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第7章 河畔の宿
2 マタギ姿の訪問者
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私と権八は鶴屋で夕食を取った後、理久の実家である「柳家」に泊まることになった。
どこか木賃宿にでも泊まるつもりだったが、是非にと言って理久が譲らなかったのだ。
「柳家」は、青梅街道から北に伸びる道に面した所にあった。
目の前で石神井川が蛇行して東へと流れている。
街道から外れているとはいえ、少し高台にあって眺めが良い。
雲間から僅かに差し込んできた黒橙の光に映え、小振りながら風格すら感じさせた。
理久が再興したいと願うのも、あながち的外れなことではないと思った。
「わわっ!」
敷地内に入ると、ズブッという音と同時に、権八がただならぬ声を上げた。
振り返ると、くるぶしまで泥で汚れている。
「ご免なさい。先に言っとけばよかった! 土壁用の土を仕込んでいるところなの。今日の風で、覆いがずれちゃったみたい」
理久は両袖を帯に挟みこんで、大きな木板を横にずらした。
蟹味噌のような臭いが辺りに広がっていく。
理久は迷いなく両手を中へ突っ込むと、掬い上げた泥を顔の前で捏ね始めた。
「だいぶいい感じになってるわ。そろそろかも」
理久は、出来栄えに満足のようである。
「そろそろって、まさか壁塗り?」
「天気がいい時にやっとかないと、乾かさなきゃいけないし」
「理久さんが、やんのが?」
「そうよ。土壁って何度も塗り直さないといけないから、できるところは自分でやろうと思って」
「こんなに、臭いのに?」
「赤土に藁と水を混ぜてるだけよ。乾くと匂いが消えるんですって。ちゃんと本業の人に教えてもらったから、大丈夫」
かなり暗くなってはいたが、目を凝らすと泥の中に細かく切られた藁が混じっているのがわかる。
理久は木板を元に戻すと、すぐ脇を流れる小川で手を濯いだ。
二畳ほどの広さの玄関は作りつけの下駄箱以外、何もなかった。
横に比較的新しい布が被せられた子どもの背丈ほどの板が置かれている。
近寄って布をチラとめくってみた。
「柳家」と屋号が彫られている。
埃っぽい下駄箱に比べると、明らかに艶があった。
理久が汲んできた水で足を洗い、中へと入って行った。
六畳分ほどの細長い中庭を取り囲む形で、部屋が配置されていた。
東角の玄関から入ると正面左手に囲炉裏部屋、右に賄い部屋がある。
客間は一階に二室、二階に五室あった。
一部しか使ってないようで、大部分の部屋には雨戸が下ろされていた。
門訴事件の折、槍を手にして押し入ってきた役人たちがあちこち刺して回ったと聞いたが、ランプに浮かび上がった障子や襖には経年劣化と思われる汚れや破損が多く、それと分からなかった。
板がむき出しになった部屋もあった。
私と権八は、囲炉裏部屋横の階段を上がった南向きの客間に通された。
囲炉裏部屋とこの客室だけが、三ヵ月の間に改装されたようだった。
「私、ここからの眺めが一番気に入ってるの。ほら」
理久はランプを床の間に置くと窓を開け、深呼吸をした。
街道沿いの店から所々光が漏れ、酔客たちの戯れの手拍子が緩くなってきた風に混じって聞こえてくる。
太陽は山背に隠れ、稜線がくっきりと浮かび上がって見えた。
確かに、いろは堂へは大声を出せば聞こえるほどに近い。だが女一人で、この家に寝泊まりするとは……。
「理久さんがこんなに強い人だったとは、意外だなあ」
権八の声はお世辞でなく、純粋な心情の吐露に聞こえた。
「強くなんかないわ。何にも無いところから何かをやり始める人をいっぱい見て、自分もできそうな気がしてきただけ。権八さんは五日市講談会を作ったでしょう。先生は憲法を図に書いて紙芝居みたいに見せて回ってた。東京じゃ私くらいの女の人が大勢を前に演説してた。お侍さんだった人がアイスクリンを作ってた。だから私も、できることをやんなくっちゃって思ったの」
「礼を言われると、照れるな」
