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第6章 憲法を作る

2 冷めぬ思い

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 以降、各国の憲法から人権保障にあたる部分を書き写して回覧した。
 かなりの分量になるので、筆写にあたっては権八や理久の手を借りた。

 こうして国民の権利として入れるべき事柄もきまり、三月も下旬になると五日市講談会としての憲法草案がほぼ出来上がった。

 はるぢ殿。
 貴女はきっと喜左衛門が発言した選挙権の問題がどうなったか、知りたいだろう。
 私達の案では一定額の税金を納める男子のみを有権者とすることにした。
 これは直接的には、話し合いの中で「外国では、兵として召集される引き換えとして選挙権が認められた経緯がある」と論ずる者があり、皆その話に信憑性を感じたからだ。
 しかし正直なところ、女に政治などわかるはずもない、といった考えが皆にあったことは否めない。
 だが喜左衛門が言い当てたように、法というものはいろんな者が対等の立場で意見交換して作られるべきものだ。
 はるぢ殿の子や孫の世代には、この理想が実現に近づいているといいのだが……。

 四月上旬にしてはかなりの雪が積もったある日。
 私が部屋で権八と理久と共にいるところへ、滝さんが干柿を載せた盆を持って入って来た。

「精の出ること。さぞ難しい事を書いてんだろねえ」
 全国各地で五日市学芸講談会同様の結社が憲法草案作りに取り組んでいた頃で、進捗状況を知らせ合っていた。
 権八には長野、理久には福島の結社への手紙を頼み、私は西日本では最も活発に活動している高知の立志社宛ての手紙を書いていた。
 滝さんは少し離れた所に盆を置くと、火鉢の炭をひと混ぜして部屋から出て行った。

 入れ違いにやってきたのは辰蔵だった。会うのはひと月ぶりだ。
 少し痩せたのか、頬の辺りがコケて見える。
 だが役者張りの精悍な顔立ちは健在だった。

「随分と辛気臭い顔してるじゃないか。どうしたんだ?」

 私はすぐに理久を見たが、理久は墨を擦る自分の手元を見つめたまで、辰蔵を見ようとしない。
 辰蔵は、戸吹に戻ってきても留守のことが多かった。
 たまに集会にやってくるが、意見を求められてもニヤニヤとして当たり障りの無いことしか言わない。

 不思議なのは、理久との仲が険悪そうに見えることだった。
 私の理久に対する思いは変わっていなかったが、辰蔵との間柄を知っていたので、帰って来た日に抱きしめた後も何も言い出せないでいた。
 ところが、私がいなかった間に喧嘩でもしたのか、特に理久のほうが辰蔵を避け続けているように見えた。

「だいぶ積もってるぞ。今年は遅くまで降るなあ」
 辰蔵は肩の雪を払いのけながらそう言うと、火鉢の前に座って手をかざした。
「さすがに雪降ってると、筏には乗んねえのが?」
「ああ、風邪気味だしな。何やってんだ?」
「ご覧の通りだ」

 私はしばらくの間、辰蔵の視線が気になった。
 机の上には『王国建国法』も置いてあった。
 著者は井上毅で今や岩倉右大臣の懐刀。
 辰蔵はこの人物から密偵の仕事を請け負っているかもしれないと、沼間社長から忠告を受けた。
 当初は警戒感が先に立っていたが三ヶ月が過ぎ、私は少しほっとした気持ちになっていた。
 井上は他にも『仏国大審院考』など多くの法律関係書を著しており、書庫にあった。
 分量は膨大で、私はさっと目を通しただけで、西洋法制の新知識を余すことなく紹介しようとする井上毅という男の執念を感じた。 辰蔵を密偵として放っている当人がこの井上だというのなら、かえって望むところではないか。

 辰蔵は本には一瞥もくれず、理久の顔を覗き込んだ。
「お前が、こんなことに首を突っ込むようになるとはな」

 冷やかしているようで、でもどこか会話の糸口を探しているような口振りだった。
「失礼ね。私だって字は読めますから。先生、手紙、書き終わったわよ。滝さんのお手伝いしてきます」
 理久は、プイとした面持ちでそう言うと筆を置いて立ち上がった。
 部屋を出て行くのかと思いきや、振り返って干柿を一つ摘まんでかじると今度は本当に部屋を出て行った。

