常な現象が起きておりましたので、何か思い出すきっかけになるかもしれません。更に、施術者として今回行った手術について簡単に説明させて頂きます」
ジュリエットがサイドテーブルのリモコンを操作すると、壁際にあるモニターに電源が付いた。拘束された白花のはだけた薄い胸部が映る。さっきの部屋のどこかにカメラが備え付けてあったのだろうか。
「スナッフフィルムってこういう風に作られてるのかな」
「このまま適切な場所に流せばかなりの高値が付くことは間違いありません。もっとも、これはわたくしの個人的な研究資料ですからパッケージにすることはありませんが」
今から目の前にある自分の身体が執刀されると思うと、ドッと手汗がにじみ出る。
今から自分が切られるわけではないのだから不合理な感覚だと頭ではわかるのだが、とにかく異様な緊張感がある。過去の白花さんを別人として心配しているのか、それとも今まさに自分の胸にメスが付き付けられているように誤認しているのか。
「なお、音声は聞くに堪えないので削ってあります。また、あれだけの固定器具を用いても激しく暴れて画面が揺れましたので、ブレ補正をかけてあります。では始めましょう」
ジュリエットが再生ボタンを押した。早速メスが胸を縦にスーッと裂き、鮮やかな鮮血が噴き出してくる。
しかし、それに混じって溢れ出してくるのは蛆虫だ。赤い血と白い蛆が混じり合って共に傷口からドクドクと排出される。もはや血で満たされた蛆の袋を切開しているようだ。
「うわうわ! 何この、これ、寄生されてるの?」
「わたくしとしては白花様が驚かれていることが意外です。今まで怪我をした際に傷口から蛆虫が湧いたことは無かったのですか?」
「そもそもそんなに大きい怪我をしないよ、インドア派だから。ちょっと紙で指を切ったときとかに治療に蛆虫を使うことはあるけど、それだって別に身体の内側から湧いてくるわけじゃないし」
湧き続ける蛆虫を見ているとまるで腐乱死体でも処置しているようだが、周囲の皮膚や肉は健康的で鮮やかな色をしているのがミスマッチだ。
切開した部位に吸引器があてがわれ、血液と蛆虫をまとめて吸い取っていく。
「わたくしの体感としましては、肉の内部に元々蛆が寄生していたというよりは、損傷に反応して湧いてきていたように感じます。昨日、管理局でヴァルタル様を治療した際と同様に、傷付いた身体の内部に蛆が巣食って湧き出す現象のバリエーションと考えます」
「そういえば、黒華がヴァルタルさんに刺されたときも身体から蚊が吹き出してたっけ」
切開した皮膚が放射状に引っ張られて固定され、白い胸骨が露出する。
次に画面に登場したのは小型の電動鋸だった。電源が入ると刃が高速で回転する。音声こそ無いものの、ドルドルドルという巨大な音を響き渡らせているのは間違いないだろう。
巨大な刃は胸の真ん中に容赦なく垂直に突き立てられ、胸骨を左右に砕き割っていく。
「これ蛆よりエグくない?」
「胸骨正中切開で御座います。心臓は厚い胸骨に守られていますので、摘出するにはそれを割るしかないのです。脇腹あたりから始めて肋骨に入り込むように攻めるルートもありますが、どちらにしても普通は死にますので、今回はより簡単で確実な方を選択させて頂きました」
胸骨が左右に割れた状態で固定され、その中身が露わになる。
しかし、白花には心臓などほとんど見えなかった。湧き出し続ける蛆と血液によってやたら視界が悪いのだ。吸引器が懸命にそれらを除去しているとはいえ、人体構造に詳しくない白花には、ざっくり赤い身体の中身が映っていることくらいしかわからない。
そんな中、モニターの中のジュリエットの手は手際良く動いていた。鉗子や先端の尖った金属製の器具を次々に取り付けていく。大胆な切開の工程を終えて比較的細かい作業に入ってきているようだ。
そろそろ心臓を切り出すのかと思いきや、画面には再び電動鋸が現れてもう一度胸骨に突き立てられた。
「これ何してるの? 追い打ち?」
「心臓を処置している間に皮膚と胸骨の修復が進んできたため、念のためにもう一度割りました。蛆虫の高速治癒能力によるもので御座います。蛆虫が体内からいくらでも湧いてきて、吸引器で除去し切れなかったものが勝手に切開した部分を治して傷を閉じようとしてしまうのです」
「普通はありがたいはずなんだけど、確かに手術中は邪魔かもね」
「ただ、それに助けられたこともあります。心臓付近にはいくつもの血管が繋がっているため、それら全ての血流を一時的に止めた上で血管を切断し摘出する予定だったのですが、途中から止血作業は不要であることがわかりました。細かい血管程度であれば切除した時点で蛆が湧いて傷跡を塞いでくれるので、いちいち止血する必要が無いのです」
画面の中ではメスが指揮棒のように滑らかに舞う。言葉通り、様々な血管を遠慮なく次々に切断しているようだ。
さっきから薄々思っていたが、恐らくジュリエットは外科手術医としても上から数えた方が早い部類に入るのではないだろうか。淀みない手つきはベテランの医者と言っても全く疑われまい。
他人を救命する医者と他人を殺害する殺し屋は真逆ではあるが、人命の専門家という点では同じ土俵の上にいると言えなくもない。また、厳密なプロトコルとやらを正しく運用するためには人体に関する医学的な知識も要求されるのだろう。
メイド、殺し屋、医者という一見するとバラバラの職種の共通項が見えてきた。ジュリエット自身が自称するように、要するに彼女は青天井のハイスペックなのだ。
「これが心臓?」
「左様で御座います」
遂にやっと切り出された肉片が持ち上げられて画面に大写しになった。しかし、白花の心臓は思ったより地味だった。
ドクドク脈打つエンジンというよりはピクピク震える小動物のようだ。生物の教科書で見たようなポンプ型にも見えない。何かよくわからない赤い肉の塊、焼き肉屋で出てきて何の肉だかよくわからないまま焼いて食べるホルモンのようだった。
とりあえず無事に摘出が成功したので開胸を維持していた器具が取り外される。続いて縫合のための鉄線や糸や針が画面に映るが、それらが使われることはなかった。