笑いを誘うつもりで、おどけた調子で言った。
「有難う」
向き直り軽く頭を下げた理久から、しっとりとした声が帰ってきた。
明くる日、私達二人は土壁塗りを手伝うことにした。
作業は、泥団子を作ることから始まった。
両手で抱えられる大きさのものをたくさん作る。
出来上がると三人が離れて並び、権八から私、さらに理久へと投げ渡す。
そして竹小舞という竹を格子状に編んだ下地に泥をつけ、鏝でならす。
理久は半畳分ほどの面で手本を見せると、野良着を着替えて鶴屋へと向かった。
あとは私と権八の二人作業となったが、昼過ぎには四畳分ほどの壁表裏に土を塗り終わった。
次に理久から依頼されたのは、柿渋塗りだった。
各客室に置いてあった座卓を囲炉裏部屋の隣に集め、乾燥させた砥草で磨く。
そして、柿渋液を刷毛で塗り重ねていくのである。
柿渋は塗ると被膜ができ、防虫、防カビの役目を果たすので、柱や壁などに塗布することは古くから行われていた。
柿渋は銀杏に似た臭いを放つ。私と権八は、鼻から下をすっぽりと手拭いで縛って作業をした。
石神井川に蛍の光が舞うようになった頃、理久が帰ってきた。
入れ違いに街道沿いの風呂屋へ行き鶴屋で食事をして戻って来ると、囲炉裏部屋のすえた臭いは消えていた。
板の上に散らばっていた砥草の欠片や木屑も無くなり、雑巾がけが済んでいる。
泊まっていた二階の部屋に入ると二組の布団が敷かれ、その上に浴衣が置かれていた。
布団からは陽だまりの匂いがする。いつの間に干してくれていたらしい。
浴衣に着替えて階下に降りると、さっきまであったランプの灯が消えている。
横から理久が耳打ちしてきた。
「外に誰かいるわ。こっちをうかがってる……」
私は開け放たれた縁側に目をやった。
時折、黄緑色した蛍の光が、ぼおっと光るのが見える。
「常さんたちじゃねえが? 早く店閉めてここに来るって」
「しっ! だったら、堂々と玄関から入って来るでしょ。ひと月前だって隣村に泥棒が入ってんだから。用心したほうがいいわ」
理久は階段下に立てかけてあった銃を掴むと、弾を装填した。構えながら、縁側方向へとにじり寄って行く。
板間との境い目でピタリと止まり、銃身を右斜め下へと向けた。
「そこにいるのはわかってんのよ!」
理久の声が、暗闇を割いた。
次の刹那、黒い影が柳の幹から離れた。
理久の指が引き金に掛かる。
人の輪郭が月光に浮かび上がった。両手を上げている。
「久しぶりだな、理久」
辰蔵だった。
途端、理久はへなへなと座り込み、ガタッと銃の落ちる音がした。
「何でそんなとこに? 上がって来ればいいじゃないですか」
権八の言葉に我に戻ったのか、理久がゆっくり立ち上がった。
「どうぞ、玄関に回って」
ハッと理久の顔を見た。理久は辰蔵がここへ来るとわかっていたようだ。
ランプの灯に照らし出された辰蔵は、くたびれた股引きに法被を羽織り、車夫さながらの姿をしていた。
やや髪が伸び無精髭も生えている。何かあったなと思ったが、かける言葉が見つからなかった。
「よく、ここがわかりましたね。僕は一瞬、理久さんのマタギの知り合いがやって来たのかと思いましたよ」
「暫く姿現さないと思ったら、どこさ行ってたんだ? 俺たちが居たんでたまげたっぺ」
「いや、声が聞こえてた」
やはり不安は当たっている。だが、直接問いただすのは野暮というものだろう。
「土佐に行ってきたべ。土産を持って来ただけなのに、厄介になってるとごだ」
「世話になってるのはこっちのほう。宿の修理を手伝ってくれて。さ、上がって」
「……ここでいい」
「え?」
「伝えとかなくちゃいけないことがある」
それまで薄ら笑いを浮かべていた辰蔵だったが、真っ直ぐにこちらを見た。
その時、後ろから複数の男女の声が聞こえてきた。
常夫妻だった。
平左衛門夫妻を誘い、四人で酒や料理を持参してやって来たのである。
平左衛門は既に酒が入ってるらしく、こちらを見ると陽気に手を振ってきた。
「他にもお客さんかな? 五日市の方ですか?」
「こいつ実は私と同郷なんですよ。13年ぶりに五日市でばったり会いましてね。名は柏木……いや……えーと……おい、なんて言やいいんだ?」
