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第3章 篝火(かがりび)

7 同心太鼓

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 九月になると毎回、獅子頭をつけて練習した。
 他の踊り手たちと動作を合わせ、頭の角度や腰の落とし具合、足の開き方も調整していった。
 頭に巻いた手拭いは、いつも汗でびっしょりになる。
 ヒグラシの涼しげな鳴き声が、せめてもの救いだった。

 ある日教室を出て歩いていると、クスクスと笑い声が聞こえてきた。
 と男子生徒が二人、獅子舞の振りをしている。
 私が廊下を行く間も、自然と体が動いて踊っているのを見て冷やかしたのだ。

「先生、前より上手くなったじゃん」

 土屋議員宅で不器用に踊っていた私を見たことがあるに違いない。
 照れ臭さで顔がこわばっていくのがわかった。

 だが、二人の生徒は「トォヒィヒャリホ、ヒャリホ……」と、口で節回しを唄いながら、
  女獅子隠しらしきものを踊っている。
 もう、苦笑いするしかなかった。

 抱えていた掛図を置いて一緒に踊った。
 初めて、五日市の人間になれたと思った。
 
 秋留神社の秋祭りでは、毎年、子供達による太鼓演奏も奉納される。
 同心太鼓と呼ばれ、大太鼓・長胴太鼓・締め太鼓の三手に分かれて打ち鳴らす。
 体格に合わせるため年長者は大太鼓を、幼いほど締め太鼓を担当することになる。

 普段、家の事情で学校に通えなくても、太鼓叩きにだけ参加する子もあった。
 八月までは近所の寺や愛好者所有の太鼓で散発的に練習が行われるが、九月に入ると
   合同練習が行われるようになった。
 学校の蔵に集められた太鼓を、大人達が総出で校庭に敷かれた筵の上に並べる。そして、
  担当に分かれて一斉に打ち鳴らす。

  ポンポンポン トトン タタタタタタタ 
   ポンポンポン トトン タタタタタタタ……
 
 同心太鼓の拍子は、これまでにも別の村で聞いたことはあった。
  三匹獅子舞と同様に、共通点を残しながら広がっていったものだろう。
  同心はもちろん、八王子千人同心から来ている。

 子供達は太鼓を打つと、みな生き生きとした表情になる。
 教室で見せる顔とは違う。いつもは言葉少なく、おずおずとした印象の子も徐々に大胆になっていく。
 鳩尾に伝わってくる太鼓の振動が、その子本来の可能性を呼び覚ましているかのようだった。
 白河口の戦いの折、良輔が太鼓に見立てた石を打ったことを思い出した。

「この太鼓の音を聞くと、すっかり気分はガキの頃に戻っちまうのさ」
 勢ぞろいした子供達を腕組みして眺めながら、深沢さんが呟いた。

「前から聞いてみたかったんですが、深沢さんは、どうしてあんなに本を揃えようと
  思ったんですか?」
「まあー、不思議だろなあ。誰もこんな山ン中で本集めする輩がいるたあ思わねえわな。
 おいらだけじゃねえ、ここら辺の名主や大工の棟梁や医者、筏師の元締なんかが金出し合ってる。
 なんでかっちゅうと、そうだなあ、はえー話がみんな懲りちまったんだよ」