「切開した痕は全く縫合しておりません。もちろんわたくしは生死に関わらず縫い合わせる予定だったのですが、それよりも遥かに早く再生が始まったからです。五分ほど放置しただけで、現在のように全く傷の無い状態にまで回復していました。よって、ここからしばらくは蛆虫以外には動きが無い映像になります。わたくしは少し席を外しますので、何か気付くことがないか観察してみて下さいませ」
ジュリエットが椅子を立って出ていった。
とはいっても、ここは下水道管の中だ。扉の付いた個室ではないから、ただ単に歩いて遠くに行くだけだ。ジュリエットが立ち去った先からは、何か電話で話している声が反響する。
またしてもジュリエットの監視が外れたことに気付き、一応ここから逃げることを考える。
しかし、ジュリエットがそれを想定していないほど迂闊とも思えない。それに、彼女の言葉が正しければ、もう殺し屋としての仕事は終わっているはずだ。これ以上白花を拘束する理由はない。
白花自身も不明点が多い蛆虫について解明することには興味がある。逃走は一旦脇に置いて、ジュリエットに言われた通り画面を注視して新事実発見を試みる。
しかし、特に気付くことはなかった。
ヴァルタルにしたように他人を治療するときと全く同じだ。蛆虫は生化学的なメカニズムによって治療行為を行っているようにはとても見えない。何の力みもなくただただ這い回るだけで逆再生するように傷を端から治癒させていく。
あまりにも回復が早すぎる、全体的にタイムスパンがおかしい。逆に言えば、これは自然治癒を数千倍速で回した映像だと言われれば多少は納得できないこともない。
最後にジュリエットが胸に残った血液と蛆虫を拭き取ると、その下からは全く無傷の胸が現れる。出来損ないのスナッフフィルムはそれで終わった。
そこでちょうどジュリエットが戻ってくる。木製の古めかしいトランクを二つ手に持っている。
「いかがだったでしょうか」
「いや、全然だね。蛆虫はいつもと同じ感じで、私の身体だからって何か特別にサービスをしてくれてるようには見えなかったな」
「わたくしも同意見で御座います。管理局での治療行為と同様の現象が白花様自身の損傷に際しても起こったと思われます。今更ながら、改めて常人と異なる点を確認するのであれば、蛆が湧くことと高速治癒能力の二つで間違いありませんが」
「こうして動画で見ると凄いけど、概ね既出の現象ってことだよね。ていうか、こんなに鮮明な記録映像があるならそれで十分じゃない? 私が手術中のことを思い出す必要ってあるのかな」
「客観と主観の違いで御座います。ことブラウに関しては、客観的に見て起きている現象が似通っていたとしても、主観的に考えていることの違いが決定的に重要なのではないかとわたくしは考えております」
「そう言われると、医学というよりはスピリチュアルな感じがしてくるけど」
「そうかもしれません。しかし、ブラウの不合理なまでの多様性を見ていると、これは根本的に主観的なレベルからしか語れない現象なのではないかという直観があるのです。それが既存の認知科学や精神医学の知見と連携できるかどうかは、現状では不明ですが」
「医学って言うなら、私の医学的な状態は今どうなってるのかな。さっき私の身体から心臓が摘出されたけど、今はもう蛆の治癒能力で完全に再生してるってこと?」
白花は自分の胸を軽く叩いてみた。しかし、特に何が起こるわけでもない。
心臓が無くなった空洞に音が反響することもなければ、叩いた部分が陥没することもない。あまり大きくない胸がまあまあ柔らかいのと、その奥の胸骨は普通に硬いというだけだ。
「わかりません。外科的な手術に必要な道具は一式所持しておりますが、レントゲンのようなモニター系の機器はほとんど持っていないのです。高価で大型なため移動しにくいのもありますし、基本的には相手が死んでも構わないため、術中や術後の状態はあまり気にしないからです。わたくしも現在の身体の状態には非常に興味がありますが、今やるべきことはまだ他にあります」
「ああ、プロトコルに従って心臓を何やらしないといけないんだよね」
「いえ、それは既に済んでおります。わたくしがしなければならないことは白花様とのデートで御座います」
「それは私が知らない医学用語かな」
「いいえ。和製英語において、親しい二人が食事などを共にすることを意味します」
ジュリエットが手に持っているトランクを開けた。
その中にはレースのドレスが畳まれて入っている。ハイヒール、アクセサリ、ネックレスもだ。服飾品一式のセットである。どれも簡素ながらも品があり、古びたケースの格式も相まって中世の貴族が持ち歩くアイテムのようだ。
「白花様が生き残った場合、わたくしが高いごはんを御馳走するという約束があったはずです。今ちょうど夕食に手頃な時間で御座います。京王プラザホテルの料亭を予約しましたので、今から着替えて参りましょう」
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そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。
工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。
むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。
“特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。
工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。
兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。
工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。
スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。
二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
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