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3.幕開けの鐘が鳴る

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 何日も森に身を隠し、水を求め川へと下りた春咏はついに空腹で力尽きた。轟々と激しい川の流れが耳に届くのに、それが本物なのか幻聴なのかもわからない。遠のく意識に死を感じる。

 しかし次に目が覚めたときに春咏の目の前に広がっていたのは黄泉の国ではなかった。太白家の分家にあたる老夫婦が心配そうな面持ちで春咏を見下ろしている。

 汪青家の話は太白家はもちろん、他の加術家の知るところとなっていた。春咏の正体も汪青家の生き残りだとこの老夫婦はすぐに気づいたが、取り乱す春咏に対し、一族に知らせるつもりも刑部に突き出すつもりもないと語りかける。

 老夫婦には遅くにしてできたひとり息子がいたが、つい先日病で亡くなり途方に暮れていた。息子が帰ってきたようで、息子に成り代わって生きていくつもりはないかと春咏に持ちかけたのだ。

 にわかには信じられなかったが、死を意識し、終わりを覚悟した命だ。身を隠すためにも新たな名前と身分はちょうどいい。生まれ変わるのだと春咏は自分に言い聞かせる。

 そしてなにがあっても生き延びると。生きて一族の……兄の汚名を雪ぎ、このような決断を下した皇帝を、皇族に復讐を誓ったのだ。

 老夫婦の息子に成り代わる以外にも性別を偽る必要はあった。正体に気づかれにくくするのはもちろん、加術士は男性しかなれない。

 力を受け継ぐのは男児のみで、女児で力を宿す者は凶兆とされ、春咏は異端な存在として一族の中では扱われた。

 春咏の能力に気づいた父は幼い春咏を手にかけようとし、母が半狂乱で止めに入った。それから春咏は力を抑え込み、幽閉に近い境遇で育つ。その中で六つ年の離れた兄の勧咏《かんえい》だけは春咏の力を認め、こっそりと術を教えてやった。

 父よりも伯父よりも祖父よりも誰よりも尊敬できる存在。そんな兄が瑚家に赴き皇族の専従加術士に任命されたのは汪青家として誉れ高いことだった。

 優秀で優しく加術士としての能力も高い勧咏なら当然だ。春咏は自分のことのように誇らしかった。だからこそ信じられない。今でも信じていない。兄の勧咏が主である皇族を、ひいては瑚家に呪詛をかけて謀反を起こし、その罪で処刑されたなど。汪青家族滅のきっかけを作った人物として語り継がれているのは、すべて謂れのない物語だとずっと叫びたかった。

 あの夜から名前も性別もすべて偽り、なにもかもを捨ててひたすら加術士としての腕を磨き続け生きてきた。そしてついに、春咏は第二皇子の専従加術士としてここ、皇宮に立っている。兄と同じ立場で、真実を探る機がやっと訪れたのだ。

 喜びと興奮を押し殺し、春咏は乾廉の侍従からの説明を軽く聞き流す。

 第二皇子は齢二十ニで前評判通り外貌は非常によく、漆黒の髪にくっきりとした目鼻立ち、すらりと背も高く見目が好い。けれど自分には愛想のひとつもなく、まとう空気は冷たく、嫌悪感が滲んでいた。

 薄紫の漢服は至るところに細やかな刺繍が施され、袖や裾は濃紺が覆う。布をはじめ装飾品など使われている素材すべてがどれも一級品だ。今まで着るものはおろか、寝食に困った経験など一度もないのだろう。

 春咏は自身の過去を振り返り、静かに目を伏せる。

 加術士に対し友好的な者も入れば、命令と習わしで不信感を抱きつつ渋々受け入れている者もいる。おそらく乾廉は後者なのだ。他の皇族に比べ、乾廉が一番専従加術士の入れ替えが顕著だったのもそういった理由もあるのだと春咏は結論づけた。

 しょせん皇族にとって加術士など使い捨てにすぎない。だからこそ春咏が入り込む機会があったのだから皮肉なものだ。春咏自身も下手に皇族と馴れ合うつもりはない。

 隣の華楼宮では新しく即妃となる娘がやって来たのを知らせる鐘が鳴っている。今、輿入れするのはおそらく皇帝ではなく皇子たちのためなのだろう。

 青銅の重たくて硬い音が響き、春咏の中で始まりを知らせていた。
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