「速水です」
辰蔵はそう言って深々とお辞儀をした。
どこか木賃宿にでも泊まるつもりだったが、是非にと言って理久が譲らなかったのだ。
「柳家」は、青梅街道から北に伸びる道に面した所にあった。
目の前で石神井川が蛇行して東へと流れている。
街道から外れているとはいえ、少し高台にあって眺めが良い。
雲間から僅かに差し込んできた黒橙の光に映え、小振りながら風格すら感じさせた。
理久が再興したいと願うのも、あながち的外れなことではないと思った。
「わわっ!」
敷地内に入ると、ズブッという音と同時に、権八がただならぬ声を上げた。
振り返ると、くるぶしまで泥で汚れている。
「ご免なさい。先に言っとけばよかった! 土壁用の土を仕込んでいるところなの。今日の風で、覆いがずれちゃったみたい」
理久は両袖を帯に挟みこんで、大きな木板を横にずらした。
蟹味噌のような臭いが辺りに広がっていく。
理久は迷いなく両手を中へ突っ込むと、掬い上げた泥を顔の前で捏ね始めた。
「だいぶいい感じになってるわ。そろそろかも」
理久は、出来栄えに満足のようである。
「そろそろって、まさか壁塗り?」
「天気がいい時にやっとかないと、乾かさなきゃいけないし」
「理久さんが、やんのが?」
「そうよ。土壁って何度も塗り直さないといけないから、できるところは自分でやろうと思って」
「こんなに、臭いのに?」
「赤土に藁と水を混ぜてるだけよ。乾くと匂いが消えるんですって。ちゃんと本業の人に教えてもらったから、大丈夫」
かなり暗くなってはいたが、目を凝らすと泥の中に細かく切られた藁が混じっているのがわかる。
理久は木板を元に戻すと、すぐ脇を流れる小川で手を濯いだ。
二畳ほどの広さの玄関は作りつけの下駄箱以外、何もなかった。
横に比較的新しい布が被せられた子どもの背丈ほどの板が置かれている。
近寄って布をチラとめくってみた。
「柳家」と屋号が彫られている。
埃っぽい下駄箱に比べると、明らかに艶があった。
理久が汲んできた水で足を洗い、中へと入って行った。
六畳分ほどの細長い中庭を取り囲む形で、部屋が配置されていた。
東角の玄関から入ると正面左手に囲炉裏部屋、右に賄い部屋がある。
客間は一階に二室、二階に五室あった。
一部しか使ってないようで、大部分の部屋には雨戸が下ろされていた。
門訴事件の折、槍を手にして押し入ってきた役人たちがあちこち刺して回ったと聞いたが、ランプに浮かび上がった障子や襖には経年劣化と思われる汚れや破損が多く、それと分からなかった。
板がむき出しになった部屋もあった。
私と権八は、囲炉裏部屋横の階段を上がった南向きの客間に通された。
囲炉裏部屋とこの客室だけが、三ヵ月の間に改装されたようだった。
「私、ここからの眺めが一番気に入ってるの。ほら」
理久はランプを床の間に置くと窓を開け、深呼吸をした。
街道沿いの店から所々光が漏れ、酔客たちの戯れの手拍子が緩くなってきた風に混じって聞こえてくる。
太陽は山背に隠れ、稜線がくっきりと浮かび上がって見えた。
確かに、いろは堂へは大声を出せば聞こえるほどに近い。だが女一人で、この家に寝泊まりするとは……。
「理久さんがこんなに強い人だったとは、意外だなあ」
権八の声はお世辞でなく、純粋な心情の吐露に聞こえた。
「強くなんかないわ。何にも無いところから何かをやり始める人をいっぱい見て、自分もできそうな気がしてきただけ。権八さんは五日市講談会を作ったでしょう。先生は憲法を図に書いて紙芝居みたいに見せて回ってた。東京じゃ私くらいの女の人が大勢を前に演説してた。お侍さんだった人がアイスクリンを作ってた。だから私も、できることをやんなくっちゃって思ったの」
「礼を言われると、照れるな」
笑いを誘うつもりで、おどけた調子で言った。
「有難う」
向き直り軽く頭を下げた理久から、しっとりとした声が帰ってきた。
明くる日、私達二人は土壁塗りを手伝うことにした。
作業は、泥団子を作ることから始まった。