 辰蔵は理久の後ろ姿を見ていたが、肩をすぼめるようにして軽く咳き込んだ。
 やがて向き直ると立ち上がり、反対側の障子を開けた。
 積もった雪のせいで、枯れ枝の黒い線が際立って見えた。

「なんか、あったんですか、理久さんと?」

 理久と辰蔵の間に漂っていた、ただならぬ空気を割いて権八が聞いた。

「いいからお前は、ちゃっちゃど書け!」
「僕はその……ただ理久さんと速水さんて、お似合いだなって思ってただけなんですけど」

 辰蔵は無言のまま外を眺めていたが、振り向くと意外なことを口にした。
「理久から何も聞いてないみたいだな、東京の女のこと」

 たわんでいた枝がはねて雪が落ちる音がした。

 辰蔵は障子を閉めると火鉢の前に坐り、手をかざしながら話し始めた。

「去年の秋、理久が東京の杉山っていう医者の診療所に行ったとき、そこに末期の梅毒患者がいた。症状があまりに悲惨で気の毒に思った理久は、あくる日、その女を連れ帰ったお駒という女の元を訪ねてきた。それが俺の銀座の仮住まいだったってわけさ」
「仮住まい? まだ東京で宿、借りてんのか?」
「時々様子を見に行ってるだけだ。俺が借りてやらなきゃ、ふたりの収入だけじゃまた川べりの漁師小屋に舞戻ることになる」

 内容をすぐには理解できなかった。
 杉山医院にいた梅毒患者の話は聞いた。
 その患者はお駒という女が連れ帰ったらしいので、お駒が働いている店へ行って梅毒に効く薬の話をしてくると言っていた。
 その後のことは全く知らない。

「お駒っている名前だけは聞いたけど……お前の女だったのか?」
「いや、違う」
「でも、辰蔵の家に住んでんだべ?」
 辰蔵は翳した手に目をやると、フフっと笑って話し始めた。

「これから言うのは独り言だ。臨時雇いの警官としてコレラ患者を隔離していた時、俺に近づいて来た髪結の女がいた。コレラの症状が出はじめているので隔離してくれと言う。俺は驚いた。隔離するのは患者から肝を取るためだという噂がまかりとおって、警官はもっぱら目の敵にされている。コレラ除けの札を家中に貼っておけば感染しないと信じている者も多い。だがその髪結は自ら進んで隔離してくれと言って来た。
 客の家に向かう途中で症状を自覚したらしい。3日後に死んだが、隔離されている間、お糸という吉原に奉公に出ている娘のことをしきりに心配していた。俺はせめて預かった髪結道具だけでもお糸に届けようと思った。どの店を探しても見つからず、結局出会えたのは吉原近くの河川敷だった。お糸は14で、川原の粗末な漁師小屋で客を引いていた。14で吉原を追い出されたのは、病で両目が見えなくなったからだ」

「盲目で……娼婦をしてたんですか?」

「俺は髪結道具を渡すだけでその場を立ち去ることができなかった。だから身請けした。少しは運命を変えてやれると思った。でも、すぐに御巡幸の警備につくことになって長い間、東京から離れることになった。その間、お糸と一緒に仮住まいに居てもらうことになったのが、お糸が慕っていたお駒という女だ。お駒は梅毒の末期症状だった別の知り合いの女を、俺の仮住まいに連れ帰った。だが理久が訪ねてきた時には、もう亡くなっていた」

「理久さんに、なんでありのまま言わねんだ?」
「言ったさ。でも信じてもらえない。ま、あたりまえだよな」

 言い終わると頭を上げてこちらを見た。いつもの薄ら笑いが戻っている。
 辰蔵が何を言いたいのか、よくわからなかった。
 ただ、理久の気持ちを引き留めたいと思っているのは確かなようだ。
 だが、そうした二人の微妙な関係を、なぜ打ち明けるのだろう。
 怒っているということは、理久もまだ辰蔵に未練があるということではないか。
 そう思うと急にむしゃくしゃしてきた。

「あー、もー、好きにしろ!」
 書きかけの手紙を丸めて、障子に投げつけた。
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