「懲りた?」

「ああ。例えば土屋さんだ。土屋さんの家は大地主で金貸しもしていた。自然、人望が集まって
  周りからおべっか使われるようになる。だが、土屋家には格言があった。決して小作人たちを飢え
  させるな、だ。
  何かといえば餅をついて配る、誰でもとっていい野菜畑は作る。しかし幕末にゃ世情が不安定で、
  貧民たちが集団になってどこから襲ってくるかわからない。それまでは幕府の権威で守ってもらおう
  と献金も欠かさなかったが、当てにならねえってんで邸内に武道場まで作った。
  そこに天然理心流の師範を招いて若いもんに指南させる。自分で用心棒を養成しとこうってわけだ。
  残念ながら、この念入りな準備が役に立っちまった出来事があった。慶應二年の六月、
  秩父で起った一揆が膨れ上がって、七日と経たぬうちに梅方峠を越えてここまで来ちまった。
  斧や大槌、鎌なんかを持って裕福な家とみりゃ、手当たり次第に打ち壊す。そいつら世直しって名の
  流行り病にかかっちまってんだ。それで、おいらや土屋さん、他にも備えをしてた者らが集まって
  一揆勢を迎え撃った。
  奴らは何人もの死体を残して退散したよ。かわいそうに、あいつらだって普段は真面目な百姓だった
  に違えねえ。そうやって長年のうちに皆疲れて懲りちまったのさ。
  自分と周りのことだけ考えてたら結局は皆が大損する。長い目で物事を考える智慧を持つべきだってね。
  同じ思いを持った者が金を出し合ってあの講談会ができたってわけさ」

 思いが募ってきたのか、深沢さんは途中で何度も人差指を鼻の下でこすった。

  話を聞いている間、私は権八が一人にかかりきりになって太鼓の指導をしているのに気付いていた。
  注視して見ると、間違いなくあの指が欠けた少年である。

「深沢さん! 権八の横にいるあの少年は知り合いですか?」

「ありゃあ、茂吉っていってね。……切支丹だった」

 深沢さんは溜息をつくと、再び腕を組んだ。

「かわいそうな奴でね。九州から名古屋まで連れてこられて、エライ目にあったらしい。
 指を切られて喋ることもできない。脳をやられたみてえなんだ。医者は逆さ吊りにされた後遺症じゃ
 ないかって言ってる。親兄弟はどうなったか知らねえが、恐らく生きちゃいねえだろう。
 事情を聞いた牧師が八王子に連れてきて育てていたが、今は軍道の信者が引き取って紙漉きを教えている。
 親指と小指しかなくともバチなら握れる。学校に行けなくとも祭りの太鼓だけは打たせてやりたくてねえ。
 何度か迎えに行ったら、ようやく自分から来るようになった」

 とぼとぼと歩いて、茂吉の元へ行った。
 十四、五歳だろうか。

 なら酷い目にあったのは六歳前後ということになる。
 その頃私は故郷で、布教活動に邁進していた。

―義の為に窘逐(きんちく)せらるる者は幸いなり 天国は彼等のものなればなりー

 茂吉は右半身が不自由だった。
 残った指でバチを握ってはいるが、右はすぐ落としてしまう。
 指が欠けている分、力を込めることができないので打って出る音も小さかった。

「茂吉、上手くなったなあ」

 権八は、声も深沢さんに似てきたようだ。

 それを聞いた茂吉は、口を極度にねじって「うゎおりぐゎ……」と発声した。

 うおり…ぐわ?

 ありがとう……?

 後ろから脳天を強打された心地がした。

 私はもう、その場にいられなかった。

 練習会場から離れながら茂吉のことを考えた。
 会話が不自由なのは生まれつきかもしれない。

 だが迫害を受けたことが明白なので、本来受けることのないはずだった同情を得てここにいる。

 これが幸いなのだろうか。

 だがもし普通の子どもだったなら……
 切支丹でさえなかったら……実の親が今の茂吉を見たら何と思うだろう。
 そしてもし、私に子がいたなら……。

 私は間違っていた。

 茂吉と同様の立場にあった子供達に、ひたすら基督の教えを信じるよう勧めてきた。

 素晴らしい点はたくさんある。
 だが、いくつかの祈りの言葉は、少なくとも子供の前で唱えるべきではなかった。

 これからできることは何だろう。

 国会設立は要望し続けるべきだし、憲法とは何かについて説明していく活動には関わっていきたい。

 だが、それがすなわち茂吉のような子をなくすことに繋がりはしないだろう。

 ではどうすれば良いのか。具体策が思い浮かばないのが歯痒かった。
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