両手で抱えられる大きさのものをたくさん作る。
出来上がると三人が離れて並び、権八から私、さらに理久へと投げ渡す。
そして竹小舞という竹を格子状に編んだ下地に泥をつけ、鏝でならす。
理久は半畳分ほどの面で手本を見せると、野良着を着替えて鶴屋へと向かった。
あとは私と権八の二人作業となったが、昼過ぎには四畳分ほどの壁表裏に土を塗り終わった。
次に理久から依頼されたのは、柿渋塗りだった。
各客室に置いてあった座卓を囲炉裏部屋の隣に集め、乾燥させた砥草で磨く。
そして、柿渋液を刷毛で塗り重ねていくのである。
柿渋は塗ると被膜ができ、防虫、防カビの役目を果たすので、柱や壁などに塗布することは古くから行われていた。
柿渋は銀杏に似た臭いを放つ。私と権八は、鼻から下をすっぽりと手拭いで縛って作業をした。
石神井川に蛍の光が舞うようになった頃、理久が帰ってきた。
入れ違いに街道沿いの風呂屋へ行き鶴屋で食事をして戻って来ると、囲炉裏部屋のすえた臭いは消えていた。
板の上に散らばっていた砥草の欠片や木屑も無くなり、雑巾がけが済んでいる。
泊まっていた二階の部屋に入ると二組の布団が敷かれ、その上に浴衣が置かれていた。
布団からは陽だまりの匂いがする。いつの間に干してくれていたらしい。
浴衣に着替えて階下に降りると、さっきまであったランプの灯が消えている。
横から理久が耳打ちしてきた。
「外に誰かいるわ。こっちをうかがってる……」
私は開け放たれた縁側に目をやった。
時折、黄緑色した蛍の光が、ぼおっと光るのが見える。
「常さんたちじゃねえが? 早く店閉めてここに来るって」
「しっ! だったら、堂々と玄関から入って来るでしょ。ひと月前だって隣村に泥棒が入ってんだから。用心したほうがいいわ」
理久は階段下に立てかけてあった銃を掴むと、弾を装填した。構えながら、縁側方向へとにじり寄って行く。
板間との境い目でピタリと止まり、銃身を右斜め下へと向けた。
「そこにいるのはわかってんのよ!」
理久の声が、暗闇を割いた。
次の刹那、黒い影が柳の幹から離れた。
理久の指が引き金に掛かる。
人の輪郭が月光に浮かび上がった。両手を上げている。
「久しぶりだな、理久」
辰蔵だった。
途端、理久はへなへなと座り込み、ガタッと銃の落ちる音がした。
「何でそんなとこに? 上がって来ればいいじゃないですか」
権八の言葉に我に戻ったのか、理久がゆっくり立ち上がった。
「どうぞ、玄関に回って」
ハッと理久の顔を見た。理久は辰蔵がここへ来るとわかっていたようだ。
ランプの灯に照らし出された辰蔵は、くたびれた股引きに法被を羽織り、車夫さながらの姿をしていた。
やや髪が伸び無精髭も生えている。何かあったなと思ったが、かける言葉が見つからなかった。
「よく、ここがわかりましたね。僕は一瞬、理久さんのマタギの知り合いがやって来たのかと思いましたよ」
「暫く姿現さないと思ったら、どこさ行ってたんだ? 俺たちが居たんでたまげたっぺ」
「いや、声が聞こえてた」
やはり不安は当たっている。だが、直接問いただすのは野暮というものだろう。
「土佐に行ってきたべ。土産を持って来ただけなのに、厄介になってるとごだ」
「世話になってるのはこっちのほう。宿の修理を手伝ってくれて。さ、上がって」
「……ここでいい」
「え?」
「伝えとかなくちゃいけないことがある」
それまで薄ら笑いを浮かべていた辰蔵だったが、真っ直ぐにこちらを見た。
その時、後ろから複数の男女の声が聞こえてきた。
常夫妻だった。
平左衛門夫妻を誘い、四人で酒や料理を持参してやって来たのである。
平左衛門は既に酒が入ってるらしく、こちらを見ると陽気に手を振ってきた。
「他にもお客さんかな? 五日市の方ですか?」
「こいつ実は私と同郷なんですよ。13年ぶりに五日市でばったり会いましてね。名は柏木……いや……えーと……おい、なんて言やいいんだ?」
「速水です」
辰蔵はそう言って深々とお辞儀をした。
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